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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
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第六十七話 楽器に、さよなら

 

 

 音楽を、楽器を。あたしは許さない。

 その言葉を思い返すたび、ぴりぴりとした鈍い痛みが不知火の胸の奥をざわめかせ、走り抜けていく。

 

「──ゆきのやつ」

 

 被害者側の事情聴取というやつを受けるにあたって、不知火自らが敢えてどこか赴く必要はなかった。

 警察まで、今この状態の不知火自身が出向いてくるのは困難であろうからと、事件の担当となった人がわざわざ病院まで足を運んでくれたのである。

 レイアが車椅子を押してくれて、晴れた屋上で話をしたり、現状を聞いたりとやりとりをした。雪羽は朝に交わした一件のあと、白鷺家に赴いてひかりの様子を見に行ってくれている。

 最初に車椅子を持ち出され、促されたときには、「いや、歩けるよ?」と素で返した不知火だった。

 見えないのに屋上まで行ける気か。見えない状況初心者。レイアの冷静なつっこみには別に傷つきもしなかったし、むしろなるほどたしかに、という素朴な納得のほうが強かった。

 事件当時のことを、若い──声や、レイアの反応からするにきっと若いんだろう、警察の方は、丁寧に不知火に対し訊いてきて。それこそ、こんな雑にしか覚えてなくてすいません、というくらいに自身の記憶のあやふやさを不知火が申し訳なく感じるくらいに、こと細かに、ひとつひとつ質問してくれて。

 詰問をされるわけでもなかった。

 丁寧に、丁重に。話を交わし、問うてくれたと思う。

 逆に、話せる範囲で、不知火を襲った事件の犯人である、少女のことも教えてくれた。

 相手はやはり、中学生。夕矢くんの同級生だということ。不知火が手を貸す以前に、彼らのバンドのヴォーカルだった少女。

 動機もまた、想像をしていたとおりに──バンドへの、スカウトのことを知ったが故に。ずっと不知火や、バンドメンバーのことを見つめていて。ドラッグストアで洗剤を買って、衝動的に引き起こしたことだ、と。

 彼女がこれからどうなるのかを、不知火は訊ねた。

 正直、その行為に至った気持ちと、年齢的な幼さは理解ができるから、なによりいつかはどのみち、自分の眼は「こうなる」運命だったのだからという思いがあったから、不知火としては自分に向けられた行為に反して、さほど少女のことを責める気にはなれなかった。

 ──無論、ごく一般的な感覚の人間として、少女の過ちに対し無罪放免をしてやれ、とまで言うつもりもないけれども。

 衝動的な行為であったこと。

 そして十五歳という年齢になったばかりの若齢であること。それらからの予測として警察の人は、おそらくは保護処分には落ち着くだろう、と言っていた。少し、安堵をした自分がいた。

 今日にはおそらく、加害者である少女の家族が面会を求めてやってくるだろう。言われて、その部分はいくぶんにストレスに感じる自分もいた。

 今のゆきには会わせるべきではないだろう。そのように、ぼんやりと段取りを頭の中に描いて、立ち去る警官を、レイアに送っていってもらい不知火自身はこの場に残ったのである。

 

「ゆきが音楽を嫌うなんて、ダメだ」

 

