第四十七話 夕映えに、音色は咲いて
第四十七話 夕映えに、音色は咲いて
今度また日本に行くんです。幾度かの交流の折、その少女はレイアにふと、そう言った。
「あの国には、大事な忘れ物があるから」
治療を行う医師と、患者の家族。その事務的な関係性でしかなかった、レイアと少女とが気付けばそうやって個人的な交流を重ねるようになったのは、ともに東洋の小さな島国に、繋がりを持っているから。そうやってそこに残してきたものがあるという共通項があったからなのだろう。
リースリア。──リースは妹を見舞うべく、彼女が検査入院をする病院を頻繁に訪れた。
病院にやってくるたび、時間を見つけては彼女はレイアのいるこの中庭へと顔を出し、言葉を交わした。
日本語でも、英語でも。どちらでも問題なくやりとりを交差することのできるふたりだった。
「忘れ物?」
「はい。目標だった人と、ライバルと」
「ほう。ライバルね。キミくらい若くて、才能に恵まれてる演奏家がそこまで言うんだね?」
また時折、ううん、頻繁に彼女は楽器を持参し、妹の病室や中庭の芝生にて音色を奏でた。そこにいる聴く者たちに鼓膜という部分から、安らぎを与えていった。
気まぐれな子猫のような音色だ、とはじめてのそのときにレイアが感じた演奏はやはりいつだって軽快で。ともすれば気の重い事案の多くなる入院病棟というその閉鎖された空間にあって、人々の心や足取りを軽いものにさせたのだった。
「来年には、私は欧州に渡る。ロンドンのオーケストラから誘いを受けているんです。その前に、どうしてもその忘れ物を取り戻しに行きたくて」
「ふむ、リベンジかい?」
「そんなところです。今のわたしの演奏に驚かせたい。「負けた!」って思わせてやろうと思ってます」
ああ。それは素晴らしい。
憧憬の存在──おそらくは師匠と、好敵手と目する演奏家と。それらに今をぶつけるというのは。明快で、若くていい。
そう感じるのは自分が老け込みすぎているのだろうか? 内心にレイアは苦笑をする。
まだまだ二十代、年寄りじみてしまうにはまだ早かろうに。
「たとえ妹の目が見えなくなっても。遠いヨーロッパからだってこのアメリカ大陸にいるあの子のもとに届くくらいすごい演奏をできるようになったんだって、伝えたいんです。今のわたしの、成長を」
ああ。この子たちも、不知火たちと同じだ。
やってくる未来に対し、それでも生きていくうえでの希望を失ってはいない。
家族の結末が決められても、治ると信じながら。そうでなくても見出せる幸福に進んでいこうとしている。
素敵なことじゃないか。
お前たちとよく似ているだろう? ──不知火。ユッキー。
* * *
「先輩? ……星架先輩?」
プールサイドのベンチ。水泳帽をいつしか指先に玩びながら、ぼうっとしていた自分がいた。それに気づいたのは、……気付かされたのは、好きな少女がこちらを覗き込んでいたからだ。
「あ。え、不知火?」
「どうしたんです? どこか、具合でも?」
部活中。競泳水着姿の不知火は、そのごく自然な均整の取れた、そして出ているところはしっかりと出ているその肢体のラインが滑らかで、美しかった。
今の自分の立場でこういうことを思ったり、感じたりするのはひょっとしたら、のろけの部類になってしまうのだろうか、とふと、星架は思う。
なにせもう、私と彼女は──そういう関係性、なのだから。
傍らにあったタオルを差し出してやると、ありがとうございます、と言って彼女は受け取る。
「いや。泳いでる不知火、きれいだなぁって。惚れ直してた」
「……なんですか、それ」
ちょっと意地悪に、敢えて言ってみる。身を屈めた彼女の頭を、ぽんぽん、撫でてやりながら。
