好きになってしまうのも仕方ない
「たいした物だな。王国図書館にも引けを取らないんじゃないか?」
「さすがに蔵書量では負けると思いますよ。ですが異国から持ち込まれた娯楽本など、王国図書館にはない本もたくさんあります」
「なるほど、かつての国境、今は異国人の多く勤めるグラナド城ならではの書架だ」
「恐れ入ります」
マリー・シャデランが、リヒャルトお兄様とテーブルに並んで座り、お話をしている。
ただそれだけなのに、どうしてこれほど目を奪われるのだろう?
グラナド城の一角にある、巨大な図書室である。手の空いた侍従がいれば書架整理をしていることもあるらしいが、今は三人きり。
わたくしは向かい席で頬杖をつき、ぼんやり眺めているばかりだった。
ああ……手元の書籍を見下ろす視線、知的な山吹色の目を縁取る長い睫毛。まっすぐに高い鼻と、ちょうど良いところにある唇。立っているときはリヒャルトよりも長身だったのに、腰掛けると頭半分低くなる。ヒールの嵩が無くなっただけでなく、足が長く頭骨が小さいのだ。リヒャルトだって胴長短足ってわけじゃないはずなのに。ああ……ああ……。
「リッチモンド様も、読書がお好きなんですか?」
問われて、兄は一瞬、ビクッと肩をふるわせた。
「ああ……まあ。建築関係のを時々読む……かな」
「建築技術の本ならば、あちらの棚に。戦前の王宮や、中央大陸の古代城の図録はリッチモンド様にも興味深いのではないでしょうか」
マリーの言葉に、リヒャルトは今日何度目かの驚いた顔を見せた。
「あなたは、ここにある本をすべて読んでいるのか!?」
「いえ、すべてということは。索引を付けるのに、内容を把握しようと――だけど、読み始めるとだめですね。面白くて、つい止まらなくなってしまって」
照れ笑いするマリー。リヒャルトはまた、ポカンと口を開けていた。
「……面白いって――異国の、古代の城が……?」
「ええ、その国の気候と文化が感じられて、とても楽しいです。よろしければわたしのオススメをお持ちしましょうか。レイラ様も何か、好きな作家などありますか?」
突然振られて、わたくしは思わず「ひえっ」と変な声を出した。慌ててぶんぶん首を振ると、リヒャルトが半眼になって嘲笑する。
「お前も、この機会に少しは本を読んだ方が良いな」
「よ、余計なお世話ですわっ。学習時間はちゃんと授業を受けておりますもの。課題は、少しばかり遅れ気味ですけど」
「少し? ミセス・ロバートが言ってたぞ。姫に出した宿題は回答欄半分が侍女の筆跡になってるって」
うぐっ。言葉に詰まり、顔を背ける。クスクス……と鈴を転がすような笑い声がした。マリーが口元を押さえ、上品に笑っていた。赤面するわたくしに、マリーは微笑んで言う。
「レイラ様はあまり本がお好きではないのですね。お顔立ちは、リッチモンド様とよく似ていると思っていたのですけど」
「ええーっ、顔だって似ていませんわ!」
「ふふふ、その怒ったときの眉毛が。ふふっ、ごめんなさい」
わたくしが断固抗議しても、マリーはニコニコ。マリーって笑うと眉が垂れ、細めた目が黒目がちになるのね。少女らしく、すごく穏やかな表情で、こちらも釣られてつい笑ってしまうのだ。
マリーに案内され、リラックスした様子で書架に向かうリヒャルト。あれはどういう魔法にかけられたのかしら。あのお兄様が、微笑みすら浮かべている。
……というか。なんだか……良い雰囲気だったりしない?
