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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
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第六十九話 願いは、眩き光とともに

 その日、彩夜は家も、店も留守にしていた。

 小学校の頃の、バスケットボール仲間からの誘い。以前より声をかけられていたその予定があったためである。

 もちろん、不知火の一件があり、雪羽が転がり込んできた直後である。両者のことが気にならないわけはなかったし、心配だった。直前まで、行くのをやめようか、どうしようか悩んでいた。

 最も永い友人であり、家族同然に過ごしてきた自分が傍に居てやるべきなのではないか、と。

 一番の親友で幼なじみであると自認する立場の自分が、彼女たちが大変なこのときに気晴らしに出かけることへの罪悪感があったのだ。

 

「──ユウくん?」

 

 躊躇し迷う彩夜の背中を押したのは、同じく彼女たちを心配し、気を揉んでいるはずの弟だった。

 そうやってあまり気を遣いすぎて、姉ちゃんが予定を変えたりすると、余計に雪姉たちも気にするんじゃないか──行ってきなよ。弟は言って、彩夜も考えた挙句にその言葉に従うことにしたのである。

 だからこうして、夕方のこの時間帯になるまで、彩夜は旧友たちとともに街の片隅のこのバスケットコートで、ストリート・バスケットのゲームを楽しむことができたのである。

 心の片隅にはどこか、常にうっすらと雪羽たちのことが頭を掠めていったけれど、それでも勝手を知るかつてのチームメイトたちとの時間は、彩夜を十分に熱中させていったと言っていいくらいには、時の経つのを忘れさせた。

 怪我をしてバスケットを引退するに至った彩夜である。派手な動きや、力強いプレーはできない。患部をかばい、パス回しを中心に注意をしながらしかし、久しくともにしていなかった仲間たちとの試合はゲーム感覚の軽いものだったから、無理せずよく楽しむことができた。

 友人たちはバスケットから離れざるを得なかった彩夜のことを心から惜しんでくれたし、今は彩夜が小説を書くことに打ち込んでいると聞いて、よかったら読んでみたい、とも言ってくれた。

 そうして、あたたかな中で一日が過ぎていったのである。

 ひとしきり、運動に汗を流して。そろそろお開きに、となったところでスポーツタオルに汗を拭いつつ、携帯の画面を灯したとき、彩夜は弟から電話の着信があったことを気付いたのだった。

 

「──もしもし、ユウくん? どうしましたか?」

 

 時刻は、二、三時間ほど前。気付かぬほどに熱中していたのか──そのように彩夜が思うのはある種、己惚れだ。鞄の中に押し込んでいたそれに、バスケットボールのプレー中、どうして気付ける者がいるというのか。

 折り返しの電話に、ほどなく弟の携帯が繋がる。

 今、終わったところです。どうしましたか? 弟に、問う。

 

「──え?」

 

 そして、聞かされる。

 自分の知らぬ間に。

 自分の大切な人たちに起こったこと。

 彼女たちが遭遇し、それに対してとった行動の、こと。


                 *   *   *

 

「……え? ゆきが? 受付で揉めた?」

 

 そう。数時間前のことである。

 不知火は、星架と一緒だった。

 やってきたレイアに、その疲れた様子となにかを言いよどんでいるような様子とに星架さんが気付き、不知火自身もまた、向けた言葉への曖昧でぎこちのない、彼女らしくない返しへと違和感を憶えた。

 てっきり雪羽が戻ってきたのだとばかり思ったタイミングでしかし、妹ではなくレイアが顔を出したことも、いっこうに戻ってこない妹のことと重なり、その印象を助長した。

 そして、聞かされた。

 受付の、事務のところで──来客と雪羽の間にひと悶着があったこと。

 その来客というのが、不知火の両眼から光を奪った、あの少女の家族であったということ。

 

「そんな、突然すぎる。雪羽ちゃんだって、いきなり来られても困るだけじゃないですか。相手が相手なんだから、歓迎なんかできるわけない」

 

 星架が、雪羽に同情的に眉を顰める。

 急にやってきたその状況に妹が混乱をし、──まして加害者の側の人間たちが相手だ、厳しい対応になってしまったのも無理なからぬことだと、不知火も思う。

 

