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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第二部 夏から、秋まで
43/74

第四十三話 「がんばれ」が、背中を押して

 



            第四十三話 「がんばれ」が、背中を押して


 

 星架との間に、なにがあったの。問いを向けながら振り返った先輩の表情はそれまでと変わることなく険しくて。こちらをにらむように、見据え続けている。

 

「──それは」

 

 呼び出され、連れ出された校舎裏。

 そこには不知火と南風先輩、ふたり以外の人影はない。ふたりきりでの、逃げ場のない対話。だが、不知火は発せられた質問に口ごもる。

 なにがあったか。自分と、星架先輩の間に。

 それは……それ自体は、明白だけれど。それがどのような作用を星架先輩に与えたかも、想像自体は容易だ──だけど。

 

「言えないの」

 

 彼女の問いは、もう殆どが詰問調といっていい声音になっていた。表情もまた、あまりに険しい。

 その通りだ。言えない。今は、まだ。南風先輩には。

 だってこれは、私自身にとっての根源ともいうべき問題で。

 それに。今ここで彼女にすべてを明かし、言ってしまったら、それは星架先輩に対しての──、

 

「わかった。質問を変えよう」

「え?」

 

 身長という点においては負けるはずもない不知火である。当然、近付いてくる南風先輩に対していくぶん上から、見下ろすかたちになる。

 不意に胸元に息苦しさに似た圧迫感と、こちらの予期せぬ浮揚感とを、爪先が地面を離れぬ程度にではあったけれど、認識する。

 

「星架に、『なにをした』」

 

 こちらを見上げ、睨みつける、年上の少女の目線がそこにあった。

 胸倉を掴まれているのだ。不知火は、そう理解をする。

 なにがあった、ではなく。

 なにを、した。より強い問いのもと、不知火から彼女は答えを引き出そうとしている。──私がそう、させてしまっている。

 不知火は一瞬目を伏せて、この状況を引き起こした自分の情けなさと、先輩への申し訳なさとを思う。だが、思ったうえでそれでも、

 

「──ごめんなさい。それでも、言えません」

「……っ」

 

 冷静なままに、そう告げるよりなかった。

 

「星架先輩を、南風先輩がそうやって心配することになった理由を、たぶん私はわかってます。理解してます。明確な答えだってあります。だけど、それでも言えません」

「──なぜ」

 

 南風先輩の孕んだ怒気は、態度の中から消えていかない。当然だ。自分が逆撫でするような言葉を吐いているのだから。その自覚は、ある。

 でもこれは、不知火にとっても譲れない。

 先輩が、星架先輩をこうして大事に思ってくれるように。

 私にとっても星架先輩が大切だからこそ、これは起こった事態なんだから。

 

「星架先輩に伝えたこと。投げた言葉のボールは、私なりに考えて、考えて。悩んで、悩んで──それでも星架先輩なら、と思って、それなりの覚悟を持って伝えたものだから」

 

 そう。

 星架先輩に、伝えるべきか。

 星架先輩に、伝えていいのか。

 星架先輩に伝える自分を、納得できるか。

 星架先輩に与える不安や心配を、そうしてしまう自分を、許せるか。

 いろんな角度から、いろんな意味合いの言葉で。いろんなことを考えた。

 伝えることで、きっと自分は先輩を傷つけてしまう。そのとき、先輩ならと思えるだろうか。傷つけた自分を許せるだろうか──そう、思わないわけがなかった。

 

「だからこそ今はまだ、南風先輩には言えない。これは私の根っこの部分にも関することだから、っていうのもある。だけどそれ以上に、星架先輩への、通すべき筋として」

 

 今問い詰められたからといって、こんなに気安く、軽々しく。その場に呑まれて言葉にしてしまうようでは、考え抜いて星架先輩に伝えた、意味がない。

 

「南風先輩がこんなに心配するくらい、悩んで、考え抜いて。真剣に向き合ってくれている星架先輩に対する裏切りになってしまうと、私は思うから」

 

 だから。言えない。容易く言ってはいけないと、思う。

 信じるって決めたんだろう、私は。私と、星架先輩を。

 

「私だって、南風先輩に負けないくらい、星架先輩を大切に思っているから。私なりに、私の立場でやれる中で、最大限に」

 

 そう言った瞬間、南風先輩はハッとしたように双眸を見開いて、──次にはその瞳から、孕んでいた怒気の色をいくらか、和らいでいかせて。

 彼女に向かい、不知火は続ける。

 これまで誰にだって、明確な言葉にはしてこなかったこと。

 自覚はしていても、声には発してこなかった、気持ちを。

 宣誓し、認める。

 先輩は。ゆきと競ったり、その席を取り合ったりする必要なんかない。

 それはきっと、ゆきへの「好き」と両立する。

 

