第六十一話 傷つけた、あなたに想う
結局のところ、提示された選択肢は即座にその場で、答えを導き出して決断をすることができるような代物ではなかった。
はい、も。
いいえ、も。
いきなり、すぐには返せない。
幸いにして、笠原さんというその男性は、自らの向けた誘いに、夕矢くんも、不知火も、考える時間が必要だということをはじめから理解してくれていて。
「なんか、すごい話きちゃったね」
──だからこうして、戻った家で。居間のテーブルで物思いに耽り、考え込みながら、妹の淹れてくれたコーヒーが差し出されるのを、受け取ることができる。
苦笑気味の、彼女の表情にこちらも苦笑気味に、笑って返しながら、だ。
「うん、……現実感、なくって。どうしようかなって」
添えられたポーションミルクと、スティックのグラニュー糖を入れつつ。深々とした息を吐く。
エプロン姿のゆきは、自分のマグカップを向かいに置くと、ソファで眠っているひかりの様子を見に、その傍へ寄って膝を曲げる。
「白鷺おじさんは、反対していたよね」
「うん。──あんなに強く反対するおじさん、はじめてかも」
たしかに、と不知火は思う。
自分やレイアが合流したのは、既におじさんと、響さんたちの間に話し合いが設けられた、その只中のことだった。だからすべてを見ていたわけではない──けれど、開いた口から強く強く、提案を否定し首を振るおじさんの姿がそこにあったのは、そんな不知火でさえ十分に理解でき、見てとれた。
無論、出会ってまだ一年足らずでしかない不知火とて、保護者としての白鷺のおじさんと向き合う中で、発した考えや、意見や。方向性に対し否定や疑問を投げかけられたことがないわけではない。
それでもいつだって、そんな反対意見を述べるときもおじさんは、理性的で、穏やかに不知火へと向き合ってくれた。大人として、諭すようであってくれた。
例えば、そう。ひかりを引き取るか、否か。その相談をしたときも、そうであったように。
おじさんが──あのように声を荒げるかたちで否定をしたことは、不知火たちに対しては、なかったのだ。
「夕矢くんは──というか。夕矢くんたちは、どう思ってるのかな」
「さあ」
あの、文化祭の日。ともにステージに立った面々を思い起こしながら、雪羽に問うでもなく半ば独り言じみて、不知火は呟く。
自分はあの場であくまで、代役だった。依頼を受けて、皆に手を貸した、それだけの存在でしかない。
「どう思ってるか、どうしたいかはともかく。お姉ちゃん込みで話をしてきたってことはきっと、お姉ちゃんもいること前提での誘いってことだよね」
「……うん、多分」
私、込みなんだ。その認識は、不知火の中にもあった。
だから一層、困惑している。主に、「困る」方面について、特に。
ひかりが寝入っていることを確認したゆきは頷いて、立ち上がり。不知火の向かいへと、椅子を引いて、座る。
「たった一回、助っ人しただけだもんねー」
そう、あくまで自分は中心ではない。そう思うがゆえ、自分をありきで考えられるというのは、責任の所在としてなにか違う、というか。
年長者としては無責任な感覚かもしれないが、……流れ弾なのに、随分と重い気がしてならないのだ。
自分がノーと言ってしまえば、それに夕矢くんたち全員が巻き込まれて、この話がなかったことになってしまう、というのは。
主体であるべき、決める権利があるべきは、中学生とはいえ、彼らの側に本来委ねられるべきはずのものなのに。
「でも、この話を受けたらお姉ちゃん、アイドルかー。すごいなー」
「なんでそうなるの。バンドでしょ、バンド。しかも私はおまけ」
頬杖をついて、ちょっと意地悪に笑う雪羽。
「またまた。期待されてるじゃん、ボーカルさん」
「だから違うって」
