第五十七話 私たちが、「同じ」であること 後編
第五十七話 私たちが、「同じ」であること 後編
なにも、さ。えらそうなことを言うつもりはないんだ。
うちの姉妹だって、事情は一般的な家族に比べたらだいぶん特殊だけど、アタシも、ねーさんも。本人たちはいたってごくごく普通の人間だし。
両親がどっちもいなかったり。
ふたり、一緒に暮らすようになったのが最近だとか、そういう共通点があるにせよ、うちはうち、あんたたちはあんたたち。安直に比べられるものじゃないってことも、わかってるつもり。
なにより、アタシとねーさんは血のつながった実の姉妹だけど、あんたたちはその点、──今のあんたたちはどこに出したって恥ずかしくないくらいに立派に姉妹やってるよ。──血のつながりそのものは、ないんだから。そういう違いだって、ある。
「ただ、話しておいてもいいのかな、って思ったんだよね」
あんたと雪羽が、互いのことで悩んで、苦しんでるなら。
うちの家庭の事情。
アタシとねーさんの見ているもの。
その、それぞれの方向のこと。
「ねーさんの親友のあんたなら、知ってるでしょ。ねーさんの夢。遠くない将来、大人になったときにやりたいこと」
コンコースを、どこかへと向かいながら歌奈は訥々と語りゆく。
そうして向けられた問いに、──回答を急かすでもないその雰囲気の中、おずおずと不知火は、自身の知るところを口にする。
「──自衛官。だった、よね」
軍人さん、と言った詩亜の言い回しを、憶えている。
今は亡い、詩亜と歌奈の姉妹の、父であった人。ものごころつく前の他界で、その触れ合いの記憶すらない──そんな人物を詩亜は慕い、同じ道を目指しているという。
その夢を聞かされたとき、不知火は、なんとも詩亜らしい、と思うとともに、あまり彼女の人となりに似つかわしくない将来設計だ、という相反する感覚の双方を抱いたものだ。
きちんとしていて、なにごとも丁寧に接し片付けていく彼女の資質は、そういった公務員的な職業に確かに向いているのだと思う。
一方で、軍隊。身体を使い、感覚的には体育会系的な部分も要求されるであろうそこに対し、詩亜はけっして運動能力も、身体能力も恵まれた人物ではない。小柄で、温和で。それらの雰囲気にはおおよそ、合致しないもののように感じられる。
そういうちぐはぐさを、不知火は彼女の語った夢に感じ取ったのである。
歌奈の、無言の頷きに対してそのように、不知火は自身の記憶を呼び起こしていく──。
「アタシはね。正直、ねーさんほどにとーさんを慕ってはいない。むしろ、……よくわかんない人だなって、思ってる」
「え」
詩亜からは時折、話の中にその亡き父のことを聞くことがあった。
こういうことがあったそうです、とか。
こんな人だったと聞いています、とか。
当の詩亜自身、碌に接したことのない相手なのだから当然だけれど、誰かからのまた聞きというかたちの枕を添えて、彼女は父のことを不知火に、こそばゆげに伝えることが多かった。
しかしその実の妹である歌奈が今向けている、不知火への声のトーンはそれとは随分に異なっている。
「その肩書は、アタシだって知ってるよ。この歳にもなれば、すっごく大事な仕事だってこともわかる」
かーさんが、死んで。
アタシやねーさんを引き取ったおじさんたち、じいちゃんたち。皆が、それより先に旅立ったとーさんをけっして悪く言わない。それってとーさんがそれなり以上に人格者だったんだなってこともわかる。
「それでも。──そう、それでもね、折につけて、思うんだ」
ひとりで先に逝っちゃ、ダメだよねって。
かーさんを愛していたんだから。かーさんともっと、一緒にいなきゃ。場所は一緒でなくても、同じ時間を同じ地面の上で過ごさなきゃ、ってさ。
娘のアタシたちを遺していっちゃ、ダメでしょ、って。
こういうとき。こんなとき。どちらかが生きていたら──ってシーンが、いくつも幼い頃、あった。
仕事じゃなくって、家族と一緒に終わってほしかったな、って思うことは少なからず、あったんだ。
だからねーさんほど、とーさんを尊敬はできない。
とーさんには予測できた範疇ではない、遺された側の勝手な感傷だけれど。そういう気持ちを持っている。
「歌奈……」