「私は、雪羽が──妹が好きです。大好きです。家族として。たったひとりのかけがえのない、……血は繋がっていなくても肉親として。大切な、妹として。だけど、同じくらい。違ったかたちで、好きです。先輩のことが。星架先輩が──私は、好き」


                 *   *   *


 結局のところ、自分がどうしたいかでいいと思うんですよ。

 空っぽになったお弁当箱の蓋を閉じながら雪羽が紡ぐのは、自分自身の感覚としての、実感の言葉。

 

「あと、十年。だいたい十年、お姉ちゃんの身体の変化には猶予があって。その先をお姉ちゃんは、受け容れている」

 

 つまり言ってみれば十年くらいはこれから、あたしたちにはどうしようもないわけで。

 

「だって、あたしらみんな高校生ですよ、まだ。好きにしていいと思うんですよ」

「それは……そうかもしれないけど」

「ただあたしは五年後、十年後、そうなったとき。お姉ちゃんが目の前から去っていこうとしていた──そのことは。それだけはあたしは嫌だった。失いたくない。いなくなってほしくない。だからお姉ちゃんに嫌だ、って言ったんです」

 

 目が見えなくたって、お姉ちゃんがそこにいることには変わらない。

 お姉ちゃんを失うなんて──絶対に、嫌だ。そのわがままを、通した。

 姉は泣いて、笑って。それを受け容れてくれた。

 

「あたしは、あの人の家族です。だからそのくらい先のことも受け止める。受け止めなくちゃ。一緒にいたいのは、あたしなんだから」

「そっか。強いんだ」

「わがままなだけですよ。その責任をとってるだけ」

 

 でも、先輩は違う。

 

「高校生の恋愛ですよ。付き合う、付き合わないってレベルの話です。十年後、その先。お姉ちゃんを支えられるかどうかは家族の話。まったく別物です。そんだけたくさん悩んで、考えて。お姉ちゃんのことを想ってくれただけであたしは十分だと思う」

 

 そこまで責任持たなくたって、誰も責めないよ、きっと。お姉ちゃんだって、責めたりしない。

 

「お姉ちゃんと一緒にいたいと思ってくれるなら、その気持ちに従えばいいと思うし。ごめんやっぱり無理、って結論だとしてもそれは仕方のないことなんじゃないかな」

 

 って、思います。

 

「お姉ちゃんには、あたしがいるから。先輩は先輩の好きにしてください」

 

 あたしがお姉ちゃんをひとりになんて、しないから。大丈夫。

 雪羽がそうやって声を向けた先輩は、暫し黙りこくって、幾度か瞼を瞬かせる。

 

「──生意気」

「へっ?」

 

 そしてようやく──彼女は、笑ってくれた。

 力なく、どうにかつくったものでなく。

 ごくささやかな微笑ではあっても、自然発生的に、ふっと生まれたその笑みのもと、そう言葉を漏らす。

 

「ちょっと、雪羽ちゃんの印象変わった。ああ、こんなに大人だったんだ、って」

「そ、そう……かな? ですか?」

「そうだよっ」

 

 そしてこんな、……こんな大袈裟に、高カロリーに動く人だったろうか、と思うくらい大きな動きで、雪羽の肩に腕を回して、がっちりと肩を組んでくる。

 その頃にはもう、彼女の表情はくしゃくしゃの笑顔で。ありがとう、と耳許で囁いてくれる。

 

「そーだよ。そうよね。もともとは私が、自分から前に進みたくてあの子を求めたんだもの。自分から進むしか、ないわよね」

 

 オッケー。おかげで踏ん切りがついた。

 怖がって、足踏みしてるのは違うよね。

 

「ちょ、ちょっと先輩? ……わわっ?」

 

 わしわしと、雪羽の頭を乱暴に撫でながら、先輩は笑う。

 抱き寄せて、もつれあいながら。足許が疎かになってかふたり、空き教室の床に転がる。

 

「私、伝える。不知火が私を信じて、あの子の大切なことを伝えてくれたように」

 

 そしてふたり、冷たい床に大の字になって、並ぶ。廊下を通りかかる者などがいれば、いったいなんだ、なにをやっているんだと二度見をして立ち止まったことだろう。

 