傍らに置いたくまの「ぬーさん」を撫でながら、雪羽は笑みをもうひとつ。
今度は、穏やかに。なんだか、しみじみとしたように、微笑をして。
「お互い、大変だね。決めなきゃいけないこと、選ばなきゃいけないこと。逃げ出せない選択肢が目の前にあるって」
自身、旧友よりの誘いに回答を返せずにいる妹は、姉に対し目線を投げる。
違いない、と思った。尤も、彼女の投げかけられた選択は、その間口を広げてしまったのは不知火だ──その意味では、不知火もこれに関しては、加害者ということになるのだけれど。
加害者。……の、お互い様、か。
「──ね、ゆき。リースさんのことなんだけど。彼女から妹さんのこと、なにか聞いてる?」
「リース? ああ、そういえば妹ができたって、言ってたっけ。たしか名前は、ミラージュちゃん? だったよね? ひかりと、同じくらいでしょ? それがどうかしたの?」
思い当たったこと。伝えるべきかどうか、迷ったことはひとつだった。
不知火自身と、リースとの共通項──いや、不知火たち姉妹と、スノーホワイト姉妹の共通項、というべきか。
リースと不知火の立場は似通っているようで。ある種、両者はあべこべではあるのだから。
愛する妹に対し、それぞれが残す側と残される側であるという点において、両者は対極にある。
喪う者。
喪う者を、見つめなくてはならない者。
双方の姉妹がその関係性に、合致してしまうのだ──……。
「その、妹さんのこと。……大事な、こと」
こんな大事なこと。しかも他者に関わることを、私なんかがゆきに伝えてしまっていいのだろうか、と一瞬、不知火は躊躇をする。
言葉をひととき呑んで、そこで切ったのはその感情ゆえのこと。
だが、同時に思う。
同じ境遇の、姉妹で。
あべこべ同士の、姉妹だからこそ。ゆきに告げられるのはきっと、その当人であるリース以外に存在するとすれば、それはきっと私だけなのだ、と。
レイアに任せるのも、違う。響さんに委ねるのだって、私がやらないのであれば筋違いだ。
私と、ゆきだからこそ。
リースさんと、その妹さんのこと。知る必要がある。すべての決断をする前に、知っておくべきだ。──知ることが許されると、己惚れてもいいのだと思う。
アメリカから、はるばる海を渡ってこの日本にまで、ゆきのことを迎えに来てくれた少女。彼女が、姉妹というものに強く拘る理由。ゆきと、小雨さんの姉妹を強く強く、意識した、その根底にあるもの。
私だから、伝えられる。
私が、言わなくちゃいけないんだ。
だって私は、リースさんの妹と「同じ」で。
リースさんと同じく、「お姉ちゃん」なんだ。
「ゆき。私たちはね、同じなんだ。リースさんと、その妹と」
「?」
すう、と深く、深く酸素を呑んで、息を吸い込んだ。
ひとつ、ふたつ。吸った呼吸を、長く、長く吐いて。
不知火は愛する妹に、同じく妹を愛する姉である少女の事情を、告げる。彼女の妹を待つ、自身と同じ未来を。
「私が遠くなく喪うものを。──リースさんの妹も、喪ってしまう。そんな未来が待っているんだ──残念ながら」
* * *
「お父さん?」
その人は、殆ど下戸に近い性質の持ち主だった。
父は、酒に弱い。家族なら皆それは知っていること。嗜好品らしい嗜好品と言えば、父の場合には第一義にそれは、自分で淹れたコーヒーを指すものだから。
ゆえに、珍しいことだった。たった一杯、一番小さなかわいらしい缶のビール、一本とはいえ。
たったそれだけでも父にとって酔うか酔わないかぎりぎりの量に値するそれを、その限界量を知るはずの当人が手にしているなど。
そんな希少な光景を、原稿の執筆の小休止にと飲み物を求めキッチンに出てきた彩夜は、暗がりのリビングに、見ている。
つまみなんてない。ほんとうに、父の前には缶ビールひとつだけ。
