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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
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第五十四話 私の中に、なかったもの

 

            第五十四話 私の中に、なかったもの

 

 

 ごめんなさい。しーちゃん、今いなくって。

 ひょっこり顔を見せた雪羽に気付き、教室の引き戸のところへとでてきてくれた詩亜は、困ったように、すまなそうにそう言って、自身と友人の──雪羽の姉である少女の座席の辺りに、目線を走らせる。

 そこには席の主である人物の姿はない。ただ、机と椅子がぽつんとあるばかり。

 

「お昼、一緒にする約束、してたんですか?」

 

 昼休み。これからランチという時間帯。わたしもこれから、生徒会室で先輩と約束があって。──詩亜は重ね重ね申し訳なさそうに言いつつ、眉根を寄せる。

 

「ああ、うん。大丈夫。別に約束してたわけじゃないから」

 

 所在なく、肩を竦めて雪羽は苦笑を返す。

 

「ありがと。時間とらせてごめんね、詩亜」

 

 きっと、星架先輩と一緒なのだろう。……と、思うことにした。その想像が一番安心できた、ということもある。

 肩を落としながら、踵を返す。

 彩夜たちが先に、中庭に行っている。もとより思いつきで声をかけようとしただけだし、かまわないさ──。

 

「あのっ。雪羽ちゃん」

「──うん?」

 

 そんな雪羽を、友は呼び止める。その声を発した彼女自身、時間にゆとりがあるわけではないはずなのに、その足をそこに留めて、振り返った雪羽に次の言葉を紡ぎ投げる。

 

「おうちでは。家では、しーちゃんと話せてますか?」

 

 一瞬、自分自身の肩がぴくりと反応をみせたのを、雪羽は自覚していた。

 自分でわかるほどだ。きっと、詩亜もわかったのだろうと思う。表情だって一瞬どきりとしたのを、隠しきれていなかった。

 

「──うん、大丈夫。ふつうだよ」

 

 まったく、喋らないわけじゃない。大して変わってない。そう胸の中で、苦し紛れの言葉を呟く。

 ちょっとお姉ちゃんが、最近ローテンションで。

 ちょっと、口数少ないだけ。

 ご飯の時もちょっと、話題が乏しくて。

 それが終わると、部屋に引き上げる時間がちょっと、早くなっただけだ。

 

「大丈夫、だから」

 

 だから、そういうことにしておいてほしい。言外にその意思を眼差しへと載せて、口許だけで雪羽は詩亜へと笑う。

 察しの良い、勘の鋭い彼女に対しそうやって、まんまと誤魔化しおおせるなんてことは思っていない。

 でも、彼女の人の好さも、わかっているから。

 そんな彼女を、雪羽は信じた。

 

「──はい」

 

 つい先刻までの雪羽がそうしたように、詩亜も眉根を寄せて、小首を傾げて微笑んだ。

 じゃあね、と友に背を向けて、雪羽は姉の姿のない昼休みのランチタイムへと向かうのだ──……。


                 *   *   *

 

「どーしたもんかねぇ、あの姉妹は」

 

 ずずず、と行儀悪く音を立てて、紙パックのカフェオレのストローを、歌奈はすする。

 歌奈ちゃん。言って窘める彩夜を意に介さず、口の中の飲み物を嚥下した彼女はやや深く、息を吐いた。

 

「明らかにおかしいもんね」

 

 そして発した言葉に、サンドイッチの包みを開いた彩夜は頷く。

 やはりリースから向けられた言葉が、まだ尾を引いているのだろう。ある程度の事情を知ることとなり、かいつまんでとはいえ歌奈たちにも、伝えていいと思える程度の範囲とはいえ伝える立場となった彩夜はおぼろげに、今の状況の原因と状態とをそのように思う。

 

「雪羽もスパッと言ってやりゃいいのに。行かないよーって」

      

 そういう単純なものでもないのだろう、と彩夜としては思う。

 あの雨の日、ほんとうに不知火はボロボロの気持ちであったように見えた。

 それは姉妹のどちらが悪いというものでもない。どちらかが一方的に非を背負う喧嘩であったならば、あんなにも彼女は傷つきはしなかったろうし、彩夜が出ていかなくたって、雪羽だってやりようがあったはずだ。

