第四十九話 これからの、ひかりのこと
(8月10日追記)
※毎週月曜更新の本作ですが、本日8月10日付の最新話は作者体調不良により明日火曜日の更新となります。
どうぞご容赦ください。
第四十九話 これからの、ひかりのこと
リースリアにとって、そこははじめて踏みしめる大地ではなかった。
それなり以上に勝手知ったる国、そして勝手知ったる土地。……その、勝手知ったる空港。
以前に訪れてから早や、もう三年ほどにもなる。その場所は小奇麗な改装や、些細な変化は数多く見受けられたけれど、根本の雰囲気という部分においては少女にそれを感じさせることなく、変わらぬままにそこにある。
「やあ、よくきたね」
そして同じだけの年月、会うことのなかった人物もやはり、そこに待っていた。
「ええ。お久しぶり、ヒビキ」
長らく会うことのなかったその人は、やっぱり殆どその印象を、雰囲気を変えていなくて。かつてより年齢を重ねたぶん少し老けて、ほんの少し髪型が、前髪の感じが変わっただけ。
ふたりは同じものに接してきたもの、同士だった。
そして同じものを喪い、その同じものを喪ったもうひとりを気にかけてもいた。
響がそのためになにかをしたのかはわからない。残念ながらアメリカから日本は物理的な距離が遠すぎる。十代の少女にすぎぬリースには自らがその事象について動くこともできず、また響のその間の動向も、詳しくはっきりとは知り得ることもかなわなかった。
「あの子は──元気でやっているの?」
流暢な日本語で発した、たったそのひと言で、誰を指すのかくらい響は理解して、頷いてくれる。
そして簡単に伝えてくれる。
彼女の近況。
直接会ってはいないが、電話では時折やりとりを交わしていること。
彼女を襲った出来事の衝撃から、立ち直りつつあること。……共に生きる、新たな家族を得て。
「そう」
自身のキャリーバッグを引っ張りながら、響に向かい、「行きましょう」と促すリース。
最後の、「新しい家族」という単語だけが唯一、リースの心を仄か、おもしろくない感情のスパイスに味付けしていった。
それがきっと彼女にとって必要なことだとわかっていても、リースにとってはあまり容認し得ることではない。
少女にとって喪ったものこそが唯一の家族であり、
喪われた存在もまた、少女を唯一の肉親としていた。その不可侵の領域と認識とが、それらを目の当たりにしてきたリースの中にはたしかに残っているのだから。
そんな彼女たちだからこそリースは憧れ、そして負けたくないと思った。それが確かな過去としてあったから、今の自分がある。そう自覚するから。
「待っていなさい、ユキ。あなたを、導いてあげる」
かつて、あなたも目指していた場所に。
あなたの一番大切だった存在が、立っていた場所に──今だからこそ、必ず。
* * *
青い縁の眼鏡をかけたその青年医師は、かつての兄の同僚だったという。
厳密には、研修医時代に同じ医局にいた。半ば学生として、また半ばには発展途上の医師として。兄とは知人であり、レイアと育んだほどの深い友としての関係性はなかったものの友人でもあった。
レイアがアメリカに向かう決断をしたのは、長期にわたりそこに留まることを選べたのは。後任として呼ばれる最有翼がが彼だったから──そんな要素もあったらしい。
最低限とはいえ、知人として不知火の身体のことは、眼の事情は知っている。だから不在をひとまず、任せるには耐えうると、レイアも判断をしたのだろう。
「どうです。その後、とくに変わりはないですか」
おもしろみのない、月並みな医師と患者との言葉の交換がそこにはあった。
当然と言えば当然、レイアと自分との仲が砕けすぎていただけなのだ──自分の中にある感覚に苦笑し、諫めつつ。不知火は眼球のレントゲン写真を広げて、照らしてみせる青年に対し頷く。
「不意に一瞬、見えなくなったり。霞んだり、焦点がぼやけたりとかは」
それもない。今度は否定を示すべく、首を左右に振って。
「テスト前に勉強漬けだったり、プール後に……ああ、えっと。水泳部なんです。きちんとケアしなかったらときどき疲れ目やチカチカするのは感じることはあります。でも、たぶん人並み程度です」
そうですか。青年医師は軽く呟いて、手元の診察書類にペンを走らせる。
