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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
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第五十八話 未来へ、進んでいくために




 ピアノを前に、ヴァイオリンケースを開いている。

 ほかの誰のものでもない、自分自身の愛用の楽器を、雪羽はただじっと、見つめている。

 幼い頃より、それは手にしてきたもの。

 あるときを境に弾かなくなったもの。

 弾かなくなっても、ずっと一緒だったもの。

 そしてまた、手にした。穏やかに、ささやかに。これからもずっと一緒なのだろうと思っていたもの。

 それはある種、自身と姉との関係性にも重なるように思える。

 ずっと一緒だと、漠然と思っていた。その願いは今も変わらない。そうありたいと、思い続けている。

 

「──ねえ、どうしよっか」

 

 そんな、姉との時間をともに過ごしていくはずだった楽器を、手に取る。そしてそっと、語りかける。

 

「あたし、……もう一度、自分とお前を信じてみても、いいのかな」

 

 他の誰でもない、あたし自身が、生み出せる音を。

 お前から紡ぐことのできる、メロディを。

 姉さんの物真似や劣化コピーじゃない、あたし自身だけのものだって、信じてみても、いいのかな。

 

「姉さんとお姉ちゃんが信じてくれた、あたしを──あたしの、演奏を。あたしの、未来を」

 

 未来を閉ざすなと、姉は言ってくれた。

 世界が見えなくなっても、それでも姉は雪羽と歩き続けると。そこで終わりにはしないと、約束をしてくれた。

 

「できるのかな、あたしに」

 

 未来の可能性。それはいつだって不確かで、不透明で。

 実姉と、晴彦さんが幸せの絶頂の中で異なる可能性の彼方に去ってしまったように、どうなるかなんて誰にもわからない。

 だからそこに思いを馳せるのは、怖くもある。

 姉の信頼に、自分は応えられるだろうか?

 大切な、姉を。悲しませたりしない結果を手にすることが、できるだろうか?

 もし遠く離れて。

 姉と。もの言わぬひかりのふたりだけを遺して、なんてことが起こったら。逆にあたしひとりが遺されることになったら──……。

 そんな不安を抱くのは、やはり姉夫婦のことがあったから。そして肉親と呼べる者をすべて既に喪った己が身を、自覚するからなのだろう。

 それらすべてを振り切ってすぐに突き進めるほど、雪羽はまだ自分自身に対して全幅で信頼を寄せるなど、できようはずもない。

 なにより、どう言葉を尽くしたって。

 想いを通わせて、伝えあったって。

 そばに、いたい。誰より大切な、孤独を分け合った家族に対するその気持ちはどうしても否定しがたいものにほかならない。

 そんなにまだ、あたしは強くはなれない。雪羽はそう思うのだ。

 

「あたし、……どこまでやれるんだろう」

 

 その答えは、誰も知らない。誰の前にもまだ提示はされていない。

 だから雪羽は迷う。惑う。

 これからの自分が、選ぶべきこと。進む道を。

 姉のかけてくれた言葉のおかげで、道をひとつに凝り固まらせることをやめた彼女だからこそ、それはできる迷いだった。

 決めてしまうまで、それを振り払い解消する術はない。

 だから雪羽は手にした楽器を、構える。

 ピアノの前。譜面台に広げた楽譜へと視線を落としながら。

 迷いよ晴れよ、自身の心よ、道を見つけろ、自分自身の道を──そうやって様々な言葉と心とを発散するように、練習に打ち込むのだ。

 

                 *   *   *

     

 キス、していいですか。

 扉を開いたとき背中に受けた不意のその言葉が、更衣室へと続くシャワー室の、あたたかい空気を受けて、星架の耳を打つ。

 

「──え?」

 

