第九話 こっつんと、お勉強
第九話 こっつんと、お勉強
それなりに、早起きをしている部類の人間だと、自分では思う。
特段、寝起きを悪いと感じたことはないし、部活の朝練に遅れたこともない。
「ん……」
六月も終盤に入って、朝の空気は既に蒸し暑さを増してきている。
エアコンをそんなに強設定で使うほうじゃあない。タイマーの切れた寝起きの素肌は、汗ばんでいる。
「やっぱしこの時期はもう、この格好でちょうどいいや」
兄の形見のカッターシャツ一枚、下着一枚。ナイトブラは窮屈だから、着けない主義だ。蒸し暑い時期はこれで十分だ──いつぞや、親友から怒られたその寝姿を、姿見に映しながら率直に思う。
時刻は、六時半。朝練は七時からだから、まさしくいつもの起床時間。中学時代もほぼ同じような生活サイクルを送っていたから、慣れたものだ。
軽く上半身を解しながら、時計を眺める。
「……あれ?」
そこで、気付く。
なにかが違う。いつもと、なにか。普段あるものが、ない。そんな感覚を抱く。
そうだ。やけに──……家の中が、静かなのだ。
「?」
いつもならこの時間、既に雪羽も起きている。
朝、起きて。ふたりぶんのお弁当と、おいしい朝食を用意してくれているのが日常のはずだった。
なのに、それらしい気配を感じない。不知火だけがそこにいるかのように、家の中から生活雑音と思しき音が、なにも聞こえてこなかった。
「雪羽?」
スリッパをひっかけて、着替えもせずに部屋の扉を開ける。
廊下に出て、やっぱりそこもしんと静まり返っていて。居間のほうにも明かりは灯っている様子はなくて──……それで。
「っ! ……なに?」
直後、である。
雪羽の部屋のほうから。
その扉の向こう側で、なにかが転げ落ちるような、不意のけたたましい音が、家じゅうに木霊するほどの勢いで、鳴り響いたのは。
* * *
「ほんっ……っとに申し訳ないっ!」
両手を合わせて、雪羽が平謝りをしている。
昼休みの、校庭。その傍らにある芝生のベンチに五人は、集まって弁当を広げている。
みんな、もうとっくに夏服だ。それぞれにカーディガンやベストを、羽織ったり、羽織らなかったり。歌奈は夏服には、そういうのはとくに合わせない趣味だった。
「いいって。大丈夫だからさ。たまにはこういうこともあるでしょ」
そんな、姉妹の様子を、歌奈たちはきょとんと見つめている。
ひたすら頭を下げてすまなそうにしている雪羽。それに対し、いいから、大丈夫だからを繰り返し連呼する不知火。
なんだなんだ。どうした、一体。
「けっこうこの学校の購買、いろいろあるし。私は好きだよ。たまにはパンもいいじゃない」
言われてみればたしかに、不知火の膝の上にはふたつ、購買のパンが置かれている。ジャムパンに、ソーセージを巻いたロールパン。そしてそれは雪羽も然り。あちらはチョココロネと、卵サンドだ。
「へー、珍しい。今日、弁当じゃないんだ?」
「ああ、うん。ちょっと」
素朴に、感想を呟いたつもりだった。だけれど不思議と、不知火は目線をそらしつつ曖昧に、言葉を濁す。
なんだか、気まずそう。
「?」
彼女の目は妹に。縮こまっている雪羽へと向いている。
「私は別に大丈夫なんだけど。さっきも言ったように」
ただ、雪羽が……ね。気にしちゃって。
「なにを?」
「いや、その。ほんのちょっと。大したことじゃないんだけど」
雪羽が、寝坊しちゃって。今日。
「……そんだけ?」
「うん。それだけ」
だから、弁当が作れなかった。たったそれだけなんだけど。なんかすごく、気にしちゃって。
「なんでさ?」
「う。だ、だってさぁ。寝坊なんて生まれてはじめてだし。毎日のご飯とお弁当はあたしの担当なんだから。醜態だもんこんなの」
「大袈裟な」
うん、うん。
歌奈の言に賛同するように頷く、詩亜と彩夜。
別に寝坊くらい誰だってするでしょうに。
「あたしは気にするのっ」
「ああ、うん。そう」
外食以外は毎日ご飯つくるって決めてるんだから──……さいですか。
「でも、どうしてまた寝坊を? 夜更かししてたんですか?」
面倒な感じにうじうじしている雪羽の気を持ちなおさせようとしてか、彩夜が質問を変える。
詩亜も同じように、頷いている。
「うちで暮らしてた時も、むしろ寝坊や遅刻って、小雨お姉ちゃんのほうがしょっちゅうやってたイメージなんですけど。珍しいこともあるんだなって。たぶん、はじめてですよね?」
あ、そうなんだ。
