第五十六話 私たちが、「同じ」であること 前編
第五十六話 私たちが、「同じ」であること 前編
季節はもう、秋だというのに。
外気を染めていた残暑も薄れ、過ごしやすい冷涼な空気を風に感じる、そんな時期だというのに。
──その場所は、熱気に満ちている。
「……すごい、な」
人々の喧騒。
湧き上がる、歓声。
白球を打ち返す、バットの快音。
溶け込めていないのが自分ひとりしかいないように、不知火の感覚には思えるほど──スタンドは、熱狂の渦に包まれている。
そう。ここは野球場。
不知火たちの住む街から、「あの」劇場とは逆方向にふた駅ほど。その市内にある、とあるプロ野球チームの本拠地である、ドーム球場だった。
「ねー、すごいでしょ。盛り上がるでしょ」
要するに。この休日、不知火は、野球の試合を観戦しに来ている。
妹の、雪羽に連れられて。
彩夜や、歌奈。詩亜たちに誘われて。はじめて、職業野球というものを目の当たりに、スタンドから見下ろしている。
誘われた際、あまり乗り気であったわけではない。どちらかといえば精神的にはその活力の点で低空飛行という気分が続いていたし、響さんから言われたことを反芻し、頭の中でぐるぐると考え続けてもいた。
自分が、幸せになること。
けれど自分には、世界の光景を喪う、その喪失がやってくること。
妹になにをしてやれるか。やっぱりそのことは今このとき、自分にとって大切な要素であるということ。
口数は、少なくなっていたと思う。
そんな不知火を──半ば強引に、雪羽とともに、友人たちは今日この日の野球場に連れ出したのである。
「しーちゃんは、スポーツとか見ないんですか?」
「んー、と。まあテレビでやっていれば水泳の世界大会とかくらいは。もちろん有名選手のフォームとか、どうやってるのかなって研究本位で、写真で見たりもするけど」
運動神経は自信があるほうだから。スポーツは観るよりやるほうが好き。
バスケも、サッカーも。ドッジボールも、テニスも。とくに苦手意識もなくこなせる不知火である。
競技の参加者というかたちならばともかく、ただ純粋な観客として、興行に敢えて足を運ぶということも殆どなかった。
これといってスポーツ観戦にさほど興味を向けずにこれまでやってきた人生の、不知火だった。
テレビ観戦も、なんとなくの流し見以上のかたちですることは殆どない。
「ゆきがよく、家で野球中継見てるのは知ってたけど」
その点、雪羽と不知火とで対照的な要素であった。
贔屓の、地元のチームの試合を、居間でテレビに流しながら夕飯の支度をしている雪羽を何度も不知火は見ていたし、もしそれが敗戦をした日には、夜のスポーツニュースを見ずにとっとと部屋に引っ込んでしまう妹も、彼女は知っていた。
逆に、劇的な勝利を──サヨナラ、だっけ。野球のルール、ぶっちゃけると不知火はよく知らない。体育の授業でときどきプレーする、ソフトボールをそつなくこなせる程度の知識しかない──収めた日には、湯上りから就寝まで、雪羽は機嫌がよかった。
とても、わかりやすい妹の趣味嗜好だった。
そして目下のところ、今日はその贔屓がここまでリードする、優勢な試合展開である。
ひかりを抱いて、一緒に握ったミニサイズのメガホンを振る妹はにこにこと、実に上機嫌だった。
「でも、詩亜たちも好きだったんだ、野球?」
彩夜も、さすがは地元民というべきか、楽しげに選手たちのプレーに声援を送っている。それはわかる。だが意外だったのは、目の前のチーム、どちらとも縁もゆかりもないはずの、詩亜と歌奈の姉妹もまたこの状況を満喫している様である。
