第五十話 夜の、涙
第五十話 夜の、涙
姉の言葉を聞いて。……それからその日、なにをどうやって過ごして、時間を経過していったのかをよく覚えていない。
「──ひかりが」
あんなに小さな、幼いひかりが。
想いの中にあってさえ、それを最後まで言語化することを雪羽はできなかった。
パジャマ姿でベッドの上、膝を抱えて。自身の携帯をただ握る。
画面に呼び出しているのは、今は遠い場所にいる人の電話番号。
レイア・マクマハウゼンの名が、あとは通話ボタンを画面にクリックするだけでいい状態のまま手つかずにそこに在り続ける。
衝動的に、連絡を取ろうとした。
昼間のうちから、何度も、何度も。
声を聞いて。訊きたいことを訊こうとした。姉の伝えた言葉の、真偽を。
でも、できなかった。その行為に踏み切れぬまま、携帯を現状維持のままに持て余す、自分がいた。
「……あたしの、バカ」
ショック、受けすぎでしょ。どうしてなんにもできなく、なってんのよ。自分に対し、思う。
「ああ、もう」
反動をつけて、ベッドから飛び降りる。
しゃきっとしろ、あたし。そういう自分自身への呆れと、文句とがあった。
時間はまだ、十一時。──いいよね、少しくらい夜更かししても。
スリッパをひっかけて、自室を出る。
こういうときは、好きなことをしよう。好きにして、好きなものつくって。それで。好きなもの食べながら、お姉ちゃんと、話そう。
脈絡があるのかないのか、自分でもよくわからない。その一方で単なる逃避行動なのかもしれないということだって、もちろん自分自身、理解してもいた。
太るぞー。
脳裏に友が、……歌奈が意地悪な笑みを浮かべて、言っていた。
わかってるっつうの。
虚像の友人へと言い返して、その幻を振り払わんと頭を左右に大きく揺する、雪羽だった。
* * *
私は、催促しないわよ。電話口の恋人は煮え切らない態度と口調の不知火に対し、はっきりとそう言った。
「──ありがと。星架さん」
水泳部の先輩であり、同性の、年上の恋人である星架に不知火が電話をかけたのは偏に、自己嫌悪と後悔とが、雪羽に告げた言葉の中にあったからなのだろう。自分自身、そう評さざるを得ない。
そしてそういう感情があったからこそ、電話をかけたからといって、声を聞いてほしかった、そして聞かせてほしかったとして、その中身を当たり前のように彼女へ吐き出すことは不知火には出来なかった。
星架さんはゆきではないし、ゆきと星架さんは違う。そう頭では思っていても、妹を困らせ、傷つけてしまった隠しごとを、その告白を想い人にまた同じように向けることは、二の轍を踏むようでいて不知火に心のブレーキを踏ませる。
結局伝えられたのは、自分がわりかし、凹んでいること。
どうやらまた、──ゆきを困らせ、傷つけてしまったのであろうこと。
どうしたらいいのか。どうするべきだったのかを見つけきれずに、いること。
それらは向けられた星架さんの側からすればひどく曖昧で、反応に困る類のものだったろう。
だから、なに。
いったいあなた、雪羽ちゃんになにをしたの。やらかしたの。……きっとそんな風に訊くことだって、星架さんにはできたはずだった。そういう部類の、要領を得ない相談だったに決まっているのだ。
だけど彼女は困惑を──きっと心のうちではしていたのだろうけれども、少なくとも電話口ですぐには不知火にそれと察せられない程度の代物に抑え込んで──自身の大切な相手には見せることなく。
先ほどの言葉を、言った。
不知火が、隠しごとをしている。
それは不知火にとって言うか、言うまいか非常に悩ましく、行動を決めかねる代物で。
彼女はそれの実体を知らない。それがなにかを、聞かされてはいない。
悩み、考え。同じことを伝えた結果、不知火は妹を傷つけてしまったと思っている。悔やんでいる。ゆえに彼女は不知火が、自分に伝えるのを躊躇しているのだと、そのことだけは理解してくれている。
ひかりの、こと。
いくら星架さんが相手だからって、なんの心の準備もなく簡単に、気軽に伝えていいことじゃない。だから言えない。