不知火はそうされて、ちょっと拗ねたように、照れたように。目を逸らして、背筋を起こす。右脚の後ろで軽く左脚を組んだ、左腕を身体に抱き寄せるその仕草が様になっている──うん。意地悪でもなんでもなく、素直に素敵だと思う。ああ、これものろけか。
「別に私の泳ぎなんて、見てなかったでしょ。なんか考え込んでるっていうか、元気ないっていうか。そんな感じでしたよ」
「へえ。逆に不知火は、練習中によく見てくれてるんだ、私のこと。選手としてどうよとは思うけど、光栄だし、嬉しい」
「う。そ、それは……そうですよ。見てますけどっ」
そりゃあ──付き合って、ますから。最後のほうは小声になりながら、頬を赤面させた不知火はそれでも、ぽつりと言った。
気になったり、心配したり。当たり前じゃないですか。それらの言葉を絞り出してくれる後輩にして恋人が、星架にはいじらしくて。
もしも部活中で、他の面々の目がなかったら。
不知火が気を遣って、「星架さん」でなく今まで通りの「星架先輩」と呼んでくれていなかったら。もしかしたら、抱きついてぎゅっとしていたかもしれない。
そのくらい、羞恥に頬を染め、ぎこちなく声を発する不知火というのは、星架には反則だった。
「あの。そういえば、詩亜がさっきからいないんですけど」
「うん? ああ、先に帰ったわよ。やること終わったから、急いでるからって。リレーのタイム表、部室のデスクに置いてるって」
「あ、ですか」
最近詩亜は忙しそうだ。店、繁盛しているのだろうか。
それとも不知火がこうして先輩と一緒にいるように──、
「南風先輩と付き合い始めたからですかね」
「どうかしら。……にしてもあいつ、いい加減選挙、出るか出ないかはっきりしたらいいのに」
「まだ結論出てなかったんですか、それ」
「断るのほんとへたくそなのよ、あいつ」
呆れたように──いやいや実際、いつものことでありすぎて、呆れている。星架は肩を竦める。
最近の真波を、思い起こす。まあ、いろいろあったなぁ、って。その中で浮かんできたことを、ぽつりと不知火に訊ねてみる。
「ね、不知火?」
「はい?」
肩からかけていたタオルで、彼女は髪の毛の水分を吸い取るように、頭をわしゃわしゃやっていた。それがちょうど、こちらに向けてあどけなく首を傾げているような態勢で、きょとんとした表情と重なって可愛らしい。
「今度のデートなんだけど。前に行ったところでもいい?」
「え?」
「ああ、いや。手抜きとかじゃなくてね。私も行きたいところがいくつかあってね、考えてて。だけど二度目のところに行くより、初体験のほうがやっぱり不知火は嬉しいかな、って思って」
どっちがいいのかな、って。ふと、気になった。
星架がそう言うと不知火は、
「どっちでもいいですよ。──あ、別にこれ、どうでもいいとか、大雑把な考えで言ってるんじゃなくて」
「?」
軽くオーケーをしてくれたと思いきや、続けて繋いだ言葉の途中で口ごもる。
鼻の頭に散った水滴を、タオルでふき取りつつ。しばし言いよどんで。やがて、
「──星架、さんと。……一緒ならどこでも楽しいかな、って」
羞恥に染めた頬とともに向けられた、探るようなちらとした流す目と。そんな言葉がもう、反則で。
一緒なら、どこだって楽しい。言葉を噛み砕くたび、星架もまた頬が熱くなる。
殺し文句じゃないか、そんなの。
ずるいよ、不知火。
* * *
ばたばたと階段を駆け上がってくるその足音は、乱雑なリズムでただ、急いでいて。その歩幅の持ち主が精いっぱい、慌ててくれていることを伝える。
「すいません、遅くなってしまって」
本屋の奥の、住居の二階。その畳張りの部屋には既に、この家に暮らす者としての長女である詩亜の帰宅を待つ先客が既に、三人いた。
「お疲れ、ねーさん。だいじょーぶ、こっちもまだ始まったとこ」
