第六十話 神という存在の、不器用
「いや。あり得ない話だ、そんなことは」
それは旧くから白鷺のおじさんのことを知る雪羽にとってさえ、いつになく聴いた憶えのないほどに厳しく、また当惑をした色に満ちた、険しい口調の、大きく荒げられた声音だった。
隣に座る、夕矢はもちろん。
キッチン内で作業をしていた雪羽や彩夜でさえ、そこにある剣幕に、どきりとしてそちらを見つめる。──そんなついぞなかったような反応を示してしまう、穏やかなおじさんらしからぬ、そんな類の代物。
ぽつぽつと埋まり始めた客席の、ほかのお客さんたちも、この『白夜』の店主が見せたその所作と発した声に振り向いている。
「──失礼」
その視線に気づいてか、おじさんは咳ばらいをして頭を振る。
「だが、やはり賛成はできない。──許可、できない」
そして否定を、繰り返す。
いったい何に対してなのか、それは雪羽たちの居場所からでは距離がありすぎて、話の子細にまで聞き及ぶことはかなわずまた、わからない。
「白鷺さん。落ち着いて」
向き合っているのは、響さん。
また、その隣には見知らぬ、──雰囲気の上ではどこか響さんに似通ったものを思わせる、中年の男性。やはりスーツ姿で、響さん同様に活力的なエネルギーに満ちていることを思わせる、働き盛り、といった風の男の人だ。
響さんに遅れること数分、その人は『白夜』にやってきた。
年齢というだけでなく、どうやらその人は響さんよりも上の立場であるらしく立ち振る舞い、そして戻ってきた白鷺のおじさんに頭を下げて。
夕矢も交え、今に至る。
なにかをふたりに、ふたりは依頼している。ふたりはその様子を遠巻きに、眺めているわけだ。
それ以上のことはわからない。
ただそこにいるのが夕矢であるがゆえに、その拒否、拒絶の言葉が彼に関わるものであること。そして呼び出すことを承ったがゆえに、その依頼がまた、姉・不知火に関係していることも、雪羽は知っている。ただ、それだけ。
「おじさん?」
だから、らしからぬその人の素振りだけが見えて、そこに意識が思わず向く。
なにが、「許可できない」んだろう……?
「ひょっとして」
「んお? 彩夜?」
自身の父親と、弟と。来訪者ふたりの織りなす情景を見遣っていた彩夜がなにか思い至ったように、呟く。
雪羽が彼女を振り返ったとき、『白夜』の扉が開かれる。
大きいほうと、小さいほう。
そこにふたつの人影の、訪れを告げて。
* * *
「ちょっと──ちょっと、待って。シラヌイ? あなた、……光を、喪うって。眼が、って、今。そう、言ったの?」
脳裏が、動揺と混乱とにかきまわされて、光景を明滅させる。
つい、たった今聞いたこと。発せられた言葉も。
自分の、かつても。今も。
雪羽のこと。目の前の、少女のこと。
己が愛する、母国へと残してきた妹のことも──全部。
さまざまなシーンが入り乱れ、感覚の中に散乱する。その断片たちに、少女の紡いだ声が重なっていく。
光を喪う。世界を、喪う。
眼が、見えなくなる。
そんな確認なんかするまでもない。どうあがいたって聞き間違えようのない、声と距離だった。
目の前の少女は、そう遠くなく、その双眸から光を喪う。
彼女の大切な妹を、その暮らす世界を──映し出すことがかなわなくなって、しまう。
「リース、さん?」
そんなことって。──そんなの、ないよ。
リースは首を振り、拳を握り締める。衝撃の大きさは、彼女を待つ未来を、近しい者の身に降りかかるものとしてリースも知り得ていたからこそ。
「リースさん、落ち着いて。気にしないで。なんでもないことなんだ。自分の中ではもう、決着のついている、受け容れていることだから。私もゆきも、わかっている。リースさんが気にするようなことじゃない」
逆に、目の前の彼女は知らない。
リースの事情。リースが抱える問題。妹という、かけがえない存在に逃れようもなくやってくる、運命のことを。
雪羽の姉である彼女と同じ、未来のことを。
