第六十三話 一緒に行くか、行かないか
自身の向かい側に座る、雪羽の。更にその隣に座る彼女の姉から、小さく、短く。しかしはっきりと、「えっ」と、驚きを表現した声が発せられたのを、リースは聞いた。
「ちょっと待って。どうしてあなたが驚くの、シラヌイ」
「いや、だって。私も初耳だったから」
アメリカ。──アメリカって言ったね、ゆき。両目をぱちぱちやりながら、不知火は腰を浮かせた妹を見上げ、彼女の次の声を待っている。
それ以上のリアクションも、とりようがないのだろう。
「うん。アメリカ──そう言ったよ、間違いなく。……ね、あなたの国に、あたしも連れて行ってほしいんだ、リース」
「え。……その、ごめんなさい、どうして?」
もともと、両者の間で詰めるべき話は、ふたつの選択肢から決めるという部分に集約されていたはずだった。
そのように、リースは自分が無理矢理な選択を彼女たちへと突きつけていた、その自覚があった。
不知火のもとに残り続けるか。
リースとともに欧州へと行くか。ふたつに、ひとつ。
そして彼女たちの事情を知り、自分の提示した選択の無神経さを理解して、おそらくは彼女は自分とは一緒にはくるまい、とリースは考えてもいた。
それらが覆されたわけである。戸惑わないわけがない。
第一の、でもなければ第二の選択肢でもない。
まったく別の、第三の回答が、雪羽からは示されたのだから。
「うん。もちろん、ヨーロッパに行くかどうか。その返事だって、忘れたわけじゃないよ。でも、そのために必要なことを、あたしはしておきたいんだ」
「必要な……こと?」
そう。
「──自分の中でもう、結論は出てるんだ。こうしたい、きっとあたしはこうすべきだって。そのことは、お姉ちゃんにも言ったんだ。だけど、その選択が『きっと』じゃなくって、『ほんとうに』正しいって、自分で自分を納得させるために、自信を持つために──そうしたいなって、思ったの」
リースに、ついていくこと。
リースとアメリカに、行くってこと。
「あたしを、連れて行ってほしい。ついていって、いいかな」
その理由は、ただひとつ。
「あたし、あなたの妹さんに会ってみたい。妹さん……ミラージュちゃんに。あたしのお姉ちゃんと同じ眼を持って生まれた、女の子に」
* * *
「はァ? アメリカ? ヨーロッパじゃなかったの?」
友人のその反応は、至極真っ当なものだと、不知火も思う。
お昼休み。久々の、友人五人、全員そろってのお昼ご飯。
みんなでシートを広げて。詩亜が、歌奈が。そして雪羽が持ち寄ったお弁当箱を、タッパーを、お重箱を開けている。
久々に食べあいっこしようよ──そう提案をしてくれたのは、歌奈だった。
料理のできない不知火は、荷物を運んだだけ。お菓子作りはできても料理のできない彩夜は、フルーツのタッパーと、手作りのゼリーとを持ち寄った。
「うん、なんてーか、その前段階っていうか。リースがあたしたちを見に来たように、あたしも会いに行ってみようと思ったんだ」
皆に紙皿を配りながら、妹はそう言って微笑する。
リースの、妹にさ──お姉ちゃんの妹として、あたし。そんな妹の声を、不知火もまた聞く。
「決めた答えを、伝えるのはそれから。間違ってないって、思いたいじゃん」
「ふうん」
歌奈が、ミニ・オムレツに箸を伸ばす。詩亜はおにぎりを、彩夜はサンドイッチを手に取り、自分の皿に載せていた。
「その最終確認のためにアメリカかぁ。また随分と思い切ったねぇ。そんで、先方はなんて?」
あっちはいいって、言っているの。
不知火が紅いウインナーを、雪羽がチキン・ナゲットをつまんだタイミングで、歌奈は続けた。
自らの揚げたそれを頬張りつつ、雪羽も頷いて返す。
彼女への、リースの返事もまた、不知火の目の前で交わされたことである。
戸惑っていた米国人の少女は、雪羽のまっすぐに向けた目線に一度、双眸の先を胸元へと落として、深く息を吐いて。やがて雪羽がそうしているようにまっすぐと、見つめ返した。
──妹に。ミラージュに、会いたいのね。
その表情も、声も。けっして雪羽の望みを拒むものでなく。
むしろあたたかで、それまで覇気なく俯くばかりであった銀髪の彼女の頬に生気の朱を灯したようだった。