そういう事情がある。
その中身を知らずとも、事情を察してくれる彼女がいる。
だからその言葉を投げかけてくれた。
「──なんか、よかった」
『え?』
「星架さんを好きになって、よかった。そう、思ってさ」
そういう実感があった。つい、言葉にしてそれを、伝えていた。
電話口。その向こうで星架さんが、思わず口ごもるのがわかった。
『──あのね、不知火』
「はい?」
『あなたの相談なら、どんな急なことでも訊くつもりだけど。……そういう歯の浮く台詞は、不意打ちに投げてくるのはやめてくれないかしら』
羞恥に染まった声が、電話の向こうから聴こえた。
きっと今、彼女は。頬を染めて、困ったような表情で言っているのだと思う。
「いいじゃないですか」
私が、あなたを好きで。そのことをよかったと思える。そういうのって、素敵だと思う。それをただ、言葉にして伝えただけ。
『雪羽ちゃんとは、しっかり仲直りしないとダメだよ』
「──はい」
別に喧嘩をしたわけじゃない。彼女には、ショックを与えてしまっただけ。けれどきちんと、改めて話をして。そして謝らねばならないという点にあっては、星架さんの表現はけっして間違ったものではなかった。
明日、起きて。ちゃんと話そう。
ひかりのこと。これからのこと──……。
「……ん?」
『なに? どうかした?』
「ああ、いや。なんか変な──いや、いい匂いが」
思っていて、気付くのが遅れたのだと思う。
甘い、香ばしい匂いが家の中を漂って、不知火の自室まで入ってきていた。
たとえるならそれは、休日の昼下がり、優雅なティータイムにあわせて鼻腔を擽るような。甘い、素敵な香り。はちみつだか、小麦だか。あるいはほんのちょっと焦げた砂糖がカラメルの香りを発しているような。
……お菓子作りの表現に疎い不知火の語彙ではそれ以上のうまい表現が見当たらない、そう、手作りのお菓子の匂いがしている。
「……ゆき?」
耳元から電話を放して、寝間着の、下着とワイシャツだけの姿の不知火はベッドから立ち上がる。
キッチンのほうから、物音がしている。
* * *
「なに、やってんの。……ゆき」
そして匂いに誘われるように、リビングに出て行って。妹の姿を見る。
キッチンに見え隠れする、パジャマの上からエプロンを纏った、その背中を。
「なにって。パンケーキ焼いてんの」
「今? この夜遅くに?」
「そーだよ。食べない? 食べたくなっちゃった」
軽く振り返って、訊ねる雪羽。
いや、私は。──言って、不知火は妹からの誘いを、断ろうとした。
雪羽のつくるスイーツは、特にパンケーキははっきりと、甘党の不知火としては好物である。食べるかと問われればもちろん全然食べるし、食べたいと思う。
だけれど今夜は、経緯が経緯だったし、唐突でもあった。それに時間も、時間である。
妹が突然お菓子作りをはじめたことも不穏だったし、意図を測りかねた。
「いいじゃん。食べようよ」
背中を向けて、しかし妹は言った。
不知火が予想だにしなかったほどにはっきりと、強い口調で。
「一緒に、夜のカロリーの罪悪感、共有しようよ。……食べて、話そう」
そして、最後のほうは震えていた。──声が、彼女の揺らぎを伝えていた。
「お願い、だから」
今夜は独りは、嫌なんだ。
一緒に、いてよ。……話してよ。
「お願い。──お願いだよ、お姉ちゃん」
それは久しく聞いた覚えのない、雪羽からの弱音。
彼女のそんな声色を、言葉を前にして。
かけがえのない妹の、そんな弱気な様子を見せられて。
不知火には無論、拒絶をすることなど、できるはずもなかった。
* * *
あたたかな湯気とともに、バニラと、バターと。メープルシロップの良い匂いが、部屋じゅうへと広がっていく。
真っ白なお皿の上には、香ばしく焼けたパンケーキがそれぞれ二枚。
ホイップクリームと、ブルーベリーも添えて。ミントや粉砂糖まであしらわれているあたりが、いつもどおりの雪羽の丁寧さだった。
ああ、──いや。
いつもどおり、というのは少し違うのだろう。