 リースの言葉に問題はあった。それは間違いない。けれどそれはただそれだけが悪かったのではなくて、火種でしかなかったのだろう。

 きっと、彼女の中に、ほかの人間にはわからない感覚やかたちとして、妹に対する負い目や、すまなさというものが降り積もり、存在していたのではないか。

 一緒にいたいと望む自分。

 いつか、彼女を見ることができなくなってしまう自分。

 それを受け容れてくれた、妹を想うがゆえに、そこにノイズは生まれてしまう。

 彩夜は自らの、もうバスケット選手たりえぬ肩を押さえ、思う。

 自分もバスケを失ったとき、そうだった。

 チームメイトたちの気遣い。両親の、娘へと向けられた「どうにもしてやれない」というすまなさを含んだ表情。そんな姉を見るのが心地よいわけもない、弟の不安げな様子。

 彼ら、彼女らのそのような光景を見るのが、彩夜自身も辛かった。

 不知火の場合、その疚しさの増大にとってなにが原因だったのかはわからない。

 リースの言葉以前から抱えていたものだってあったろうし、あるいはまだ他になにか、あったのかもしれない。

 だがそれが膨れ上がったとき、傍には雪羽の才能という、当の本人にすら忘れられていたであろう、密かな針があった。それがリースによって突きつけられ、突き刺さったとき、彼女の感情はきっと破裂してしまったのだ。

 かたちは違えどハンディを持つ者同士。そして姉同士だから、ちょっと彩夜にはわかる気がする。

 

「きっと、不知火ちゃんは」

「んお?」

「──ああ、いえ。ちょっと、独り言です」

 

 きっと、彼女はこう思っている。

 

 ──『小雨さんなら。もっとたくさん、ゆきのためにいろんなこと、できたんだろうな』──って。

 

 それは亡き者、より年輪を重ねながら去っていった手の届かぬ者への、詮なき劣等感だ。

 自分にはできないこと。自分のマイナスを、喪われたプラスと比べて、人は傷ついていく。自ら、傷ついてしまう。

 

(でも。……でもね、不知火ちゃん)

 

 あの日、彩夜の部屋で旧い音色を聴いて、不知火の感情はより強くその感覚を抱いたのだろうと思う。けれどそれは傷つくあまりに、一面しか見ていない。もうひとつの側面にまで、意識を向けられていないものだ。

 だって。

 小雨お姉ちゃんという才能があったから、雪羽ちゃんはたしかにこれまで生きてこられた。雪羽ちゃんは、雪羽ちゃんでいられた。たしかにそのことは間違いないけれど。

 でも同時に、小雨お姉ちゃんという才能があったから、妹である雪羽ちゃんは奏でるヴァイオリンに、自身の才能に見切りをつけた。それもまた、揺るぎのない事実。

 そんな雪羽ちゃんに、『彩夜のため』という大義名分はあったにせよ、再び楽器を手に取ることを選ばせたのは、きっと隣にいたのが不知火ちゃんだから。

 その意味では、彼女は、妹の実姉にできなかったことを既にやっている。劣等感なんて、感じるべくもない。

 小雨お姉ちゃんを知っている、彩夜だから思える。

 すごいことをやってるんだよ、不知火ちゃん。

 なんだってできた、あの小雨お姉ちゃんがたったひとつできなかったこと。

 雪羽ちゃんに楽器を取り戻させた──それを、あなたはやってのけたのだから。

 負い目なんて、感じなくていい。あなたは立派に、雪羽ちゃんの「お姉ちゃん」なんだ。彼女があなたとの日々の中でヴァイオリンを手にするに足る、そういう存在なんだよ。

 

「──みんなで」

「え?」

「みんなでまた、お出かけしましょうか。雪羽ちゃんも、不知火ちゃんも肩の力を抜けるように」


                 *   *   *

 

「──ああ。レイア先生、こんばんは」

 

 既に、妹の治療を行う医療チームのその女医と、リースとの間には互いをファースト・ネームで呼び合う関係性が構築されている。

 もちろん、治療といっても、その方法が確立された症例をその身に受けた妹ではない。

 こうして遠い日本にいながら、折を見て連絡をとりあったとしても、これといって目覚ましい変化を告げられることがないのも、リースは患者の家族として重々に理解はしていた。