「突然降ってわいたものじゃない。ケガや、病気なんかじゃないんだ。はじめからそうだった。生まれつきなんだ。ずっと昔に知って、そういうものだととっくにもう、わかっているんだ」
「生まれ、つき──……?」
先天的。その単語が脳裏に浮かぶ。それもまた、リースが彼女と「同じ」である存在を知っているから。
そんな存在を、リースはほかに知らない。
そう、自らの妹である少女以外に、その運命を背負わされた人物が──ほかに、いたなんて。目の前に、いるなんて。
たったひとつだけ知っている、もうひとつの事例。それを自分は聞かされている。
既に、同じ場所を知り、同じ楽器を知る、そんな人から。
「……え」
きっとリースの動揺は、不知火にとってけっして理解しきれぬ代物だろう。こちらの事情を、彼女が知らない以上。
知らなかった彼女の事情を知って、リースが受けた衝撃は……なにも知らずに思い至り、同調できるものではない。
まして、彼女自身わかっているはずだ。彼女の抱える事情が特殊であること。
同じ立場の存在を知っている人間が目の前にいるなんて──そう、気付き思えるわけがない。
「生まれ、つき。ですって」
そして、リースは喉の奥にひっかかりを憶える。
妹と、同じ。
自らの光を喪うことが、確かな未来として待ち受けてしまっている少女。その存在を、自分は聞いていたのではなかったか。
そう、ほかならぬここ、日本で。そこに、いるって。
ああ、そうとも。あれは──……、
「不知火。リース?」
「!」
そうとも。彼女から、聞かされた。
眼鏡の、米国人の女性が、そこにいた。
共通の、縁ある国。日本という島国をそれぞれに知る、その女性から。リースの愛する妹と同じ運命を背負いながら、それでも満ち足り幸福にそこに暮らす、同い年の少女のこと。
「レイア? ……帰ってきたんだ? どうして、ここに」
「ついさっきな。この裏の駐車場に預けてたんだよ、車。──そうか、リースと一緒だったのか」
「え?」
巡る回想と、そこからの想像と。それらの導いた解答に。向けられた声と、目の前のやりとりとがなにより雄弁に、それに対する正解を告げる。
「レイア、先生。なんで。どうして、彼女と」
「えっ」
たどたどしいリース自身の声が、不知火を振り返らせる。戸惑いと、ともに。
「彼女を──知っていたんですね、先生」
リースにとって、現れたその女性はよく見知った相手だった。そしてそれは、不知火にとっても同じ。三者のうち、自らを除く両者の関係性を未だ呑み込めていないのは、この場にあって彼女だけだった。
符合によってリースは既に察してしまったし、──レイア先生は既に知っている。きっと、すべての関係性を知ったからこそ、こうやって彼女もまた日本にやってきた。
追ってきて、くれたのだ。
リースのもとに、来た。
不知火のもとに、帰ってきた。
レイア・マクマハウゼンというその医師は、医師として。そして、大人として。
リースと不知火の交叉するその場所へと、その責任を果たすために。
「え? ふたり……どういうこと?」
そしてそれゆえに、リースの想像は確信に変わってしまった。
誰より自分が、そうすべきでない選択をこれまでやってきてしまっていたということに。
不知火と、雪羽の姉妹にだけは。
自分は──誰より、寄り添えるはずだったのに。
奪われたくない自分が、奪われるべきでない少女から、同じ「妹」を奪おうとしていたこと。
「そうか。まだ、言ってなかったんだな。……知らなかったんだな」
「え?」
ともすれば沈み込んでいきそうな、衝撃と嫌悪感とにうちのめされる只中で、唯一の大人であるレイア先生が、ほんの僅かなやりとりで、状況を悟ってくれたのは、ありがたいことだった。
「ワタシがアメリカに戻って、その治療の、研究チームに加わった患者。そうだ、リースは──その少女の、姉だ」
だから。その行為をもまた、大人として、医師として、レイア先生はやってくれたのだと思う。
受け容れきれないリースに代わって。
呑み込めない、不知火へ。