──わかった。行こう、一緒に。待って、いるから。
鍋から立ち昇るあたたかな湯気の向こうで、そう言ってリースは出会ったばかりの頃にも似た、けれどそれより柔らかい表情に、唇の端を緩ませて笑った。
きっと彼女にとっても雪羽の願いは予想外で、はじめは困惑をして。しかしそれが次第に全身へと、その言葉が、声が染み入ってくるにつれて。奥底まで入り込んでいくにつれて、そこには感情の熱が加わっていったのだと思う。
旧友同士の繋がりが、切れていなかったという悦び。
似た境遇にある姉妹同士が、歩み寄ることのできる安心感。そういったものが。
両者のやりとりを見ていた不知火にしても、それは感じられたことである。雪羽がそうしたいと願うように、耳にしたそれらの願望は不知火にも「ああ、いいな」と思えたから。「私もそうしたい」と、抱くことができたから。
あるいは、もしもまだ幼いという彼女の妹のために、未来における症状を同じくする自分がなにか力になれることがあるのならば──……。
「あの。じゃあ、しーちゃんはどうするんですか? 雪羽ちゃんが、リースさんについていくとして。一緒に行くんですか?」
ペットボトルのウーロン茶のキャップを回しつつ、詩亜が小首を傾げて訊ねる。
「ああ、それは」
「うん、それはね──、」
それは、リースとの対面の席ではそこまでたどり着かなかった議論。
雪羽が願い、問い。
リースが受け容れ、頷いた。あのときはそれだけで互いに充分であったから。
「私は」
「あたしは」
彼女の国に、行くこと。はるばる、地球の裏側へ。
だけれどそれは姉妹にとっては既に、どうするかなんて自然、共通認識を持ち得る事項であって。
「一緒に行くよ、私も」
「一緒に行きたいかな、あたしも」
声が当たり前のように、重なった。
顔は見合わせたけれど、そこに驚きはなくって。やっぱりね、という風にふたり、笑いあう。
「だからレイアたちのところで、飛行機の影響訊いてたんだね。私と、ひかり。それぞれについて」
「うん、そういうこと。気圧のこととか、機内の乾燥とか。眼になにか負担になるんじゃないか、幼いひかりが疲れ切っちゃわないか、とかね」
あのとき、雪羽は既に決めていたわけである。それに関する問いを医学に通ずるふたりに向けることは、彼女にとってある種当然の事前準備であった。
結果としてそして、それらは杞憂に終わった。
飛行機など乗ったことのない不知火だけれど、とくに両眼への影響もあるまいというのはレイアからの見解であったし、そもそも海外から連れてくる段階で、ひかりも飛行機による移動は経験済みである。
だから、行ける。
三人、一緒に。同じ場所へ、同じ方法で──誰も欠けることなく。
「そっか」
じゃ、この冬は海外旅行なわけだ、おふたりさん。
いいなー、なんて頷きあう、彩夜と歌奈。こらこら、こっちは別に、遊びに行くわけじゃないっていうのに。
「それで、いつから行くんですか?」
小さなエビのフリッターを、箸の先に摘まんで、今度は彩夜が訊ねた。
行く、とひと口に言っても、こちとら学生である。無断でのさぼりなんかはしたことはないから、出席日数は足りているけれど。この時期、期末試験というけっして外せない厄介ごともある。そんな今日、明日すぐに出発するというわけにはいかない。
「テスト明け、すぐから。うちの学校、記念日だとかで終業式、早いでしょ」
だから、往復の移動を含めてその日から五日間ほど。すべての旅程を終えて帰ってくるのはおそらく──、
「クリスマスの日だね。だからクリスマスイブの夜には、帰ってくるよ」
「ふうん」
そっか、クリスマスの日。姉妹水入らずって、いいですね。彩夜が微笑ましげに言って、頬を押さえる。
──が。
「えっ」
「クリス……マス? ですか?」
残るふたりは、リアクションが違った。
なんだかこう、「マジで?」というか。「いいの?」という風に驚いているような、困惑しているような。
「?」
雪羽とふたり、詩亜たち姉妹の反応にきょとんとする。
なんだ、なにかまずいことでもあるのだろうか。
「いやいや。問題大アリでしょうよそれ」
「です」
なに、なに。そりゃあ終業式は欠席になるし? 事情が事情とはいえ、休むのはまずいのだろうけれど。でも、さっき言ったようにちゃんとテストは受けるし、出席日数は足りてるから──、