「──それで、ゆきは。その人たちは……?」

「幸い、すぐに引き離せたし。白鷺サンが来てくれてな。今は『白夜』で一緒にいてくれている。んでやってきた側についてだが、こっちも一旦お引き取り願った。警察のほうにも事情は伝えてある」

 

 帰れといってもユッキーはさんざ、渋ったがな。薬はきちんと届けておくから、所見も伝えるからっていって、無理矢理、車に押し込んだが。

 

「ユッキーの気持ちは星架と同じに、ワタシにもわかるがね──落ち着かせてやらないと、あいつ自身がしんどいばかりだからな」

 

 言って、レイアは首をこきこきと鳴らした。彼女の素振りからして、随分と雪羽はわがままを言ったのだろう。

 

「ごめん、レイア。世話かけちゃって」

「ん? あー、気にすんな、大人がやるべきことだ」

 

 ほい、薬。レイアの差し出した薬の袋を、星架が受け取る音が聴こえた。

 

「でも、少し……ううん、けっこう、やだな。私が原因で、ゆきがほかの誰かを拒絶するなんて」

 

 けっこう、というか。かなり、かな。

 仕方のないことだとはわかっている。自分も、もしもゆきが傷つけられて、その相手や身内が不意に目の前に現れたら、いったいどんな対応をしてしまうかわからない。自信はない。

 だがそれでも、不知火自身が雪羽の見せた反応ほどに、自らを巻き込んだ相手を憎みきれてもいないし、恨んでもいない。だからこそ妹とその相手との間に起こったひと悶着に、心傷めざるを得ないのである。

 ただでさえ、妹の心を穏やかでなくさせているのに。更にそこに重ねて。

 ましてその感情が他者に向けられるとなると──……。

 

「ゆきを笑えなくしているのが自分なのは、つらいな」

「不知火……」

 

 妹に笑顔を取り戻すにはなによりも、自分が治ることが一番の薬だとわかってはいる。──わかってはいるけれど、これほどにも自分自身の力だけではどうしようもない、ままならない類のこともない。

 今は見えないこの双眸に、再び光を灯す。その困難さは、不知火だってわかってはいるから。

 

「それで、先生は? なんだって?」

「──ン? ああ、……その、言いにくいが。やっぱりこのまま保存療法と点眼だけでは、続けていても治療としての効果は薄いだろう、と。お前の眼は一般人のそれとは違うからな──残念ながらワタシも同意見だ」

「そんな」

 

 不知火の手を握っていた、星架さんが腰を浮かせかける。

 大丈夫だから。言い聞かせるように、握った掌に力を込めて、不知火は彼女に向けた口許に微笑をつくる。

 

「そう。……そう、だよね」

 

 半ば以上、なんとなく「そうだろうな」と思っていたことだった。

 医師ほどの正確さは望めずとも、自分の身体だ、自分の中にある感覚である程度、予測はできる。まして、終わりがいつかやってくることを既に告げられていた身だ。過度な期待のできる、両眼ではない。

 わかっていた、わかっていたさ──そんな思いが、不知火の心には去来する。

 

「って、ことは。手術とか?」

 

 現状維持で回復しないのなら、思い当たる手段は、一介の高校生である不知火が思いつく範囲ではそのくらいだった。

 別に、やけっぱちの口調で言ったつもりはない。しかし、レイアは即座には言葉を、返すことはなく。

 

「──レイア?」

 

 暫しの沈黙が、不知火に首を傾げさせた。さして長く、その時間が続いたわけではない。

 

「……少なくとも現状、お前の眼を見えるようにするには、手術しかないだろう。水晶体を取り換える必要がある──なんにせよもう少し、患部が落ち着くまでは経過を見て、それからだが」

 

 そうすればおそらく、見えるようになる。

 見えるようには、……なる。

 

「今このとき、直近というだけならな。手術の効果はあるだろう」

 

 レイアの言葉は歯切れ悪い。彼女がこんなに、なにかを言いづらそうにしていたことがあっただろうか?