「私の大切な気持ち。背中、しっかり押してもらえたしね。かわいい不知火の、かわいい妹に」

「そりゃ、どーも」

 

 日曜日。文化祭のあとで。あの子に、言う。

 その言葉とともに、先輩は雪羽へと拳を差し出す。 

 

「がんばれ、先輩」

 

 拳と拳を打ちつけて、笑った。


                 *   *   *

 

 星架先輩への気持ちを口にして、それを耳にした南風先輩の表情を見たとき、不知火は、「しまった」と思った。

 なに言ってるんだ、私。

 こんなのは星架先輩、本人に対して言うべきことであって──……。

 

「っ?」

 

 不意に、掴まれていた胸倉が、彼女の手から解放される。

 狐につままれたように、怪訝に南風先輩を見下ろしていると、彼女は自分のショートヘアをくしゃくしゃにかき乱して、深々とため息を吐いて。

 

「……なんだよ、それ。つまりそれって──」

 

 それって、星架とはもう両想いです、って白状してるんじゃん。

 恨めしそうに、自らの羞恥に染まった頬を上げて。彼女はジト目をこちらに向けてくる。

 

「きみが実直な子だってのはわかってるつもり。きみのことは詩亜が誰より友として信頼してる──そんなコが、自分の好きな相手をやれ傷つけたとか、……騒いでるこっちがバカみたいじゃないか」

 

 ああもう、周りの見えてないクレーマーみたい。恥ずかしい。視線を伏せて、先輩はぼやく。

 

「きみもきみだよ、不知火。答えが決まってるのならとっとと逆告白、しちゃえばいいのに」

「えっ」

「──なに。『えっ』って、なに? すんごい心外そうな顔してるけど」

「え。……いや、だって」

 

 南風先輩がそれを言いますか。

 

「は」

 

 星架先輩と一緒でないと告白できないくらい臆病で。

 星架先輩と一緒に下見までしたデート、まだ誘ってないの? ってくらいまで延々踏ん切りつかなくって周りを焦らして。

 告白に対する詩亜からの返事だって、これだけ引き延ばしてまだ、急かすこともできなくて──、

 

「う、うるさいなっ。……いいだろ、ぼくにはぼくのやり方とか、ペースってものがあるんだから」

 

 詩亜のこと、大切にしたいんだもんっ。

 図星を突かれた南風先輩は頭から湯気すら出さんばかりに真っ赤になって、ぷいとそっぽを向く。

 

「……手を出して悪かったよ。ごめん」

「いえ。気にしないでください。ちょっと、びっくりはしましたけど。意外と南風先輩、武闘派なんだなって」

 

 歌奈となんだかんだ、相性いいかもですね。あいつもそういうの、得意だし。

 

「勢いでやっちゃっただけだよ。あんましほじくり返さないで。恥ずかしいから」

 

 謝るから。悪かったってば。

 言葉のとおりに恥ずかしげに不知火から目を逸らしながら、赤らめた表情を俯かせる先輩。

 

「星架を大切に思ってくれてるなら──大事にしなきゃ、ダメだよ」

 

 あんな星架にさせちゃ、ダメだ。あんなにも、儚く、不安げに。

 そういって紡がれた言葉は間違いなく、正しい。

 

「はい」

 

 それは、私の不徳だ。わかっているよ、南風先輩。

 

「そんなわけだから。あとはがんばってくださいね。南風先輩」

「え」

「出ておいでよ。いるんだろ、……詩亜」

 

 気付いたのは、つい先ほど。

 先輩と苦笑しあうなかに、背後の曲がり角の向こうに、微かに足音がした。ほんの、僅かに。

 

「え。詩亜。あの、その。これはっ」

「がんばって」

「ちょ、不知火っ」

 

 踵を返し、不知火は立ち去っていく。

 曲がり角の向こう側から姿を見せた、親友の横を抜けて。彼女の肩を、応援するように叩きながら。

 自分自身の両手を胸に抱いて。佇む詩亜とすれ違う。

 まっすぐに彼女は先輩を見つめていて、その頬は赤らんでいて。不知火の言葉に対する先輩の反応を、きっと詩亜も聴いていたのだろう。

 あとはふたりで交わすべき、言葉と時間だ。だから不知火はもう振り返らない。

 不知火や先輩の話し込んでいた位置からは見えなかった、曲がり角の壁の影に背中を預けて、歌奈が頭の後ろで両腕を組んでいた。

 横目をこちらに流して、口を尖らせて。わざとらしく、無言に渋い顔をつくってみせる。

 なに、勝手に背中押してくれちゃってんのよ。そんな妹としての複雑な感情が、その表情には載せられている。

 