「ねーさんに厄介な夢、遺してってくれちゃってまあ、って感じ。不知火は、自分の親に対して似たようなこと思ったこと、ない?」
歌奈は問いをまた、投げかける。
考える不知火は、自分はかつてどうだったろうかと、思い起こす。
「──まったく思わなかったってことは、なかったと思う」
ただ自分の場合は、目の前が目まぐるしくって。父も多少は、……歌奈たちの父よりは長く生きていたわけで。
そこから先は、実の兄が父親代わりであってくれた。
兄の目指した道は、不知火のためでもあり、また父と同じ道でもあった。
だがその兄も──……、
「今は、たまに。兄さんに、『ふたりきりで旅立っちゃって、ずるいなぁ』くらいには思うことはある、かな」
こっちの世界に生きてるのは、うちの家族で私だけかよ、みたいな。
向こうで、みんな仲良く、よろしくやってるのはちょっと、ずるい。
「──ね。いくらラブラブだからって、遺された側を差し置いて、ずるいよね」
歌奈は苦笑する。不知火も、同じ表情で笑い返す。
「だから、さ。どっちも正しいんだよ」
「え?」
「アタシとねーさんだって、どちらにとっても大切な相手について、考えることも、思うこともこんなにも違う」
既に亡い人たちにさえ、こんなにも考えて、想うことができる。
「だから。生きてる相手なら。この世で一番大事な相手なら、想って、考えて。悩んで、猶更だよ」
いろんな、──ほんとうにいろんな感情が交差して、当然なんだ。
「だからさ、こうしたい、こうしてほしいって、雪羽にきちんと言いなよ。だって雪羽は生きてる。今、この世界にいるんだから」
行ってきなよ、でもいい。
行かないで、でもいいと思う。わがままはお互い様にやりあってこその、姉と妹だから。
同じ世界にいて。
同じものも、違うものも見ている。
同じ気持ちも、違う気持ちも持ってる、それが姉妹でしょ?
「去ってしまった人のことは、いつでも想える。でも生きてる同士で想いあえるのは、どっちもが生きてる間だけなんだからさ。言って、相手からはっきりとした言葉や考えが返ってくるのは、今だけ」
「生きてる──間?」
語りながら、歩いていた。その目指していた場所に、たどり着いていた。
歌奈が不意にその足を止めたことで、不知火もそれを知った。
訪れたその場所は、そこになにかがあるわけでもなく。少なくとも、不知火にはそう見える、場所。
「言ったでしょ、ここにはなんにもないって」
あるのは、アタシやねーさんの地元。おんなじ、いや別の野球場。
「自然と、一方通行な想いっていうのは抱くものだから。とくに、喪われた人に対するものは」
なんだかんだ言いながら、アタシがとーさんの好きだった場所、気にするみたいにさ。
懐かしむ瞳をそこに向ける歌奈と、その一歩後ろに立つ不知火はなんでもない、なんの変哲もない、観客席スタンドへと続くとあるゲートの前にいた。
「アタシや、ねーさんの知る場所にある「ここ」は、とーさんや、かーさんや。小雨さんたちみたいに、「過ぎ去ってしまった人」を想うためにある、そんな拠り所なんだ」
十五番。ゲートの数字は、そう記されていた。
「うちのとーさんが、一番好きだった、っていう選手の名残り。そういう場所が、そこにはあるんだよ」
* * *
ある、ひとりの野球選手がいた。
その人は、投手をやっていて。それまで弱小であったチームの、はじめての優勝の立役者のひとりだった。
「とーさんは、その人が一番、選手として好きだったんだって。郷里愛の強いとーさんだったらしいから、地元のチームも大好きで、大ファンで。そういう理由もあるんだろうけど」
果たしてそれは、話にとってどういう類の枕詞なのだろうか。最初のひと言だけを聴いた相手はきっと、困惑をするかもしれない。歌奈はそんな、言葉の切り出し方をはじめに置いて、声を発する。
目の前のそこには、繰り返しなにもない。だがきっと今、歌奈の眼にはその光景が映っているのだろう。
野球場。地域は違えど、構造的に近しくなるそれ同士が、類似し重なって。十五というその数字が、野球場という場所が、彼女の中にある記憶を連想させる。
「チームがはじめて、優勝をして。その人は翌年、亡くなったんだって」
「えっ」
野球選手──肉体的にはこのうえなく頑丈で、恵まれているはず、なのに?