普段ならば少しの陰りもなくきつね色に焼き上がるそれらパンケーキは、匂いの差異も、食べても気付かないほどにしかない程度とはいえ、仄か粗い焦げ目がところどころ、その表面に料理上手の彼女らしくもなく、刻まれている。
不知火にはもとより為し得ない範囲において、いつもよりほんのちょっぴり、そのパンケーキはどれも焼きすぎだった。
普段の雪羽の腕前を知るからこそどうにか、その違いに気付くことができるというほど。妹の手料理から、その価値がいかほども落ちようはずもない。
ひと切れを、ナイフで切ってフォークに刺す。
シロップと、クリームと。バター。たっぷり載せて、口に運ぶ。
「──……うん、おいしい。いつもの、ゆきの味だ」
砂糖も、油脂も。この時間に食べるには罪悪感たっぷりな量がきっと、生地の段階から入っているのだろう。
雪羽が以前、パンケーキ──ホットケーキをつくる際、ミックス粉なんて使わないというのを聞いて驚いた、それ以外のつくり方なんてあるとすら思わなかった不知火である。
いつものように、おいしい。
彼女の秘伝のレシピなんて、教わったってたぶん宇宙語にしか聞こえないだろうから、漠然とそのように感覚的に認識するだけなのだけれど。
突発的に作り始めたとはいえ。雪羽がそういったところで手抜かりをするはずがない。の信頼が、ある。
「違うよ」
「え?」
──そう、素朴に思っていた。
けれど向かいに座る妹は少し困ったように眉根を寄せて苦笑をしながら、ぽつり、やんわりと不知火の呟きを否定する。
「最初からそうしようと思ってたわけじゃないけど。いつもより、ダイエットレシピなんだよ。……いつもなら牛乳なんだけど、今日は低脂肪乳使ってる」
「???」
てい、しぼうにゅう? きょとんとした目を向けると、ゆきは可笑しそうに顔をくしゃっとして。
「呆れた。ほんと、お料理や自炊のことになるとてんでダメダメだよね、お姉ちゃんはさ」
「う」
低脂肪乳くらい、わかるでしょ。牛乳より、脂肪が少ないミルク。
「ああ、うん。スーパーで見かけることくらいは」
とくにどっちがどうとか、意識したことはない。
「──あ。そういえば冷蔵庫にいつもと違う牛乳、入ってたような」
「そ。偶然だけど、間違って買っちゃったんだよね。あたし、基本牛乳しか買わないからさ、うっかり」
だから今日のパンケーキは低脂肪乳、使ってるんだ。実際そこまで味も変わらなくって、よかったけど。
フォークの先に刺したパンケーキを頬張って、ため息をつく雪羽。
「──うん。そうなんだよね。きっとお姉ちゃんも、ほんのちょっとかもしれなくてもきっと、それまでと違っていたはずなのに」
「え?」
「あたしだって、お姉ちゃんのこと、笑えないよ。お姉ちゃんはひかりのこと、知らされて。抱えてたっていうのに」
なのにあたしはなにも、気付きもしなかった。
あたしが気付かないように、お姉ちゃんが振る舞ってくれてたんだ、って。そう思うと──自分がなんか、情けなくってさ。
フォークを置いた雪羽は、不知火へと告げる。
「ごめん。お姉ちゃんだけに背負わせていて」
未来がしんどいのは、お姉ちゃん自身なのに。
* * *
──ごめん、って。そんなの、ゆきが謝るようなことじゃない。
「そんな。むしろ謝らなきゃいけないのは私のほうだ。ゆきにずっと黙っていて、隠しごとをして。今夜、混乱させて傷つけてしまった」
ゆきを傷つけたのは、私だ。きちんと話さなければいけなかったのに。
率直な言葉を不知火は妹へとぶつける。
ゆきは肩の力を抜いて、微笑んで。小さく首を振る。
「……レイアさんの見立てだと、その、……ひかりは」
決定的な言葉を使わずにそして、彼女は問う。
そういう言い回しになってしまうのはしかたがない。責められない。
不知火だって完全には受け容れきれずにいる。まして雪羽は今日、昼間にはじめて聞かされたのだから──……。
「うん。原因がどこにあるかは別として。症状としてはたぶん、間違いないって」
微笑みの中に、ゆきは堪えているものがある。不知火の眼には妹の感情がそのように映った。
