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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第三部 秋から、新たな日々へ
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第五十一話 旧友からの、誘い

 

            第五十一話 旧友からの、誘い

 

 

 目覚めたとき、すぐそばに聴こえてきたのは寝息であった。

 感じたのは、妹の体温と、触れ合ったその感触と。うっすらと開けた瞳に飛び込んできた、妹の寝顔だった。

 パジャマ姿で寝入っている彼女は昨夜おそく、泣き疲れてようやく、眠りの世界に落ちていった。

 姉の不知火と、ひかりと。うわごとのように交互に家族のことを呼びながら。

 子どものように泣きじゃくり、鼻をすすりながら。

 このまま彼女をひとりにしてはおけない、そういう夜なのだと不知火が思うのも、やむを得ぬことだった。

 居間でのやりとりからはいくぶん落ち着きはしたものの、それでもすすり泣く雪羽の手を引いて、自室へと一緒に戻って。

 寝間着のワイシャツの腕の中、パジャマ姿の彼女を抱いて、ひとつのベッドにともに寝た。彼女が寝入るそのときまでも、見守り背中をさすってやっていた。

 姉妹とはいえ、理由が正当だとしても、行為はなかったとしても。一種の同衾である。

 星架さんには今度、やましいことはなかったと、きちんと伝えようと思う。

 雪羽をいたわりながらとはいえ不知火もともに泣いた夜だったから、いくぶんこちらも両目が腫れぼったい──……。

 

「──私、繰り返してばかりだね」

 

 休日の日差しが、あたたかにカーテンの隙間から入ってくる。

 その細い光を前髪のあたりに受けて眠る雪羽は、今は穏やかな寝顔をしている。その様相に、思う。

 ほっとすると同時、妹に甘えている自分を。

 昨夜みたいにさめざめと涙する妹を見るのは、何度目だろう。

 夏、島で不知火のことを伝えて以来だと、思う。

 姉として接する雪羽は、基本的に手のかからない妹だ。いつだって不知火のことを支えてくれて、見守ってくれて。いつだって腕によりをかけて、おいしいご飯をつくってくれる。

 そんな彼女が涙するのはいつだって、不知火のせい。

 あの、雨の日も。

 そして、島でのときも。

 雪羽は不知火の告げた言葉に傷ついて、泣いていた。

 今回だって、そうじゃないか。泣くのはいつも、私のせい。

 島でのときは、不知火の未来を思い、彼女は泣いた。

 今回は、不知火と、ひかりと。ふたりぶんを思い、そこに抱いた感情に彼女は泣いた。

 泣かせてしまった──私の、せいだ。

 

「ゆき。──ゆきは、すごく素敵な女の子だよ。こんな情けない、私なんかの妹にしておくには、もったいないくらい」

 

 ベッド上に身を起こし、妹の寝顔を見つめながら語りかける。

 

「ほんとに私は──……私は、だめだね。お姉ちゃんとして、てんでだめだ」

 

 ゆきはいつだって、支えてくれた。ともに過ごしていきたいと願ってくれて。離れていきたくないと、その手を放さないでいてくれた。

 そして愛する人のできた不知火の背中をも、押してくれたのだ。

 甘えている。依存している。

 このままでいいわけはないのだろう。……こんな風に、ゆきを泣き疲れて眠らせてしまうようであっては。

 こんなの。一方的に支えてもらうばかりじゃないか。

 なにが、姉だよ。しっかりしなきゃ、だよ。これじゃあ私、たったひとりの妹さえ幸せにできない。ゆきになにも返せていない──……。

 

「怖くないわけじゃ、ないんだよ」

 

 自分自身の、眼のこと。

 そしてそれが見えなくなったとき、声の出せないひかりを、そこにあの子がいることを認識することすら、直接触れ合うことでしかできなくなる自分が生まれてしまうこと。

 自分ひとりなら、もはや受け容れていた。

 ゆきとふたりなら、乗り越えられるとも思っていた。

 けれどひかりとの間に起こり得る未来を知ったとき、心の中に悪寒めいたものを感じたのは、間違いのないことだった。

 

「ごめんなさい、小雨さん。私、……まだまだ、お姉ちゃんとして全然です」

 

 ゆきが。星架さんが傍にいてくれたからどうにか、普段通りに振る舞えていただけだ。

 そんな支えてくれたゆきを、こうして追い詰めて。泣かせてしまう。

 姉として、最低だ。私がゆきを、ほんとうならば誰よりも笑わせてやらなくてはいけないのに。ひかりと三人、明るい家族としての未来を示さなくてはならない、この家の大黒柱だというのに。

