第四十二話 ぼくらは傷つき、信じあう
第四十二話 ぼくらは傷つき、信じあう
ベビーベッドに眠るひかりの頬は、発した熱の残滓を帯びてか、まだほんのり紅く上気をしていたけれど。それでも想像をしていたよりはいくぶん柔らかい表情で、安らかといっていいと思える程度の寝顔で、ブランケットにくるまっている。
「もうほぼ、平熱近くまでは下がってきてるって。甘いお薬のシロップ飲ませてあるし、水分だけはこまめにあげるように、だってさ。食べさせるなら消化にいいものを、って」
ショートパンツ姿にエプロンをつけた、雪羽が言った。
白鷺のおばさんはもういない。直接頭を下げてお礼を言いたいところだったけれど、雪羽の帰宅にあわせて、諸々引き継いで店に戻っていったらしいから、会えずじまいだった。
「そう、……よかった」
なんにせよ、ひかりが無事なのは喜ばしいことだった。
着の身着のまま、制服姿のままに帰宅直後、とるものもとりあえずに雪羽へとひかりの容態を訊いた不知火だったから、その安堵は当然に深いものだった。
「とりあえず、着替えちゃいなよ。ごはんももうすぐできるしさ。今日は簡単に、焼うどんとサラダだけど」
「ああ、うん。そうだね」
「そんで、聴かせてよ。お姉ちゃんの心配ごと」
「え?」
けれど顔に表れた安堵の中に、そこへ潜む別種の不安や陰りといったものがあったことを、妹は見逃さなかった。
ベビーベッドの縁に頬杖をついて、ひかりを見下ろしたまま。ゆきはぽつりと漏らす。
学校でなんかあった、って顔してるよ、お姉ちゃん。
不安とか、後悔とか。その中身がなんなのか、細かいことはわかんないけど。ひかりが無事でもまだ、元気ないもん。
「──あ……」
「おおまかには、わかるよ。お姉ちゃんが元気ないこと」
だからさ、いいよ。
ごはん食べながら、ぶちまけちゃって。
首だけ曲げて、横顔で屈託なく、ゆきはこちらに笑って見せる。
「たぶん、星架先輩のことかなぁって、思うから。違ってたらごめん」
そしてそれは、たしかに正解で。
子細がわかってないなんて、いえないくらい的を射ている。
「ゆき……」
だから、嬉しくて。ありがたい。思わず肩を組むようにして、彼女を後ろから抱き寄せる。
その横髪に頬を寄せて、妹を抱きしめる。
「ちょっと、お姉ちゃん。……お着換えはしないんですかー?」
可笑しそうに、おどけるように雪羽は言う。
その優しさが、救いが今はなによりたまらなく不知火にとっていとおしくて。
自己嫌悪にささくれて、毛羽立ってしまった心理をいたわってくれる。
「ごめん。もう少しだけ」
そんな妹の存在が、たまらなく自分を癒してくれるのがわかる。
「もう少しだけ、こうさせていて」
ゆきの髪の匂いに、全身で安らぎをおぼえながら。不知火は彼女に語るべき、起こった出来事を脳裏に呼び戻す。
いや。起こった、じゃないな。
あれは私が選んだこと。私がやった行為の結果なんだから。
「自分が──ずるくって、卑怯で。……ひどいやつなんだって、なんだかそれが、つらくって」
「なあに、それ」
お姉ちゃんは別に、ずるくなんかないよ。
けっこうへたれで、身体やおっぱいのでかさのわりに小心者で。そのくせ一度決めたら突っ走っちゃう、面倒な子なのは、知ってるけど。
そういって冗談めかしてくれるゆきの言葉が、態度がやさしくて。
それらの言葉をかけてもらえることを無自覚に求めていたのではないかと、自身の「逃げ」をも、不知火はまた自覚する。
「ごめん。……ありがと」
傷つけたのは、自分だから。
伝えると決めたのも、自分だから。
そうすることで、先輩を。
──星架先輩を傷つけた。その事実と自覚とが、自分自身、つらくって。
* * *
数回のコールの後、無料通話の発信音の先に、幼なじみの親友は応答に出た。
もしもし、の声。なにも警戒していない、いつもとなにも変わらない。なにげない友のその声音が、乱れた気持ちへと微かに安らぎを与えてくれるように思えた。
「──真波? ごめん、……今いい?」
自室の中は、暗かった。明かりらしい明かりは、携帯の画面だけ。
濡れたお風呂上がりの髪もそのままに、壁紙へと背中を預けた星架自身の姿が、その微かな光の中、ベッド上にぼんやり浮かびあがる。
下着一枚、ワイシャツ一枚の、ボタンすら留めていない、湯上りのあられもない姿の自分がそこにはいた。