 それは愛する少女からの、……星架の知るその女の子の性質からすればらしからぬ、歯の浮くといっていい類の言葉だった。

 不器用で、繊細で。そんな彼女が好きで──だからってらしくもないそんな言葉ひとつで星架が彼女を嫌いになるなど、ありもしないことなのだけれど。

 肩からかけたタオルを揺らし、室内への一歩を踏みとどまったまま、濡れたままの身体で星架は後輩へと振り返る。

 季節はもう秋。それなり以上に設備の整った私立校の水泳部だ、屋内の温水プールとはいえ、濡れたままではじきに身体も冷えて、寒くなる。

 入りなさい、と促すほうがほんとうなら、先に立つべきなのだろう。しかし星架は自分にとって特別なその少女の特別な言葉を受けて、次の彼女のひと言を待つ。

 窓の外には、春であれば開け放たれたそこからひらひらと花びらを舞い散らせ降り注がせる、桜の木が葉桜すら通り越して既に冬支度を終えた装いに、ふたりを見下ろしている。金網越し、敷地の外、というのも案外に遠いようでさほど離れていないものだ。こんなに近かったのだな、と折につけて思うこともある。

 ふたりの距離は物理的にも、心のつながりとしても、そんなものよりずっと遥かに近くて。

 けれど不知火は遠慮をして。次の言葉を紡ぐのに、幾ばくかの間を要する。

 

「その。──だから」

「どうしたの? 急に」

 

 らしくもない。言うと、不知火は仄かに頬を染めて、その頬を掻く。

 こちらが言うまでもなく、彼女にも自覚はあったらしい。星架同様に肩からかけた桜色の、彼女のタオルもまた揺れている。

 練習終わりで、濡れ鼠同士なのもお互い様。

 

「その、お守りがほしくって」

「お守り?」

 

 はて、いったいどういうことだろう。唐突にして、いかにも今の会話に噛み合わない単語を耳にして、星架は怪訝に眉を顰める。

 私のキスが……お守り?

 

「こうやってお願いするのも、わりと精一杯の勇気なんですけど。──勇気が必要なことが。やらなきゃならないことが、どうしてもあって」

 

 どうしても必要な、こと。

 そして、大切なこと。口ごもりながらも、それらについて不知火の口調がぶれることはなく。

 それだけで大方、星架には彼女のしようとしていること、そして星架にそうしてほしいと彼女が願う理由が、その類において察せられてしまう。

 だから、──自分でも悪い癖だとわかっていながら、つい不知火に意地悪をしてしまいたくなる。

 

「ふうん」

 

 だって、彼女の「悪い癖」もまたそうやって、あっさりと察せられてしまうくらいには既に星架にとって既知のことであるというのに。それを自覚なく、向けてくるんだもの。

 少しくらい、お仕置きは必要だ。……よね?

 

「私とのキスって、お守り程度の安さで安売りしてるものなんだ?」

 

 前髪から。その長い後ろ髪から、タオルでいくぶんを拭い搾り取ったとはいえまだ時折水滴を垂らしている恋人に歩み寄りながら、意地悪に笑みを向ける。

 背の高い彼女の、俯きがちだった顎を指先で、くい、と持ち上げて。上目遣いでまっすぐに目と目を合わせる。

 

「ショックだなー、私。不知火にそんな風に思われてたなんて」

「いや、そんな。私はべつに、そういうつもりで言ったわけじゃ」

 

 ただ、不安で。だから拠り所が、ほしくて。

 自分自身のしようとしてることに。これからの、ことに。

 

「うん、知ってる」

 

 わかってる。わかってるよ。

 不知火にとって大事なことが待っているから、だからこそ寄る辺が欲しかったってこと。

 大切だと想う相手に支えてほしいって、思った。その対象だと自分は己惚れていいのだと、星架自身、自覚はしているつもりだ。

 

「でも、あげない」

「え」

 

 理由は簡単。ふたつ。

 

「あなたがしようとしているのって、雪羽ちゃんとのことでしょ。あの子に、関わることなんでしょ」

 

 不知火がそれほどに気を揉んで、なにか支えが欲しいと思うことなんてほかに考えられない。彼女のかけがえのない妹以外が、現状においてその理由になることなど、あり得ない。

 彼女を愛し、愛されているという自覚の身としては、そんな彼女の妹に一歩先を行かれたような気がする──恋人として悔しい、その嫉妬の感情が、ひとつ。

 