お似合い、ということは全然ないけども。少なくとも兄は悪からず思っているというか……女の人の隣で笑うお兄様なんて、初めて見たし。
「すごいわ、リッチモンド様。建築だけでなく歴史や地理まで、あれもこれも読了されているなんて、本当に読書家でいらっしゃるのね」
マリーに褒められて、兄は顔面をひくひくさせていた。これはどういう表情をして良いのか分からないのだわ。
全身を小刻みに震わせて、ぼそぼそと呟くように言う。
「お、おれも別に、そんなに本が好きというわけじゃない。ただ、勉強で覚えようとしただけだ……」
「あらそうなのですか? でもさっき、お好きだって」
「あっ、いや、違う、ただ仕事で……いや本業っていうわけではないが、おれは、他に得意なものがないから……」
話している途中で俯いて、どんどん小声になっていく。様子の変化に、マリーも表情をこわばらせた。帽子を深くかぶり直し、心配そうに兄の顔をのぞき込む。
「リッチモンド様?」
「……そう、情報収集が、おれの仕事なんだ。おれはおれの役目を全うしている。忙しい兄上は、おれが情報を集めてまとめ進言することで采配を決めている。これは兄上や弟の陰になっているということじゃない、ただの役割分担……おれは国に貢献している、はず、だ――」
「お兄様っ」
わたくしは声を上げた。いけない、様子がおかしい。
「……だから。なのに……」
ぼそぼそと小声で早口で、所々聞き取れない。また始まったかとわたくしは嘆息したけど、優しいマリーはちゃんと聞いてあげようとして、さらにのぞき込んで耳を澄ませる。そこへ、
「――だから、おれは女が嫌いなんだっ!」
兄はいきなり絶叫した。ビリビリと鼓膜が震える大音量、当然ぎょっとしてのけぞるマリー。うわあああっ、いけない! 兄の悪いクセが出てきた! わたくしは駆け寄ろうとした。嫌だ恥ずかしい、マリーに嫌われちゃう。兄の口を塞がなくては!
しかし、マリーはわたくしの手首を捕まえた。わたくしに鋭い視線を向け、首を振る。そして兄と向かい合っていた。
「だから? どうして女性がお嫌いなのですか?」
そう、まっすぐに聞き返す。兄はよそを向いたまま叫び続けた。
「女は馬鹿のくせに嘘つきだ! 自分が物を知らないからおれが言ってることが理解できないだけなのに、こっちが意味不明なことを話す変人かのように侮蔑する。そっちから聞いておいて! それは何ですかと聞いておいて、説明したら嫌な顔をする、おれと話したくないのに話しかけてくる、まるでおれが、自分の趣味を押しつけたみたいじゃないか!」
「お、お兄様、それって」
「大体おれに興味なんか無いんだろう? 妃になりたいのは兄上で恋人になりたいのは弟だって、そう宣言してから話しかければ良いのに、言葉だけはおれのことを聞く! なんだあれは! おれから兄や弟に繋がろうとしてるのか? 汚い、嘘つきだ。おれのことを嫌いなやつのことを、好きになんて……なれる、もの、か……」
また、声が小さく細くなっていく。やがて聞き取れないつぶやきになって、兄はとうとう、黙り込んでしまった。
わたくしはそんな兄を見て、情けないやら、マリーの前で恥ずかしいやらで腹が立って仕方なかった。
リヒャルトが女性恐怖症の理由、わたくしも初めて聞いたし半分くらい何言ってるのかわからなかったけど――ようするに、モテない僻みってことですね?
第一王位継承者であり非の打ち所のない長兄、全ディルツ国民が見とれる美貌の末弟、その間で見映えの悪い次兄は、確かに地味でモテない男だった。わたくしは身内ですもの、リヒャルトお兄様だって嫌いじゃなくてよ? だけど世の貴婦人達が、三兄弟で優劣を付けたって仕方ないじゃありませんの。それでも気を遣って話題を振り、お愛想を使ってくれた女性に対し、馬鹿だの嘘つきだの――そんな男、蛇蝎のごとく嫌われて当たり前ですわ!