「それって、事故? 病気、とか?」
「──病気。現役のまま、永遠に現役の野球選手になったんだって、とーさんはよく、かーさんたちに言ってたんだって」
たくさんの人が悼んで、たくさんの人が愛した選手だった。──その流れに、悲劇性もあった。皆が、忘れずにいたい、また会いたいと思った。
だからその背番号にちなんで、その番号の入場ゲートにその選手の名前が冠されるようになった。
かーさんや、おじいちゃんたち。あるいは、おじさんたちと一緒に野球を見に行くたびに、座席の場所が遠くったって、とーさんはそこに足を運んでたんだって。
「アタシも、スポーツは、野球を観るのは好きだったから。球場に行くとなんとなく、とーさんの見てたそこに、足が向くようになってた」
その場所は、歌奈の父が死者を想い。
歌奈がまた、死した父を想う場所となっていた──……。
「そこには、とーさんが一緒に行ってくれている。そんな気が、してたんだよね。複雑な気持ちの相手なのにね。やっぱり大切だから、そう思う。思っちゃう」
「死んだ人と……一緒にいられる、場所?」
「生きていた頃のとーさんもきっと、そこに行けば、過ぎ去った人に触れられる。その人を世界から風化させずに、留めておける。そう思って、訪れ続けてたんじゃないかな」
一方は純粋なファン心理で、一方は娘として、父のよく訪れていた場所を踏む感覚。それはまったく同じものとはけっして呼べないけど。
死者を想う、という点では共通している。
そこに、想う相手と繋がれる場所がある。だから、行く。それは同じだ。
「だからさ、不知火も。雪羽も。いなくなった人を思い起こせる場所は絶対に、あるでしょ? そこにいけば、絶対に会えるって、場所」
ある。
──あるとも。
ゆきにとっては『白夜』だってそうだろうし、小雨さんの墓前もそう。そもそも、私たちの家だってそうだ。
きっとあの家を、小雨さんは、兄は見守り続けてくれている。私たちが、ひかりとともに暮らしている様を。そう思って、不知火は我が家での日々を送っている。
「そう。もういない人たちにはそれでも、そこに行けばなにも言わなくたって伝わる。繋がれる。だからいいんだ」
「……うん」
「でも、不知火も、雪羽も生きてる。どこにだって行けるし、なんだってできる。相手がどこに行くか、なにをするかと関係なく。だからこそ、伝えなくちゃ」
相手に気を遣うばかりじゃなくってさ。
繰り返しになるけど、伝えてあげて。
「相手にこうしてほしい、自分はどうしたい。──自衛官を目指すって決めたとき、ねーさんはアタシに、そうやって伝えてくれたよ」
詩亜にできたこと。
不知火にだって、できないわけがない。
「ねーさんはアタシの大事な「お姉ちゃん」で。不知火は雪羽の、一緒に生きる「お姉ちゃん」でしょ?」
片目を閉じて告げる歌奈。
彼女と、目の前の場所とを見比べて、やがて不知火は頷く。
不知火にもまた、歌奈が幾度となく繰り返してきた光景が、想像できたような気がした。
幼い頃の歌奈。
その傍らには、きっと同じくらいの背丈の、幼い詩亜が並んでいて。
そんな娘たちの肩を抱くように、両親の幻影がある。
母はきっと、家族の情景そのものに満足したように、穏やかに微笑んで、頬に手を当てていて。
そして父親である、若き頃のままの青年は──その幻は、熱を帯びた口調と仕草とで、娘たちに、娘たちの訪れた、自身が娘たちを連れてきたその場所のことを身振り手振りとともに説明しているのだ。
それは生きる者たちが折につけ、帰ってくるための光景。亡き者たちと時間を共有するためにそうすべき、イメージ。
歌奈たちが年齢を重ね、それぞれに大人へ近づいていき。それでも、変わらぬ両親の幻影とともに紡いでいくべき、数えきれぬ更新を重ねるべき絶えることのない同じ構図だ。
「──うん」
そうだ。
ゆきにも、伝えなきゃ。
このことを、教えてあげなくちゃ。
私たちは、前に進む。時を、刻んでいく。
だったら、どんな選択肢を選んだって、「帰ってくる」光景はきっとある。
どっちつかずの、私の気持ちじゃない。
私は、少なくともその場所から踏み出さぬままにいるゆきでは、終わってほしくはない。
どんな未来を選ぶにせよ。彼女がどう決めるにせよ。
はじめから踏み出さないことしか考えない、それに甘える自分であってはいけない。私も、ゆきも。
私はゆきをその場所に繋ぐ鎖となるのではなく、その場所に彼女を迎え入れる、抱擁の両腕となりたい──……。