いつだったか、不知火も言ってたっけ──寝間着、似たようなもんだって。
あの子は、お兄さんの形見のワイシャツ。
なんでもないことのように言っていたけれど、それに拘っているということはやはりまだ、あの子は自身に起きたことを引き摺っている──の、だろう。
「──うん。ごめん。……え? 声? ……そう。そっか、やっぱし、わかるか」
そう。なんでもないことのような声音で、あの子は言った。
まだ鈍く痛む、自身の右脚を星架は見つめる。その視線をぼんやりと映しながら、帰り道、ふたりきりの中で不知火の告げた言葉を思い起こす。
「無自覚って。……なにも知らないって、酷い行為なんだな、って痛感しちゃって、……さ」
電話の向こうで、友がこちらの言葉の意味を、掴みかねているのがわかる。
無理もないだろう。いきなり星架の実感だけを告げられて。過程を飛ばされて。いったいどうした、なにを言っているんだ、と思わないわけがない。
「私、不知火のこと。あの子のこと、一番理解したつもりになってた。妹さんほどじゃあない。でも、学校の中ではそれに次ぐくらいに。あの子の友だちの面々と、同じくらいにはわかってるつもりだった」
でも、それは傲慢で。無自覚だった。ただあの子に気を遣わせていた、だけだったんだ。
『……どうしたの。駒江さんと、なにかあった?』
親友はようやく、困惑の声音に載せて、そう言葉を吐き出す。
ああ、あったとも。──すごく、すごく大切なことがあった。
不知火は言った、「避けては通れないこと」だって。
彼女の、そして妹さんの抱えていることを、星架に伝えてくれた。
でも、自分が彼女からの、それほどの信頼を得ている存在であるということを素朴にただ喜べるほどには、星架は単純な精神構造はしていなかった。
──『世界を失った私を』
──『先輩の世界に、いさせてくれますか』。
そう発した、不知火の穏やかすぎるくらいに静かだった声が、今もなおありありと、脳裏に残響しては繰り返し、木霊する。
彼女は信じた。星架のことを。
そして、伝えてくれた。
美しい光を湛える彼女の双眸に、あと十年と経たず終局が訪れること。
彼女の目が、見えなくなること。
希望はゼロではない。けれど、その可能性は限りなく未だ、確定をして動かしようがなく。打開策は見出されていないということ。
すべてを、話してくれた。
「私は、ちっぽけだ」
すべてを受け容れた、超然とした様子で。語ってくれた。
なんでもない、そう言った彼女の言葉を、彼女自身が示すように。不知火は冷静だった。
「ちっぽけ、なんだよ」
いや、そんなところから話がはじまったわけじゃない。
彼女は。不知火はいつだって、遠くないその未来のことを、まるでおくびにも出さなかった。
喪失のやってくる未来は、彼女にとって、星架などと出会う前から、ずっと昔から知っていたこと。泣いても喚いてもいつかその身へとやってくる、「受け容れねばならぬ」将来で。
「好きだ、なんだって言っておきながら。──先輩面して。そのくせ、なにも知らないで」
妹さんは──雪羽ちゃんは、ともに彼女の未来へ向き合おうとしている。ふたりで、乗り越えようと。立ち向かっている。
あの姉妹は。彼女たちは、血のつながりはなくとも、そういう関係をふたりで築き上げてきた。
なにが、『妹さんと違う一番になる』だ。
不知火のすべてを知った気になって。家族を喪った、天涯孤独である、その部分だけを見て、受け容れたつもりで。
それ以上の、抱えたものに気付きもしないで。
伝えるべきか否か、彼女に気遣わせているだけだった。背負わせてしまわぬようにと配慮をされる、面倒な先達のひとりでしか、なかった。
いつだって気を遣わせながら。それでも距離が近づいた気でいた──なんて、愚かで滑稽で、手のかかる年上だろう。
雪羽ちゃんと別のかたちで、別の立ち位置で一番になる。そう思いながら、まだ彼女と同等になるためのスタート地点にすら自分は立てていなかった。
その位置に立った気になって。不知火を傷つけていた。困らせていた。
無神経に、彼女へと未来を考えさせる行動や言動はいくらでもあったと思う。
本人がいくら気にしないと言ったって。好ましからざる未来を頻繁に意識させられて──気持ちのいいはずがない。
ある日突然、目の前の世界がなにも見えなくなる。そんな未来を抱えて。