酒を嗜む人ではないから、なにかと一緒に飲むことも知らないのだ。執筆のため、また生来の本好きが高じてか、そういう部分においての知識はもしかしたら彩夜のほうが父より、上なのかもしれない。
「──ああ、彩夜。起きたのか?」
「まだ寝てませんよ。まだ、夜の十一時です」
もうそろそろ、とは思ってましたけど。ちょっと喉が渇いて。
廊下から漏れる僅かな明かりの中、彩夜は父の頬が仄かに酒気を帯びた、血色に染まったそれであるように感じられる。
父は、口数少なく。なにかをひどく考え込んでいる。ひとり物思いに耽っているようだった。
その傍らを抜けて、キッチンへ。冷蔵庫を開いて、中から、父のビールと同じサイズの小さな、缶のオレンジジュースを取り出す。
「──あの、お父さん」
「うん?」
「ユウくんのこと。不知火ちゃんのこと。やっぱり、反対なんですか」
ふたりの持ちかけられた、バンドのこと。オーディションのこと。彩夜にだって、既に耳に入っている。
そして父はそれに反対していて、一方で不知火は迷い、弟は態度を明確には示していない。そのことも、わかっている。
それでもつい、口を開いていた。
「せめて、ユウくんがどうしたいか、訊いてからでも」
「……彩夜」
穏やかな目で、父はそっと、右手を軽く上げて、彩夜の言葉を押し留めた。
わかっている。そんなことはわかっているよ、と。そう言うように。
同時、「すまない」と、そう言っているようにも思えた。
父の気持ちは、彩夜にはわからない。当たり前だ。倍以上の人生を生きている、そして彩夜自身に生命を与えてくれた──どこをどう切り取ったって、その人の人生や思慮のほうが豊かで、富んでいるに決まっているのだから。
子どもの自分がひと足に理解できた気になること自体、おかしなことだ。
父の感情はきっと、親として、という大きな要素のない者には十全にはわかり得ないこと。
「……もう、寝なさい」
「はい」
小雨お姉ちゃんのこと。不知火ちゃんの抱えていることや、ひかりちゃん。そして今回の件──子どもである自分たちが思っている以上に、父には心労を、悩みを与えているのだろうな、とは思う。遡れば、わたしの怪我だって。ひどく心配も、苦労もかけた。
そうやって慮ることや、想像をすることはできる。けれどそれ以上は、庇護される立場の子どもとしてはのぞき込んだり、みだりに手を出してはならない領分だ。
父は、父親としてそうあろうとしてくれているのだから。そうやって父が抱いているのは、庇護する側としての悩み、心労。父が、父であるからこそ、手にしているものだ。わたしたちにとって、わきまえるべき範囲の外にそれはある。
だから彩夜は、父の言葉に従う。オレンジジュースを手にして、それ以上言わずに踵を返しかける。
「──ね、お父さん」
「うん?」
「わたしは。彩夜は、嬉しかったです。昼間、お父さんがあの場で、雪羽ちゃんや、不知火ちゃんのことも娘だって、言ってくれたこと」
今は亡き、小雨お姉ちゃん。
雪羽ちゃんに、その姉妹となった不知火ちゃん。
不器用で、迷うことの多い三人だけれど──そんな三人をそれぞれに、彩夜も愛おしく思う。
三人をそれぞれに、彩夜も家族だと、思っているから。
「ありがとう、です。お父さん」
父が思いを同じくしてくれたことが、嬉しかった。それは今更父にとっては自明で、彩夜の言及するほどのことでもなかったのかもしれない。しかしそのことを、行きと反対の向きに、自室へと帰る歩みを進めながら、彩夜は囁くように伝えた。
「おやすみなさい」
あとは、そう。
お父さんと。
ユウくんと。
不知火ちゃん。
彩夜の大切な家族三人、当人たちの間で話し合って、決めることだ。
* * *
こんなにも頭が混乱して。また、落ち込んだことなんて、いつ以来だろう?