「彼女はお前にとっての妹と同じであり。お前は彼女にとって、妹と同じ未来に向かっている、そういう存在なんだよ」
彼女は引き受けてくれた。
不知火への明示という役目を。
* * *
「私はただ、……もううちの子たちに、大人や世間の都合のせいで、子どもでいられなくなる選択を、みすみすさせてやりたくないだけだ」
足を踏み入れた『白夜』の中に流れる空気は、なんだか普段のそれとは雰囲気が異なっていた。
「小雨は、ほかの同年代のだれよりはやく大人にならねばならなかった。それを彼女に選ばせてしまった──周囲に対して子どもでいられず彼女は生き急いだ──大人としてそれは責任を果たしきれていなかったと、今にして思う。だからあのふたりには、もう。そんなことは」
白鷺のおじさんが、夕矢くんを伴って。誰かと向き合い、話し込んでいた。
片割れは、響さんだとわかる。でももうひとりは、見知らぬ、より年長の男性。響さんと似たようなスーツを、その身につけている。
「私にとって。彩夜やこの夕矢だけじゃない。彼女たちふたりも、実の娘のようなものだ。だから──彼女たちが彼女たち以外の理由で重荷を背負うような選択肢は、看過できない」
状況が、わからなかった。
いや、先ほどからわからないことだらけだった。
不知火のこれからを、リースさんに伝えた。それで衝撃を受けるのは、わかる。こちらにとってはなんともないことでも、言葉だけ聞けばそれは深刻この上ない未来だから。
けど、なんだか彼女の反応はそういった衝撃ともまた違う要素にかき乱された、そんなもののように見えて、思えて。
そこに、レイアが現れた。それだけなら、おかえりなさい、帰ってきたんだ、そう迎え入れるだけの、ごく自然な流れしかなかったはずなのだけれど。
でも、知らなかった。レイアと、リースさんのやりとりを見てはじめて、不知火はふたりが顔見知りだと、ようやく知って理解をした。レイアの口から、直接、ふたりの関係性を告げられた。
そうして両者を見比べているうち、ゆきから連絡がきた。
響さんが、呼んでいる。『白夜』に来てほしいこと。それ以上はゆきにも、よくはわからないということ──。
だから三人、ここに来た。道すがら、レイアの事情を聞きながら。
まだ完全には、呑み込めてはいない。言葉だけは聞いて、ロジックの部分では理解はしたけれど。深い部分にはまだ染み込んでいないのがわかる。
そして不知火の中には、半信半疑な自分がいる。
そんな偶然って、あるのか。
これから先、光を喪う私がいて。その私が、ゆきと出会って。
ゆきの幼なじみだった、リースさんがいて。その妹さんは、同じように未来、光を喪う。
その両者を知る、レイアが、いる。
だとしたら神様というやつは随分狭く世間をつくり、人と人とをそこに配置したものだ──混乱をしながらも、不知火としてはそう思わずにはおれなかった。
釈然とせず、噛み砕ききれぬ感覚を抱いたまま、『白夜』へと不知火は足を踏み入れた。
「不知火さん。──レイアさん?」
その一行に、最初に気付いたのは、おじさんの隣に座っていた夕矢くんだった。
彼は顔を上げると、一瞬ほっとしたように、そして直後なんだか気まずそうに、その表情を変化させる。遅れ、おじさんが。そして振り返った、向かいのふたりの男性が、不知火たちに気付き目線を向ける。
「不知火くん」
白鷺さんは、明確に間の悪さを、その顔の表層に浮かべていた。一方で、残るふたりは両者とも、ぱっと明るく色を差した表情で、不知火たちを出迎えた。
「レイアくん。戻ったのか」
「ええ、まあ。リースのこともあったんでね。つい、今しがた。……そっちは、海外で会ったきりだな。黒沢サン、だったか」
ハルヒコの、カミさんの。仕事仲間だったな。レイアの発した言葉に、響さんは無言で頷く。
「えっと、ゆきに呼ばれて来たんですけど。響さん、話って?」
「ああ。不知火くん、実はね」
そうして大人同士が目線でやりとりするのを待って、不知火はその人に声を投げかける。いったい、何の用だろう。ゆきのこと? そして隣の人はいったい──?
