第五十二話 妹の可能性を、閉じる
第五十二話 妹の可能性を、閉じる
季節外れの台風でも来ているのかと思うほどの、ひどい、ひどい雨だった。
持っていたビニール傘は不意に吹きつけた強い風にいとも簡単にひっくり返って、透明なお猪口をつくって。そのまま、何処ともなく飛ばされていって、行方も知れず。
最低の気分の中、状況まで最悪で。踏んだり蹴ったり、そのものだった。
傘を買うためにコンビニへと入ることすら、自らがびしょびしょすぎて躊躇をするくらい、全身ずぶ濡れに、土砂降りの雨に晒され、打たれた。
濡れた地面に何度も滑ったり、些細な水たまりや段差にローファーの爪先をひっかけて、躓き倒れそうになりながら駆けた道は、行き交う人間は自分ひとりしかいなくて。
「──……、あぁ……そ、っか」
やがて前も見ずに、身体の覚えにある道筋だけでたどり着いた路肩のコンビニは、リニューアルオープンのための改装工事、その真っ最中に、そのウインドウのひとつひとつが養生テープとシートに目張りされていて、部外者の侵入を拒んでいた。
動かぬ、開かぬ自動ドアの前で、途方に暮れた。
「……ほんと、ひどい、顔」
そうやって内側の見えない自動ドアのガラスに映った自分自身に、不知火は力なく笑う。──自分を、嗤う。
星架さんが、部活の先輩として。次期部長として、「今日は帰りなさい」っていうわけだ。詩亜が付き添おうと、するわけだよ。ほんとうに。なんて、ひどすぎる顔。
「不知火、さん?」
コンビニの前に立ち尽くす不知火は、降りしきる雨音の中を近付いてくる影に気付かない。
声をかけられてやっと、顔を上げる。
「──ゆう、や、……くん?」
黒い傘を差した彼は、濡れないよう気にしてかギターケースを身体の前に抱えていて。
傘も差さず佇む濡れ鼠の不知火を、困惑げに見下ろしている。
ひどい顔をしている自覚が、あるから。そんな表情をさせてしまっているのだと、それもまた自覚できる。
「なにか。──あった?」
その自覚の根源も理解しているから、そうして向けられた問いに、光景がフラッシュバックをする。
昨日の、こと。
ゆきの、こと。
来訪者たちの、こと。
そんな三者三様にけっして届かぬ、自分自身のこと。
ゆきを困らせ、傷つける自分。
ゆきの、親しい人たちからの誘い。それらはあまりに対照的すぎて。
まるで、光と闇。そう自覚してしまった。
「不知火、さん……?」
決壊は、一瞬だった。
言葉が、出てこなかった。
両脚が──本来すべきその仕事を放棄して、それらだけの力で自身の体重を支えるのをやめた。
不知火は、縋って、泣いていた。
傘の下、戸惑い佇む、かつて自身に告白をしてくれた少年の胸に、頬を預けて。
声をあげて、泣いた。こんなことをすれば彼を困らせてしまうことはわかっている。けれど自分の無力が、足枷としての自分があまりに、耐えきれなくて。
ずぶ濡れの自分が、そして溢れてくる涙が少年を巻き込んで、彼もまた濡らしていく。
降りしきる雨は激しく、より一層に激しく、世界を濡らしていく。
傘で防ぎきれぬ、ふたりの肩を。
アスファルトの、ふたりの足許を。
そんな雨の音に負けないくらい、大きく、激しく。
世界に満ちる音に対し張り合っているわけでもなくただ、そうするしかなく、不知火は泣いた。
* * *
昨日のことを、思い出していた。
「ちょ──ちょっと待ってください。ゆきが、ヨーロッパに? ヴァイオリンで? 留学?」
するって、ことですか。なんで。そんな急に。
困惑とともに乱雑な声をあげたのは、姉だった。
当然だと思う。なにしろ当の本人である雪羽だって、状況を呑み込めずにいる。提案を持ってきた、来訪者ふたり。その人となりをある程度以上には知っている自分でさえ──初対面で、ここまでの会話から蚊帳の外に置かれたようですらあった姉からしてみれば、話が唐突すぎて、また意味不明すぎる。そういうものに聴こえているはずだから。