 そんな思考を遮るのは、外部からの、音。

 

「──……?」

 

 休日の朝だ。まだ活動の時間としても一般的なそれに比して早い。

 少なくともまだ、シャッターの開いている店は商店街に半々以下であろうというような、そんな時刻である。

 そんな休日の静かな早朝に、居間のほうでインターフォンが鳴った。

 宅配便や郵便の到着にも、早すぎる。

 来訪者だというなら、こんな時間に果たして、誰がきたというのか。

 心当たりがない。

 

「お客さん……?」

 

 鳴らされたインターフォンは、玄関のものではない。マンションそのものの、エントランスからの呼び鈴だ。そこで足止めを喰らっている誰かが繰り返している、その音。

 シーツの衣擦れとともに、微かな寝言を漏らしたゆきが身を捩る。

 催促をするように、もう一度インターフォンの電子音が家じゅうに響いた。

 躊躇しながらも、不知火は立ち上がる。

 なにしろ寝間着のワイシャツ一枚、下着一枚という寝起きの恰好だ。スエットくらいはひっかけて穿かないことには、応対にも出られない。

 引っ張り出したそれに両脚をつっこんだとき、三度目の呼び鈴が鳴った。


                 *   *   *

 

「……え」

 

 寝坊を自覚した、目覚めだった。

 起きたそこは、姉の部屋。そして、姉のベッド。

 なんでここにいるんだっけ、と寝ぼけ眼に思った。直後、昨夜の流れを思い出し理解をして、眠気の残り香が吹っ飛んでいった。

 姉はもう、部屋にいなかった。ひと足先に起きたのか、居間のほうから人の気配がした。

 ああ、やっちゃった。ごめん、お姉ちゃん。

 姉に気を遣わせた、迷惑も心配もかけてしまった──頬が熱くなるのを認識しながら、前髪をくしゃくしゃとかき上げてスリッパに両脚をつっこむ。

 小走りに居間へと駆けて、ドアを押して。

 ──「ごめん、お姉ちゃん。すぐ朝ごはん、つくるから」。

 そう、言うつもりだった。そんな日常が、きょとんとした表情の姉とともに待っているものだとけっして、疑っていなかった。

 

「日本なら、朝はまず「おはよう」でしょ、ユキ。──ま、時間的には「おそよう」って感じだけど」

 

 Good morning、ユキ。たるんでるんじゃないの。──どこか高飛車に聴こえるそんなトーンで出迎える、銀髪のおさげの少女が出迎えてくれるなんて、いったい誰が予想できただろう。

 

「え。……え?」

 

 ダイニングテーブルの、椅子四つ。

 困ったように、自宅なのに所在なさげに座る姉の向かいに、ふたつの影が坐っている。

 入ってきた雪羽のほうを見上げて、視線を送っている。

 美しい白銀の髪を、ひとつ結びのおさげに、三つ編みに結んだ少女──、

 

「え。──え、リース? ……なの?」

「まったく、ひどいわね。アヤと同じ幼なじみの顔、忘れちゃった? そりゃあ久しく会ってなかったし、日本にもまるきり来てはいなかったけれど」

 

 そのうちのひとつが、立ち上がる。

 銀髪の少女の隣から。

 

「やあ、雪羽。久しぶり」

「響さんまで。なんで」

 

 スーツ姿の男性。実姉・小雨より少しだけ年上のその人は、迷うことなく雪羽を、真正面から抱きしめた。娘や妹にそうするように──甘さより爽やかさを重視した男物のコロンの匂いに嗅覚が満載され、分厚い男性の胸板に塞がれて息が詰まるようだった。

 彼の両腕が雪羽を抱き寄せた瞬間、テーブルで姉が「あっ」と、小さく声をあげたのが聴こえた。

 黒沢 響。その男性の、名である。

 たしかに近々帰国するとは聞いていたけれど。銀髪の、おさげの少女を伴ってなんて、思いもしなかった。

 

「──ゆき。この人たちは?」

 

 知り合いだっていうから、とりあえず上がってもらったんだけど。

 響さんの腕に抱かれる雪羽から視線を一切逸らすことなく見つめながら、姉が問いを向ける。

 

「え。ああ、うん。こっちが響さん。ほら、こないだ電話してた」

「電話? ──あ。水族館のときの?」

「そう、それ。その響さん」

 

 下の名前だったんだ、男の人だったんだ、と姉は呟く。たしかにどちらともとれるし、性別だってどちらとも聞こえる名前だ。

 