まだ、タイムリミットには最大十年ほどがある。まだだ。まだ、大丈夫。念のため持ち歩いている眼鏡だって、殆ど使ったことはない。
ここが病院であるということ。目の前の医師の世話になっているということ。それらが嫌が応にも伝える自分の未来のこと。それはまだ、未来でしかない。
なにか、どこかが悪化したとかじゃあない。それはまだ。
どこかに変化が生じているとすれば、肉体についてではなく、精神のほうにだ、と不知火は自身の状況をそう分析する。
以前はもう完全に、客観的未来事象としてこれから先起こるのだな、と。
覚悟を通り越し、そういうものだと認識するばかりだった。自身のことにも関わらず──受け容れて。だったらどうするのが最適かと、まるで第三者の視点のように、それについて冷静で、淡白でいられた。思い出すこともきっと、最小限でしかなかったと思う。
「マクマハウゼン女史からは、その後連絡は?」
「あ、はい。ちょくちょくもらってます。年末に一度こっちに戻ってくるとか。あまりあちらでの研究に、なにか具体的といえるような進展があったわけでもないみたいですけど」
気持ちの変化、というか。なにかが生じようとしている。心の中に。その小さな火花に気付いたのは、やはりそうやって、微かながらであっても希望の片鱗と思しきものが提示されたからだろうか。
以前のように、どこか他人事じみた空虚な感覚で未来の自分を眺める目線では、いつしかなくなっていた。
ゆきと。
ひかりと。
星架さんと。
詩亜や、歌奈や、彩夜や。みんなと。
これから先の未来を「不知火として」その霧のかかった向こう側を見ようとしている自分が、自分の中にいる。
それを自覚したとき、その火花は生まれるのだ。
線香花火のように小さく、儚くて。でも、綺麗で。
触れようとしたら、ぴりりと痛みを微か、火傷をした指先のように胸に感じる。そんな心の火花。
その正体を完全にはまだ、不知火自身掴みかねている。吉兆なのか、凶兆なのか。どのようにそれが移ろっていくのか──……。
「そうですか。引き取った娘さんについては?」
ひかりと、ゆきとともに。進んでいけたら、と思う。もちろん恋人である、星架さんとも。
「はい。ひかりのことも──変わりなく。私も迷っています。妹に伝えるべきかどうか。確証のない、今の段階で」
自分だけでも、様々な可能性に彼女を振り回しているのに。
このうえ、ひかりのことまで。慎重になろうとしている自分がいる。
「それについても、レイアが調べてくれていますから。……ひかりの、こと」
* * *
「おお、アンタか」
遠い日本とアメリカの時差を考えればおそらくは最大限に配慮をしたであろう時間帯、煮詰まった考察にため息を吐いていたレイアは、バイブレーションで着信を告げた自身のスマートフォンを手に取る。
相手は、留守を任せてきた青年。長く大学講師の地位を、そして医師としての立ち位置を空けることになるレイアの臨時代理として赴任してきた同期の眼科医師からの通話を、レイアは受け取っていた。
肩と耳とで電話を挟みながら、ミックスナッツの缶に手を伸ばす。
ぱかりと蓋を開けて、適当に指先に取ったアーモンド・ナッツを口に放り込む。
ひたすら論文に当たってばかりいて、この電話がかかってくるまで数時間、なにも飲まず食わずだった。そのまま立ち上がり、キッチンの冷蔵庫からコーラを一本取り出す。
缶のプルトップを開けると、小気味よく炭酸の広がる音がした。
「不知火? ──ああ、正直芳しい進展はないな。なんとか希望を見つけてやりたいし、チームリーダーたちもそういうことならって、あれこれ調べてくれてはいるんだが。あくまでこっちでの本来の患者がいて、彼女をまず第一に考えるべき状況だしな。あっちはまだ不知火よりずっと幼いし」
不知火ではもう間に合わない方法でも、速やかに施せば間に合うものが発展途上のその身体には存在するのかもしれないのだから。
そういった中で、レイアは不知火のためにできることを見つけていくしかない。
電話口の相手は医師同士であるがゆえか、すんなりとレイアの言葉を飲み込み、適切な相槌を重ねてくる。
おそらくは、一番手より二番手、サポート担当として力を発揮するタイプなのだろう。