「まあ、端的に言えばそうなりますね。ユキの、『新しい』お姉さん」
そんな姉に対し、旧い友人はその言葉に含まれる棘を隠そうとすらせず、言って返す。
「え」
「これは私がユキに提案し、ユキの答えを待つものです。あなたの介在する余地はない。口を出さないで」
楽器とはなんの縁もゆかりもないあなたには、遠い世界のこと。そう思ってください。
リースの言葉ははっきりと辛辣で、旧友である雪羽の耳にさえ、それは無礼極まるものに聴こえる。
ちょっと、リース。当然に、抗議の声が喉の奥から出かかった。
「ユキとコサメのことを、あなたはどこまで知っているというの、あなたは」
「!」
けれどそれより早く、リースの言葉は矢継ぎ早で。
より辛辣に、姉に向かい遠慮も忖度もなく、次々に突き刺されていく。
「ユキとコサメはこの十六年間、姉妹だった。たった半年で、それ以上になれたとでも思っているの。そんなふたりの積み上げてきたものを、私は見てきた。少なくとも幼い頃、私はあなたよりずっと長く、ユキとコサメの姉妹とともにあった」
「それ、は──……っ」
「リースっ」
「私が知るユキの姉は、コサメひとりよ。あなたはユキに対して、なにができるっていうの」
「リース!!」
「何度だって言う、ユキのほんとうの姉は、コサメだけ。ともに暮らしているだけのあなたとは比べるべくもない。私はそう思っている」
「やめてってば! リースっ!!」
ダメだ。言わせては。止めなくては、彼女を。強い語気に声を発して、ようやくリースはその言葉を止めた。
やめて、よ。
今のあたしの大事なものを。その、大切な人を。
昔のあたしをよく知る人に、そんな風に言ってほしくない。
膝の上に握った拳へと、強く強く力を込めながらそう語りかけると、リースは小さく「ごめん」と言った。
姉に向けてではなく──雪羽へ向けて、そのように謝罪をした。
「それでも、ユキ。私はあなたにコサメとの絆を大切にしてほしい。この道筋は、コサメがあなたの可能性として遺したものでもあるのだから」
だが論を取り下げることは、なく。
「即答はいらない。寧ろ、しないでほしい。この提案をよく考えて、答えを出してほしいの。私だってひとときの郷愁だけでこんなこと言ってるんじゃない。これがあなたにとってベストだと信じているから。……二週間ほど、この街には滞在するから」
行きましょう、ヒビキ。そうしてリースは席を立ち、青年を伴って雪羽たちの家をあとにしていった。
それが、──それが、昨日のこと。
雨ふりしきる窓の外を見つめながら、雪羽は思い出している。
「……ひどいよ、リース」
たしかに幼い頃、彼女は同じ楽器を学び、切磋琢磨した友人であり、同じコンクールにも出場をしたライバルだった。
同じように姉・小雨に憧れ、あのようになりたいと願い。そのために腕を磨いた仲間であった。それは間違いのない、過去だ。
でも、だからって。今のあたしの大切な人を、否定する権利なんてない。
あたしにだって目指す夢が出来た。そして、諦めた夢だって既にある。いずれもが、ヴァイオリンとともに。
「ごめん、……ごめんなさい、お姉ちゃん」
自分はもう、一線の演奏家となるかたちでのヴァイオリンは、夢としては捨てたのだ。
今よりずっと前。それこそ、実姉の生前の頃に既に。
いくら友人だからって、あんな物言いを許すべきではなかったのだ。
結露をした窓ガラスに、こつり、と額を当てて俯く。
妹の旧知を名乗る突然現れた少女によって不当に比較をされ、非難をされた姉の気持ちは如何ばかりだったろうか。
後悔に、後悔が重なっていく。
今朝、部活の朝練で家を出る姉と、もっとしっかり話をすべきだったと思う。
昨晩の姉はただ、ぶつけられたいくつもの言葉に茫然として、受け止めきれずにいて。かける言葉がわからなくて──そっとしておこうと、雪羽は思った。思って、しまった。
そして朝。出がけの姉に、言葉を向けようとした。一瞬たしかに、呼び止めた。
