第四十一話 一線を、踏み越える
第四十一話 一線を、踏み越える
ステージを終えた舞台袖でのやりとりを、夕矢は憶えている。
同級生のメンバーたちが、演奏をやりきったその達成感に浸り、各々にハイタッチを交わす中、不知火さんは一歩引いたところで、そんなメンバーたちの歓喜の輪を見遣り、微笑んでいた。
それは夕矢たちほどに感動が色濃くない、彼女の冷めた性質を表しているわけではなく。
メンバー中、自分ひとりが年上。中学生たちの中に混じった高校生、当事者でなくあくまで助っ人だという、疎外感からきたものでもない。
ただ夕矢には、そんな不知火さんの姿がどこか、今目の前にあるこの光景を永久に、残そうとしているように思えた。
なぜそう思ったのかは自分でもわからない。
そのとおりだったとするなら、なぜそこまで彼女が強く場面を網膜に焼き付けようとしていたのかも。
青春のひとコマ。それを切り取るにしても、彼女は真剣で──どこか、遠くて。
メンバーの一員だからこそ、客観の視点から見続けることで皆を忘れじとしている。ただ強くそれを願う。
彼女の表情にはそういう色があった。
だから彼女自身が歩み始めるまで、こちらに手招きをすることができなかった。
理由も。心の内もわからぬままには踏み込めなかった。
夕矢の側に、彼女のそんな仕草や表情へと気付くまで、微かな淡い期待がなかったわけではない。
一緒にやり遂げた、ステージ。その達成感。そして連帯感。
本番前に、言われたこと。
もしかしたらこのタイミングで──と。返事を待つ身としてはここがきっかけと思いたくもなる。
だが、訊けなかった。
不知火さんが瞳の奥に焼き付けようとしている光景から、敢えて抜け出ることが憚られた。
思うままにさせてやるべきだ。好きな相手だからこそ、そうした。
* * *
「──うん、そう。よかった。ありがと、おばさん。……え? いいよ、料理まで。大した食材残ってないし。あたしやるよ。帰りに買い出しして、ひかりに栄養のあるものつくったげるんだから、大丈夫」
うん、ほんとにありがとね。
白鷺のおばさんからの電話を終えると、歌奈と彩夜が心配げな面持ちでこちらを覗き込んでいる。
真剣に固唾を呑んでいる友人たちに苦笑をしながら、雪羽はごく自然に言葉を発する。
「だいじょーぶ。ちっちゃい子によくあるただの発熱だって」
そうして告げた言葉に、友人たちは表情を崩し、安堵の色を浮かべる。
「そっか、よかったー。ひかりん、大したことないんだ」
「週末はお出かけもしたし、疲れたんじゃないかってさ。まだまだ体力つけていく時期だからよくあるだろうって」
ひかりが発熱をみせたのは、今朝のことだった。
先に気付いたのは姉。なんだか苦しそうだったひかりの頬は、林檎のように真っ赤に染まって体内の熱さを訴えていて。
どうしよう。病院。救急車。おろおろと慌てる姉をなだめつつ、白鷺家に雪羽は助けを求めた。
無理にでも学校を休む気になっていた姉を尻目に、おばさんが病院へ、ひかりを連れて行ってくれることになった。放課後まで家で看病していてくれると、胸を叩いてくれた──。
「彩夜も、ありがとね。おばさん借りちゃって」
「いえ。ひかりちゃんもうちの家族ですから」
なんともなくて、よかったです。彩夜がほっとした表情に微笑む。
「お姉ちゃんは──あ、隣は移動教室か」
姉にもはやく、伝えてあげなくては。
ひかりのことは大丈夫だからと追い出すように、背中を押して朝練に送り出したけれど、これまで朝も、一限目も、二限目も。終わるたびに教室にやってきてはひかりの具合は、と雪羽に訊いてくるのだ。
だいじょーぶだから。ほんとに大変な状態だったら、病院から直接電話、かかってくるから。おばさんも報せてくれるから。毎度、そうやって隣のクラスに追い返していた。
「心配性だねぇ、あいつも」
「ほんと、大袈裟なんだから」
ひとまずは安心だと、伝えてやらなくては。
心配性なお姉ちゃんに。いや、お姉ちゃんというかむしろ──、
「なんだか、娘がかわいくてしかたない新米お父さんみたいですよね」
「いやいや、孫大好きなじーさんでしょ」
いや、うん。友人たちの表現を雪羽も否定できなかった。
たしかに最近、姉がどこか、以前とは違った意味合いで一歩引いた視線を持とうとしているように感じることはある。
雪羽や、ひかりに対して。彼女は俯瞰して見ているように思えるのだ。
一家の、大黒柱。一番上の、お姉ちゃんとして。ふたりを包み、守ろうとしてくれている。そんな風に感じられる。
全然まだ、お姉ちゃんなりの不器用極まる領域を超えたものではないけれど。