不知火の肯定に対し暫し彼女は沈黙して、目を伏せて。幾度かの呼吸を重ね、自分を落ち着けようとしているような仕草をする。
「……あたしね。たぶん、お姉ちゃんの目のこと。身体のことを知ったときよりも、きっとショックだった」
「──うん」
「お姉ちゃんは、お姉ちゃん自身が落ち着いていて、受け容れていたから。あたしは一緒にどう受け容れていけばいいだろう、一緒に受け容れていきたいって。そう思う部分が強かったんだ」
ああ。この子はきっと今、無理をしている。
無理、させている──私のせいで。妹の、震える肩に。そのことに気付く。
「でも、ひかりは。……あの子は幼いから。きっとまだ、自分の身体のことに気付いてもいない」
「ゆき。……うん。そうだね、そうかもしれない」
「ごめん、お姉ちゃん。あたしきっと、これからひどいことを言う。あたしにもお姉ちゃんにも嫌な、想像を」
不知火は、立ち上がる。そこから先を雪羽が言うよりはやく。
パンケーキはまだ最初のふた口くらい、ふた切れを食べただけ。そのフォークをお皿の上に置き去りにして。
「お姉ちゃんが、未来。この世界を、あたしやひかりを見えなくなった先に。声の出せないひかりは、きっとお姉ちゃんのことが大好きで」
はじめはしっかりしていた言葉は、次第に掠れていく。
肩の震えを伝播させるように、その声音もまた震えていく。
「なのに、ひかりの伝えたい言葉はお姉ちゃんに向けて、ひかりにはつくれなくて。ひかりの表情は──お姉ちゃんには、わからない」
「ゆき。いいよ、もういい」
「そんなふたりに、あたしはなにもできない」
姉は、姪の顔を、仕草を見れない。
姪は、姉へと届く言葉を発せられない。
そんなひかりが、不憫で。
お姉ちゃんが──せつなくて。
きっとずっと、互いは互いを、とても大切に思っていて。なのにふたりのコミュニケーションは直接、互いが互いへと向き合うことによっては重ならない。お互いへと届かない。
そういう未来を、幻視してしまった。
「大丈夫。私は、大丈夫だから。ゆきが、ひかりが一緒にいてくれる、それだけで十分だから」
「あたしは──ただ、ふたりを見守って、ひかりのことを伝えてあげるだけ。なにも、解決をしてあげられない。それが……それがっ、……つらい、な、って」
雪羽の涙声を塞ぐように、不知火は彼女を胸の下に抱いた。
座ったままのゆきの両手が、応じるように不知火の腰へとまわされて、抱きしめ返してくれた。
不知火のお腹のあたりに埋もれた彼女の、くぐもった嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「私は、大丈夫だから。私とひかりのために、ゆきが傷つくことなんてない。泣くことなんて、ないんだよ」
ひかりの言語障害の可能性についてレイアから聞かされて、そのとき不知火自身考えなかった未来ではなかった。
それは想像するだに寒気がして、寂しくて。
耐えなくちゃ。受け容れなきゃ。そう言い聞かせてきたことだった。
「ゆきが。ひかりが。この手を握って、触れ合ってくれる。傍にいてくれる。それだけで、私は誰とも切り離されたりしないから」
見えなくても。聞こえなくても。ひかりはそこにいる。ゆきも、いてくれる。
そう信じられたから──ひかりの未来に希望を持ち続けよう、そう思えた。
「だから、泣かないで。私とひかりを、お願いだから、信じて」
伏せた双眸の隅から、不知火もまた頬を溢れた涙が伝う。
「私のために、泣かないで。悲しまないで。たとえ傷つけているのが私自身だとしても──ゆきには、傷つかないでほしい。笑っていて、ほしいんだ」
そうして、姉妹は泣いた。
幼子のこと。
未来のこと。
過去に喪ったものや、受け容れたことに対してではなく。
ふたりはじめて、これから受け容れねばならぬことについて。
その行為は、必要だった。
(つづく)
節目の第五十話です。なかなか重い話になってしまったかもしれません。
感想・ご意見・つっこみ等々お気軽にどうぞ。