* * *
「ゆき」
ひかりを揺らして、あやしてやりながら。ずっと考えていた。
ちょっと、ひかりが退屈そうだから。散歩してくる。お姉ちゃんたちが戻ってきたら、そう伝えておいて。そう言って、席を離れた。
だから姉とふたりきりで、──否、ひかりと三人きりで、こうして顔を合わせることになるなんて、心の準備がまるきりできていなかった。
同じ、と。詩亜から言われた相手。
あの夏、「離れていく」ことを望んで。それに雪羽自身がいやだと告げた、姉。
「お姉ちゃん」
買い物に出たはずなのに、その手には愛用のスマートフォン、ひとつきり。手ぶらで彼女は、なぜだか息を切らせて目の前にいた。
走ってきたのか。探したのか。どうせ待っていれば、もとの席にそのうち戻ってくるというのに。
あたしなんかのことでずっと悩んで。
決まっている答えに、振り回されて。
おまけにこんなにも、息を切らせて──悪い、姉不孝な妹だと、ただ素朴に雪羽は自分を、思った。
そんな彼女に、どう言葉を切り出すか一瞬、雪羽は判断がつかなかった。
気軽に、彼女の気を和らげるように声を投げるべきか。
深刻なままに、この行楽の空気にそぐわない、けれど彼女の気持ちのままに振る舞えるようにすべきか。
「お姉ちゃん。えっと、……探した?」
「……うん。広いとはいえ、ぐるっと一周すればそのうち見つかるとは思ったけど。でも、この人ごみだから」
パンプスの、走りにくかったろう両脚で、駆けまわりながら。
「けっこう手間取っちゃった──こうして人ごみでゆきを探すのは、二回目だね」
「え?」
「出会ったばかりの頃。ただ境遇だけで同じだと、おぼろげにしか互いを理解できてなかった、あの頃。──雨の日。見失って、ゆきを探した」
あの、ショッピングモールでの日。
受け止めきれなかったものに耐えかねて走り去った雪羽を、彼女は探して。走り回って。そして、見つけてくれた。
ずっと、ずっと一緒にいてくれた。
「夏の日。凝り固まった私を、ゆきは解きほぐしてくれた。精一杯の言葉で、その涙で」
島でのこと。ずっと一緒にいたいと、伝えたこと。
「私たちは、生きている。同じに生きているんだ。この同じ、地球上で。一方的に会いに来て、旧交を温める、今は亡い人たちとは違う」
いつ、どこにいたって、同じ時間を私たちは生きているんだから。
「島でゆきが、私に向き合ってくれたみたいに。私もゆきに、向き合いたい」
ただ漫然と、ゆきが望むことを受け容れるだけじゃなく。
姉として。こう思い、こうしたらいいんじゃないかと告げたい。
呼吸を次第に落ち着かせた姉は、一歩、一歩と歩み近づいてくる。
「私はもう、目の見えなくなる日を終わりだなんて思わない。だってそこに、私はまだいるんだから。ゆきと同じ時間を過ごせるんだから」
だから。──だから、ゆきも。
「ゆきも、今あるものだけで行き先を、決めてしまわないで。音楽家にならないこと。私のそばにいたいって、思ってくれること。それらが選択肢のひとつにあっていい。あっていいんだ」
でも、それを絶対の無二には、しないでほしい。
不知火は、雪羽の肩を抱く。まっすぐに彼女はこちらを、見つめている。
姉として。自身決めたつもりでいた雪羽の心を、全否定などけっしてせずに。
「可能性が提示されたのなら、また選んでほしいんだ。ゆきには全力で、ゆきの望んだ道を走り続けてほしい。その先にあるものがやっぱり私やひかりで。たくさんの人たちに教えることだというなら私はそれを、全力で受け容れる。応援する」
「お姉ちゃん……?」
「大好きなゆきと。大好きな、ゆきのヴァイオリンだから。ゴールをまだひとつに、決めてほしくないんだ」
ゆきが私に、望んでくれたように。
同じように、私もゆきに、望むよ。
「私を理由に、自分の道を閉ざさないで。どの道を行っても。なにを選んでも。私はいつだってきっと、ゆきと一緒にいるから」
私がゆきの、忘れない場所でいるから。姉は、言って。
行きかう人たちの中、そこにふたりだけがひかりを抱いているように。
雪羽とひかりとを、抱き寄せた。
ぎゅっと、してくれた。
──歓声。コンコースのむこうの、客席から。きっと誰か、地元チームの選手が活躍をした。
(つづく)
今回のエピソードに登場する場所には、明確に現実のモチーフがあります。
野球ファンの方には一目瞭然でしょうが、今でも作者が、その球場を訪れるたびに足を運ぶ場所でもあります。




