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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
74/74

最終話 天涯孤独の、ふたりだから

 

 

 気分は、どうだ。──手術室へと向かうストレッチャーの傍らについてくれていたレイアが、そう訊ねてくれた。

 

「うん、大丈夫。どきどきして緊張感はあるけど、それが怖くてたまらないってほどじゃない」

 

 声の向けられた方向を見上げながら、不知火は返す。

 手術についての説明はとうに受けている。そのうえで、それが避けられないこともわかっている。覚悟だって、決まっている。

 

「寝て、目が覚めて。そしたら、──見えてるように、なってるんでしょ?」

 

 それに、彼女ら医師たちも、不知火自身の心持ちに任せるばかりでなく、さまざまに配慮をしてくれている。

 両眼の手術、不安も大きいだろうからと、通常は局部麻酔で済ませるところを、寝ている間に終わる全身麻酔で行ってくれる。

 なにより、レイアも先生も。……敢えてこの日、雪羽の願いを受けて、この手術の時間をずらしてくれた。

 不知火に。雪羽からの贈り物を身体じゅうで受け取る、そのための時間を与えてくれたのだ。

 ここまでしてもらって、怖気づいてなんていられない。

 

「──ああ。それと、さっきの。ユッキーの演奏な。録音してくれって言われたから、やってあるんだ。どうする、手術中、流すか」

 

 そんな魅力的な提案まで、してくれるのだ。

 

「ううん。……平気。それは、手術後のお楽しみに取っておくよ」

 

 だけれど、横たわる不知火は、首を左右に振る。

 今は、ゆきの音楽を改めて、繰り返す必要はない。

 だって。礼拝堂で奏でられたそれは今このときだってまだ、容易に脳裏に思い描けるくらいに、不知火の中に染み渡って、息づいているから。

 耳の奥にまだ、残っている。

 ゆきの、ヴァイオリンが。だから、大丈夫。

 

「そっか。……わかった」

「うん。だから──行ってくるよ」

 

 もうすぐ、手術室だ。レイアの言に、不知火は頷く。

 

「行ってくる、ゆき」

 

 自動ドアの、開く音。その瞬間に、声を発した。

 なにも、見えてなどいなかった。だけれど間違いなく、寒々しいドレスから着替えを終えた妹がそこに待っていてくれると、手術室に進んでいく自分を見守ってくれていると──その、確信があった。

 両手を握って見守る彼女とすれ違った瞬間を、「ここだ」と認識できたように、なぜだか不知火には思えたのだ。

 きっとまた、きみの瞳を見て。顔を見て。そして、笑うよ。大好きな、かけがえのないきみと。

 一緒に、いっぱい、いっぱい。思い出をつくる。いろんなものを、見る。

 姉妹で一緒に、ひかりの手を引いていくから。

 

「がんばって、お姉ちゃん」

 

 閉じていく、自動ドア。そのレールを滑るスライド音の向こう側から、そう妹の声が聴こえた。

 行ってきます。

 声に出さず、不知火は心の中、妹へと囁き告げた。

 妹と過ごすその世界をもう一度、その瞳で見るために。

 不知火は、手術室へと向かう。


                 *   *   *

 

 桜の花びらが、ひとひら散って。風に舞っていく。

 その、淡い色の翻る様を、ふと見上げた部室の窓ガラスから、星架は見つけて、微笑ましく目線を注ぐ。

 ──そうか。もう、桜の季節なんだなぁ。

 

「先輩?」

 

 ふっと、口許に浮かべた笑みが彼女からも見えたらしい。

 備品の買い出しや、部費のやりくりの相談をしていた詩亜がきょとんと、こちらを見て首を傾げている。

 

「ああ、ごめんなさい。なんでもない。──ちょっと、不知火のことを、ね」

 

 三月の、今日。彼女には大切な用事がある。

 想いあう人間として、傍にいてやりたいと思いもする。しかし不知火にとって、そしてその『家族』にとって、今日という日がなにより大事な一日であるということもわかっている。

 

「なんだかちょっと、雪羽ちゃんには負けっぱなしだなぁ、って」

 

 だから、自分の出る幕ではないことを理解している。こうして、詩亜と顔を突き合わせて、事務的な作業に勤しんでもいるのだ。

 

「惚気ですか、それ」

「まさか。単なる負け惜しみよ」

 

 まだまだ、肉親を蹴落としての唯一無二の一番にはなれない恋人としての、ね。

 偽悪的に言ってみたけれど、詩亜はただ、くすりと笑って、柔らかな視線をこちらに向けるばかりだった。

 