付き合いの長い彩夜が言うのなら、そうなのだろう。
とくになんのことはない、素朴な質問。だけれど、ぴくりと反応をすると同時、雪羽はやおら、口ごもって。
「……勉強」
「へ?」
ようやく絞り出すように、短く言う。
「だって。──もうすぐ、期末じゃん」
* * *
姉妹たちの通う、明聖学院の期末試験は、他の高校に比べて少し時期が、早い。……らしい。ほかの学校のスケジュールなんて知らないから、また聞きでしかないけれど。
なんでも、学校の創立者記念日が学期末に重なるらしくて、その祝日との兼ね合いだとか、そういう理由らしく。
おかげでうちは、夏休みが少し長い。らしい。
「……なるほど」
ダイニングの、テーブルの上には数枚の答案用紙が広がっている。
名前は、雨宮、雪羽。一学期・中間考査。そう明記された、主要五科目のテスト結果がそこにある。
「うん、これはたしかに、本腰入れて勉強したほうがいいかもね」
「ううー……わかってるよぉ」
お世辞にも、いい成績とは呼べない点数が並んでいる。
国語系はそこそこ。
英語もどうにか。
歴史系──ぎりぎり。
なお、数学と理科系は──……。
「雪羽は理数系が苦手なんだね」
いずれもが言わぬがやさしさ、という点数をたたき出している。
昼食時の一件から、放課後、帰宅をして。そういえば中間試験どうだったの、と訊ねた不知火に、明らかに雪羽は動揺して困っていた。
これはひょっとして、と思ったら案の定である。
「もともと数学も理科も苦手なんだよー……生物だったら理科はどうにか、いけるけどさぁ」
「みたいだね」
たしかに、生物の分野だけはそれなりにとれている。
ただ、理科系の科目が選択ごとに分かれるのはたしか、うちの学校って二年生からじゃなかったっけ。
「お姉ちゃんはどうだったの。中間、うちの学校で受けるはじめてのテストだったでしょ」
「私? ……見る?」
見せる相手がいないのは不知火も同じ。たしかまだ、通学鞄の、プリントファイルに挟みっぱなしになっていたはず。
傍らの椅子に投げ出した鞄をまさぐって、雪羽へと渡す。
「──……嘘」
「嘘とは失礼な」
お姉ちゃんに対してまったく失礼な。
口をとがらせつつ腕組みしてみせる不知火の仕草に、絶望したというような素振りで、雪羽は天を仰ぐ。
そういう反応になるだろうな──国語系がほぼ互角である以外は、どれも自分のほうが高得点であることを既に不知火は知っていた。
実はちょっぴり、ほっとしていたのは内緒だ。
仮にも姉としてふるまっている身である。妹に負けていては格好がつかない。その意味では、勝ててよかった。
「そりゃあ一応、こっちは試験を受けて入学してますから。外部入学組を舐めないでいただきたい」
うあー。頭を抱える雪羽。
ごめん、ちょっと面白い。密かに心のうちで、不知火はくすりと笑う。
「なんだよー……あたしの身の回り、みんな頭いいんじゃん。アホの子はあたしだけかよー」
「みんな?」
「あれ、言ってなかったっけ。彩夜、基本的にテストは学年トップ3くらいにはいつもいるよ」
「ほんと? すごいね」
ということは、不知火同様外部入学組の、詩亜と歌奈も勉強はそれなり以上の成績をキープしているわけで。
「てゆーか、彩夜言ってたよ。今回の中間、詩亜ちゃんとのワンツーフィニッシュだったって」
「わーお……」
あーあ。彩夜だって同じ、小学校から中学、中学から高校の、持ちあがりの内部進学組のはずなのに。なんでこんなに違うのかなー。
ぶつぶつ言いながら、雪羽はテーブルに頬をくっつけて、突っ伏す。
たしかに、詩亜も歌奈も、とくに苦手科目はないかな、みたいに言っていたっけ。
「でも雪羽だって国語は悪くないんだし。理数系もちょっと頑張れば、赤点にはならないんじゃない?」
別に、朝起きられないくらい根をつめて徹夜しなくったって。
「それじゃダメなんだよー」
「え?」
「バイトするのに必要なの」
「え、バイト? いつの間に? やるの?」
聞いてない。
うん、言ってない。ごめん。
「白鷺のおじさんからの条件。『白夜』に、アルバイトに戻ろうと思ってるんだけど、このとおり高校生になって勉強も難しくなってるでしょ? 家事とかもあって大変なんだから、そこまで背負う必要ないだろ、って。どうしてもっていうなら、やれるところを見せてみろって」
「ああ、そっか。働いてたんだっけ」
とりあえず中間試験はお試しとして、期末は全科目平均点以上とってみろって、さ。