 

「ええ。──ええ、ちょうど秋口で、過ごしやすいですよ、日本は。昔を思い出して、悪くないです」

 

 だから所詮、会話は主体として、世間話に殆ど終止をする。

 互い、日本という異国のこの地にかかわりのある者同士だ。自然、その話題が多くなる。

 

「そうですね。心残りは、この地に残しておきたくはないので。実際に来てみて痛感しました。地球の裏側からでは、遠すぎる」

 

 こんな遠くに、コサメが遺したものを。愛した存在を──ただ無為に置き去りになんてできない。

 きっと、説得する。連れて行ってみせる。

 あの子の才能を、埋もれさせてはならないと思う。

 コサメがこの世を去った今、それができるのは自分ひとりかもしれないと、リースは思うから。

 それが憧れた亡き人へと、そしてその愛したユキへと、自分がしてやれること。

 

「──ああ、いえ。少し、物思いに……ね。どこにも角を立てずに生きるというのは難しいものだな、と思って。とくにこうだ、とやりたいこと、成したいことがある場合にはなおさら」

 

 そういう感慨の中にあって、ちくりと胸の奥に、ノイズのように痛みを感じる自分も、リースは知っている。

 シラヌイ、だったか。ユキの、……その認めたくない単語を用いて表現するならば、彼女の新しい、姉。

 別に、その人物に対して個人的に恨みはない。嫌悪をしているわけでもない。

 ただ、彼女の手にしたその立場を受け容れられないだけ。

 その場所にいていいのは、ひとりだけだと。なんら血縁のない外野ながらにリースは思っているから。

 知己として。友として。憧れた者として──同じ、演奏者として。ヴァイオリンを手にした、かの姉妹は眩く輝いて見えた。

 その輝きは、蘇らせるべきものだと思う。喪われたままで、いいはずがない。

 ユキが、取り戻すべきものなのだ──……。

 

「コサメという存在も、持って生まれた音楽の才能の将来も。喪ったままのユキなんて、間違ってる」

 

 そのためなら、憎まれ役だってなんだって、やってやる。

 喪いゆく妹のことがあるからこそ、猶更。

 自身の近しい人が喪うべからざるものを、喪失したままであるのを、リースは許せなかった。

 脳裏に思い描くのは、もうひとりの旧知。

 その少女と、その弟とが生を受けた、小さな喫茶店。


                 *   *   *

 

 これ、……どういう状況なんだっけ。

 

「それでは、改めまして。駒江、不知火くん──だよね。この間は、どうも」

 

 もう、星架さんはとっとと帰れとは言わなかった。

 なにか言いたげに、しきりにこちらへ向けられる視線は感じてはいたけれど、それでも普段通りの部活中のやりとりを超えることなく、その活動時間をやりきって、不知火がひと足先に部室をあとにするのを、進路指導かなにからしい、わら半紙刷りのプリントに向かいながら見送ってくれた。

 

「えっと、響さん? 黒沢、響さんでしたっけ」

 

 二度目の対面である青年から声をかけられたのは、その下校の道すがらである。

 いつぞやと同じスーツ姿。それ、路駐ですよ。つい心の中でつっこみを入れたくなる、路肩に停めた紺色のシビックに寄りかかりながら。青年は不知火を呼び止めた。

 

「なんの用でしょうか。──すいません、その。意図がよくわからないです」

 

 その姿と声とに不知火が驚いたのは、けっして再会に華やぐ好ましい成分によるものではない。

 まさかゆきではなく、自分の前にその人が、自分を目的として現れるなんて、という困惑と。

 先日の一件の苦さが未だはっきりと残る中で、それをもたらした人物の片割れである彼に対しごく当たり前の感情として、警戒や畏れといったものが少なからず自覚できたからである。

 

「用があるのは、ゆきではないんですか。ゆきを、連れていくために」

 

 鼓動が大きい。緊張を、この人に対して自分はしている。

 

「そう、警戒しないでよ。これでも、この間のリースは言葉が過ぎたと思っているよ。まさかあそこまで強い言葉で要求を口にするとは、思っていなかった」

 