 見えなくなってから、頬に当たる風と。音とによく注意をするようになったと思える。それらに気付く割合が、増えた。

 肌触りと、音。それらによってのみ外界と感覚が繋がっているのだから当然なのかもしれないが、たしかに自分の変化を不知火は理解していた。

 音。いろいろな、音色が耳に入るようになった。

 こんな──音楽だとか、そういったものにてんで疎かった自分ですら、だ。

 屋上には、小春日和のぽかぽかとした風がゆるやかに吹き抜けていて。

 時折、遠くに自動車の音や。階下の、人々の声。カーテンの棚引くぱたぱたとした音。鳥たちの囀りや、どこか遠くの工事の音までもが、不知火のもとに届く。

 見えなくなって、はじめて気づいた音も多い。

 だけれどそれら、どんな音よりも今まで、不知火の心の最も奥深くにまで届いた音色は──雪羽の、ヴァイオリンの音色だった、と思うのだ。

 小雨さんの演奏に育まれ、それを目指して。憧れ、一度は手放した楽器。

 けれど彼女はけっして音楽そのものを嫌いになどならなくて、ずっと好きなままだった。その音楽を不知火に、聞かせてくれた。

 再び、向き合うようになったのだ。プロでもなく。演奏家でもなく。それらを目指すでもなく、ひとりの、雪羽として。

 そうして彼女の奏でてくれたヴァイオリンはなにより、美しいメロディだと、身びいきを承知で不知火は思ったのだ。

 そんな彼女が、音楽を許さないと言った。

 音楽を敵とみなし、それから不知火を護ると、宣誓をした。

 そうやって、ヴァイオリンから、離れようとしている。

 家族を傷つけた遠因が自身にあると、そう思い込んで。

 好きであるはずのものを妹が無理矢理にも嫌おうとしている、そのきっかけが自分にあるというのは、不知火にとって耐えがたいことであった。

 あれから言葉少なだった妹に対し、半ば以上それは不知火の予測であり、確証のあるものではなかったけれど。しかし血のつながらぬ妹に自分と似通った頑なさが内包されていることを認める不知火にとって、その想像はけっして的外れなものとは思えなかった。

 

「不知火」

 

 だから、レイアに頼んだ。星架さんへ向けてのものと、あともうひとつ。どうしても告げなくてはならないメッセージを送ってくれるよう、自身の携帯を渡して、願った。

 妹として、雪羽がこうしたいと思うことがあるのなら。

 不知火もそんな妹に対して、こうしてやりたいと願うことがある。そのために、それは必要な相手だった。

 

「リース、来たぞ」

 

 その、結果である。

 戻ってきたレイアが、ひとりの少女を伴っていたのは。


                 *   *   *


 そのメッセージを目にしたとき、なにより自分が不甲斐なく思えた。

 護れなかったのは、私のほうなのに。あの子は、あの子自身が傷つけられ、光を喪った状況にあるというのに。

 なんで自分が、励まされているんだ。

 まるで、立場が逆だろう──……!

 

「不知火……ごめん」

 

 携帯を手に、ベッドの上にがばりと身を起こす。

 朝、心配をした真波が様子を見に来てくれた。違う。心配されるべきは私じゃない。大変で、心配をされなきゃいけないのは不知火のほうだ。私が心配を受けて、どうする。

 ましてこんな、

 こんな、心配されるべき本人である不知火からさえも、気遣われるなんて。

 情けないったら、ない。

 泣いて、沈んで。落ち込んで。ただ「ごめん」を繰り返すばかりだった自分が、恥ずかしかった。同時に、自身の想い人の積み上げてきた覚悟というか、将来に対する確立された認識のようなものを改めて、実感させられた。

 いつか、見えなくなること。その未来を受け容れ、それに向かって臆せず歩いていくこと。

 自分が付き合っている少女は、そこから逃げずにいる女の子なのだ。

 

「私より。不知火や雪羽ちゃんのほうがつらくて、大変に決まってるのに」

 

 その彼女に付き合うという点では、妹である雪羽だって星架と同じように悩み、苦しんでいるはずだ。家族として支える、その意味でいえばむしろ、より深く傷ついていたっておかしくない。

 そんな彼女たちに、自分ができること。それを探さないと。

 不知火が雪羽ちゃんのお姉さんなら、自分はあのふたりより確実に年上なのだから。年上の甲斐性くらい、見せなくてどうする。

 そういう、折れたままでいられぬ精神性が星架にはあった。

 彼女の大切な少女と、その姉妹のことをこそ、彼女は案じていたかったし、事実そうしたのである。

 まずは、シャワーを浴びて。

 行こう。不知火のところへ。

 愛する者のために、立ち上がるのだ。


                 *   *   *


 星架が決意を固めつつあった、その頃に。

 

「リースさん。──リース。そこに、いるんだよね」

 

 不知火から、銀髪の少女へと言葉は紡がれている。

 目の前にきっと、戸惑いがちな表情で少女はいるのだろう──妹の、ゆきの旧友である、ヴァイオリニスト志望の少女は。

 