 

「なに、どういうこと」

 

 髪を、かき上げる音。深々と、重い息を吐き出して整えるのが、不知火には聴こえた。

 

「──お前の眼は、手術のダメージから完全回復できるほど、丈夫じゃないってことだ」

 

 その宣告は、レイアにとってもまた、口にしたくはないことだったのだろう。

 声音を聴いた、ただそれだけで不知火にもまた、そこに満ちた彼女の忸怩の感情が、伝わってくるように思えた。

 

「まず、うまくいくかは半々ってところ。お前の眼の状態じゃ、手術後の傷が無事に定着するかどうか」

 

 そして。

 

「たとえ、回復をしても。どれほど保つかわからない。少なくとも確実に、本来残されていた時間より、世界の見えている時間は短いものとなる──……」


                 *   *   *

 

 ノックを、二度。部屋の扉を叩いた。

 

「雪羽ちゃん」

 

 彩夜はそうしてから、声をかける。

 病院での一件を、彩夜も既に聞いていた。

 父によって病院から連れ帰られた雪羽はそれからずっと、二階の、雨宮姉妹の部屋に閉じこもってしまっている。

 食事にも出てきていない、と弟から知らされてもいた。だから彩夜の手には、せめてフルーツくらいは、と、切ったオレンジと林檎の皿が、トレーに載って抱えられている。

 

「雪羽ちゃん。彩夜です。開けてください」

 

 返事はない。鍵はかかっていないと思うが、彼女の今の気持ちを考えれば無理矢理に入っていきたくはなかった。暫く待って、もう一度声を、ノックを繰り返す。

 更に幾ばくかの間を置いてやっと、──やがて部屋の扉が開かれる。

 

「──彩夜」

 

 泣きはらした双眸の、彼女の表情は重かった。おそらくはベッドに突っ伏していたのだろう、髪がところどころ乱れて、跳ねあがって、寝癖のように崩れてしまっている。

 彩夜の手にあるものを見て、気付いて。ひとつため息を吐き、言う。

 

「そっか、……ごめん。気、遣わせちゃって」

「いえ。彩夜が勝手に持ってきただけですから。食べられますか?」

「正直、食欲ない。でも少しなら食べられるかも」

 

 雪羽は彩夜を、部屋へと招き入れる。

 やはりそこに沈み込んでいたのだろう、ベッドの毛布や布団が乱れていて、愛用のスマートフォンが投げ出されていた。

 

「少しは……落ち着きましたか?」

「うん──いくらか。ごめん、心配かけた」

 

 なんにも、解決はしてないけど。そうやって自嘲気味に呟くあたり、ほんとうに心の平静のレベルはほんの「いくらか」の平衡であり、ほんの少しなのだろう。

 

「詩亜や歌奈からも、いっぱいメッセージきててさ。長崎から、みっちゃんまで連絡くれて……ああ、心配してくれてるんだなって」

「そりゃ、そうですよ」

 

 友だちなんだもの。起こった出来事に対し、心配をしないわけがない。見舞いだけで、終わるものか。

 座卓の向こう側に膝を抱え座った彼女と向き合い、彩夜もまたタイツの足を曲げて、反対側に腰を下ろす。

 

「お姉ちゃんの眼、さ。やっぱりこのままだと見えないままになっちゃう可能性、高いんだって」

 

 そのことも、彩夜は知っている。父から聞かされた──おそらく、手術が必要になること。そして。

 

「手術して、戻っても。ずっとそのままではいられない。本来のタイムリミットよりずっと短いものになるだろうって、先生言ってた」

 

 既に彩夜は、聴いている。──ほかならぬ、「本人」から。

 彼女の意向を。そして今、彼女が望んでいることを。

 

「悔しいなぁ、って。お姉ちゃんはあたしを求めてくれて。一緒に背負うの、許してくれたのに。あたし自身がそもそも、なんにもできない」

 

 ほのか、雪羽の発する声に涙の音色が混じる。

 テーブルに置いたフルーツに、まだ彼女は手をつけてはいない。

 