「それで、こっちがリース。リースリア。昔いっしょにヴァイオリンの練習してた子。アメリカ人だよ」

 

 奇しくも、姉にも身近に、レイアさんというアメリカ人の知人がいる。

 へえ、と納得したように、横目で彼女を姉は見る。すぐに、響さんに抱かれた雪羽へと目線は戻されて、じっとこちらに固定されるけれども。

 

「それで、今日はどうしたの? 響さんも、リースも。久しぶりで懐かしいし、嬉しいけど。──響さんは帰ってくるって聞いてたけど──……」

 

 小雨姉さんの仕事の後始末が、終わったって言ってたよね。

 長身の青年の腕の中から彼を見上げ、首を傾げる。

 

「ああ、僕はその報告とお届けものとが主な目的だよ。あとは、リースのほうの理由が中心かな」

「リースの?」

 

 銀髪の少女とは、中学にあがる以前に、袂を分かった。

 雪羽はそのときもうヴァイオリンをやめることを決めていたし、彼女もまた家庭の事情によりアメリカに帰らねばならなかったから。当時から響さんとは両者とも、交流はあったから、時折その後も近況は軽く、聞くことはあった。

 

「ヒビキから、聞いたわ。ユキ、あなたがまたヴァイオリンを手に取るようになったこと」

 

 チャコールグレーのニーハイに包まれた両脚で、リースは立ち上がる。

 響さんとリースとに、雪羽は揃って相対することとなる。

 

「とっくの昔に諦めて、小雨に全部押しつけて投げ出したくせに。今更、また始めたんだって」

「リース。あのね、それは──」

「ユキ。私はまだ、あなたにコンクールで負けたことを忘れていない」

「──え」

「執念深いとか、根に持ちすぎとか、思う? でもそのくらい、私にとってあなたはライバルだった。たとえあなたに自覚がないにしても」

 

 旧友のその瞳は挑発的で、そして挑戦的だった。

 

「私は、来年にはヨーロッパに渡る。そこで、今以上に多くのことを学んで、身に着けて。コサメみたいな立派な演奏家になる」

 

 どんなに遠くにいてもその演奏が、名声が聴こえてくるようなすごい音楽家に。なってみせる。

 目の前の少女が自分以上に、姉・小雨へと憧れその背中を目指していたことを雪羽は憶えている。知っている。もう十分だと諦めてしまった自分の情熱よりも、それはずっと色濃く、熱く燃え上がるものだと、幼い頃より承知をしている。

 

「ユキ。私と勝負をしましょう」

「勝負?」

 

 そう。かつてのように。

 かつてよりずっと、もっと高みにあるステージで。

 

「欧州で私に教えてくれる先生は、演奏家としてコサメにもたくさんの技術を授けてくれた、そんなすごい人よ」

「──っ」

 

 私はその人のもとで、コサメになる。ううん、コサメが天国の神様のもとで目を細めるくらい、コサメよりすごい演奏家になってみせる。

 リースの吐き出す言葉には力も、覇気もあった。強い確かな自信に、彼女は満ち溢れていた。

 そうして紡がれたのは、次には誘いの言葉だった。

 

「ユキ。あなたも来なさい。私が口添えする。ヒビキも力を貸してくれる。だから一緒に、欧州に。また幼い頃みたいに、競い合いましょう」

「な」

「ちょっと、リース。なにを言って──」

「コサメの妹であるあなたにはそうする権利も、理由も。その責務だって、あるはずよ」

 

 あなたに負けたままなんて、ゆるせない。

 再び競い合う存在と、なりなさい。

 リースの言葉に姉は息を呑み、雪羽は困惑をただひたすらに重ねた。

 

「あなたにヴァイオリンの才能がないなんて、言わせない」

 

 また、立ちなさい。その優美な演奏を私に、見せてみなさい。

 最前線のステージに。そこを、目指すものとして。

 

「勝ち逃げなんて、ゆるさない」

 

 私はもう一度あなたと、ヴァイオリンをやりたい。一緒に高みを、目指したい。

 

「コサメだって、きっとそれを喜んでくれるはずよ」

 

 あなたは小雨の妹なのだから。

 小雨だって、あなたのことは認めていたはずだから。


                 *   *   *

 

「あっ」

 

 しまった、と思ったとき、既に指先はぱっくりと傷口を開いて、丸く膨らんだ出血をそこに浮かびあがらせている。

 思わず咥えると、しょっぱい血の味が口の中に広がっていく。

 

「ねーさん? ……ありゃ、けっこう深そう」

「はい。うっかりやっちゃいました」

 