タンクトップに重ねたキャミソールの、ゆるい右肩の結び紐を垂らしたラフな私服。既に着替えた歌奈が手を振って、姉を迎え入れる。先客がいるということはつまり、彼女が招き入れた。残る、ふたりを。そうする以外にあり得ないのだから当然、先に帰っている。
「おかえり、詩亜」
そして同じく彼女を迎える、観客がもうひとり。彼女の、大切な人。
真波先輩が、袖をまくったブラウスの右手を何度か開いたり、閉じたりして笑いかける。……先輩の「おかえり」のひと言に、歌奈が一瞬、微妙な表情をしたのは内緒だ。
「どうですか。練習、順調ですか」
「──うん、さっき始まったところ」
詩亜は肩で息をしながら、胸に手を当てて、それを落ち着けようと試みながら。それでもわくわくしているその感情を、自身の様子から隠しきれていなかった。
「すごいね。スポーツの試合、うちの部もテニスの試合中なんかは激烈に真剣勝負に切り替わる人、いるけど。……そりゃ勝ち負けがかかってたらぼくも多少は戦闘モードみたいにはなるけど。演奏者ってのもそういうの、あるんだ」
そんな、三人の観客のやりとりを。たしかに雪羽も耳にしている。
抱え、顎と首とに挟んだ愛用の楽器。使い慣れたヴァイオリンの調律は入念に。自分の中ではこれ以上ないというくらいにぴたり、正確な音程に調節をしてある。
今ここに、四人が集まっていることは姉には秘密だった。
家では知られてしまう。だから、歌奈と詩亜に頼み込んで、彼女たちの家の客間、つまりここを貸してもらった。
歌奈は、
「ベテランの演奏聴きながらお仕事なり、お夕飯の支度なりできるんでしょ。役得、役得」
なんて笑っていたし、詩亜も頷いてくれていた。
そうやって友人たちが練習場所を提供してくれたのだ。しっかりやらなくては。
もうそろそろ、リハーサルのつもりでやりたいな。そう呟くのを聞いて、ふたりは観客役として南風先輩まで連れてきてくれた。雪羽が練習に集中できるよう、彩夜たちもバイトのシフトで協力してくれている。
「久々だね、こうやってちゃんと、雪羽のヴァイオリン聴くの」
彩夜に屋上で弾いてあげたのを、お相伴に預かったとき以来か。座布団に胡坐をかいた歌奈が、思い出すように言う。
「あたしにできるのは、これくらいだから」
そう。彩夜のときには感謝を伝えるために、彼女に向けて弾いた。
そして今は。──今回は。伝えるべきことは、ふたつある。
大きく息を吸い込んで、吐いて。瞳を閉じる。
正直、全盛期──姉に憧れ、毎日生活の一部としてヴァイオリンを手にしていた頃ほどには、まだ勘は戻っていないと思う。
長い長い、ブランクがあった。自分の才能に見切りをつけていたから。その時間を取り戻すには、すぐさまにとはいかない。
今でも、亡き実姉ほどになれるとは思っていない。それでも義姉に宣言をし、宣誓をした。
この楽器に携わっていくこと。その未来をつくること。
だからこれは、そのための第一歩だ。
祝福と。希望を。伝えること。その願いを──込めて。あたしにできる精一杯の演奏を、しよう。
静かに、雪羽は双眸を開く。その雰囲気の変化に、聴衆となった三人が息を呑んで、身構える。
慣れ親しんだ、自身の指先のようですらあるほどに馴染んだ弓が、ヴァイオリンの弦の上を、躍る。
音色が紡がれていく──……。
* * *
間に合いそうだったら、星架もおいでよ。真波から、そんなメッセージが携帯へと残されていた。
だから部活を終えて、不知火と帰り道、分かれて。その後ろ姿が見えなくなったのを確認してから、以前教えてもらった芹川・村雨姉妹の家である本屋へと、ふらりと足を向けた。
腕の中には、途中で買ったたい焼きが人数分。紙袋の中から、焼きたてのあたたかさを主張してほかほかしている。
「──はじまってる」
そして本屋の軒先が目線の先に見えた頃、風に乗って微かな、優美な音色が星架のもとにも届く。
けっして主張が激しいわけではないけれど、たしかにそこにある。