「ごめん、一緒にいけなくなって。ゆきまでも、私の都合に巻き込んでしまって」

 

 言葉が、足りない。かいつまんでいることを不知火は自覚している。それでもこの文脈ならばリースに伝わるだろうということも、同時に。

 まだ雪羽が彼女とともにアメリカへ行かないと、決まったわけではない。自分が行けないと、そうなったわけでもない。

 ただ常識的に考えて、昨日の今日ではさすがに無理だろう。わかっている。

 自分もそうだし、己惚れでなく雪羽がそんな自分を残して今日、リースとともに日本を発つことを肯んじるなどとは到底、思えなかった。

 今頃はそろそろ、『白夜』を、あるいは白鷺家を彼女はあとにしたくらいの頃合いだろうか。

 ついでに着替えや荷物を家から、とってくるとも言っていたっけ。

 アメリカ行きのつもりで荷物をまとめていたから、そのままそれを役立てることができるだろう──……。

 

「シラヌイ。話って、なに。私、どうしたら。あなたに、あなたたちになにをしてあげたら」

 

 今の不知火の姿はある種、彼女の妹の、未来でもある。

 きっかけや経緯は別としても。抱えているものは両者、同じなのだから。不知火の場合はそれが想定よりもはやく訪れてしまっただけ。

 その光景を目の当たりにして、妹に同じ未来が待つ身であるリースが動揺し、恐れ。緊張をしないわけがない。

 

「お願いがあるんだ。私とゆきのことで、あなたに」

 

 そんな彼女に、できること。

 不知火が彼女へと、望めること。不知火から、求められること。

 

「待っていてほしい」

「えっ」

 

 それは、追いつくこと。それを、待ち望んでいてほしいと、願うことだ。

 

「今は、……私がこんなだから、無理かもしれない。すぐには、行けないと思う。クリスマスには、間に合わないかもしれない」

 

 それでも、あなたはゆきに可能性をくれた。

 あなたはゆきを望んでくれた。彼女の楽器を、音楽を。

 あなたはゆきの旧友で。私たち姉妹と同じ──その未来に向かう、姉妹だから。

 

「遅れるかもしれない。けど、行く。あなたと、妹さん。ミラージュちゃんの待っている、そこに。会いに行くから」

 

 だから、願う。

 

「ゆきを、連れていく。私は無理でも。ゆきは必ずそこに向かうから」

「──不知火」

「もしかしたらもう、私はやってくるはずだった未来に、辿り着いてしまったのかもしれない。不可逆で、戻れなくて──でも、いくらでもゆきの未来は、変えられるはずだから。もちろん、私だってその「もしかしたら」に諦めてはしまわない。だから、待ってて」

 

 会いに行くよ。

 あなたと、妹さんに。

 同じ未来に向かう、私とゆきで。

 もしかしたら、ひと足先に、ゆきだけでも。だから。

 

「待っていて、ほしい」

 

 今夜、ひと足先にアメリカに帰っていってしまう少女に、言葉を向ける。

 見えてはいなくても、たしかにそこに彼女はいるはずで。

 握り固めた拳を差し出す。

 待っていてほしい少女に、その反応を待つ。

 息を呑む、その音が聴こえた。気配が動いて、ほのかな風が揺れた。

 

「──わかった。待ってる、あなたと、ユキのこと。必ずまた、会いましょう」

 

 たしかなものなど、なにも見えない視界と未来だった。けれど打ち合わせた拳と拳は、確かな感触をそこに伝えて、音を立てた。


                 *   *   *

 

 姉の入院期間がどのくらいになるかはわからないけれど、ひとまずはこんなものだろう、というだけの数は用意できたつもりだった。

 アメリカ行きの荷物を既に姉自身が荷造りをしていてくれて、助かった。その中から室内着や下着をピックアップするだけで半ば以上、こと足りたのだから。願わくば本来の目的のために使いたい荷物であり衣装であったけれど、これはこれで、やむを得ない。