「ありがと、歌奈。詩亜も」

 

 いざってときは、って。止めに来てくれたんだね。

 友である姉妹の手を煩わせることなく終えられたことを、安堵する。そんな不知火の背を追うように、息を吐いて歌奈も歩き出す。

 

「ったく。どいつもこいつも、なんだから」

 

 そういう、歌奈のぼやきが聴こえた。

 たぶん、詩亜や南風先輩のところには届いていない──そんな微かな、巻き込まれた側の愚痴だった。

 

                 *   *   *


 もうひとりの不知火は、レイアの知る彼女よりもずっとずっと小さな、幼い少女だった。

 ──いや。この表現には語弊があるし、医師として全ての患者に平等に、研究者としても全ての症例に冷静に向き合わなければならない原則からすれば、この視点は大いに問題があると言わざるを得ない。

 レイア自身、自覚している。ひとりの客観的な医師として、研究者として。その患者に相対できていないこと。

 その患者を、ひとりの患者としてでなく。

 まず「不知火と同じ症例である」点において認識している。愛した男の忘れ形見の妹への思い入れが、なにより勝っている。

 それはけっして、褒められたことではない。目の前の患者を二の次としてしまっている医師なんて、最低だ。

 自分から志願して、この臨床に参加してるというのに。

 医師として、研究者として。自分は失格なことをしている──……。

 

「くそっ」

 

 そこまでしても、未だなにも、芳しいデータひとつ、得られていない。

 齢にしてほんの、二歳、三歳といったところの幼い少女。

 ひかりとさほど変わらないくらいのその小さな女の子は、医師たちが検査を重ね、検討を繰り返すたび、悲観的な結論に近付いていく。

 不知火と、同じだと。彼女と同じ未来がやがて、人種も国籍も違うこの少女にも訪れる。回避のための方法は、見つからない。

 まだだ。まだ、アメリカに来てひと月足らず。諦めるにはまだ早すぎる。

 ワタシが不知火と出会った頃より、少女はずっと幼い。

 あれだけ未成熟、未発達ならばいくらでも彼女の将来は変えられる。変化も、データも。不知火という前例が直近にあるということも。大いに彼女に利するはずなのだ。

 そうして得られた材料は、不知火の将来を切り拓く希望にもなり得る。

 少女の光を、護ること。

 少女を救うことが、不知火を救うことにもつながる……。

 中身が半分以上残ったコーラの缶。苛立ち任せに握りつぶそうとしていた自分を律するのに、レイアにはそれだけの理論武装が必要だった。

 

「──……?」

 

 少女が入院をしている、大学病院の広い中庭である。

 そこに不意に流れる、音楽をレイアは耳にする。

 音楽や楽曲など、まるで知らない、とんと疎いレイアである。それでも微か鼓膜を震わすその音色は、いつかどこかで聞き覚えがあった。

 ヴァイオリンの、音色だ。

 この曲は、ユッキーのところで聴いた……? いや、違う。もっとだ。もっと前から知っている。聴いたことのある曲だ。

 コーラを手に立ち上がり、音の源を探す。

 ほどなく、視界に入ってくる。

 それは、芝生の情景。

 入院着姿の小さな子どもたちや、車椅子の老人や。レイアと同じく休憩中の医師たちが、疎らにそこには集まっている。

 

「──あ……」

 

 そうだ。あれは、晴彦のところで。彼の婚約を聞きつけて押しかけて、遭遇した光景だ。

 まさに今、レイアが見ているのとまるでそっくりに。聴き入る人々の中心に、楽器を奏でる者がいた。

 あのときそれは、雪羽の姉・小雨だった。

 すらりと細くて、美しくて。その指先は優雅にメロディを奏でて。聴く者たちをやわらかに包み込んでいった。

 だが、同じメロディ、同じ音階のはずのその音色は、聴き入る人々の合間を気まぐれに、跳ね駆け抜ける。

 人々の頬を撫でては、去り。また別の徴収の肩に載る。

 まるでそれは、気まぐれでやんちゃな子猫のように。その幻影すら見えるかのようにさえ、聴く者に思わせる。

 そう。銀の──子猫、だ。

 銀色の艶やかな、柔らかな髪は、血統書付きの高貴な、猫類の美しい毛並みを思わせて、陽光にきらきらと煌いている。

 前髪や両サイドは短くて、けれど襟足は、──まるでそれは気まぐれに感情を示す猫のしっぽのように、細く長く一本に編み込まれた、ひと房のおさげが、うなじのところで白いリボンに揺れていて。