「それどころか、あたしが、あたしの音楽がお姉ちゃんと、繋げるべきでないタイミングで、方向性で。音楽とお姉ちゃんとを繋げてしまったから。──それを、あたしは取り返さなくちゃいけないのに」

 

 彼女の指先が、オレンジの皮に触れる。口に運ぶのではなく、ただつついているだけ。

 切り口から溢れたその果汁が、球のかたちの粒となって、雪羽の人差し指へとまとわりついた。

 

「……そういう自分の責めかたは、不知火ちゃんは望んでいないと思います」

 

 今ここで、自分が否定してやらなくてはいけない。彼女を待っている相手のためにも。

 

「ね、雪羽ちゃん。きちんと聞いてみませんか、不知火ちゃんに」

「え?」

「不知火ちゃんが今、どう思っていて。どうしたいと、雪羽ちゃんになにを望んでいるのかを」

 

 なにもフルーツを届けるためだけに、雪羽のもとを訪れたのではない。ポケットのスマートフォンが、今の自分がどうすべきかを、彩夜に伝えてくれた。

 彼女の意志が、彩夜のところにも届いたから。

 

「お姉ちゃんが……望んでいること?」

「少なくとも、また見えるようになったとき、そこに元気のない雪羽ちゃんがいることは不知火ちゃんは、求めてはいないはずです」

 

 鏡台の上の、ティッシュペーパーの箱から一枚抜き取って、雪羽の指先を拭いてやる。

 真っ白な、薄いちり紙がオレンジの色に斑点をつくって、それが広がっていく。

 

「とりあえず、そのフルーツ、食べましょ。全部じゃなくていい、食べられるだけでいいですから」

「彩夜?」

「食べたら、降りてきてください。待って、いますから」

 

 上着も忘れずに──そう言い残し、彩夜は雪羽のもとから、立ち上がる。

 

「どういうこと」

 

 戸惑いの目線が、彩夜を見上げていた。


                 *   *   *


 車椅子に乗った姉が、そこには待っていた。

 彩夜の言うとおりに、階下へと降りていくと。もう来てますよ、と、主語もなにもなく、彼女に、外へ出るよう促された。

 白鷺家の、玄関。その先には、姉が。──星架先輩に車椅子を押されて、そこにいた。

 連絡、もらってたんです。たったそれだけを囁くように耳元に言い置いて、彩夜は家に戻っていった。

 ありがと、星架さん。……姉もまた、恋人に頷いてみせて、それに従ったその人は、車椅子からそっと離れていく。

 

「え。お姉ちゃん?」

 

 また、明日。姉に囁き、雪羽に小さく手を振って、星架先輩は立ち去っていく。

 夕方の、オレンジ色の冬の道。ぽつんとふたりきり、向き合った姉妹だけが、残される。

 

「ちょっと、えっと。病院は?」

「別に、眼が見えないだけで、どこか命にかかわる病気をして入院してるわけじゃないから。許可だけもらっちゃえばいつでも出てこれるよ。もちろん、さすがにひとりじゃここまで来るのは無理だったけど」

 

 でも、レイアも星架さんもいてくれたから。ついその辺まで、レイアに車で送ってもらったんだよ。

 面を喰らって、間抜けなことしか言えない自分がいる。対照的に姉は理路整然と、事情と理由とをさも当然のように説明してみせた。

 

「ね、ゆき。車椅子、押してよ。ふたりで少し、散歩しよう」

「え。……う、うん」

 

 右手の仕草で促す姉に従って、彼女の車椅子の後ろにまわる。

 普段、ずっと自分より身長の高い姉だ。いつもとあべこべの身長差で、姉のつむじを見下ろす構図になる。

 車椅子の姉は、今は髪をポニーテールに結ってはいなかった。まっすぐに、さらさらの黒い長髪を背中に流して、肩からストールを羽織っている。

 手すりにかけた両手に力を込めて、車椅子を押していく。

 冷たい風が吹き抜ける。車椅子の車輪が踏んだ落ち葉が、かさりと潰れてちぎれていく。その破片は巻き上げられて──どこか遠くに、散り去っていく。

 