ああ、こいつが晴彦と生前、もしも組んで研究をすることができていたらあるいは──ということも、あったかもしれない。そう、思える節すらある。
「──それと、ひかりのこと。こっちも、やっぱりいい報告はできなさそうだ」
ワタシの見立てが、たぶん間違っていなかった。
……間違っていて、ほしかった。何人もの医師の意見を、アメリカに戻ってきてから求めたけれど、彼らは皆、レイアの所見を否定することなく、むしろ肯定をしていった。
「なあ。ワタシはあの姉妹に、重荷を背負わせてばかりなんだろうか」
答えや慰めを期待して発した言葉ではない。胸にちくりと刺さった罪悪感の棘に、気付き、悟り。自らの手で今このときだけでもそれを抜いておくために、そうやって言語化することが必要であっただけだ。
それは、彼女たち次第でしょう。──応じる電話の向こうの声は、冷静で。そして面白みのない、月並みな言葉となって返ってきた。
違いないな。
大人には子どもに与えて、見守る以上のことはできない。そこから先への干渉は、先達による余計なおせっかい。差し出た行為でしかない。
権利も、そのあとの責任も。彼女たちは十分にもう行使できるし、背負っていける。そういう歳だ。
答えも、選択も。それらは子どもたち自身に帰することなのだから──。
* * *
ただいま、とリビングに向かい声をかけて、パンプスを脱いだ。
病院のあと、星架さんと軽く、カフェデートなぞに興じて。雪羽たちへのお土産にとデパ地下で一緒に選んだケーキ屋の箱が、その手にはある。星架さんも家族にと、同じ店でいくつかケーキを見繕って、一緒に買っていった。
「?」
おかえり、の声がない──いや。あったようにも思える。ほんの微か、聴こえたような。空耳のような。そんな小さな声が、リビングの扉の向こうから発せられた、ような気がした。
「ゆき?」
なんとなく、思いきり開け放つべきではない気がした。
手をかけたノブを、そっと回す。
──予測は的中していて。ソファからこちらに視線を向けたゆきが、人差し指を立てて、「静かに」とジェスチャーをしていた。
「ただいま」
自然、不知火の側も小声になる。掠れた、微かな無声音で告げると、妹は無言に頷いた。
彼女の膝の上には、背中から抱かれるかたちで体重を預けて、幼いひかりが寝息を立てている。
そんなふたりの傍らには数冊の絵本。不知火とゆきがふたりで選んで、ひかりのために買ったものばかりだ。
「おかえり。──絵本、読み聞かせしてあげてたんだ。さっき、眠っちゃった」
言った雪羽は足元から、その幼子のために用意してあったのだろう、薄手のブランケットを手に取って、自らと一緒にひかりを包む。
重ねてよく見れば、そうやって翻るブランケットの布の下、ひかりがその腕の中にテディベアを──きっと雪羽が貸してあげたのだ、ぬーさんを抱いて寝入っていることに気付く。
幼子と、クマ。その組み合わせは見る者にとって微笑ましさしかないほどに、似つかわしく。
「それは?」
「ああ、うん。デパ地下のケーキ。星架さんと選んできたんだ。あとで食べよ」
「やった」
ひかりが起きたら、あとでみんなで食べよーね。小さなガッツポーズとともに雪羽は言って、朗らに笑う。
義妹と。義姪の織りなすそんな光景が微笑ましくって。この光景をずっと見ていられたら、なんて不知火は思う。キッチンに、冷蔵庫に向かい、開いたそこにケーキの入った箱を仕舞いながら、心から。
「こないださ、『白夜』で。常連のおばさんに言われたんだ。白鷺のおばさんたちと一緒にいつも、ひかりのことをかわいがってくれてる人」
背中越し、妹の述懐を聴く。
「ひかりちゃんももうすぐ、言葉とかたくさん憶える頃合いだね、って。そしたらもっと、この子は世界が楽しくなって。不思議なことがいっぱいになるよ、興味津々で元気いっぱいになるよって」
「──……っ」
「ああ、いいなーって。そういうの、すごくたのしみだなって、思った」
妹の言葉が、彼女にとっての自覚なく、不知火へと突き刺さる。
これは仕方のないことだ。彼女は何も悪くない。すべては、なにも告げずにここまできてしまった、不知火自身が悪い。
妹も、ひかりも。案じながら。伝えることを恐れていた自分が自分を、傷つけているだけのことだ。