「不知火。クリスマスってあんた、真沢先パイはどうすんの」
「あ」
「カップルにとってクリスマスなんて、ある意味最大のイベントでしょーが」
それは、盲点というか。
失礼極まることに、完全に不知火にとっては、妹とともに海外へ、それも真剣な理由によって赴くという高揚感からまるきり見落とされていた、失念されていた視点だった。
* * *
なるほど。それで今、この状況があるわけか。
目の前で平謝りに合わせられた両手に、星架は理解する。
「どうしても、雪羽ちゃんと一緒に行きたいと」
「……はい。ごめんなさい、星架さん」
放課後。部活のあいだじゅう、不知火はそわそわしていた。なんだか目を合わせるたびに、逸らされている気がした──まあ、それはきっと気のせいじゃなかったんだろう。練習後の今、ふたりきりになった部室のこの場での不知火を見る限り。
アメリカに行く、ねぇ。
「すっかり、ころっと私の存在は忘れてたわけだ。ひどいなー、軽いなー、恋人の扱いが」
「だ、だからっ。それはほんとうに、申し訳ないというかっ」
妹のこと。
妹の友人のこと、その妹の少女のこと──同じ、運命を持っている相手のこと。全部、包み隠さず不知火は言ってくれた。
口ごもりやすい、伝えるべきかどうかを迷い抜く性質の彼女にしては珍しい。そう思っていたら、自分も一緒についていきたいと言ってきた。
ああ、そりゃ一緒にいきたいよね。いいんじゃない。星架も深く考えずにそう返して。
それから、
──たぶん、クリスマスまで、です。
自分の彼女である彼女の発した気まずそうな呟きに、その態度へと合点がいったのである。
クリスマスに恋人おっぽり出して、自分は優雅に海外へと家族旅行。なるほど。
いや、意地悪や他意があってそのように認識をしたわけではない。ただ字面だけを見ればたしかにそうなるなぁ、と思っただけ。あの朴念仁の不知火だって、気付けば愕然とするだろう。
無論星架は星架で、最低限芽生えるはずの嫉妬心のようなものが全くないとまでは、言わないけれど。
「最低」
「あう……」
とりあえず、そういうリアクションを予想されているだろうとおりの、眉根を寄せた視線をぶつけてみる。ぐうの音も出ないとばかりに肩を落とし、不知火は打つ手なくひたすらに困っている。
仕方ないなぁ、もう。
「だからきっちり、埋め合わせはしてもらうわよ」
「え……?」
俯きがちだった顔を上げた不知火の、胸元を引っ張って自分に寄せる。
その首筋と肩のラインへと、頬を寄せて頭を預ける。
「いいよ、行ってらっしゃい。──遠く離れて、喪った同士だものね。あなたも、雪羽ちゃんも」
愛する者と、遠く離れて、分かれて。海外と日本とで──そしてそれが今生の別れとなった過去を持つ、不知火であり雪羽ちゃんだから。離れたくない、一緒に行きたいと思うのは当然だと思う。
そのくらいは私にだって想像できるよ、不知火。……星架は、そんな思いを彼女に囁く。自分だったら、同じように願うだろうと星架もまた思ったから。
「ただし、行く前にデートすること。一日、私に付き合うこと」
「……はい」
そのまま、両手を広げて、ぎゅっと彼女を抱きしめる。
絆の深さや重さは、やっぱりまだ姉妹のそれにはかなわない。
抱えたものが、彼女たちふたりは、ふたりでは抱えきれないくらいにまだまだたくさん、重いから。まだ自分が彼女たちのそれらを分かち合ってやるには役へと不足していると、星架は知っている。
けれど、それでも自分は不知火の「彼女」だから。
そのくらいの埋め合わせは要求していいはずだ。
こういうかたちで──少しでも彼女の抱えるものを、一緒に背負ってやれたら、と思う。
「あなたは頑張ってきたもの。この間のご褒美だって、まだあげてないしね。ちゃんと、憶えてるんだからね」
あなたがあなたの妹を大切にするように。
私にもあなたを、大切にさせなさい。無声音がそう、呟いた。
* * *
パフェを三つ、客席に持っていくと、そこにいた三人の誰からともなく、口々に歓声があがった。
「大変ですね、生徒会のお仕事って」