「そりゃあねー。うちらは地元が地元、九州だし。……っていうか不知火、あんただって中学まで長崎でしょ」
「いや……うちは離島だったから。それに中学からは寮生活で、試合中継見るなんてこともなかったしなぁ」
この間、島へと戻ったときはテレビのチャンネル、多少増えてはいたけれど。幼い頃はほんとうに、野球中継の有無どころか、ひとつ、ふたつくらいしかテレビの電波が入るチャンネルはなかった。
必然、野球の映像なんて、中継番組なんて。そうそうお目にかからなかった。
「とくに、おじさんたちが福岡でしたから。野球の人気、高いですから」
ああ、なるほど、と思う。
たしかにあるね、球団。
「そんなわけである種、あっちでは誰でもそこそこわかるわけよ、野球。もちろん例外はあるだろうけどさ」
「──まあ、その例外のひとりっていう自覚はあるよ」
不意に、周囲の観客たちが、……そして雪羽がひと際大きな歓声をあげた。
バットが、ボールを思いきり振り抜く打撃音。
鋭く、けれど美しく弧を描いたボールが、守備に就いた選手たちの頭上を越えて、舞い上がる。
深緑のフェンスに直接当たったその軌道は、大きく跳ねて。鮮やかな色に染まった人工芝のグラウンドを転々と、転がっていく。
「あ──……?」
そのまま、長くボールはそこに置き去りにされるかと思われた。少なくとも不知火の目には、そんなどうしようもない遠い距離に見えた。
だが、そう思ったまさにそのときには既に、グラウンドを駆けた守備側の選手の指先は、転がりゆくボールに届いていて。
バットによって描かれたボールの軌道と遜色なく見える、鋭いスローイングが、今度は逆回しに、選手の肩それだけを動力としてボールを運ぶ。
途中、バウンドなんてしない。
不知火はただその綺麗な動作に、ボールの軌跡に魅入られる。その選手のポジションが、センターフィルダーと呼ばれる外野の守備位置だということすら、その呼称さえわかっていない。
ボールを打ったバッターは、三つめの塁を目指しひた走っていた。その速度だってけっして遅かったわけじゃない。
だけれど迅速なボールの確保は、ボールを放った守備の選手のプレーは。あっという間に、投げられたそれを走る打者の先を行かせて。
次の瞬間には、ボールはバッターを追い抜いていった。
三つめの塁、三塁に待ち構える、そのポジションの選手が構えたグローブの中に寸分違わず、吸い込まれていた。
バッターは三塁にたどり着けず。
ボールを収めたグローブでぽんと胸元を叩かれて、審判がアウトを宣告する。
「すごい……な」
それらは、勝ち得た側も、好機を折られた側も。いずれもが流れるような美しい動作によって一連の繋がりを構成した動きだった。その、競り合いだった。
なんとなく、スポーツニュースをぼうっと流し見るくらいにしか認識をしてこなかったスポーツだけれど。こんなにも陸の上で、人というのは自然に、滑らかに動けるものなのか。──自身、水中にてよどみなく、流れるような動作を身上として行う競技の競技者であるがゆえ、率直に、素朴に、不知火はたった今眼下のグラウンドにおいて繰り広げられた光景に、感動を覚えた。
「すごいっしょ? 陸上のスポーツもなかなか」
隣で歌奈が、ウインクとともに言った言葉に、ただ不知火は頷く以上の反応を返せない。
これが、プロの動作。
なにかしらにおいて、そういう立場にある者というのは、見る側を得てして感動させるものなのだと、思えた。
──プロ。
プロ、か。
私には、そういった存在になり得る可能性を秘めた、大切な人がいる。
その可能性を、私は──私を原因として彼女の未来から閉ざして、いいものだろうか?