「だからさ、これからいっぱい本を読んでやろうと思って。今は大人しいけど、ひかりはいったいどんな子に育ってってくれるのかなーって。楽しみで、しょうがないんだよね」
第一に覚えるのは、心苦しさ。そして、すまなさだった。
そしてやはり、いつまでも隠してはおけないと──隠しごとはしないはずだったろうと、自分を責める感情が湧き上がってくる。
あるいは昼間、医師とあんな会話をしたからかもしれない。
「なんか、母親みたいだよね。小雨姉さんもこんな気持ちで、ひかりを引き取ったのかなぁ。ふたりにも、見せてあげたいよね。ひかりの成長。どんな子になっていくのかを」
「──ゆき」
小さく唸り始めた冷蔵庫を閉じて、同時、瞼もひととき閉じる。
伏せた双眸を開くとともに、不知火は妹へ向かい決意を固め、振り返る。
「ゆき。……ごめん」
眠る幼子を抱いた、妹へ。逸らすことなくまっすぐ、見つめる視線を送る。
「まだ、確証がなかった。このことを教えてくれたレイアからも、はっきり百パーセント、どちらとも確定はできないと、言われてた」
「え?」
妹が。ゆきが、眼を瞬かせている。急に真剣な面持ちを向けた不知火に、戸惑っている。
ごめん。伝えられなくて。この段階で言うべきか否かを常に、迷っていて。
「な、なに。どうしたの、お姉ちゃん。いきなり。──あ、ひょっとして。今日の検診、なにか言われた……とか?」
戸惑う雪羽からの問いに、首を振る。私じゃない。私は現状、なにも変わっていない。
今までと、未来予想図はなにも。ゆきに伝えた頃から、同じままだ。
「ひかりの、こと。確実じゃない。私の眼のこととは違う。だからもしかしたら、そんな悲観することでもないのかもしれない。私が深刻に考えすぎなのかもしれない、こと」
レイアが日本を発つ前、不知火にだけ伝えていった彼女の予想。
最もひかりと長く過ごした大人であり、医師でもある彼女であったからこそ思い至った、その可能性。
「だから不確実なことを伝えるべきか、迷っていた。私自身、それを言葉にしてゆきに伝えたら、私たち自身がそれを認めて、ひかりの未来を確定させてしまうような気が、してしまっていたんだ」
スリッパをひっかけた、パンプス・ソックスの両脚でフローリングの床を歩む。
眼前に見下ろした妹と、ひかりの姿からけっして視線は外さない。不安げに見上げられた妹のそれと、ずっと交差をさせ続けながら、やがて告げる。
ごめん、ゆき。
いつだって私の言葉は、きみに重いものを背負わせてばかりのように思える。
姉として、情けない。すまなく思う──……。
「ひかりは、もしかしたら。言葉を発せられないかもしれない」
声は、聴こえている。
私たちが言っていることも、きちんと幼いなりの範囲で、理解をできている。
だけど、それでも。「彼女から」は──無理なのかもしれない。
そう、今まさに、ゆきが不知火の発した言葉の意味を理解しきれずにいるのとは、ベクトルを真逆に。
ゆきが言葉を失っているのと、同様に。
「ひかりは、自分の意志を言葉に載せて、発することのできない身体なのかも、しれないんだ」
肉体的なものなのか。
幼くして天涯孤独となった状況への自己防衛や、幼いながらの精神性がそこに置かれたことによるものなのかはわからない。後者であれば、時とともに解決されていくものなのかもしれない。
だがひかりがどこか、同年代の幼い子たちとその成長の中にあって異なることに気付いたレイアは、どちらにせよ、ひかりに訪れ得る可能性をそのように、予測し不知火へと告げた。
信じたくないことだった。
ずっと、忘れていたいことだった。
自分自身の身体のことは受け容れた不知火だというのに、対象が自分でなくなるとこれだけ、受容しがたいものなのか、とすら思えた。
「それでも私は、ひかりを守りたい。見守り続けたいって、思うよ」
兄さんと、小雨さんの子。私たちの、大切な子。
私は見ていたい。見続けていたい。この両目が、見えているかぎりずっと。
「ごめん」
今まで、言えずにいて。
こんなわがままを、はっきりしない未来を、伝えてしまって。
ひかりのことを愛している、あなたに。
(つづく)
第三部、本日より開始です。
今までのスタートと打って変わって、はじまりからシリアスモードで入っていきます。




