第五話 熱に浮かされ、ともに眠る
第五話 熱に浮かされ、ともに眠る
雨の中を、ふたり歩く。
全身、ずぶ濡れのまま。あとからあとから絶え間なく降り注ぐ雨を、全身に浴び続けながら。
雪羽は揺られている。今日はじめて、何度も名前で雪羽のことを呼んでくれた、……その、人物の背中に。
「買い物の荷物は白鷺さんが引き上げて、預かっておいてくれるってさ。また今度、取りにおいでって」
まだ少し、泣きはらした鼻の奥がつんとした。降りしきる雨が洗い落としてはくれたけれど、そうでなければ嫌というほど流しきった涙で、顔はひどいことになっていただろうな、と思う。
今はもう、大丈夫。他愛のない話を、交わせている。
家路を辿りながら。乾いているところなんてまるでないくらいにお互い、全身ぐっしょぐしょだったけれど。どうせあとはふたりきり。ふたりで、帰るだけなんだからいい。
「あ、あのさ。やっぱりあたし、降りるよ。降りて、歩く」
「ダーメ。けっこうひどいって。変な方向におもいっきり捻ったって言ったのは自分でしょ。腫れてるみたいだし、まだ痛むんでしょ。それは許しません」
「で、でもっ。子どもじゃないんだからっ」
「子どもじゃないんだからわがまま言わないの。ここは大人しく、運ばれててください」
ただ、気になることがあって、運んでくれている姉の背中から、雪羽は離れようとする。
だけど雪羽を背中に抱え込んだ両腕は離してくれなくって。じたばたするのもなんだか子どもっぽいような気がして、雪羽は大きく出ることが出来ない。
「──だって」
「?」
「お、重くないかなって」
そうやって、絞り出すのがやっとだった。
ふたりの間には一瞬、沈黙が流れて、やがて、
「……ふふっ。なに、それ」
眼前にある背中の向こうで、その人は噴き出すように笑う。
それがやっぱり恥ずかしくって。なんだか意地悪な気がして。
「だ、だってさ! こちとら特に運動もしてない帰宅部だし! 水泳やってる駒江さんとは──……ううん、じゃなくって、あの。その……し、……しら……」
その勢いのままに、言えたらよかったけれど。声は頼りなく、次第に尻すぼみに消えていく。
名前で呼んでくれた、その人に。
自分は名前でただ呼び返したかったのか、それとも。
それとも姉と、そう呼びたかったのか──どっちなんだろう。
「いいよ、無理しなくても」
「え」
「雪羽にとってお姉さんは当然、小雨さんだったんだし。私からそうしたのは、私がそう呼びたいって思った、それだけだから。返さなきゃとか、考えなくていいから、さ」
穏やかな声で、その人は言う。
「今まで通り、駒江さんでも。私は別に」
「それはダメだよ」
「……?」
その包容力が、寛容さが。──悔しい。
「あー、もう。なんか、ズルい。ズルいよ、お姉ちゃん。たった二か月しか違わない、同い年のはずなのに」
なんだかすごく、姉っぽい。随分と大人に感じてしまう。そう思って吐き出した言葉は、自然、彼女のことをまさにそう、思わず呼んでいて。
ああもう。恰好、つかないな。
もっとドラマチックに、彼女をどきりとさせるような、感動的な状況で言えればよかったのに。
「え?」
「ズルくって。……護って、ほしくなる」
「今、なんて」
「振り向かないで。……その、恥ずかしいから」
改めて、発言に触れられると。
真っ赤になった顔を自覚するから、すごく恥ずかしいから。雪羽は思わず、目の前の背中に密着してそれを埋める。
見られると、なお一層恥ずかしい。
雨の中おんぶされながら、ずぶ濡れ同士のふたりでこんなやりとりをしていること自体、だいぶん恥ずかしいんだってこと、もちろんわかっているけれど。それでも、だ。
暫く、黙って。こうさせていてほしい。
姉さん、と呼ぶのはきっと、小雨姉さんに対してだけだから。
囁くようにあなたをこう呼ぶのを、聴いていてほしい。
「──不知火、お姉ちゃん」
* * *
「で。雨の中乳繰り合ってびしょ濡れのまま延々歩いた結果、風邪を引いたわけだ。姉妹揃って」
「言い方に悪意を感じる……」
三十八度六分。うん、完全に風邪だね。
学校帰りの、制服姿の歌奈の手には、つい先刻まで雪羽が腋に挟んでいた体温計が握られている。
「だって、事実じゃん?」
「うー……」
意地悪な微笑とともにこちらを見下ろすその友人は、おでこに貼る冷却シートのフィルムをはがしながら、そんなことを言ってくる。