 謝るよ。すまなかった。

 チェーン店のカフェ。それぞれアイスコーヒーとアイスカフェ・オレを前にして、彼は座ったまま、深々と不知火へ頭を下げる。

 

「──それに、感謝もしている。あの姉妹を昔から知る者としてね。よく、雪羽くんを支えてくれたね、って。きみが彼女の姉となることを選んでくれて、よかった。時折、あの子からの電話で聴いてはいたんだ。だから今は心からそう思っているよ」

 

 だからこの場は、あの日の謝罪と、これまでの感謝。そのふたつをきみと共有するためだ。そう、思ってくれていい。

 青年はつとめて、不知火を安心させようとしているように思えた。それは、

 

「──それは、私が反対する側にまわると、ゆきをヨーロッパに連れて行きにくくなるからですか?」

 

 不知火自身、なんてことを言うんだ、と自己嫌悪を湧き起こさせる言葉を、誘発する。

 違うだろう。そんな棘のある言葉を今、言うべきじゃないはずだ。未だ感情のささくれが収まっていない自分に、臍を噛む思いだった。

 

「……すいません。無礼でした。私には、反対する資格なんてないのに」

 

 思い起こすのは、湯上りの熱気に浮かされて彩夜の部屋で聴いたメロディ。

 風邪を引き、熱に唸りながらけれど、その音色を脳裏に繰り返し思い出すたび、その苦しさが和らぐように思えた。

 これがゆきの才能なんだ、と感じていた。

 

「……先ほども言ったように、僕とリースの考えはイコールではないよ。それに今、雪羽くんの周りにいる人間できみ以上に反対をする権利がある存在なんて、いるとも思えないが」

 

 青年は怒るでもなく、宥めるでもなく。ただちょっと困ったように、不知火の言葉に応じる。

 

「きみはやはり、反対なのかい」

 

 そうとも、そのように捉えられても仕方のない物言いだった──違うのに。そんな主張をしたいわけじゃあ、ないのに。

 わかってる。わかってるんだ。

 送り出すべきだってこと。

 自分がゆきの姉だと思うのなら。

 これからの自分のこと。ひかりのこと。ふたりのこと。悲しませるばかりの自分でも姉としてできることがあるなら、それは彼女の背中を押してやることだって。

 

「ゆきの将来を考えたら、私はあの子を送り出すべきなんだ、って思っています」

 

 姉貴面をするなら、そのくらいして当然だ。

 

「私じゃ小雨さんに遠く及ばない。一緒に演奏してやれるわけでもない。経済的に、彼女のすべてを支えてやれるわけでもない。音楽も、財産も。お姉さんがゆきに遺したものなんだから──、」

「ちょ、ちょっと待った。……なにを言ってるの?」

 

 なんだかすごく、話が重くなっていないか。目の前の青年は困惑がちに、不知火の言葉を遮る。

 

「それは、遺されたというなら。きみだって同じだろう?」

「──え?」

 

 その言葉は、どうしてだろう、まったく不知火の心の中にはなかったもので。

 

「きみだって、雪羽くんの姉である前に。遺された、ひとりの女の子のはずだ」

 

 雪羽のことをそれほどに想ってくれているのは、後事を託された身としては嬉しい。

 けれど、そんな覚悟をきみひとりに押し付けて、背負わせてしまうほど、大人は大人をしてやらない存在ではないよ。

 

「僕も。白鷺の夫妻も。大人としてきみたちの幸せを願っている。きみにだって、そうやって支えてくれる大人はいるだろう?」

 

 レイアの顔が、脳裏に浮かぶ。

 

「小雨だって、大人だった。だけれどきみは、違う。同じ姉でも、きみだってまだ、自分のやりたいように、責任やこうすべきだという理屈から解き放たれた場所にいていい、そういう年齢のはずだよ」

 

 雪羽のために、ではない。

 きみ自身のため。きみが雪羽と幸せになるために、なりたい幸せのために行動を選ぶ権利が、ある。

 それはひとりの大人としての、青年の言葉だった。

 

 

          (つづく)


多忙と体調不良につき更新おそくなりましてすいません。

 

本作にレビューを一見いただきました(https://novelcom.syosetu.com/novelreview/list/ncode/1481712/)。

ありがとうございます。

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