「さっきも言ったでしょ、私のキスはそんなに安くないの。お守りなんかじゃ、してあげない」

 

 もうひとつは、……そう、

 

「だから、頑張って。やり遂げたら、私のところにきなさい」

「え?」

 

 もうひとつは、激励だ。

 

「お守りじゃなくって。ご褒美ってことだったら、いくらでもあげる。してあげるよ、不知火」

 

 彼女の胸元に顔を埋めるようにしながら、競泳水着の、濡れた身体のまま不知火を抱く。ぎこちなく彼女は抱き返してくれて、抱き合うかたちになる。

 

「雪羽ちゃんのために、お姉ちゃんとしてしっかりやれたんだねって、褒めてあげる。いっぱいいっぱい、こうして抱きしめて。したいこと、してあげるから」

「星架、さん」

 

 外気の低温に冷やされて、濡れたままの肌はどんどん熱を奪われ、冷たくなっていくはずなのに。触れ合った不知火の身体はとくん、とくんと脈を打つのが聴こえて、そして内側の内側から、あたたかかった。

 

「今は背中だけ、押してあげる。私のぬくもりだけ、あなたに貸してあげるから」

 

 だから、がんばりなさい。

 言葉のあと、不知火の両腕は一層強く星架を包んで、その感触を確かめているようであった。

 自身の内の火を絶やさぬよう。

 己が背中を押したそのぬくもりを実像として、その両腕の中から忘れてしまうまいとするように。

 そうやって、星架は不知火の、「後押しをした」。

 不知火も、それを「受け取った」。

 

                 *   *   *

     

 黒崎 響は、その日一本の電話を受け取った。

 国内における、彼の拠点となっている、日本支社のオフィスビル。その一角のデスクにて。

 海外を本来の活動の中心としているとて、帰国している間、ゆとりがあるかといえばそんなはずもない。

 デスクの上には書類が山積み。

 一本の電話を取ったといっても、既にもうこの日だけで十本以上、各所と電話なり、ネットなりでやりとりをしてきたそのあとのことである。

 

「──はい。……ああ、先輩? どうしたんです。お久しぶりです」

 

 その電話の主は、音楽という業界を生業とすることを響が選んで、以来の長きにわたって世話になり、その手を離れ海外を飛び回るようになった、そんな先達であり恩人だった。

 こちらがクラシック音楽を専門とするならば、あちらは所謂、邦楽。ロック・バンドの音楽を専門分野とする、人材発掘のエキスパートだった。

 人事・人脈に強いその人にいったい何度、いくつの企画や行動において助けられたか、数えきれない。

 

「──はい。え? はい、こうしてたしかに、日本にはいますが。ええ、そうです。おっしゃるとおりの場所です」

 

 とはいっても、直接にこうして、リアルタイムでの電話でのやりとりなんて年に数度、あるかないかになっていた。専門とする畑が分かれてしまったのだからそれはやむを得ない。それぞれの分野でふたり、あくせくと働いていた、その中で時折交錯することがあった、その程度の間柄である。

 だからはじめ、響はかかってきた電話の意図が掴めなかった。

 担当の中で最も大きな存在だった小雨を喪い、その海外での事後処理もこと細かにすべて完遂して帰国をして。だからといって一杯いこう、なんて無駄な憩いの時間を持ちかけるような人ではない。

 あるいは、計画がぽっかり宙に浮いて手が空いているのならばこちらを手伝ってくれと、そういう誘いの電話なのかもしれない──そんなにあちらの部署も人材不足とも思えないが。

 暇をしていると思われているのなら心外だ。なにしろ小雨のぶんの穴埋めをするために、今まで以上に動き回らなければならない。リースのことや、雪羽のこともある。それほど、この小さな街においてさえ雨宮 小雨という大きすぎる若き才能の喪失は、響がこれまで飛び回ってきた世界じゅう以上に、局地的に多大に問題を遺しているのだから。

 自分が処理すべきこと。対応し切り替えること。そして面倒を見てやるべき子どもたちのこと。ありすぎるほどに、ある。

 

「はい、……ええ、そこならよく知っていますよ。──はい?」

 