なんだかんだ言いながら、こうして世話をしてくれる、駆け付けてくれるのだから、親友とはありがたい。
「頭、痛いよぉ……歌奈ぁ」
「風邪なんだから当たり前でしょ。黙って寝てろっての。ったく」
昨日、家に帰って。寝て。朝起きたら、頭がふらふらした。身体が熱かった。節々も喉も痛い。
やばい。完璧に風邪だ。どうにか起き出してリビングに行くと、……まったく同じ状態のお姉ちゃんが寝間着姿で、ソファに沈没していた。
どうにか着替えて学校に行こうとはしたらしい、制服のブラウスを抱えたまま。
「……あー……冷たい、きもちいー……」
ぬるくなった冷却シートをはがして、歌奈が新しいのを貼ってくれた。
風邪、感染してしまわないようにマスクをしているから声はどうしてもくぐもってしまうけれど、素直にありがとうを告げる。
「ほんと、ごめん。頼っちゃって」
「いーって。むしろちょっと嬉しかったし」
よっこいしょ。歌奈はスカートを押さえつつ、布団をかぶって唸る雪羽の、そのベッドサイドに腰を下ろす。
学校を休んだことについて連絡をくれたのは、彼女のほうからだった。
いや、彼女たち、姉妹から。そういうほうが正しい。
姉にも、詩亜さんから同様の心配のメッセージが届いたらしくって。ふたり揃って風邪でダウンしている旨伝えると、こうして放課後の今、彼女たち姉妹は雪羽たちの家を訪れてくれたわけである。
「ま、ゼリーやらヨーグルトやら、ドリンクやらしこたま買い込んで来たから。あとでお粥でも作って置いていくし、それでなんとかなるでしょ」
「面目ない……」
「彩夜も来たがってたけど、家のバイトあるみたいだったし。そもそも病人に、ご飯つくりに来るとなると残念ながら彩夜は戦力外だからねぇ」
熱に浮かされた瞼を閉じたまま、マスクの奥に苦笑いを浮かべて、雪羽も頷く。
彩夜の料理下手は、雪羽も、歌奈も。そして彩夜自身も周知のことだった。
コーヒーや紅茶を淹れるのは達人なみに上手いのに、また喫茶店で出すようなスイーツ作りなんかもプロ級なのに。
いくら喫茶店の娘だからって遺伝子がその分野に特化しすぎてはいないだろうか、というくらいに、家庭料理に関しては致命的にさっぱりなのである。
カレーは名状しがたい色合いのゲルとなって、スライム状に弾力を発し。
焼き魚は塩釜焼なんてレベルではない、塩の結晶体そのものに生まれ変わる、というほどに。
「でも単なる風邪で少し安心したよ。昨日、駒江さんとデートだって聞いてて、そんで急に学校休むでしょ? なんかあったのかって、ちょっと心配だった」
「歌奈……」
言葉を交わしつつ、歌奈は雪羽の、乱れた前髪を指先で掃ってくれる。
そっか。そういう心配、させてたんだな。彼女に気遣ってもらっていたことを、雪羽は申し訳なくも、また嬉しくも思う。
「あったよ。いろいろ。一昨日までとはすごく変わったことが、あった」
「へえ? どんな?」
「──うん、あのね」
呼んでもらえた。
そして、ちゃんと呼べた。
「あたしのこと。お姉ちゃんの、こと」
* * *
「そっか。ちゃんと呼べたんですね。……呼んで、もらえたんですね」
熱に浮かされた、潤んだ瞳の先に見る、銀色じみたその灰色の髪はいつにもまして、特徴的で独特で。美しく映る。
──なんて言ったら、そういうことは妹さんに言ってあげてください、とか叱られるんだろうなぁ。
綺麗だ、って思うのは本音だから、仕方ないのに。
そう思いながら、膝を崩してカーペットに腰を下ろした詩亜の姿に、不知火は目を細めている。
布団をしっかりかぶせられたその下は、いつもの寝間着の、兄のカッターシャツ。と、組み合わせとしてはひどく不釣り合いな、学校のジャージのズボン。
いらないよ、大丈夫だよ。詩亜にはそう抗議したのだけれど、強引に着せられた。風邪なんだからあったかくしないとダメです、と強く言われては、流石に逆らえない。
病人なんだから、看病する人間の言うことは素直に聞いてください。
はい。
そんな、勝敗のわかりやすすぎるやりとりで、ここに至る。
果物ナイフ片手に林檎を剥いてくれている彼女に、大人しく寝ているよう、監視され──いや、見守られている。
「嬉しかったよ。……うん、すごく。嬉しかった」
雪羽に、「お姉ちゃん」って呼んでもらえたこと。