自分の音はこうだ、とはっきり示しているような、そんな音。雑音の中にあっても乱れず、埋もれず聴こえてくるそれは、けっして音楽に造詣の深いわけではない星架の感覚をしてなるほど、雪羽ちゃんらしいな、と思えた。
もっと近くに行って、もっとしっかり聴きたいな。今ここで聴くのだって、十分に心地よいメロディだけれど──素朴な、そんな思いが星架の歩みを進めさせる。
「いや。勿体ないかな」
裏口、鍵かけてないってさ。勝手に入って、そのまま上がってきていいよ。詩亜が言ってた。
これまた真波から送られてきたメッセージを思い出しながら、裏口のドアノブへと手をかけたところでふと、星架はその動作を止める。
演奏はもう、ここでも十分に聴こえている。
目の前で聴くものに比べれば多少小さくても、鑑賞をしているといっていいくらいはっきりと。
「少し、待つか」
その素敵な演奏を、現場に闖入することで邪魔してしまうのは勿体なくて、悪いことであるように思えた。だからそこで足を止めて、背中をドアに預ける。
瞼を閉じれば、周囲の環境雑音の中でも聴こえてくる音色だけに集中できる。
真夏だったらとっとと中に入れてくれ、という灼熱地獄が軒下に待っていたかもしれない。けれど今はもう、秋。その頃に比べたらいくぶん、過ごしやすい気温が戻ってきている。
十分、こういうのも悪くない。そう思える。
「羨ましいなぁ、不知火」
これだけきれいに楽器の弾ける妹がいて。
ほんとにいい妹さん、持ったよね。ここにはいない、愛する少女に向かってぽつり、空へと星架は語りかける。
姉冥利に尽きる、ってやつじゃないのかな。愛されてるよ──不知火。
「私が、ピアノでも出来たらよかったんだけど」
そうしたら、この素敵な演奏にピアノの伴奏が加わっていた。より素敵に出来たかもしれない。いや、だとしても却って足を引っ張るだけだったかな。名だたる、世界的なヴァイオリニストの血を分けた実の妹の演奏には。
……どちらにせよ、音楽的な習いごととは無縁な人生をこれまで送ってきた星架としては仮定でしかない、かなわぬ想像なのだけれど。
それでも、思い描くだけなら自由だよね。
ドアを開いて入ろうともせず、裏口の前に突っ立っている星架を見遣って、怪訝そうに小学生の女の子、ふたり組が通り過ぎていく。
たしかにちょっと、変人に見えてしまったろうか。星架にそう思わせたその大小、ふたつの身長はよく似た顔立ちを見合わせて、首を傾げている。
遠ざかっていくふたつの背中に、想像の翼を更にはためかせてみる。
よく似てたな。
もしかして、姉妹かしら。私もね、今ちょうど、大切な人の姉妹のためにここで待ってるんだよ。──って。
やがて音楽は、穏やかだったものからクライマックスに向けて、力強く煌びやかなものとなって、聴くものを高揚させるように躍りゆく。
さあ、くるぞ。最高潮の予感に、たい焼きの袋を抱いて、その瞬間を星架は待ちわびた。
美しくビブラートのかかった、力強くもうち震える最後のメロディが、鋭く、長く伸びて。遠ざかるように消えていく。
その後にやってくる沈黙。それを破って窓から聴こえてくる三人ぶんの拍手を待つことなく、星架自身も音のない拍手をそっと、演奏者へとそこから贈った。
これまた、なにもないところで突然拍手なんかして。奇行に見られるかな。
でも、いいや。だって漏れ聞こえてきたその音色だけでもじゅうぶん、星架にはそれは拍手に値するものに思えたのだから。
賞賛すべきものを賞賛しただけなのだ。なにを憚る必要がある。
「──よしっ」
たい焼きはまだあたたかい。レンジしなくたって大丈夫。先ほどまで背中を預けていた扉に、星架は手をかける。
「おじゃまします」
誰にも聞こえていないはずの声を礼儀として、それでも室内に向けて発して、星架はドアノブを回した。
(つづく)