 疲れても、いた。寝不足でもあった。しかし次に聴こえてきた言葉をまるきり予測できなかったのは、それだけが理由ではないだろう。

 

「協力……ですか?」

 

 なにしろその電話口から紡がれた単語は。そして人物の名は、いずれも知ってはいても、響の中において音楽という範疇の中にいずれも組み込まれていないものであったのだから。

 音楽に向かい彼が誘おうとしている少女の、帰るべき場所。それ以上でも、それ以外でもそれはなかった。

 

「かまいませんが。いや、しかし。それは……若すぎやしないでしょうか」

 

                 *   *   *

     

「あっ」

 

 マナーモードに設定した携帯電話は、図書館の広い、茶色のテーブルの上でちかちかと、右上のランプだけを点滅させて、メッセージの受信を伝えている。

 

「彩夜ちゃん?」

 

 それを持ち上げて、画面を呼び出した友を、詩亜と歌奈は見遣る。

 三人一緒に、宿題を片付けていた。それと期末試験に向けての、お勉強。

 その中でのなにげない一瞬に、彩夜は携帯を手にしたまま、その液晶をじっと、食い入るように見つめている。

 

「どしたん、彩夜」

「──あ、はいっ」

 

 きょとんと、姉妹はふたり顔を見合わせて、彩夜の奇妙な反応に首を傾げる。

 いったい彼女はなにを見たというのだろう?

 しかし詩亜たちが悩むほどには、彼女のリアクションは深刻なものではなく。むしろそこには宿題に対し真剣な面持ちだったそれから変化をした、どこか昂奮しているような、そんな熱の色が差している。

 

「あの、……通過した、って」

「通過?」

 

 どこを。

 なにを?

 

「この間、書いて送った、新人賞の小説。ひとまず、第一次審査を通過して、次の第二次審査にも通ったって」

 

 そう、だから──彼女の表情は柔らかく華やいでいる。

 物静かな彼女の性質を僅かに超えて、その喜びを漏れ滲ませているのだ。

 

「……おおー。そっか」

 

 それは、喜ばしいことだ。再び姉妹は顔を見合わせ、友の進歩を祝福する。

 図書館という場所柄、ささやかに、密やかに。

 まだ、最初の審査を通過しただけですけど、なんて謙遜する彼女に、おめでとうを言う。

 彩夜もまた、進んでいる。

 進んで、いく。

 誰しもが、そうであるように。

 彼女の友人たちや、彼女の家族がそうであるように──……。

 

                 *   *   *

     

 深く深く息を吸って、長く吐き出す。

 思い起こすかつてのシーンが、けっして自分に対して好意的なものではなかったと明瞭に覚えているから、そうやって心を落ち着けるのは、不知火にとって大切なことだった。

 人を、待っている。

 ゆきを通じて呼び出してもらった、その人物を。

 緊張と、不安と。そしてそれらに対し自分を貫き通せるだろうかという恐れの不定形の塊を胸の内に抱えて、不知火は何度も自分を鎮めるための呼吸を繰り返す。

 大丈夫。

 きっと、やれる。大丈夫だ。

 

「……やあ。ごめん、呼び出してしまって。来てくれて、よかった」

 

 ありがとう。きてくれて、嬉しいです。

 紡ぐ声が、吐き出す言葉が堅苦しいのが自分でもわかる。緊張をしているのだ、その自覚がある。

 

「──どうして、あなたが?」

 

 こちらの求めに応じて、こうしてやってきてくれた銀髪の少女は眉根を寄せて、戸惑いを隠さなかった。

 リースリア──さん。ゆきの旧知であるその少女が、ベンチに腰を下ろして待っていた不知火を、すぐそこで見下ろしていた。

 呼び出した不知火に、戸惑っていた。

 手厳しかった彼女に対し不知火は、自身にできる精一杯において真摯に、そして心からの言葉を向けようと努めた。

 妹を連れていかれようとしている者。

 その行為を為そうとしている者。

 立場で言えばその対話は、それら両極に位置する者同士によるものには、違いなかったのだから。

 

 

          (つづく)


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