指先でテーブルにぐるぐる輪を描きつつ、雪羽は半ば愚痴じみた口調で言う。
「でも、おじさんの言うようにそんなに急がなくても。この暮らしが始まって、ようやく落ち着いてきたんだし。お金に困ってるわけでもないんだから」
「いや、うん。まぁ、ね」
「無理して身体壊したりしたら、元も子もないんだからさ」
はーい。どこか気のない返事を発した雪羽は頭をくしゃくしゃとやって、立ち上がる。
ご飯、作るね。お腹空いたでしょ。
キッチンに向かっていく彼女の背を、不知火は見つめて。
少し諭し方が無神経だったろうか、と思う。彼女なりに理由や拘る部分があって、このタイミングで店に戻ることを望んでいるのだろうから。
だから──ふと、思い立つ。
「ね、雪羽」
「うん?」
「一緒に勉強会、やろうか」
それは思いつきで。
言ってみてから同時に、悪くない発想じゃないか、と自分でも思えた。
* * *
お風呂から上がったら、部屋においで。姉は、そう言った。
「……いいなぁ」
「?」
だから、ノートと教科書を小脇に、両手にふたりぶんのマグカップのカフェオレを携えて、パジャマ姿の雪羽は姉の部屋を訪れた。
「なにが?」
どうぞ、と、不知火は雪羽に部屋の真ん中の座卓を示す。クッションが、ふたりぶん。姉の勉強道具は既に広げられている。
とはいっても、雪羽の感想はそこに向けて発せられたものではなくて。
「お姉ちゃん、やっぱし足長いなーって。前にもこんな話したけど」
スタイルいいなぁ。ずるいなぁ。
雪羽の見つめる姉は、少し気恥ずかしげに頬を掻く。
寝間着姿の彼女は、サイズの大きな男もののカッターシャツ一枚きり。
細くて、長いすらりとした両脚が惜しげもなく晒されていて、同性の雪羽から見てもとても魅力的に映る。
「もう。勉強しにきたんでしょ」
「はーい。わかってまーす」
ぷいと大袈裟に目線を逸らして、姉はひと足先に腰を下ろす。
彼女に促されて、雪羽もそれに続く。カップを置いて、姉のほうに差し出して。自分のノートを開く。
「どこがわかんない?」
「んーと、ここ」
広げたノートをひっくり返して、姉のほうに向ける。
身を乗り出して、姉はそれを受け取って。
あー、なるほど。ここはね。……なんて、すぐに合点がいったように、ぱらぱらと教科書を、参考書をめくっていく。
え、なに。そんなに簡単なところであたし、躓いてたの。
ちょっぴりはらはらしながら、姉のその仕草を雪羽は見守る。
姉は、髪をポニーテールには結んでいなかった。
寝る前だからか、まったくまとめずに、背中に流すまま。きれいでまっすぐな長い黒髪が、彼女の動作のひとつひとつに応じて、明かりを反射してきらきらと光沢を放っている。
すごく、きれい。素直にそう思う。
「雪羽、ここ。この問題はね──……雪羽?」
生徒としては些か散漫な意識でいる。
怪訝な顔を姉から向けられ、慌ててページ上に目線を移す。
「ああ、はい。どれどれ?」
湯上りの姉は仄かに肌が上気していて、また胸元のボタンもゆるめにしか閉じていないから、なんだか近くで見ると、すごく艶っぽい。
見惚れてしまいそうに、なっていた。
いかんいかん、せっかく勉強を教えてくれようとしてるのに。頬が熱くなっているのを悟られないよう願いながら、雪羽もまた身を乗り出す。
──と。
「え」
「あ……」
感触を互い、認識したのは、そのせいだった。
ふたり、向き合って身を乗り出しあったから。
ごっつんこ、というほどではない。こっつん、と。互いの額と額が、軽く触れあった。
目線だけを向け合うと、互いの目と目が交差する。すごく、間近で。
「っ」
思わず互い、身を引く。カフェオレの匂いの広がる部屋で、互いに、互いのシャンプーの匂いが鼻腔を擽ったはずだった。
自分の額を押さえる仕草まで、一緒。
「ご、ごめん」
「──う、うん」
戸惑いに満ちた言葉を双方から重ねあって。……やがてくすりと、姉は笑う。
「なんか、今更な反応だね。私たち」
「うん、確かに」
さんざ、抱き合ったり、一緒に泣いたりしてきたのに。
ひとつの毛布で、手を繋ぎあったまま眠ったり。今までだってもっといっぱい触れ合ってきた。別に今更、おでこくらい。
「でも、お姉ちゃんは素敵だよ」
「雪羽?」
「改めて。間近で、リラックスしてる姿見てると。すっごい、きれい。同い年なのにすっごく、大人の女の人に見える」
艶っぽくて、素敵だよ。