きっとそれは、妹の身体の、先天的な異状を告げられたとき。その未来の回避の方法が現状になく。その宣告に絶望をした、その夜以来だったように思う。
「──最低だ、私は」
だからその未来は二度、リースを絶望させたことになる。
妹へと逃れようなくやってくることを突き付けて、一度目に。
二度目には、友の愛する家族もまたそうであったということ、そのことを露知らず、無自覚に彼女たちを傷つけたことを、リースに思い知らせることによって。
世界の残酷さを、リースは感じざるを得なかった。
二度目のそれが、自らの蒔いた種。無知と不寛容、焦りの招いた自業自得であったとしても。
「誰より私が、わかってやらなくちゃいけなかったのに」
そして、
「誰より私が、傷つけてはいけなかったのに。かき回しては、ならなかった」
駒江、不知火という少女。同い年であって、雪羽の姉となった女の子。
彼女の立場も、彼女の妹である雪羽の立場も、双方を同時にわかることができるのは、この世で自分だけなのに。
それなのに私は、自分の都合に、妹のために──そして姉妹を喪った雪羽と、それを「慮る自分」に躍起になるばかりで。
なにも見えちゃいなかった。見えて、気付くべきだった。
すぐ目の前に、同じ苦しみを分かち合える存在がいたということに。
ただ自分と、雨宮姉妹の関係性の間に紛れ込んできた異物としか認識しないのではなく。もっと注意深く接し、わかることのできる瞬間が要所、要所にあったのではないか。
そんな、自己嫌悪と。後悔とが尽きず、リースの心には襲いくる。
ホテルのロビーまで送ってくれたレイア先生は、ふたりきりになって改めて、さまざまの事実を、……その多くはリースの想像通りであったことを、こと細かに伝え、教えてくれた。
不知火たちのことも、レイア先生自身のことも、おそらくはすべてといっていいくらいに。
両者が、両者であることに気付いていた。少なくともこちらにリースが到着してからの、両者とレイア先生とのやりとりによって──結果的に隠すかたちになってしまったことをすまなく思う。そう、謝ってもいた。
気を遣わせたのだと、思う。彼女が日本に戻ってくるまでも、戻って、一同に合流をしてからも。
不知火が、リースより遥かに短い付き合いであっても雪羽のことを深く理解するように。
リースもまた短い繋がりだったとしてもレイア先生のことをそのように深く信頼する、理解があった。
「あなたからユキを奪うなんて、私は」
なんて酷いことをしようとしていたのだろう。
自分だったら、どう思っていたか。
自らが望んだ結果でなく。自らの意志によって限られたその時間を捧げるためにではなくて、妹を……ミラージュを奪われるとしたら。
その貴重な時間を、最愛の妹とともに過ごす日々を。
最低だ。自分なら、耐えられない。そんなことを、私は一番やってはならない立場で、一番してはならない相手にぶつけていた。
自己嫌悪に支配されながら、茫然としたまま、どうにかシャワーを浴びた。そしてそのまま、バスタオルすらひらり舞い落ちるのも無視して、下着一枚つけぬままただ、ベッドに身を投げ出した。
空調の音だけが、独りだけのホテルのシングルルームにひっそりと響く。
「ごめんなさい、コサメ」
今更、なにを。誰に謝ったってきっとそれはあとのまつりだ。
「ごめんなさい、ユキ」
汗ばんだ肌が、シーツに沈む。瞳が潤んでいるのは、湯上りの熱気に当てられたからじゃあない。
「ごめんなさい──シラヌイ」
自分がいつまでそうしているのか、リース自身にもわからない。
うつ伏せに。ベッドにただすべてを任せるように、体重を預けて、いる。
仄かな振動と、その振動音を聞いて、感じたのはその数瞬、あと。
顔をあげるのすら億劫だった──けれど気持ちのうえで無理をして、リースはそちらに顔を向ける。
「……誰……?」
ベッドの枕元。そこには、自分でそうした意識すらもはやなかった、投げ出された鞄が口を開けて、中身を白いシーツのキャンバスに描き散らしている。
振動と、鳴動は続いている。愛用のスマートフォンが、鞄のファスナーにひっかかって、そこから己の微細な揺れに乗じて這い出てこようとしている。
嫌な、光景だった。
誰とも話したくはない気分だった。
今このとき、敢えて自分に電話をしてくるなどというのは、──たとえ仮に、それが母国アメリカからのものであったとしても、朗報や歓迎すべき類の報せではないに決まっているから。
「いや、だな」
そう。嫌だ。思いながらしかし、鳴りやむ気配のない携帯電話に、もそもそやってリースは手を伸ばす。裸の身体をほんの僅かばかり、ベッドに起こして。ひっくり返ったそれの、画面をこちらに向ける。
果たしてやはり、そこにあった名はいくつかの予想をしえたパターンの中に含まれていた名前だった。
そう、それは傷つけてしまった友人から。
雪羽からの、電話。
(つづく)
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