「雪羽くんにじゃなく、きみに対して話があるんだ。僕ではなく、こちらの笠原さんから。けっして悪い話じゃない」
響さんに、そう言って紹介された笠原さんというその男性は、不知火に会釈をする。そして立ち上がると、胸ポケットから取り出した名刺を差し出して、不知火に握らせる。
笠原、竜。その名を不知火は読み取った。
「駒江、不知火さん。だね?」
「え。あ、はい」
キッチンから、ゆきや彩夜が身を乗り出してこちらを見つめていた。渡された名刺に目を落とすと、なにやら聞き覚えのあるレコード会社名と、ものものしい役職名とがそれを差し出してきた人物の名とともに、そこにはプリントされている。
レコード会社? 音楽、レーベル。なおのことそれは、ゆきに対して向けられるべきものであって、自分が受け取る理由がわからなかった。ゆきに対する許可を、自分に求めようというのだろうか? それならとうに受け容れているから、かまわないといえばかまわないのだけれど──いくら家族で、姉だからって。私だって、未成年なのに。ゆき自身がそれは、決めること。許可、不許可は白鷺のおじさんが選ぶことではないか。
椅子を鳴らして、夕矢くんが立ち上がる。彼は不知火を守ろうとするかのように傍に歩み寄って、笠原さんというその男性と、不知火との間に立つように、一歩前に身を滑り込ませる。
「きみと、彼のバンドの演奏。歌声、聴かせて、見させてもらいました」
「へっ?」
バンド? ──誰と、誰の、だって?
これまた、不知火には唐突で、すぐには認識を追いつかせ得ぬこと。歌声、って。まさか、あの文化祭のこと? たった一回、代役でそこに立った、アレのことなのか?
「オーディション、受けてみませんか。そしてその合否に関わらず、私のもとできちんとレッスン、してみませんか」
不知火を困惑の中に置いて、言葉は先に紡ぎ出される。矢継ぎ早に、投げかけられる。
それらが発せられた瞬間、白鷺のおじさんが不愉快そうに深く息を吐いて、目を伏せたのが視界の隅に見てとれた。
「──は?」
これは。誘われている、ということ、なのだろうか。
ゆきが、そうされたように……?
「あ、え。ちょっと、なにを言っているかわからないです」
この短時間に、いろいろなことが起こりすぎだ。
リースさんにすべてを告げて。そうしたら、リースさんが深刻に、困って、悩んでしまって。
レイアが、帰ってきた。レイアとリースさんは知り合いだった。
アメリカで、レイアの診ている患者さんが、リースさんの妹だった。
つまるところ、リースさんの妹も、不知火と同じ、先天的な、将来の不具合をその双眸に抱えている。
うん。──これだけだって、情報が多すぎる。それらについてだってまだ、きちんとふたりとは話せていない。ゆきにだって相談も、報告もできてはいないのに。
そのうえ、なんだって? オーディション? レッスン? なに?
言う相手、間違えてませんか。
音楽の道を進んできたのは。また、進むかもしれないのは、ゆきのほうですよ。
私はたった一回、歌っただけ。それもただの代役、助っ人で──だいたい、夕矢くんだって困惑しているじゃないか。
「これは、スカウトと思ってくれていいです」
「──は、ぁ……?」
流れていく状況に溺れながら、不知火は脳裏に巻き起こるそれら疑問の言葉の濁流にも呑み込まれていた。そのように肯定でも否定でもない、ただ返したというだけの曖昧にすぎる短い言葉を返すだけで、精一杯だった。
誘いの言葉を発した者と、それを連れてきた響さん。
そのふたりを除けばそこにいる他のすべての人間が、それぞれになにかしらのかたちで、不知火の前に提示されたこの状況を、呑み込めず、理解できず、あるいは承服できずにいた。
知恵熱さえ起こしてしまいそうなややこしい、自分の置かれた現状に、不知火はうっすらと自らの内側に頭痛を感じた。
「なにかの、……なにかの、間違いじゃないんですか」
それは、本心からの言葉だった。
私には、音楽的才能も、そのための修練の蓄積もありはしない。そのような素養を認識したことだって、これまでの人生には存在しなかった。
未来に、私が持っているのは閉じた道。
私が手にしているのはただ、そこに一緒に立ち向かってくれる、ゆきという妹、ただひとり。
私じゃあ、ない。
音楽に向かっていくべきなのは私でなく、ゆきのほうだ。
そんな、急に言われたって。
俄かに信じられる、わけがない。
「ありえないと、思います。私みたいな素人が。音楽というものをなにもやってこなかった人間が」
本音を、不知火は繰り返す。
神という存在の行った配材の不手際を、不知火はこの日二度目の感覚として再び、感じ取っていた。
意地悪で、滅茶苦茶で。
結論を求められたって、急すぎる。
状況のほうがおかしい。今このときを、間違いかなにかだと思う自分の感覚が正常なのだと、不知火は思わずにおれなかった。
こんなの。
ありえないことだ。
(つづく)




