嗚呼うつくしきグラナド城
庭師女……もとい泥だらけでずたぼろな男爵令嬢マリー・シャデランは、さすがにいつもこんな格好というわけではないらしい。
しかし風呂と着替えは城塞の奥、中庭にあるという。そのため彼女はそんな格好のまま、風呂へと向かいがてら、わたくし達を案内してくれることになった。
風呂場までの道中、マリーのうしろについて城を進む。
「おお……思ってたよりも大きいな……」
リヒャルトは終始、頬を紅潮させてあたりをきょろきょろ見回していた。ふとマリーと目が合うと、慌てて俯くのだけど。
そのようすに、マリーは何か誤解したのだろうか、苦笑いして軽く頭を下げた。
「本当に、驚かせてしまってごめんなさい。伯爵夫人が庭仕事なんてはしたなく思われると承知しているのですけど」
「……今日は何か、特別なお祭りかなにかでしたの?」
「いえ、ふだんから趣味でやらせてもらっているんです。この夏にトマトがうまく出来たのが嬉しくて……畝作りもずいぶん上手くなったって、庭師のヨハンにも褒めてもらえたのですよ」
砂の付いた笑顔で言うマリー。
……いや、そんなばかな。
わたくしは愕然とした。どうしてそんな、嘘までつくの?
確かにわたくしは王宮育ちで、ついこの間社交界デビューしたばかりの世間知らずよ。だけどこんな、わかりきった嘘にだまされるほど幼くはないわ!
眉をひそめながら歩くわたくしの横で、リヒャルトがぼそりと呟いた。
「へー、女にしては珍しい趣味……痛っ!?」
「お馬鹿ですのお兄様、そんなわけないでしょっ!?」
小声で怒鳴ると、リヒャルトは納得のいかない顔をした。
「なんでだよ、シャデラン領は農村だし、領主の家なら手習いでやっててもおかしくはないだろ」
「貧乏男爵家ならともかくここはグラナド城、国一番の大富豪の居城ですわ。自給自足するほど困窮しているわけがありませんっ」
「だから趣味だって言ってたじゃないか。庭園造りが趣味の貴族ってけっこういるぞ?」
「男性の、でしょ! 女主人が、生け花やちょっとしたガーデニングならまだしも芋だのトマトだの。好きで触るものですか」
「だからおれは女にしては珍しいって言っただろ!? 趣味じゃないならなぜやってるんだよ、あんな泥まみれになってまで」
「そ、それは……」
わたくしは言葉を濁した。
それは……。……貧しい男爵家の次女……だから……虐げられ働かされて……。
そこまで考えて、わたくしはブルブル首を振った。いえ、キュロス様がそんなことをなさるわけがないわ。いくら愛のない政略結婚とはいえ、わざわざ夫人を泥にまみれさせるなんて陰惨な虐めをするとは思えない。せいぜいほったらかしにするだけでしょう。
きっとキュロス様のあずかり知らぬこと、使用人たちの仕業ね。下級貴族が女主人面をしているのが面白くなくて、使用人みんなでイビってるのだわ!
そう結論づけた直後、角からぴょこんと、横幅の大きいコックが顔を出した。
「奥様、うふふ、今日はまた盛大に泥だらけ。なにを穫ってたの?」
「ああトッポ。芋を掘っていたのよ。厨房にもたくさん届けておいたわ」
「わお嬉しいっ、トッポおいもさん大好き! 煮る?焼く?揚げる?」
「どうかしら。ヨハン曰く、シンプルに食べるのが一番味がわかるって」
「じゃあ蒸してからお塩とバターでホクホクにしましょ。わぁい、トッポ楽しみ!」
「最高、わたしも楽しみ!」
満面の笑みを浮かべ、コックと手を取り合ってぴょんぴょん跳ねるマリー。
そのようすを眺めながら……わたくしは首をかしげた。んんっ……?
コックと別れて、さらに進む。途中、何人かメイドや従僕とすれ違う。みなマリーに一礼はしながらも、親しげに微笑んでいたり、あるいは泥まみれなのに驚いて気を遣ったり。マリーもその都度ほがらかに応える。マリーは、使用人みんなの顔と名前を覚えているようだった。
……うーん……?