「そう言うあなたはどうなの。妹さんと、真波との両立は」

 

 後輩の見せるその器の大きな様相が、なんだかちょっぴり癪で。星架は彼女のくすぐったいであろう部分を、軽くつついてみることにする。

 ちゃんと、最愛の妹を拗ねさせずにいるのだろうか。

 ──星架の親友との関係性を、きちんと豊かなものにできているのか。なんて。

 無論本気ではそのような心配なんてしていないし、する必要のない少女だと、理解はしていたけれど。

 

「わたしは──、わたしは、その。今はちょっと、おしおき期間中というか」

「おしおき?」

「はい。このあいだ確認したら、真波さん。随分と生徒会のお仕事、ため込んでいたみたいなので」

「……ああ、なるほど」

 

 そういうことか。

 たしかに、試験期間明け、浮かれたようにやれ詩亜とショッピングだ、映画だ、カラオケだ──、なんて遊び歩いていた親友の姿や能天気なメッセージを、星架も知っている。

 そこにうつつを抜かしすぎて、生徒会の仕事を忘れていたわけか。

 

「ひとまずはきちんとやること終わらせるまで、デート禁止ということで」

「……賢明な判断だと思うわ」

 

 あまり手がかかるようなら、自分も手伝ってやろう。内心、親友に呆れつつ、同時そのように思う。

 

「でも、ほんとうに。今日が晴れてくれて、よかったです」

「うん?」

「──だって。しーちゃんと雪羽ちゃんの、今日は大切な日ですから」

 

 一年前の、今日。

 この日は。

 あの姉妹にとって、とても。とても、大切な。

 ふたりの、はじまりの、日。


                 *   *   *


 ギターの音色が、青空に溶けていく。

 最後の、ひとつのメロディまでもが透き通るように、風の中に染み込んで、聴く者すべてに穏やかな気持ちを届けていく。

 

「──いいね。上手いじゃん」

 

 喫茶『白夜』近くの公園。

 ベンチに腰掛けた夕矢の演奏を、歌奈は、彩夜とともに聴いていた。

 音楽的才能なんてなくって、いいも悪いも感覚的な好みの範疇でしかわかり得ない歌奈だったけれど、年下の少年のその演奏は聴いていて心地よく、また小気味のよいものだった。

 そりゃあ、無駄に上手い不知火のやつの歌声と合わさったら。スカウトだって来るよなぁ。そう、思えるくらいにだ。

 

「スカウトの件。結局、白紙なんだっけ」

「──ええ、まあ。そりゃ、あんなこともありましたし。メンバーの皆とも、相談しましたから」

 

 もともとが、降ってわいた話でしかなくって。

 将来にまでまだ考えがつかないっていうか。

 ──それに。人間って……気付かないところで、気付かない行動で、他人を傷つけるものなんだなって、実感できたっていうか。

少年は僅かに言葉を濁しながら、天を仰いでそんなことを言う。

 中学生のくせに、随分と大人びた──老成して、ものわかりのいいことを言うものだ。

 将来への悩み方は歳相応って感じではあるけれども。

 

「そんなこと、ないですよ。ユウくんの音楽は、だれも傷つけたりしてないです」

 

 ブランコに腰かけた、彩夜が小さく首を振って、弟に声を返す。

 

「ほんのちょっと、いろんなものがズレただけ。いろんな人が。いろんななにかが、それぞれにちょっとずつ、急ぎすぎてしまっただけなんです、きっと」

 

 音楽に原因が、あったわけではない。

 幸いにして、起こった出来事を理由に彼らが音楽を離れるとか、そういったどうこうには至ってはいないけれど。

 それはあいつが──不知火が、雪羽に向けた言葉と、同じ意味合いを持って、少年に向けられている。

 

「わたしは、ユウくんのギターも。不知火ちゃんの歌も。雪羽ちゃんのヴァイオリンも、全部大好きです」

 

 そうだ。結局物事はそのくらい単純でいいのだと、歌奈は思う。

 好きだから、向き合う。人に対しても、なにか、自分がやろうとしていることに対しても。

 好きだから、向かっていく。

 歌奈の姉に、想い人ができたように。それはその人が、好きだから。

 雪羽が再びヴァイオリンに向き合うことを、続けたように──これも、楽器が。音楽が、好きだから。

 そして、不知火も──、

 

「好きだから、……か」

 