兄だって実は自覚しているのだろう。言ってしまった、と後悔し血の気が引いているのが見て取れる。馬鹿なリヒャルト、マリーとはせっかく上手く会話できていたのに、どうして自らひっくり返してしまったの? どうして……。
わたくしも青ざめながら、マリーの顔を見た。思い切り眉をしかめている……ああやっぱり怯えさせて嫌われてしまったわ……。
マリーは、兄の手をそっと握る。そして言った。
「――わたし――とってもよくわかります、そのお気持ち!」
へ? と目を点にするわたくしと、兄。マリーは長い指で、リヒャルトの手首をしっかりと掴まえ、潤む目で兄の顔を見つめる。
「……エック?」
兄は、子犬がしゃっくりするような声を漏らした。
「わかりますわ! 優秀で美しすぎる兄弟姉妹がいると、自分はこの家に居なくてもいいんだなって思っちゃいますよね。しかも事実優秀で美しいひとだから、悔しいとかより純粋にすごいなあって気持ちの方が強くって、超えたい気もなくなるというか!」
「え、えぅ……お?」
「ああごめんなさい、リヒャルト様のほうがずっとおつらい立場ですね。わたしは姉が一人だけだし、実家に人手が無かったので労働で貢献できていましたもの。姉のように優れた兄弟姉妹があと二人も家にいたら――わかります。わかりますぅっ……!」
「ええええ……!?」
全身を疑問符まみれにして首を真横にかしげるわたくし。さっぱり共感できないわ、何言ってるのこの美女。しかしリヒャルトにはいたく刺さったようで、全身をぶるぶる震わせていた。
「まさか、あなたも?」
「はいっ! 今でこそ、色々と自信が持てるようになりましたが、半年前まではロバになりたいとか思っていました。ロバのほうがわたしより頑丈だしたくさん物を運べるし可愛げがあるし美味しいから」
「――でも、あの……」
リヒャルトは激しく狼狽し、握られた手をぶるぶる震わせながら、か細い声をなんとか紡いでいた。
「……あなたは、色んな事をよく知っていて、面白い話ができる。おれは、市井のことはよく分からないし、まして女性を楽しませる話題なんて、なにも。おれ、自分の好きな物の話ばかりしかできなくてっ……」
「それで構いません。わたしが知りたいのはあなたの知識ではなく、あなたが何を好きなのか。あなた自身のことなのですから」
リヒャルトが息を呑む。
「それに、同じです。わたしも、自分の好きなものを話すのが大好きです」
さらに前のめりになるマリー。異様な圧に、またエックとシャックリするリヒャルト。
「この城に来たばかりのころ、本当に何を話していいかわからなくって……だけどキュロス様は、わたしに愉快な話ではなく、わたしの好きな物を教えてくれと言ってくださいました。わたし、初めて知ったんです。他人に好きなものを語るのって、こんなに幸せなんだって。
一方的にまくしたててしまうのは良くないけど……ああでも、きっとみんなそうですよ。キュロス様だってお菓子やお洒落の話を始めたら止まらないし、ミオもトッポからごはんのリクエストを聞かれたら息継ぎなしで十も二十もメニューをあげるの。ヨハンだってトマスだって、誰もがみんな好きな物を好きな人と共有できたら嬉しいのだわ。ルイフォン様もですよ、キュロス様との思い出話をするときのお顔ときたら――」
まだまだ続く、マリーの口上。もしかしてこれは、有言実行をしているのかしら……。
わたくしはまだ困惑していたけど、言いたいことは理解した。まあ、たしかにね。わたくしも、自室のぬいぐるみコレクションについてならば夕方まで語ってしまいそうだもの。
それでもさすがに、マリーはリヒャルトよりは理性的だった。じきにハッと覚醒し、慌てて兄の手を離すと、距離を取って赤面した。
「ごめんなさいわたしったら、はしたない真似を。女性がお嫌いだと聞いたそばから大変失礼を致しました」
「……あ……いや……」
握られていた手をぼんやり見下ろすリヒャルト。口の中で、なにかぼそぼそと呟いていたけど、喉の奥にゴクリと呑み込んでいた。
「……こちらこそ。大きな声を、出して、すまない」
「いいえ、お気になさらず」
「あの……本を……いくつか、借りて帰ってもいいだろうか。その――建築関係で。面白そうな、あなたのオススメを読んでみたい……」
やっとそう言ったのを聞き、マリーは顔を輝かせた。ではコレとコレ、ついでにレイラ様にもとどんどん渡される。その子どもみたいな顔に、わたくしは笑ってしまった。
このひとって本当に本が……じゃなくて、人間が好きなのね。リヒャルトとの壁が一枚剥がれたことを心から喜んでいるようだった。
不思議なひと。貧しい育ちらしからぬ教養に、貴族の令嬢らしからぬ謙虚さ。凜とした美貌に似合わない、素朴で穏やかな性格。気弱で控えめかと思ったら、逆境にはとびきり強い。不思議なひと、綺麗なひと、魅力的なひと――。
……キュロス様が、好きになってしまうのも仕方ないわ……。
マリーに積まれた大量の本を抱いて、わたくしは笑っていた。笑っているのに、いつの間にか一粒、涙が頬を伝っている。
そうか……わたくし、失恋したのね。
初めてそれを実感して、わたくしは手の甲を使い、目尻をぐいと拭った。