自分だったらあの子のようにほかの誰かへと立ち振る舞う自信、とてもない。不知火は強い子だと思う。
ともに過ごす中で、私に対して強く在らせてしまった。
好きだ、あの子の一番でありたい。そう思い、そう言い続けながら。
気遣って立ちまわっているつもりだったのに、その実は真逆。気遣われていたのはこちらだったのだから。
あの子の内面を、隠させてしまっていた。弱い部分だって見せてほしかった。あの子を包み込みたかった。なのに彼女を支えることも、守ることもできていなかった──……。
「私、酷いことしてた。あの子に……不知火に」
こんなんで、雪羽ちゃんに勝てるわけないよ。
あの子のすべてを受け止めて。あの子にすべてを信じてもらうなんて。
ここまで無知で、無自覚で。そう思ってもらおうなんて、今更過ぎる。
「雪羽ちゃんのほうがよほど、しっかりしてる。私なんかより、ずっと」
友は電話の向こうでただ、星架の涙声を聴いてくれている。
暗闇の中で孤独でないこと、それだけが辛うじて、星架の気持ちをいくらばかりか慰めてくれる。
とめどなくて、事情の説明にすらなっていない星架の断片的な言葉の数々を、それ以上を催促するでもなく、ただ電話の向こうの友は、無言に受け取り続ける。
「最低だ、私は」
そんな親友に縋るように、星架は膝を抱えた。
自分ではなく不知火のことをただ、想いながら。
溢れてくる自己嫌悪に、心を焦がし灼いた。
* * *
「知らなかったんだから、そんなの仕方ないじゃないですか」
翌日の、昼休みである。
空き教室で向けられたその言葉に、星架は数度、目を瞬かせる。
「先輩が必要以上に気にすることじゃないです。お姉ちゃんだってそのくらい、わかってますよ。うちのお姉ちゃん、ヘタレだけど頭はいいですから」
その人物とは正直、今の気持ちのままで顔を合わせたい相手ではなかった。
不意の来訪。二年生のクラスにまでやってきた彼女は星架を呼び出して、ふたりきりのランチへと誘った。
たまには、ライバル同士。ふたりきり、水入らずでどうですか。
嫌味も、皮肉もなく。笑顔を向けて、お弁当箱の巾着を掲げてみせた雪羽ちゃんは、今の星架には眩かった。
そうして半ば強引に連れ出され、星架は彼女の対面でお弁当を広げている。
唐突になぜ、という気持ちばかりが思考を占める。
自分と彼女の差を、突きつけられるような気がして。この間の喫茶店以来のふたりきりで話すこの機会を、あまり好ましいものとして星架は感じられなかった。
「──どうして、あの子のことを。そんな風になんでもないように振る舞えるの」
雪羽ちゃんは、そぼろと炒り卵の、二色ご飯のお弁当。ここにはいないけれど、たぶん不知火も今頃、お揃いのものを食べているはずだった。たしか、彼女のお手製。不知火は料理ができないと言っていたから──……。
そんな彼女が、あっけらかんと「先輩のお弁当もおいしそうですね。シャケ、おいしそう」なんてこちらのお弁当箱を覗いてくる。
彼女の仕草が、態度がこちらに気を遣ってくれているようで。敢えて軽薄そうに演じられているように思えて。胸が痛い。……正直、やめてほしかった。
「不知火の目のこと、とっくに知ってるんでしょう。そんなあの子にずっと気を遣わせて。私は傷つけてしまった。あなたにまで気を遣われる資格なんて」
資格なんて、ない。
「──別に、なんでもないってわけじゃないですよ。そりゃ、自分の家族のことですもん」
心配してないわけがないですよ。紡ぐ言葉とは裏腹にしかし、彼女の口調に深刻さはない。
「ただ本人が、もう納得したって言ってることだから。少なくとも今は、あたしが口を挟めることなんてきっとなにもない」
「それは……そうかも、しれないけど」
「あと、それに。今はどう見たって傷ついてるのはお姉ちゃんじゃなくって、先輩じゃないですか?」
「え……?」
私が、傷ついている。──傷つけた側の、私が?
「だって、そうでしょ。わかりますよ、そりゃ」
お姉ちゃんとのこれまでと。
お姉ちゃんのこれから。
思い返して、あるいは想像して。その思考のかぎりに思い悩んでくれている。
後悔や、心配や。いろんな感情で溢れそうになってくれている。
「そこまでお姉ちゃんのことを考えてくれてて、傷つかないわけないじゃないですか。ほっとけませんよ、先輩のこと」
ほっとけないって。雪羽ちゃんが、私のことを?