彼女を護っていきたい、護りたいと願って。それが報われたような気がした。その気持ちを、素直に詩亜へと吐露できる自分がいる。
「これから、ですよ」
「え?」
「報われるのも、護っていくのも。これからいっぱい、しーちゃんにはやってくるはずだから」
姉妹を、姉をやっていくっていうのは、そういうことだから。
詩亜のその言葉は、きっと長年、姉をやってきたひとりの先輩としてのものだったのだろう。
離れた距離から、近くへと。それをひと足先に経験した、先達としての。
彼女自身の実体験が、そうだったから言えること。
「離れていてもそうだったのが、今は毎日のようにやってくるんです。わたし、今の生活ですごく満たされてるなって思える。だからこれから、しーちゃんもそうなりますよ」
「詩亜……」
嬉しいこと。楽しいこと。
悲しいこと。辛いこと。分け合っていける姉妹としての生活が、とても充実したものとなっていく。
詩亜から告げられたその未来予想図は、熱に浮かされてぼんやりとした頭の中にあっても、とても魅力的に、輝いて見える。
「ありがとう。すごく……すごく、素敵だな。それは」
「はい。とっても、素敵なことです」
剥き終わり、上手に切りそろえた林檎の皿を、詩亜は不知火の勉強机の上にそっと置く。
「だから今は、たっぷり休んでくださいね。素敵な毎日を、妹さんといつだって、元気いっぱいに過ごせるように」
林檎、ここに置いておきます。食べられそうなら食べてくださいね。
八等分した檸檬を絞って、そこに振りかけながら詩亜は言った。
林檎の色が変わらなくなるんだっけ──そんな彼女の仕草もまた、不知火の目には美しく映った。
*
そして目覚めたとき、時計は深夜の十二時をつい先刻、まわったところだった。
「「──あ」」
枕元には、お大事に、と歌奈からの書き置きが残されていた。
キッチンのコンロにはお粥が。冷蔵庫にはゼリーやら、買ってきたものが入っていると、補足説明が走り書きされていた。
手にとったそれらメモ書きを読んで、ある程度は頭に入ってくるくらいには、具合も回復傾向にあった。
熱も多少、下がっている。これなら大丈夫かな。ベッド上に身を起こすと、空腹を自覚した。
「雪羽。起きたんだ。具合は?」
ちょうどいいや、お粥食べよう。ベッドを降りて立ち歩くのに問題ないことを確認して、部屋を出た。
──直後、同じように扉を開いた姉と、ばったり出くわした。
「え、ああ。うん。ばっちし、とまではいかないけど。なんか食べれそうなくらいには。お腹空いたなって。お姉ちゃんは?」
お姉ちゃん、という雪羽の発声に、黒髪の彼女は一瞬ぴくりと反応をして。
やがてなんだか嬉しそうに、またちょっとこそばゆそうに、柔らかく笑う。
「うん、私も。少し元気になったら、お腹空いちゃって」
熱が残っているのとは少し違う赤みをほんのり、彼女はその頬に差している。
そのことに気付いたとき、雪羽も同じ類の頬の熱さを、彼女に向ける自信の表情の中に感じる。
お姉ちゃん、って呼ぶこと。呼ばれること。
お互い、まだ慣れていないんだな。
「詩亜たちの作ってくれたお粥、食べようか。あたためるだけだって言ってたからさ」
「あ、うん。──ねえ、リビングで食べない?」
「え?」
「ソファで、さ。並んで一緒に、食べたい」
* * *
歌奈たちの作り置いていってくれたお粥は美味しかった。
風邪で弱った胃に、やさしく染み込んでいくような、そういう味。鍋敷きの上に、あたためた鍋を置いて。おたまで直接、それぞれのお茶碗に取り分けた。ふたりがかりとはいえ一度に食べきるには多い量だったから、お互いごちそうさまをしたときにはまだ、半分くらいは鍋に残っていたけれど。これは朝ごはんにすればいい。たぶん作ってくれたふたりもその意図で敢えて多めに作ったはずだから。
「──ごめんね、お姉ちゃん」
「え?」
「あたしのせいでしょ。あたしを迎えにきてずぶ濡れになったから、お姉ちゃんも風邪引いちゃって」
「そんなこと。別に、いいんじゃない? こういうのもたまには、さ」
おんなじことを、同じタイミングでやるって。姉妹らしくっていいじゃない。
「風邪引くのに姉妹らしいもなにもないでしょ」
姉の物言いに思わず苦笑する。
ソファに肩寄せ合うようにふたり、座っている。ふたりで一枚の、大きめのブランケットを、分け合うように肩から被っている。