だけど姉は、振り向いてはくれなかった。ほんの少し首を曲げて、背中越しに微笑を向けてくれただけ。
大丈夫、だよ。ぽつりとそう言った。
行ってくるから。そう言って、いつものようにお弁当箱の巾着を軽く振ってみせて、動作だけはなにも変わらず、玄関を出ていった。
声は元気を、……装っていた。空元気なのは、少し聞いただけでわかった。無理をしているのが、こんなにもわかりやすいことはない。
部活に遅刻させてでも、きっとそのとき自分は引き留めるべきだったのだ。
ちゃんと、伝えなければならなかった。
ごめんなさいを。
自分はどこにもいかないってことを。なのになにも言えなくて。できなくて。姉に、「姉だから」という自覚による無理をさせてしまった。
帰ってきたら、きちんと話さなきゃ。
寝耳に水だった、リースたちの提案のこと。
あたしが、どうしたいか。彼女たちとともに行くつもりなど、毛頭ないこと。
だって、結論なんてひとつ。そうじゃないか。あたしはもう、ヴァイオリンを、プロを目指すという道については捨てている。
お姉ちゃんのこと。ひかりのこと。おっぽり出して、行けるわけがない。
ふたりと一緒に、いたい。ふたりにあたしの演奏を、聴いてほしいんだ。
「行かないよ。……行けるわけ、ないじゃん」
お姉ちゃんの、眼のこと。
そしてひかりの声のことを知ってしまえばなおさら。ほかの選択肢なんて、あるはずがない。
一緒にいる。一緒に、いたいよ。一分、一秒だって。
「! ──星架先輩?」
キンコン、と音を立てて、また僅かに振動を鳴らして。テーブル上に投げ出してあったスマートフォンが、メッセージアプリの起動を、文書の到着を告げる。
待機画面上には、姉にとって大切な女性の名前。学校の先輩──見下ろしたそれを開こうと、雪羽は手を伸ばす。
「っ? ……今度は、なに? 彩夜?」
その機先を制された。電話に。
鳴動する本体。振動が、がりがりとテーブル上に携帯電話を揺らす。
友の。彩夜からの着信。
はい、もしもし。応答に出た雪羽は、強張った友の声を聴くことになる。
その声色で告げられる、彼女の弟が連れ帰った、今にも壊れてしまいそうに憔悴をしきった、儚き長身の少女のことを。
* * *
全身ずぶ濡れだったから、着替えが必要だった。
弟が連れ帰った、濡れ鼠の不知火の様子にひとしきり驚いた彩夜はしかし、まっすぐにその手を引いて浴室に押し込んで、シャワーを浴びるよう促して。
「ごめんなさい。不知火ちゃんのサイズだと、彩夜のお洋服じゃとても小さすぎて。ユウくんのだけど、我慢してください」
同年代の平均的な女子と比べると随分に長身である不知火だけれど、それ以上の身長を誇る夕矢くんの、男性の丈をしたTシャツではいくぶん袖が余った。裾にしてもちょっと長くて、ぶかぶかで。下のスエットも、つま先まで隠れてしまう。
熱いシャワーのぬくもりを全身に宿したまま、そんな貸し出された衣類に身を包んで、不知火は彩夜の部屋にいる。
「ううん、大丈夫。……ごめん、ありがとう。急にこんな、シャワーまで使わせてもらって」
迷惑だったろうな、と思う。目の前には彩夜とふたりぶん、マグカップの中に注がれたホットミルクが、その湯気を漂わせ置かれている。
「そんなことないですよ。ユウくんがほっとけなかった、って連れてきてくれたんですから。雪羽ちゃんも、今日一日ずっと、すっごく、不知火ちゃんのこと気がかりだったみたいですし」
「……そう。ゆきが、私を」
着てきたずぶ濡れの制服は、今は白鷺家の洗濯機にかけられて、乾燥機の中を回っている。
うちのは店の汚れものとかも洗うのに業務用使ってて強力だから、すぐ乾きますよ。元気づけるように、彩夜はそう言って、シャワーから上がった不知火にガッツポーズをつくってみせてくれた。
気遣ってくれる彼女に対ししかし、不知火は覇気のない応えしか返せずにいる。
あの雨の中、夕矢くんと出会わなければ自分はどうしていただろう? ちゃんと、妹のいる家まで無事に帰りつけただろうか?