 いつものように、本屋の勤務中。詩亜はレジ横のデスクに座って、発注書の書類整理をやっていた。 

 

「ある? ばんそーこー」

「あ、はい。レジの備え付けが……ああ、あります、あります」

 

 なかったら裏から、家からとってくるけど。

 新刊コミックスを運んでいた妹の問いかけを制しつつ、詩亜は抽斗から出した絆創膏を彼女へ、ひらひらやってみせる。

 

「考えごとしてたり、気になることがあったりすると案外ねーさん、それよくやるよね」

 

 次の段ボールを開きつつ、歌奈は詩亜へと笑う。

 なーに、色ボケて真波先パイのことでも考えてた? 茶化すような物言いに、詩亜も苦笑交じりに首を振る。

 ほんの小さなケガ、不注意だったとはいえ、先輩の見ている目の前でなくてよかったと思う。

 あれで心配性で、あわてんぼうさんで。気の小さな真波先輩だ。

 詩亜が血なんて流しているところを見たら、卒倒せんばかりの勢いでおろおろして、矢継ぎ早にあれこれ質問をぶつけてきたはずだから。

 大丈夫、とか。どうしよう、とか。

 それこそ救急車呼ばなきゃ、とか。すっごくすっごく、大袈裟に。

 ボーイッシュで、どちらかといえば「かっこいい」部類の先輩だけど。そういうところは小動物みたいでかわいらしい。

 そんな先輩も、詩亜は大好きだった。

 

「ちょっと、しーちゃんのことを」

「ほへ? 不知火?」

 

 ……ひょっとして、浮気? 妹の最低すぎるボケに、また苦笑と否定とを重ねる詩亜。

 

「違いますよ。昨晩、ちょっと部活のことでメッセージを送ったんですけど。全然、まだ起きてそうな時間帯に。でも既読にもならないし、今朝になってもまだ、返事もなくって。ちょっと珍しいなって」

 

 もちろんそれは、親友がしつこいくらいの連絡魔だとか、携帯中毒者だとか言っているのではない。

 だが同年代の一般的な女子高生として平均的な程度には、彼女は自身の携帯電話を眺める人間であったし、連絡や返信を理由なく渋る筆不精でもなかった。

 

「とくに急ぎの理由でもないので、気にするほどでもないかな、とも思うんですけどね」

「ふうん。ま、たしかに休日にそこまで携帯見てないってのも珍しいか」

 

 それにそういうとき、ねーさんの勘って当たるからなぁ。

 手を止めずに、妹は言う。

 時計は店の開店直後、十時をまわったところ。おおよそ十二時間。だいたいああいうものって寝起きにひとまず画面、確認するものだし──、

 

「あ」

「?」

「あー。そーいやアタシも雪羽から、返信まだだわ。昨日の夜、こっちもちょこっと連絡したんだった。たぶんねーさんと同じくらい経ってる」

 

 不意に、思い出したように手を叩く歌奈。やっぱり既読も、返事もない。

 それ、今になって思い出しますか。妹の適当ぶりに、詩亜は肩を脱力させて息を吐く。

 

「……」

「……」

 

 ふたり、暫し考え込む。

 

「──大丈夫、だよね?」

「まあ、そういうこともあるかと」

「姉妹揃って、なんかあったんかな」

 

 そのうちに、返事も返ってくるであろう。このときのふたりは、そう予測をするに留まらざるを得なかった。

 なにしろ、いくら親友同士の姉妹同士であったとはいえ、その立場では知る由もない。

 昨晩、不知火たちふたりの間に密か内在していた問題が、出来事として表面化をしたこと。

 そして今朝、そのような目覚めを果たした彼女らふたりが、来訪者のもたらした問題に直面をしていたこと。

 想定も、想像も。できようはずもない。

 ふたりに対し詩亜たちがしてやれるのは結局、できてしまった傷に絆創膏を貼って塞いでやるように。

 彼女たちの直面した問題に対し、彼女たちが結論を出すまでに受けた傷や痛みを、第三者の立場から対症療法として和らげてやる以上のものではないのだから。

 進行形で今、彼女たちに起こっていることに、対処のしようもなかった。

 彼女たちに今なにが降りかかり、彼女たちがどう思い。どのように、その進路を迷わせているのか。

 それはまだ詩亜たちだって、知る前だったのだから。

 

 

          (つづく)

第一部は、姉妹の物語。

第二部は、不知火と雪羽の物語。

そしてこの第三部は雪羽と不知火の物語、というイメージで構成しています。

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