喫茶『白夜』の、四人掛けのソファ席。彩夜がパフェを置いたそこには、友人姉妹が、そして生徒会長の大任を帯びた先達が、学期末で立て込んでいるのだろう、書類の束を広げてなにやら、いそいそと作業に勤しんでいる。
「うー……ゴメンね、ふたりとも、毎度毎度手伝わせちゃって」
これ、ぼくの奢りだから。遠慮なく食べていいから。あと白鷺さんも、場所使わせてもらって、ありがとう。
眉間を揉んで、肩をこきこき鳴らしながら、南風先輩はウォーターグラスの水をひと口含んで飲み干す。
その溜め息は、ひどくお疲れの様子。テニス部員でもあり、生徒会役員という立場はなかなかに、端から見ている以上にハードなようだった。
「いやあ。試験前で部活の休止期間前だし、テニス部もその追い込み中でしょ? それやりながらやっつけるにはなかなかの量ですよ、この書類の枚数」
「うん……星架にもちょくちょく手伝ってもらってるんだけど、なかなかね──詩亜は、水泳部のほうは大丈夫?」
「あ、はい。うちは大丈夫です。マネージャーもわたしひとりじゃないですし、星架先輩もこちらの事情、知っていますから」
ありがと。超助かる。両手をあわせて、詩亜を拝む南風先輩。
まさに今、友人カップルもまた片方がもう一方に頭を下げている状況だということを、彼女たちは──無論彩夜だって、知らない。
「それにしても、アメリカかぁ。不知火たちも思い切ったこと考えるなぁ」
若いってうらやましい。
たった一歳しか違わないくせにそんな冗談を言う先輩に、一年生三人苦笑する。
──と。
「?」
なにか、視界の隅に不自然ななにかが映った気がして、彩夜は振り返った。
「どしたん? 彩夜」
お盆を手にしたまま、振り向いたその先──店のウインドウから見える、外の街並みをきょろきょろと見渡す。
夕焼けの、照りつけるような眩いオレンジの色に染まった街並みはたしかにそれだけで眩しいけれど、……彩夜が見たのはきっと、そういうものではない。
なにか。普段だったらそこにはないもの。本来あることのないものがある、そこで動く違和感というか──。
「っ?」
──また。なにかまた、外の、夕暮れの光景に違和感を感じた。
「ちょっと、すいません」
エプロンをつけたまま、ぱたぱたと店の外に彩夜は出ていく。
外の風はもう、オレンジ色の中にあっても随分冷たく感じられて。袖を捲った制服のブラウス越しにも、そのひんやりとした肌触りで彩夜を撫でていく。
違和感のあった場所。
たしか、車道の向こう側。街路樹の辺り──……?
「誰か、見てた……?」
そうだ。誰もいないはずのそこから、視線を自分は感じていた。
突然、慌てて店から出てきた彩夜を、時折行き交う街の通行人たちが怪訝に見つめるように。
いや、もっと。もっとだ。もっとはっきりと、それはこちらを明確に見つめる対象として見ていた。
そのくらい強く見られていなければ、ふと目の端に留まった程度で彩夜が気になるはずがない。
窓ガラス越し、店の中からなんて。
つまり、よほど強い視線がそこから向けられていたのだ。
辺りを見回してもしかし痕跡はない。あるいは、彩夜の気のせいだったのか?
いや、でも。気のせいだとか、そんなことは。
首を傾げ、自分の感覚を否定してみて、またその否定を否定して。その繰り返しをしながら、彩夜はその場に考え込む。
気のせい、というにははっきりと感じ取れすぎてしまった気はするし。普段なら特段、……詩亜のようには勘の鋭い人間ではない、彩夜である。それが敢えて気付いて、違和感を憶えたほどなのだ。
でもやっぱり、確証はなくって。
「姉ちゃん?」
「──あ、ユウくん。おかえりなさい」
そうこうしているうち、ギターを背負って、弟が曲がり角を曲がってきた。
ほぼ同時、ドアベルを鳴らして、店内から彩夜を呼ぶ声がする。
「彩夜ちゃん、お客さん、呼んでますよ」
「あ、はーい。今行きます」
だからそこで、首を傾げつつも、違和感に対する思考は止まざるを得なかった。詩亜の声に、彩夜は踵を返したのである。
ほんの僅か、彩夜の気になった街路樹の影、その足許の芝生に。
彩夜では気付かないほど僅かな、そこを踏みしめた、雑草の拉げた跡を残して。
(つづく)
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