「……ちゃんと、ごはん食べた?」

「えっ。……えと、うん。少しだけ」

「ダメだよ、私がいなくてもきちんと食べなきゃ。ゆきは自分で、いつだっておいしいものつくれるんだから」

 

 私はちゃんと食べてるよ。

 病院のごはん、けっして不味くはないけど。それでも、まだたった数日だっていうのにもう、ゆきのつくるごはんが恋しいよ。

 ゆきの、あったかくて。おいしいごはんが。

 

「お姉ちゃん……」

「そうそう。聞いたよ、受付での一件。大丈夫、私は元気だから。ゆきがそんなに思いつめなくていいんだよ

 

 姉の声は明るい。けれど、その言葉の脈絡が掴めない。

 果たして、カラ元気なのだろうか。自分が沈んでいるから、姉に、──姉自身が大変な状況にあるというのに、姉の責任感として無理に明るく振る舞わせてしまっているのだろうか。

 だとしたら、あたしはまた──……。

 

「お姉ちゃん。先生の話なんだけど──……」

 

 たまらず、切り出す自分がいた。

 姉に対して、自分が負担となりたくない。その気持ちが、言葉を言いよどんでいた感情を勝った。

 

「──うん。わかってるよ。聞いてる。このままだと、見えないままだってこと」

「え……」

 

 ほんの僅か、姉の声のトーンが、陰ったような気がした。しかしそれでも、その声色は落ち込みきった、沈んだものではなく。

 

「手術の成功は、確率が半々。もしうまくいっても、見えていられる時間は前よりもずっと短い。今の段階じゃどのくらいの期間かもわからない。全部知ってる。全部、聞いたよ」

 

 道はいつしか、川べりになっていた。夕日が一番眩く、稜線に消えゆく時間帯。

 河原の草たちがさわさわと、風に鳴っている。

 

「……お姉ちゃん。その、手術を」

「受けるよ。もちろん。当たり前じゃん」

 

 だって、そうしないと元には戻らないんだから。選ぶまでもない。

 

「でも、うまくいかないかもしれないって」

「それは、そのときでしょ。──私、戻りたいんだ」

「怖い、とかは」

「──そりゃ、不安はあるよ。だけど」

 

 やらなくてもダメ。うまくいかなくてもダメなら、うまくいくよう、願って行動を起こすしかない。臆して動かない、はこの場合、ない。

 

「こうやって、ゆきと一緒に歩く日々に。ゆきの手を引いて、歩いて。いろんなものを一緒に見ていく当たり前の日常に、戻りたい。たとえそれがどれだけ、限られた期間になったとしても」

 

 車椅子を押す指先を、姉の掌が握り包み込んだ。

 寒空の下、掌から伝わる姉の体温は熱いくらいに、あたたかくって。

 

「約束したから。ずっと、ゆきと一緒に歩いていくって」

 

 自分と、ゆきとに約束したことだから。──姉の言葉が、ふたりきりの空の下、身体に溶けていく。

 

「これまでやってきたように。見えていても、見えなくなっても。だからゆきも、これまでやってきたことを捨てようとなんか、しないで」

 

 音楽を、恐れないで。音楽を、嫌おうとしないで、ほしい。

 そうすることで喪った笑顔を、私は私のこれからつくる思い出の中から喪いたくはない。

 

「私の戻りたい私の日常には、ゆきに笑っていてほしい。これまでどおり。これまでより、もっと、ずっと」

 

 自分がそうやって笑顔でいられるために必要なものを、捨てようとしないで。

 お願い──姉は、雪羽の手を握った掌に、力を込める。

 

「私の大好きな世界は、ゆきがいて。ゆきが、大好きなものに笑っていられる世界だよ。ゆきの大好きなものを、ゆき自身からどうか、嫌いにならないでほしい」

 

 沈みゆく太陽の逆光が、不知火のみならぬ、雪羽からもまた視界を奪っていく。

 眩い、限りなく輝く太陽の光に照らされながら──真摯な姉の言葉にただ、雪羽は耳を傾けていた。

 

 

          (つづく)

読んでいただきありがとうございます。

クライマックスまであと数話、駆けあがっていきます。

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