不知火は、目の前の光景にそのような連想を果たす。……果たしてしまう心境が、不知火の内側に揺蕩っていたからである。
「ったく」
その、冴えぬ表情に、感情が映し出されていたのだろう。
盛り上がる一同の中で、会話を交わしていた歌奈だけが、察したように深く息を吐いた。
しょうがないな。
そう言って、次には彼女は、不知火の手を取って、座席のベンチから立ち上がっていた。
* * *
こんな偶然って、あるかよ。
日本から届いた、たった一本の電話が、レイアに再びあの島国へと戻ることを決意させた。
それはあるべきでなかった、すれ違いの報せ。
気付くべきだった、しかし気付きようのなかった符合。それを伝える、遥かな距離を隔てた通話だった。
「あいつらは、「同じ」なのに──ワタシたち周りの大人が、あいつらを子ども同士、子どもとして繋がり合わせてやれなかったばっかりに……!」
だからレイアは、急ぐ。
自身が今いるこの病院を、その医療の現場を離れても問題の起こり得ない状況を、短期間であったとしてもそれを構築すべく。
パソコンのキーボードを叩き、猛然と資料を組み上げていく。
出来事の、すべてを聴いた。
絡み合った事情を、すべて把握した。
晴彦の忘れ形見の妹であるあいつを、傷つけてしまった。
護ってやるつもりでいて、遠く離れ自分はなにもできていなかった。
雪羽とふたり、自らの不在に際し、ひかりを引き受けてくれた彼女たちのことが疎かになっていた──……。
「すまないな、リース」
自身の参加する医療チームの、主たる患者の姉である少女にひとり、レイアは詫びる。
きみが妹の傍を離れている間、ずっとこちらにいて、些細なことでも逐一を、ワタシの知り得る範囲で伝えていってやろうと思っていたけれど。
それも一旦、他の医師たちに委ね、舞い戻らざるを得ない。
きみがいる、ワタシもよく知る街へと。
不知火と、ユッキーのいるその場所へ。
きみがきみであるからこそ、それは起きてしまった出来事だから。
少女たちとすれ違うべき存在では、きみはないのだから。
だってきみたちは、同じ。……そう、同じ目線を持ちえることのできる、貴重なふたつの姉妹同士なのだ。
きみの音楽。ユッキーの音楽。
それぞれの、姉妹のこと。
* * *
「ちょっと、歌奈。まだ買うの?」
誘われた、買い出しだった。
ドーム球場の、グラウンドと観客席とをぐるりと囲み続く、一周のコンコース内。果たして既に何軒、そこにほぼ規則的に配置をされた売店をまわったろう?
ふたり両腕に抱えたトレーはもう、ドリンクの紙カップやら、ホットドッグやら。選手の名前の命名されたコラボどんぶりやらでいっぱいだった。皆から頼まれた品々も全部買った。なにひとつ、買い忘れはない。
もう場内を、ほぼ半周以上はしているはずだ。戻ってもいい頃合いではないか。そう思って、けれど足を止める様子のない歌奈を、背中から不知火は呼び止めた。
「んー。アイス、食べたくない?」
「あ、アイス?」
もうちょっと行けばたしか、ハーゲンダッツの売店があったはず。
そうぼやきつつ、歌奈は歩みを止め、軽くこちらを振り返る。スニーカーの踵が、ぴかぴかに磨かれた床と擦れて、きゅっと甲高い音を上げた。
「えっと。……いや、まあ。食べたいかどうかで言うと、食べたいけどさ」
こういう行楽地や非日常の中で食べるアイスというやつは、いつもの何割増しかで余計に、美味い。
でも、距離的に、もう随分来てしまった。そろそろ戻ったほうがいいのでは、と思うのだけれど。買うものだけなら十分すぎるくらいもう、買ったわけだし。それにアイスなら、売り子のお姉さんたちがときどき、客席を巡回している姿も見えた。うまくタイミングが合えば、そこで買えばいいではないか。
「時間ならだいじょーぶだよ。グラウンド整備やってるし、さっき投手の交代もアナウンスあったでしょ」
「???」
「ピッチャーはね、交代して出てくると練習で何球か投げ込んだり、チームメイトと連携やら作戦やら、打ち合わせたりしなきゃいけないから、時間がかかるの。だからもう少しゆっくりしてっても大丈夫、ってこと」
そうなのか。野球についてまったく知らないから、素朴に感心してしまう。水泳のリレーみたいに、次から次へ、とはいかないものなんだな。体育の時は、とくに気にしたこともなかったけれど。
「だからさ、もうちょいいこーよ」
そんな不知火に、自身もまたハンバーガーの包みやら、ポテトやらを載せたトレーを手にした歌奈は顎で前方を示して、誘う。
「この先で、ちょっと、……ね?」
コンコースの先。この先にいったい、なにがあるというんだろう?