「……仲、よさそうですわね……」
「そうだな、むしろここまで距離感の近い主従関係って初めて見たぞ」
リッキも言う。そう……なのかしら。わたくしには「普通」がよくわからない。王宮では従僕と会話などほとんどしなかったし、お会いしたことのある王侯貴族もそうだった。主の許可なくしては顔を上げることもできない、従者ってそういう立場だわ。
そうよね? 兄に視線で尋ねると、兄も頷いた。
「まあ、下級貴族では使用人の数も少なく、薄給の割に貴重な労働力だから大切にすることもあるそうだ。しかしシャデラン家は戦後に没落したとはいえ旧家だからな、さすがに家族同然ということはないだろう――」
「ええ、実家では侍女が一人だけでしたね。家族と言うほど仲良しではありませんでしたし、今はもう離職されましたが」
不意に、マリーの返答。いつのまにか振り向いて、こちらのすぐ傍に立っていた。調子よく喋っていたリヒャルトは、「ぴぎゃあ!」と悲鳴を上げてわたくしの後ろに隠れる。
マリーは驚き、腰を屈めてリヒャルトの顔をのぞき込む。さらに逃げる兄。
「ど、どうしましたリッチモンド様、わたしの顔に何か、虫でも付いてますっ!?」
「いえいえ、気になさらないで。兄――じゃなくて、リッチモンドは女性恐怖症なのです」
「女性恐怖症?」
「おれは女が怖いんじゃない、嫌いなだけだーっ!」
わたくしの足首に額をすりつけ、床にへばりついて震える兄。やれやれ。本当にお兄様ときたら、情けないやら恥ずかしいやら……わたくしは呆れかえって笑ったけど、マリーはクスリともしなかった。なぜとも聞かず、戸惑いすらせず、すぐに兄から距離を取り、背中を向ける。
「そうだったのですね。失礼しました。それでは不躾ではありますが、こうして背を向けたまま案内させていただきます」
そうしてすぐに歩き始めたのだった。
それから、マリーはわたくしにだけ話しかけるスタンスに切り替えたらしい。リヒャルトが何かを呟いても、兄には呼びかけず、わたくしに伝言するように語った。
「すれ違う人の数が少ないでしょう? グラナド城は規模のわりに、使用人はとても少人数なのです」
「それじゃあ、ひとりあたりの仕事量が多くて大変なんじゃありませんの?」
「いやそうでもないだろう、グラナド城塞は機能性重視、機能性とは維持費がかからないという意味でもある。だだっ広く見えるが、無駄な装飾がなく掃除の手間がかからんようになってるんだ」
出しゃばるリヒャルトに、マリーは頷くことはせず、ただ言葉を追加する。
「床の端をごらんください、よく見ると細い側溝がありますね。換気と採光に窓を開けると、風で砂や埃が溝側に流れ、自然に溜まります。それで日常を維持して、週に二度だけ溝を掃くそうです。角ごとに屋外へつながる掃き出し孔があり、ゴミを出すのも簡単です」
「ほえぇ……」
「石造りの居城ならではだな! 掃き出し孔は下り坂のスロープ、さらに内部で反しがあって、外からの土埃は入ってこないようになっているんだぞっ」
リヒャルトが嬉しそうに続ける。マリーは、それが聞こえなかったかのように前を向いたまま、
「寝起きをしている館のほうはもっと近代的ですよ。あちこちに水道が通っているし、煉瓦と木を組み合わせた建物で、暖かくて涼しい。薪を焚き続けなくて良いから、使用人の手間も省けています。調理の煮炊きで出た熱や蒸気を鉄パイプに通し、暖房や、風呂の湯沸かしにも使っています」
「……マリー様も、お詳しいのですね……?」
わたくしは言った。王宮だってきっと負けず劣らず快適だけど、それがどんな設備でどんな工夫をされているかなんて知らなかった。いえ知ろうとしたことも、考えたこともなかったわ。
わたくしの呼びかけには応じるマリーは、気恥ずかしそうにクスクス笑った。
「わたしも最近、調べて知ったのです。この人数でどうやって維持してるんだろうって気になって、使用人達に聞いたり、図書室で建築の本を読んで……。