彼女にとって不知火はたったひとりの家族で。そこに私は横から入り込もうとしていたも同然で。
不知火と私の関係、おもしろくなんてないはずなのに、なんで。
「そんなの。お姉ちゃんが自分のこと、話してもいいって思えるくらい、信頼してる人だからに決まってるじゃないですか」
プラスティックの箸を置いて、まっすぐにこちらを見る後輩は、言う。
「お姉ちゃんが信じた人だから、信じられる。困ってるなら助けたいって思ってるだけです」
あたしがお姉ちゃんに信じてもらえたから。
同じようにお姉ちゃんの未来を告げられ、知ったとき、ほんとうにいろんなことを考えたから。
いっぱい考えて。たくさん泣いて。
「でも結局、あたしはお姉ちゃんから離れたくない。お姉ちゃんに笑っててほしい。お姉ちゃんの望むようにさせてあげたい。まずそれなんだなって、わかって」
お姉ちゃんも消えちゃわない、離れていったりしない、って言ってくれたから。だから乗り越えられた。そういう経験があるから。
「だから経験者として、なにか伝えられたらなって思ったんです。年下のくせに生意気ですけど。──だからおもいきって、言葉に甘えちゃってください」
お姉ちゃんも、先輩にはきっと笑っててほしいと思ってるから。
ライバルへの、特別出血大サービスです。
雪羽ちゃんは満面ににっこりと笑って、こちらに頷いてみせた。
彼女のつくったその笑顔は普段、不知火と一緒のときに見る彼女の表情よりずっと、それこそ星架自身なんかよりよほど、さまざまな経験を刻んだように大人びて、頼もしく見えた。
くやしいけど、かっこよかった。
* * *
今日のお弁当は、教室で。不知火とふたり、詩亜は食べるつもりだった。
水道で手を洗って、すきっ腹を実感しながらクラスに戻りかけたときしかし、詩亜を呼び止めたのは、──詩亜にとっての大切な人。
「詩亜」
それは学年ひとつ上の先輩。ボーイッシュなショートヘアーのその姿に振り返り、気付くと、思わず詩亜は顔を綻ばせる。
「真波先輩。どうしたんですか、一年の教室に」
「いや、ちょっと」
先輩は、手ぶらで。ブラウスの袖を腕まくりして、右の指先で頬を掻く。
曖昧に詩亜から視線を逸らして、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
その物憂げな様子が、気になった。
「ちょっと、ね。今日は用事があるのは詩亜じゃないんだ、ごめん」
「え?」
「ぼくが来たのは、──きみの友人に用があったからだよ」
そして教室の扉に、その縁に手をかけて、覗き込むように室内を見渡していく。
友人、って。それはつまり、──しーちゃん。
「駒江さん、いる?」
いるもなにも、まさにこれからふたりでランチ、というところだった。
ひと足先に、彼女は自分の席でお弁当箱の巾着袋を開いている。
覇気のない、浮かぬ顔。それは今日一日、ここまで変化なく。なにかあったな、とは思っていた。元気ないな。そう、ホームルーム前の時点で一見してわかるものだった。
ごめん、詩亜。少し友だち、借りていくね。
「駒江さん。──駒江、不知火。ちょっといいかな」
扉のところから呼びかけられ、不知火が顔を上げる。
一瞬探すそぶりを見せた彼女はすぐに、詩亜と、その隣に佇む不機嫌な面容をした先輩の姿に気付く。
「南風、先輩」
彼女が想定外に対して息を呑んでいるのがわかった。
そしてそこで、詩亜にもわかった。
「星架のことで話があるんだ。ちょっと来て」
真波先輩は今、きっと怒っている。怒っているんだ。
ほかの誰に対してでもない。詩亜の親友に対して。彼女の言葉のとおりならば、先輩の親友に関することで。
「真波先輩?」
「ダメだっていったら、ついてくるまでここを動かない」
教室内に残っていたクラスメートたちの好奇の視線が、両者に注がれる。
不知火は先輩の剣幕に、それら周囲の視線に戸惑い、腰を浮かせかけては躊躇をして。
「一緒に、来てくれ」
しかし先輩は、揺るがない。こんな先輩の姿は、態度は詩亜も見たことがない。
どっしりと、足の裏から根でも生えたかのように直立不動に、彼女は不知火を見据えている。真剣に、睨みつけているといっていいほどに鋭く、その視線を尖らせて──詩亜の親友が立ち上がるのを、待つ。
いったい、なに。
どうしたの。先輩も──しーちゃんも。
「来るんだ」
先輩の口調は、年上からの命令にいつしか変わる。
不知火は僅か、観念をしたように瞑目し、小さく息を吐いて。
そして立ち上がる。
彼女に恋をしてくれた女性の、無二の親友のもとへ、歩み出す。
不知火がそうする間もずっと、けっして真波先輩の視線は彼女から外されることはなかった。
(つづく)
第四十二話、いかがだったでしょうか。
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