姉の掌は、雪羽の手を包み込み、握ってくれている。
「……ありがと、お姉ちゃん。あのとき、来てくれて」
「うん」
こちらからも、ありがとう。姉は首を傾けて、雪羽の頭に、軽く自身のこめかみをこつんとやって、言葉を紡ぐ。
「私が踏み出した勇気を、受け容れてくれて。私を姉と、呼んでくれて。私にあなたを、助けさせてくれて」
「あたしはなんにもしてないよ」
「ううん。こうして一緒にいてくれるだけで十分だから」
私も雪羽も、血の繋がりという点では天涯孤独だけど。
でも、独りじゃない。周りのみんながいるという以上にお互いがいる。同じ時間を過ごして、同じことをやれる。同じものを見ていける。
たとえそれが永遠じゃなくても。この私の瞳が世界を見ているかぎり、雪羽と同じものを見続けていられる。それが、嬉しい。
「お姉ちゃん……」
自分を助けてくれた人に、そう言ってもらえることは素直に嬉しかった。
「だから、護るよ。これから、私が。雪羽を。兄さんや、小雨さんがそうしたかった分まで。ふたりの代わりにじゃなく、私の精一杯で」
ぎゅっと、握り合う掌に、姉は力を込めた。
痛くはなかった。心強くて、あたたかかった。
「──お姉ちゃんは、」
そんな彼女に、雪羽は問う。
「お姉ちゃんは、大丈夫? あたしみたいに──お兄さんのこと、その」
死ぬほどつらく思えたあの雨の中の瞬間、そのひとつひとつを思い起こす。
繋いでいるのとは反対の掌で、雪羽は思わず自身の胸を押さえる。
あたしは、不知火さんが……ううん、お姉ちゃんが来てくれた。あのただただつらかった、時間に。お姉ちゃんもあんな瞬間をその身に受けるときが、来てしまうのだろうか。
あんな思いを、この人にまでしてほしくはない。
もちろん、避けては通れないことなのかもしれないけれど。
「いつかは……そうだね。私も、兄さんのこと。死ぬほどつらい瞬間が来るんだと思う」
「お姉ちゃん」
「きっとものすごくしんどいし、いっぱい泣いちゃうんだと思う。でも。でもね」
今はもう、こうして雪羽がいてくれる。
だからきっと、乗り切れると思う。
姉の言葉は、強がりや、雪羽の気遣いでもなんでもなく。どこまでも素直な気持ちから発せられたものだった。
手を握り合って、寄り添いあっていて。そのことが伝わってくる。
「雪羽と一緒なら、大丈夫。今はそう思えるんだ」
買いかぶりすぎだよ、と冗談めかすのも違う気がした。信頼してもらえるのが、嬉しかった。だから無言にただ、雪羽は重ねた掌を握り返す。
支えるよ。
お姉ちゃんがつらいとき。一番すぐそばで、精一杯、支える。
あなたがあたしを、護りたいと思ってくれるように。
だってあたしたちはもう、『姉妹』──いや、姉妹なのだから。そうなっていく、ふたりなんだから。
「少し、眠くなってきたね」
「──うん。そろそろ、戻る?」
「いや、このまま一緒に寝ちゃおうよ」
密着するように、姉は雪羽の肩に、自身の肩を寄せる。お互い寒くないように、毛布でふたりを包んでいく。
体温を、分け合う。あたためあう。
「もう。詩亜さんにバレたら怒られちゃうよ。あたしだって、歌奈に」
言われちゃうよ。風邪引きなんだからふたりとも、ベッドであったかくしてきちんと寝なきゃ、って。
「平気だよ。雪羽があったかいから。それに、誰も見てないでしょ?」
バレやしないよ。
姉の囁きは、いたずらっ子みたいだった。
「せっかく、ふたりきりなんだからさ。きっと兄さんたちも今、ふたりきりであっちにいる。私たちもそうしちゃいけない理由なんてないよ」
ふあぁ、と。小さく、彼女は可愛らしい欠伸を漏らす。釣られて雪羽も、思わず欠伸が出た。
たしかに姉の隣はあったかくて、ぽかぽかしていて。心が安心して弛緩していくのがわかる。
「明日からも、よろしくね。雪羽」
おやすみ。言って、隣で双眸を閉じる姉。
彼女と一緒に眠ること。今日くらい、いいよね。雪羽にも、そう思えた。
──こちらこそ、よろしく。お姉ちゃん。
「おやすみなさい。──お姉ちゃん」
肩寄せ合って、手と手、繋ぎあって。ひとつの毛布に包まりあったままに、雪羽もまた瞼を閉じる。
あたたかなぬくもりの中で、眠りに落ちていく。
きっと、悪夢なんて見ない。
この人と一緒なら、きっと。
(つづく)