「ここには、なんにもないよ。あるのは、九州の、違う場所。アタシやねーさんの知ってる場所。思い出したのは、こことよく構造が似てるから」
ちょっとくらい遅れても、雪羽も、ねーさんも、彩夜も。わかってくれるからさ。平気だって。
だからもうちょっとだけ、寄り道していこうよ。
「いろいろひきずって。いろいろ悩んでるあんたには、ちょうどいい話かなって」
「え……」
「アタシと、ねーさんのこと。もういない、人たちのこと」
順路の表示には、この先にある入場ゲートの番号と、そこから入れる観客席の配置図が見てとれる。
不知火に、言って、笑って。歌奈は再び前を向いて、ひと足ほどに先に立ち歩き出す──。
* * *
「ヨーロッパ? うん、行かないよ。行くわけないじゃん」
小さな子どもというやつは、ほんとうによく眠る。
客席の喧騒の中、寝息を立て始めたひかりを軽く揺すって、あやしてやりながら。詩亜より向けられた問いに、あっけらかんと雪羽は返す。
いい夢を、この子には見て眠ってほしい。意識は半ばがそちらに向いていて、返した言葉は逆に反射に近く、自分の中の当然を声にして発したに過ぎなかった。
「迷ったり。悩んだりは、しなかったんですか?」
「んー、まったくってわけじゃないけど、さして別に。……って、くらいかな」
自分の中でその答えは、リースに問われたときも、それからも。その、以前からもなんら変わってはいない。
楽器の、演奏のスペシャリストとしてのプロを目指すつもりはない。そこに自分の優先順位は、ない。そういう煌びやかな世界より大切なものが、今の自分には明確にある。
この子。ひかりや。姉、不知火のこと。
限られた時間によって重なりあうふたりを見守り、傍に立ち続けられるのはきっと、自分だけだから。そういう己惚れを持っていいと思えるくらいに、ふたりを自分は大切に感じているから、だから結論は揺るがない。
「──だから、しーちゃんは困っているんじゃないでしょうか」
「え?」
そう、決意をしていた。気持ちも、考えも。今更変わることはないだろうと、自分自身に思っていた。
それゆえにぽつりと詩亜が呟いた言葉は、意外という二文字の感覚をそこに伴って、雪羽を振り向かせる。
姉が、困っている。──「だから」? あたしが……揺るがない、から?
「ごめんなさい。外野から、生意気を言います。ものすごく失礼で、なんにも忖度できてない、そんな意見かもしれません」
憶えていますか、夏のこと。
そんなの、当たり前だ。なにひとつだって忘れるわけがない。そのような言葉を、詩亜は紡ぐ。
姉が、自ら離れていこうとしていた、その意思のもとにあった頃のこと。
長崎の小さな島で、気持ちを。言葉をぶつけあい、ともに泣いて、考えて。一緒に過ごした日々のこと。
「わたしには、今の雪羽ちゃんが見せている揺るぎのなさは、あの頃のしーちゃんと同じに見えます」
「……えっ?」
あの頃のお姉ちゃんと、同じ。その表現に、思わずびくりと、雪羽は反応をし、彼女を見る。
詩亜はどこか寂しげで、また同時、雪羽の見せたその反応をある程度、予測していたようでもあり。眉根を寄せながら、言葉を重ねる。
「あの頃のしーちゃんは、自分の中で消化しきってしまったこと、受け容れたことだからと、雪羽ちゃんから離れていこうとしていました」
それが相手のためだと信じて。相手を、妹である存在をかけがえなく想い、慮るばかりであるがゆえに。
「離れていくか。ゆるぎなくずっと傍にいるか。決めたことの方向性は真逆でも、その「受け容れてしまった」物事に対する結論という点では、今の雪羽ちゃんはあの頃のしーちゃんと、ほんとうによく似ていると思うんです」
相手を想うからこその、思考であり結論。それは間違いない。
だけれどそれは、あくまで自分の中でのよかろう、こうすべきであろうという考えに深く深く、根差したものにすぎない。
「こうだから、決めたことだから、で結論を提示するだけじゃなくって。あの夏の頃みたいに、ふたりで一緒に話して、語らいあって。悩むことも必要なんじゃないかって、思います」
たとえそれで、結論が変わらないにしろ。過程には変化が生まれる。
詩亜の言葉はどれも正論で。息を呑む以上の反応を、……反論さえできないくらい、まっすぐに雪羽の心を射抜いていく。
「きっと、今のしーちゃんは──しーちゃんの心がわからなかった、あの頃の雪羽ちゃんと、同じです」
だから、お願い。
しーちゃんと一緒に、悩んであげてください。
たとえ自分の中に答えがあったとしても。
あの子に、──目を向けてあげて、ほしい。自分ひとりの答えでなく、あの子とともに出した答えを、手にするために。
「結論は、それからでも遅くはないと思うんです」
(つづく)
Q:なんで今回舞台が野球場なの?
A:私(640)が野球好きだから。