「あの。……雪羽ちゃんと、なにかありましたか?」
彩夜の自室。机の上には、雨の中に突然の来訪者があるなど想定もしていなかったのだろう、ノートパソコンが開きっぱなしに置かれている。
ワード・ソフトの画面。作家志望だという彩夜だから、きっと原稿の執筆活動にでも勤しんでいたのだろう。邪魔、してしまっただろうか。
その傍の、写真立て。そこには彩夜と、雪羽と。小雨さんと夕矢くんとが一緒に映っていて。
小雨さんに肩を抱かれた雪羽ははにかんだ笑顔で、首からなにやら、きれいなメダルをかけている。
以前遊びに来たとき、ふと訊いたことがある。たしか、小さなコンクール。その入賞記念に、小雨さんがみんなを集めて撮ったものだって。
「不知火ちゃんがシャワー浴びてる間に、雪羽ちゃんに連絡しておきました。迎えに行こうか、と言ってましたけど、──その、不知火ちゃんがそんなにつらそうな顔するとしたら、雪羽ちゃんのこと以外考えられなくて。昼間の雪羽ちゃんのこともあるし」
「彩夜……」
「ああ、えっと。もちろん雪羽ちゃんが大好きな不知火ちゃんにひどいことなんてするわけないってこともわかってます。でも、彩夜でよかったら、吐き出したり、相談したり。……全然、いいですよ」
ホットミルクのカップを両手に包みながら、彩夜は控えめな口調でそう言ってくれた。
「雪羽ちゃんには言えないことも。相談できない悩みも。彩夜みたいな第三者に言えば、少しは楽になるかもしれません」
よき友人を持った、と思える、彩夜の言葉だった。
どこから話すべきか。いや、そもそも話すべきなのか、不知火はひととき考え、逡巡する。
「……なにかあった、というのは少し、違う」
不知火もまた、自身に出されたマグカップを、両の掌に握った。左右の親指で交互にその表面をなぞりながら、言葉を探す。
「むしろ逆。私には、なんにもできないな、って。ゆきを傷つけたり、負担になったり、してばかりだ」
「不知火ちゃん?」
「ゆきには数えきれないくらい、たくさんのものをもらって。いろんなことをしてもらって。なのに私は姉として、あの子になにもしてやれない」
来訪者からの言葉はきっかけにすぎない。泣きはらし傷ついた妹の姿に、感じていたこと。
根源的には不知火自身の引き起こしている問題なのだ──多分。
そう思うと、辛くて。
私は、あの子の前途に問題を表面化させるばかりで。そんな自分が、あの子の負担にしかこれからなれないんじゃないかって。
「私には、小雨さんみたいにはできない」
楽器も弾けない。
お金だって、あの人みたいには稼げない。
支えられてばかりで──こんなの、姉じゃないって言われたって、しかたがない。端から見れば、その通りだと思う。
いくらゆきが受け容れてくれてるからって。
私がゆきに甘えてるようにしか、見えないんだろう。私だって、返せていない、むしろ困らせている自分を自覚しているんだから。
「ねえ、彩夜。教えて。昔の、ゆきのこと」
もっともっと、たくさん。彩夜の知ってること。
「小雨さんのこと。ゆきの、ヴァイオリンのこと。子どもの頃、ゆきのヴァイオリンは、そんなにもすごかったの」
「え?」
「コンクールで、賞をとったことあるって言ってたよね。ゆきは自分からは全然、そういうこと自慢したりしないけれど」
だって、きっとこのままじゃ、昨日の提案をゆきは受け容れない。
ノーの回答を、返すだろう。
なにごともなかったかのように、これまでどおりの生活を続けるために。
「ゆきの可能性は、閉じた私の可能性なんかに引っ張られちゃいけないんだ」
欧州になんか、行かない。
お姉ちゃんと一緒にいる。離れたりなんか、しない。
それは不知火の己惚れでもなく、客観的な予測として。彼女はそう言うのだろうと思う。優しくて一本気なあの子のことだから、そう言って差し伸べられた手をやんわりと、拒絶するだろう。
私に、寄り添うために。
私とひかりを、見守るために。ひかりを想い泣いた彼女は、傍にいると決めた私と、幼子とのために自分の可能性を手放してしまう──……。
そんなのは、ダメだ。
ゆきに甘えてばかりの、こんなできそこないの姉に付き合わせるなんて。
「演奏者として。ゆきに、そうやって手を差し伸べられるほどの才能があるのなら。小雨さんのためにも、スノーホワイトさんの誘いを受けるべきなんだ。一緒にヨーロッパに、行くべきだと、私は思う」
それは聴く側である彩夜を置いてけぼりにした、初出情報の羅列だった。
スノーホワイト──その名に一瞬、ハッとしたように思い至った様子を見せた彼女は、少しずつ、それら単語の組み合わせに状況を呑み込んでいったようであり。
「スノー、ホワイト。って。え? ──リース、ちゃん? リースちゃんのことですか? リースちゃんが戻ってきたんですか? この街に? なんで、不知火ちゃんに?」
ヴァイオリン。
小雨さん。
ヨーロッパ。ひとつひとつ噛み砕くたび、その表情に驚きの色が差していく。
「えっ。……えっ?」
なんで、リースちゃんが。なんで、……今更。茫然と紡がれ呟かれた彼女の言葉が、不知火の耳に響いていった。
「彼女は、なんて……言ってたんですか」
そして、彩夜へと不知火は語る。昨日の出来事を。これまでのことを。
恨みつらみなどではなく、寧ろ自虐に満ちた色合いの、答えを急ぎすぎた言葉たちによって──。
(つづく)