 そう。好きだから、選んだ。

 自分のこれからに、向き合うこと、立ち向かうこと。

 

「ふたりとも、そろそろ着いたころかなぁ」

 

 そして今日は、そうやって進むことを選んだ姉妹が、原点に立ち返るべき日。

 厳密には、ぴたり同じ日ではない。ふたりが選んだのは終わりが訪れたその日ではなく、ふたりがはじめて出会った、その日。

 不知火の、お兄さんと。

 雪羽の、お姉さん。

 ふたりの葬儀の日から丸一年が経った、一周忌。


                 *   *   *

 

 電車の中。左右のイヤホンを分け合って聴いていたヴァイオリンの音色が今も、耳の奥に残っている。

 今は亡き、人の演奏。

 とても、とてもきれいな曲。小雨さんのヴァイオリン──一瞬、目を閉じるだけで脳裏にそのメロディが、溢れてくる。

 

「がんばれ」

 

 草を噛んだ、靴の踵が大地を踏みしめる。ふたりの間には、その手に引いた、よちよち歩きのひかりがいる。

 このところ、幼子はすくすくとした成長を見せている。

 少しずつ、眠ってばかりではなく、自分の足で興味津々に、世界に歩き出すようになった、幼いひかりだった。

 無論、幼子の、自身の脚で疲れずに歩ける距離なんてたかが知れている。だがそれでも、小さな子の成長がこのように感じられるのは嬉しいものだった。

 

「もう少しで、お母さんとお父さんのいるところに、着くからね」

 

 ゆきの掌が、ひかりの右手を引いている。そして、左手は今、不知火の手の中にある。

 幼子の歩幅に合わせて、一歩ずつ。見えてきたその場所に、近付いていく。

 雑草が途切れて、石造りの道へ。左右に広がるそこを、歩いていく。

 

「──やあ。兄さん。……小雨さん。また、来たよ」

 

 そうして、向き合ったその場所に、不知火は、雪羽は──ふたりは足を止めた。

 ひかりを、抱き上げて。三人、墓標へと向かう。

 当然にそれは、雨宮家の──兄たち夫婦の、眠る墓。

 

「年末に、いろいろあったけど。──またこうして、兄さんたちのところに顔を見せに来れた。……自分の眼で、世界を見て。自分の足で、やってこれた。兄さんたちを、見ていられてる」

 

 どちらから申し合わせたでもなく、当たり前の選択として、春休みのこの日、不知火も、雪羽も正装に、制服のブレザーを選んだ。

 今の、自分たちの日常にあるもの。

 その中で一番、自分たちが真剣な場に向き合うべき衣装として、単なる儀礼的なものという以上に、その選択肢がふたりにとって当然の帰結であった。

 

「ひかりもね、随分と自分の足で、いっぱい歩き回るようになったんだよ」

 

 そんなひかりの成長を、私の眼はなんとか、見つめていられる。

 墓石に語りかける不知火の右手はひかりを抱いて。左手に、ゆきの掌を握る。

 節目のたびに、こうしてふたり、やってくる。ひかりを連れて。

 これまでもそうだったし、これからもずっと、ふたりが姉妹で在り続ける、その日が終わるそのときまでそれはきっと変わらない。

 この眼が、見えなくなったって──ずっと。

 

「お姉ちゃんと、会いに来るよ。何度も、何度も。いつだって」

 

 雪羽の言葉に、そっと目を伏せ、不知火は頷く。

 双眸を護るように。不知火の顔には、手術前には殆ど着用をすることのなかった、薄いレンズの眼鏡が載っている。

 ふたりの間にあって、変わったのはそれだけ。

 ふたりは他にはなにも、変わってなんていない。

 変わることのないふたりの、日常の中での些細な変化や、誇らしかったり、楽しかったり。あたたかな変化はきっと今ここで改まって告げることではなく。

 きっと遠く、遠くの場所から、兄や、小雨さんが微笑ましく見守ってくれる類のことなのだろう。


                 *   *   *

 

「お姉ちゃん。眼は──その、大丈夫?」

 

 日差し、とか。夕焼け、眩しくない?