 白人の、やせぎすすぎると思わせるくらいに華奢で、怜悧な印象を与えるその少女を宝石じみて美しく、見せている。

 年恰好は、たぶん不知火や、雪羽と同じくらい。

 そんな、ソロ・ヴァイオリニスト。その少女の姿を、レイアは見覚えている。

 アメリカでの、この治療団での研究と臨床の中。患者である幼子の傍らに時折、物憂げに、不安げに寄り添うその姿を。

 小雨も姉だった。

 けれど、今目の前にいる彼女も姉。……そんな、些細な偶然と切って捨ててしまえそうな、符合。

 不知火の義姉となるはずだった女性と同じ曲を。

 不知火と同じ将来を迎えるであろう少女の姉が、今目の前で奏でている。

 その、演奏が終わりを告げる。

 余韻を長く、残すことなく。楽器を下ろした少女は聴衆たちに向け歩み出し、軽くそれぞれへと、会釈の頭を下げていく。

 

「──マクマハウゼン先生」

「っ?」

 

 そして彼女は、レイアの前に立ち止まる。

 気付いていたのか──ワタシの名前、知っていたのか。

 記憶するかぎり、個人的に会話を交わしたことはなかったはずだが。

 

「みんな、覚えてます。うちの妹の担当医の、みなさんの名前は」

「!」

 

 ふた言めは、流暢な日本語だった。

 

「昔、日本にいたことがあるんです。先日、先生が日本語で電話をしてるのを見たので──せっかくですし」

「……そうか」

「妹を、よろしくお願いします」

「微力を尽くす。同じ症例の患者をほかにも、個人的に知っているのでね」

 

 あまり他人事に思えなくてね。

 

「キミと同じくらいの歳の子で。キミと同じように楽器を演奏する妹を、とても大切にしている子だ」

「それは。興味深いですね」

 

 少女は目を細め、微笑む。その仕草が重ねて、日なたで穏やかな時間を過ごす子猫にそっくりで、それを想起させる。

 背中の、銀色をした三つ編みの髪の毛しっぽが。リボンと一緒にそよ風に吹かれ、たなびく。

 

「えっと。たしか、リース……リースリア、だったね」

「はい。リースでいいですよ。憶えていていただいて、光栄です」

 

 不正解。すまない、今思い出した──言葉にはせず、心の中だけで謝罪をする。

 思い出した、彼女の名前。

 リースリア・蓮・スノーホワイト。資産家の娘で、日米ハーフ。地域では有名な音楽一家だそうで。だから彼女の妹がこうして、保険制度の整っていないこのアメリカでも、整った設備のもと、治療を受けられている。

 ぺこりと頭を下げて立ち去っていく、銀色しっぽの背中を見遣る。

 

「……ヴァイオリン、か」

 

 そして治療中の、彼女の妹の名。

 ミラージュ。まだ幼いその少女は意図したものではないにせよ、将来幻となって失われる、彼女自身の世界を示すように、幻影を表現するその名を与えられた。

 ミラージュと、不知火。

 失いゆく少女たち。

 幻の映像と、幻の炎。

 リースと、雪羽。

 雨宮と、スノーホワイト──雨と、雪。

 楽器を手に、見守り続ける少女たち。

 

「……やめとけ。そんな迷信じみたこじつけ」

 

 似ている。そうして再び符合を感じつつある自分を、研究者としての冷静な自分によってレイアは叱りつける。

 似てたからなんだっていうんだ。両者がまったく同じなもんか。オカルトか。

 お前が探すべきは、そんな偶然の一致をあげつらった、無関係な部分の共通点じゃない。ふたりの症例について共通する、症例に対しての解決策となりうる突破口だろう──……。

 

「莫迦なやつだ」

 

 なに、弱気になってんだ。

 コーラの炭酸はまだ、缶の中で弾けて、時折ぱちぱちとその音を発している。

 まだ、はじまったばかりだろうに。

 諦めるには、早すぎる。




             (つづく)

執筆開始当初は予想してなかったくらい、不知火たちが自分から動き出して、恋をはじめたのが今の状況だったりします。

この作品についてはほんとうにチェックポイント的にしか「絶対にやること」を決めずに、各々が自然なのは展開としてこうなるのだろう、という体で書いているのですが、書いていてほんとうに面白いです。

 

読んでいただいた方々にも楽しんでいただけていると幸いです。

感想・つっこみ・ご意見等お待ちしております。

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