雪羽の発した言葉に、姉の頬が赤らんでいく。
言った雪羽もまた、同じ。ああもう、なにを言っているんだ、あたしは。
お姉ちゃんの部屋に、勉強をしにきたんでしょうが。勉強を。
「……あ、ありがとう」
「う、うん」
なんだかすごく、変な空気になってしまった。どうしよう。
「と、とにかく! ……勉強しよっか」
「そ、そうだね! 勉強しなきゃ」
シャープペンを互いに手にして、教科書に目を落とす。
ここはこうで、これがこうなって。わざとらしく声に出しながら問題に向かっていくが、生憎と文字の羅列に、視線はまったく集中できずに上滑りしていく。
その中で再び、姉の声が雪羽へと呼びかける。
「ね、雪羽」
「う、うん?」
なにを訊かれるのだろうかと、少しどきりとする。
「次のテストを頑張って、ノルマを達成して。『白夜』に戻ったらさ。けっこう、バイトの回数入れるつもりなの?」
「え。うん──いや、どうかな」
正直なところ、それはまだわからない。おじさんがどのくらい、シフトを入れてくれるかによることだから、雪羽自身にもなんとも言えない。
「さっきはまだいいんじゃない、みたいに言ったけどさ。よく考えたらちょっと、楽しみでもあるんだ」
「楽しみ?」
「こうして雪羽と過ごす時間が少なくなるのはけっこう残念だけど。私も『白夜』に、雪羽の料理を食べに行っていいんでしょ?」
それは──もちろん。
「でも。いつも家で食べてるじゃん? 弁当だって。……今朝は大変失礼しましたけども」
「もちろん、いつだって雪羽の料理はおいしいよ? で、『白夜』でおじさんたちが出してくれる料理も、もちろんおいしい」
どっちも大好きだよ。不知火は、言って。
「だからこそ今まで食べられなかった、『白夜』での、『家や弁当以外での』雪羽の料理が食べられるんだな、って思うと楽しみ」
「お姉ちゃん」
雪羽は顔を上げる。
今度は逸らされない視線が、こちらに向いていた。
やっぱり顔は真っ赤で、微笑は少しぎこちなかったけれど。姉の双眸がまっすぐにこちらを見ている。
「だからね。すごく勝手なお願いだけど、がんばってね。お姉ちゃんとしての、それが私のわがまま。勉強を教えてあげる私の、役得」
そして、肩を竦めて笑って見せる。
──ああ、もう。だから、頬が熱いんだってば。そんな顔見せられると、余計に。意識、しちゃうじゃない。
「……それ、けっこうなプレッシャーだね」
「負けないで。がんばって」
「……うん。がんばる」
先を越されたな、と思った。ひと足先に、言われちゃった。
だって。雪羽が店に戻りたいと思った理由も、受け手と主体が正反対に入れ替わっただけで、姉の願いとまったく同じだったから。
家での料理だけじゃない。弁当、だけじゃない。
慣れ親しんだ店での、慣れ親しんだキッチンで作る、自分の料理を。
勝手知ったる喫茶、『白夜』でつくる自分のコーヒーや手料理を姉に、食べてもらいたかった。いつもの夕飯とはちょっと違う、よそいきの自分の料理で、姉をもてなしてみたかったのだ。
「がんばるよ、絶対」
今更、この流れで言えない。そのつもりだよ、なんて。一歩出遅れた感があって、すごく気恥ずかしい。
姉の仕草も、言葉も。嬉しくって、恥ずかしくって。
ちょっぴり、悔しい。
お姉ちゃんはどこまでも、あたしよりお姉ちゃんなんだな──、そう実感させられちゃうから。
こうやって、気配りができて。無自覚に、一歩先を行く。
同い年なのに、立派にお姉ちゃんをしてくれている。
「……お姉ちゃんってさー、モテそうだよね」
「えっ? べ、別に普通だよ?」
それでいて、反応が可愛らしいところもある。
「彼氏とか、いないの?」
「いるわけないよ! いたことないよ!」
「えー。じゃあ彼女は?」
「それもいない……けど」
「けど?」
「……中学時代、寮生の後輩の子に、何人か……告白、されたことは……」
よくわかんないから断った、けど。
ほら。こういう消え入りそうな声で真っ赤になって俯くあたり。うん、可愛い。
「え、なにそれ面白そう。詳しく聞かせてよ」
「べ、勉強はっ?」
「まーまー、夜は長いんだからさー。ちょっとくらいいいじゃん」
そんなこと言って、また寝坊しても知らないよ?
ころころと笑って、姉の抗議とジト目をいなしながら、雪羽はカップのカフェオレをひと口すする。
うん。
楽しい夜に、なりそうだ。
勉強はあまり、捗らないかもしれないけれど。
それはそれで、今夜はいいや。
(つづく)