 一瞬言いよどむそぶりを見せて発せられた妹の言葉に、不知火は苦笑する。

 

「平気だよ。そのために眼鏡かけてるし。今のところは、ほんとうになんにも」

 

 疲れて眠りこけた、ひかりが寝息を立てている。その重みを腕の中に感じながら、夕陽のオレンジ色に眩く染まる、帰り道を歩く。

 そう。こんなにも輝いて。こんなにも眩しい世界だって。今、不知火の眼はきちんと映し出せている。

 

「でも。やっぱり心配なものは、心配だよ」

 

 言葉通りの感情を示すように、握りあった掌に、雪羽は強く、力を込める。

 大丈夫──ほんとうに、大丈夫だから。その意志を告げるべく、不知火もまた、強い力を伝えて、妹の柔らかな掌を握り返す。

 手術のあと。包帯を外し、光を取り戻した不知火に、主治医やレイアが告げたことは、ふたつ。

 日常生活の中でも、両眼の保護に多少なりと、気を配ること。

 真夏の直射日光や、その両眼に負担のかかるような場面では眼鏡や、サングラスや。そういった保護の手段を忘れずに、注意をすること。そのための定期健診も欠かさずにしっかり、受け続けること。それが、ひとつ。

 そして──やはり、タイムリミットは、避け得ぬこと。

 かつては、あと十年ほどはあったろう。それがやはり、……そのままの猶予は望みえないであろうと、彼女たちは不知火に、そして雪羽に告げた。

 おそらくはせいぜい、保ってその半分。あと五年ほど──そのくらいは覚悟しておくようにと、彼らは言った。

 

「ちゃんと、見えてる。見てるから。ゆきのことも。ひかりのことも」

 

 そう、あと五年ほどのあいだはこうして、なにも変わらずに同じ世界を見つめて、大切な人たちのことを見ていられる。

 ゆきと一緒の、高校の卒業。

 ゆきと一緒の、成人式。──大丈夫、間に合う。

 ひかりの、小学校への入学式だって、きっと。

 

「お姉ちゃん」

「──うん?」

 

 センチメンタルな気持ちになることなんてない。

 これから先に待っているそれらの光景に想いを馳せるだけでさえ、既に不知火は満たされている。時間に限りがあるのなら、それをより、より一層濃密なものにしていけばいい。

 

「あたしも、見てるよ。ずっと、ずっと。お姉ちゃんと一緒に、ひかりを。お姉ちゃんをずっと、一番近くで、見ているから」

 

 あたしたちは、あたしたちだけの、家族だから。

 雪羽の言葉は、他者への拒絶なんかじゃない。

 たくさんの人たちに救われて、護られて。──愛されて。天涯孤独の身であるふたりだけど、ここまで私たちは、やってこれた。

 これからもたくさんの人たちに助けられて、天涯孤独の私たちは進んでいくのだろう。

 同じ、天涯孤独の幼子を。ひかりを見守り、育みながら。

 駒江、不知火が。不知火であるかぎり。

 雨宮、雪羽が。雪羽であるかぎり。

 私たちは、天涯孤独だけれど。ひとりぼっちじゃない。

 好きな人たちが、いる。旧くから、繋がりあった人たちがいる。大切な、友人たちがいる。

 その世界の中で、不知火も。雪羽も。生きていく。

 

「一番近くで、見ている。聴いている。ゆきのこと。ゆきの、音楽のこと」

 

 不幸だなんて、思わない。

 ふたりだからこそ、感じられる幸せの中に、自分は。そして雪羽はいるのだと、不知火は思う。苦難が待っていたって──私たちは、離れない。だから、乗り越えていける。また、幸福の場所に戻ってこれる。

 

「大好きだよ、お姉ちゃん」

「──私も。大好きだよ、ゆき」

 

 咲きはじめの、桜の花びらがひとひら、風に乗っていく。

 夕陽のオレンジが、その桜色すら眩く、染め上げる。

 終わりのことを黄昏と表現するのならしかし、そうやって黄昏の色に染め上げられた世界だって、また次の日には、新たな、そして本来の色を取り戻す。

 はじめて出会ったその日にも、桜は舞っていた。

 何度も何度も、これからふたりは繰り返していく。この、桜の季節を。

 やりたいことも違う。ときには物理的に距離を隔てることもあるだろう。しかし、ふたりは、ふたりの場所に戻ってくる。一番、傍に在り続ける。

 ふたり、手をとりあって。繋がっている。ずっと、ずっと。いつまでも。

 

 だって、不知火は。

 だって、雪羽は。

 私たち、姉妹は。

 あたしたち、姉妹は。

 

 ──天涯孤独の、ふたりだから。

 

 

          (了)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

本作『天涯孤独の、ふたりだから』、今回で無事、完結となります。

今後は時折、外伝やこぼれ話を書いていけたらと思っております。

重ね重ね、お付き合いありがとうございました。

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