 それらの着衣を手提げカバンにまとめて。その作業を終えてから自身、シャワーを浴びて、昨晩のぶんの汗を流した。そうして着替えるといくぶん、さっぱりとした気分は生まれた。

 多少は切り替わったのかな、と思う。

 

「……ごめん」

 

 だからといって気持ちの空が晴れ渡ったわけではない。

 自室で着替えて、その手で抱き上げてきたぬーさんを手にしたまま。何の気なくぼんやりと、楽器部屋に足を踏み入れて。それまでと自身の中で感覚の一変した対象である、己がヴァイオリンを納めた楽器ケースを見遣る。

 ヴァイオリンがそこにはあった。

 目の前には、ピアノさえあった。

 いずれもが、音楽によって奪われていった実姉の遺したものだった。自分が向かおうとしていた、打ち込んだものだった。

 

「ごめんね。あなたにはなんの罪もないかもしれない」

 

 楽器ケースを、蓋を閉じたピアノの上に載せて、開く。愛用のヴァイオリンが姿を見せて、それを手にした。傍らに置いたぬーさんの、ボタンの双眸が、楽器と人間の織りなす光景を見つめていた。

 

「でも、音楽に向かうから苦しむなら。あたし……もう、あなたを、弾けないよ」

 

 音楽家であり、コンサートがあったせいで姉さんは死んだ。義兄さんも、巻き込まれてしまった。

 今度は、お姉ちゃんもだから──だから、ごめん。

 もう、無理なんだ。

 

「あたしの両手は、あなたを弾くためにはないんだ。お姉ちゃんを抱くために、あるものだから」

 

 一度だけ、そっとぎゅっと、雪羽の両腕は己の楽器を抱きしめた。

 けっしてそれを圧し潰すでなく、優しく。楽器の扱い方も、いたわりようも経験からわかっている人間の手つきによって、雪羽は愛用の弦楽器へと最後の親愛を告げた。

 

「さよなら」

 

 ケースへと戻し、そうひと言を投げる。

 閉じたケースは、ピアノの上に置き去りに。踵を返して、いく。ただぬーさんを、姉との絆の証であるそのテディベアだけをその手に抱いて。

 もう、あたしが楽器を弾くことはない。けっして。あたしが音楽に向かえば、誰かが不幸になるのなら。

 それはかつて、彩夜の事故にありもしないはずの因果を感じ、そこに責任を抱き彼女ら一家と距離を置くことを望んでしまった実姉と同じ思考だった。だが雪羽はそれに気づくことはなかった。過去に思いを馳せ、自覚をできるほどの精神的余裕もありはしなかった。

 もう弾かない、その意志だけがあった。

 暫く、この部屋に入ることもないだろう。そう決意をしていた。

 

「……ばいばい」

 

 後ろ手に閉じる扉の向こうに声を残したのはしかし、その固めたはずの決意の不徹底の現れだったのかもしれない。

 彼女は音楽を許せなくとも、自身の楽器を愛してはいたのだ。

 自覚なくとも、雪羽の中に名残を惜しむ心はあったのだ──本気で打ち込んだものへの、未練と呼ぶべき、感情が。

 ほんとうの意味で決別を心に決めていたのなら、未練がましい思いがひとかけらさえも心になかったのならば、楽器はしまいこむのではなく、抱き上げた彼女の両手の中から滑り落ちていたはずだった。

 この時点では少なくとも、そんな雪羽の感情を雪羽以上に、姉である不知火のほうが理解していたのであろう。雪羽が今ここで告げた「さよなら」は、眼を背けた逃避でしかなかった、だからこそ。

 逃げ出した。それゆえに、雪羽はもう一段、苦しまねばならなかった。

 今回のこの一件において、雪羽が不知火の家族である以上には、逃げることかなわず、彼女が向き合わねばならぬものはまだこれ以外にも残されていたのだから。

 そのことを翌朝、望まず招かれざる訪問者の来訪というかたちによって、雪羽は思い知ることになる──……。

 

 

          (つづく)

あけましておめでとうございます。

新年早々ですがもうちょっとだけ「溜め」回が続きます。

クライマックスまであと少し、今年も頑張っていきますのでよろしくお願いいたします。

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