このグラナド城は、素晴らしくよく出来ています。主にとっても使用人にとっても安全で、清潔で快適。グラナド城はほんとうに過ごしやすい、素敵な家です」
背を向けたマリーの、泥で汚れた服、クシャクシャになった赤毛が弾んでいる。マリーの歩みが軽やかだからだ。
……なぜ彼女がこんな格好をしているのか、誰に虐げられた結果なのかは、まだ分からなかったけど……マリー自身は、この生活を気に入っている。そんな気がした。
やがて石の城を抜けて、中庭へ出てきた。回廊沿いに植え込みが並び、色とりどりの花が咲き乱れている。
ほほぉ、これは……なかなか見事な庭園ね。花の数は王宮には劣るけど、不思議と華やいで見えるわ。
わたくしが花に見とれていると、マリーは言った。
「あちらに見えるのがお風呂場、この回廊の先が、わたしの部屋や貴賓室のある館です」
「ああ、では、その部屋で待っていれば良いのですわね」
「そのつもりでしたが……もし良ければ、こちらで花を見ながらお過ごしになられますか? グラナド城自慢の庭園です。天気もいいし、奥のほうには東屋がありますので」
尋ねられ、わたくしは思わず歓声を上げた。実はもっと花を見ていたかったのだ。わたくしがコクコク頷くと、マリーは小さく笑い、東屋まで案内してくれた。
「それでは急ぎ、着替えをして参ります」
泥だらけのボロ着でカーテシーを行って、マリーは退場していった。その背中を、リッキ兄は黙って見送る。苦手な女がいなくなってほっとした……という表情じゃない。ただ立ち尽くして、ぼうっと眺めているようだった。
「……リヒャルトお兄様?」
呼びかけてみると、ハッと息を呑む。ブルブル首を振ってから、早口で言った。
「い、いや。変わった女性だなと、思っただけだ。それだけだ……」
……なんですの?
なんだか様子のおかしい兄は放置して、わたくしは東屋から身を乗り出し、庭園を一望した。
うん、やっぱり不思議だわ。広さは王宮庭園のほうが上、咲いている花も大きく豪華なもののはずなのに、なぜかこちらのほうが華やかに見えるの。
わたくしは庭園を見るのは好きだけど、造るほうには全くの無知。考えてみれば花の名前すら数えるほどしか知らないわ。あれはなんというのかしら、王宮の庭園でも見かけた気がする……。
わたくしは東屋を出て、生け垣に近づいてみた。
あら? この生け垣、ところどころ差し色みたいに別の花がポツポツ咲いている。野生の種が飛んできたのかしら。それとも庭師が植えまちがえたのかしら? それとももしかして、わざとそう計画して植えている?
わたくしは首をかしげ、東屋へ駆け戻った。
「ねえリヒャルトお兄様、城塞の建築に詳しいのでしょ。お庭については……」
と――開いた口が、ぽかんと開く。
いつの間にか、兄の隣にヒトがいた。
背の高いひとだ。平均並みの兄が少し視線で見上げるほど――と思いきや、履いているブーツに太い踵が付いている。騎士の制服に似た、白が基調の優美な衣裳で。鍔の大きな帽子からは、切れ長気味の怜悧な双眸と、すんなり整った鼻梁、少しクセのある赤い髪がチロリと覗いていた。
その立ち姿は……ひとことで言って……とてつもなく、凜々しい。
「あ……あ。あなた、は。ま、ま……マリ、さ。ですよね……?」
震える声で言ったのは、リヒャルトだった。
泥を落とし、女性として飾ること無くそばかすを隠すだけの化粧をしたずたぼろ娘――いや、恐ろしく格好良い、青年の装いをした美しきそのひとは……。
兄とわたくしとを見下ろして、指先で鍔を持ち上げ、穏やかに笑って見せた。
「はい、マリーです。いかがでしょう、これで少しは話しやすくなったでしょうか」
「え。あ……えぁ。うん、あ……ああ、あ、はい」
兄はしゃべれなくなったようだけど、とりあえず逃げはしなかった。満足そうに微笑むマリー。
しかし今度はわたくしが……マリーのほうをまともに見ることができなくなって、真っ赤な顔で俯いてしまった。
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