ひかりの発熱ひとつであわあわしてしまう、微笑ましいものにすぎないけれど、それでも。
(──けど、それは)
それはきっと、彼女にとって雪羽やひかりが喪いたくない、最も亡くしたくないもののひとつ、それぞれだからで。
いつか見えなくなるとしても、けっして忘れないように。見えなくなっても記憶の中で寸分違わず思い描けるように、というくらいに──焼き付けようとしているようにも思えるのだ。
もしかしたら回避し得るかもしれない未来。それが提示されたがゆえに、意識するようになってしまった。その変化が姉や、自分にとって好ましいものなのか、よくないことなのか。まだそこまではわからないけれど。
そりゃそうだ、と思うのだ。
近づいてくる未来。それはほかでもない、姉自身のことだ。姉にとって気にならないわけがない。
ましてそこから、どうしようもない、という不可避の諦めがまがりなりにも取り除かれたのならば。
人は希望に縋る。あるいは、希望への過度な期待をせぬよう戒める。そのどちらかになるはずだから。
そんな姉を雪羽は、支えてやりたいと思う。
いっぱい思い出をつくって。ひかりと一緒に、姉とわらいあって。
喪わずにすむのなら、そのことを知ったとき、喪うことなく目の前にあり続ける笑顔を彼女が心から喜べるように。
未来が変わらなかったなら──彼女の瞼の裏に、心の中にいつでもそれが、たとえ虚像であっても思い起こせるように。
姉が、一家を包み込むべき存在であろうとして、そうすることで自分の未来と向き合おうとしているのなら。妹としてそれを支えたい。
守る。──守るよ。
お姉ちゃんが、あたしたちにそうしてくれるのなら。
そうしてくれるお姉ちゃんは、あたしたちが守るから。
「ユウくんと接してるときなんかの様子も、見てて思うんです。不知火ちゃんもお姉ちゃんであることに慣れてきたのかな、自然体でそうしていられるようになったのかな、って」
「なーに言ってんの」
同時に姉が、夕矢に対しても同じ目をしていることは雪羽も知っていた。
夕矢のことも、姉は大切に思ってくれている。
けど、それは。──それが雪羽たちに向けられているものと同質の視線だということは、つまり。
夕矢へとむけられた、お姉ちゃんの「大切」の性質は……。
「お姉ちゃんはずっと、あたしにとってもったいないくらい、たくさんお姉ちゃんしてるよ」
そこまで考えて、よそう、と思った。
姉と夕矢の関係性は、当人同士の問題だ。間に無理に入って、あたしがどうこう言うことじゃない。ふたりが互いに真剣に向き合って、そのうえで答えを出すべきものだ。
夕矢にとっての、不知火という女性があるように。
あたしにとってのお姉ちゃんがある。
お姉ちゃんから見たあたしがいる。それぞれに、関係性がある。
「けっこうヘタレで、案外不器用で。コミュニケーションうまくなくってさ。だけどかっこよくて、美人でさ。あたしにとってははじめから今まで、これからもいいお姉ちゃんだよ」
だからあたしとお姉ちゃんは、これでいい。
微笑を洩らしながら、そっと雪羽は目を閉じた。
歌奈の微かに放った、
「のろけるねぇ」
そのひと言が、瞼を閉じたぶん一層鮮明に、聴覚に染み込んできた。
* * *
「よかったー……」
携帯に届いた文面を見て、不知火は安堵の息を吐く。
音楽教室から、自身のクラスへ戻る渡り廊下の道すがら。そこで雪羽からの連絡を不知火は受け取って。──校内では不要な電話連絡は禁止されている。とくに、生徒同士のものは。
「ふふっ。よかったですね、なにごともなくて。……しーちゃん、朝からずっと心ここにあらずでしたから」
「え。そ、そう?」
「はい。何度か声かけても、上の空で気付かなかったくらいですよ?」
先生の話だって聴いてなかったでしょ? 授業中、急に当てられて困っちゃうんじゃないかって、見てるこっちがはらはらしてたくらいですもん。
オーバーな表現と身振りとで、笑って語る詩亜。それも、不知火が安堵した様子を見せたがゆえの軽口なのだろう。
と、思ったのだけれど。
「逆にさ。そういえば詩亜、今日は朝からなんか、テンション高いね」
気づいたのは今になってからである。
ふと思い返してみれば、いつになく今日は詩亜から声をかけられることが多かった気がする。しかもなにか、語りたそうにしていたような雰囲気で。
相談とか、後ろ向きな不安の類ではなく。どちらかというとその声音には、なにか聴いてほしいことがある。こうしようと思う、背中を押してほしい、前向きさのような要素が強かった。
ひかりのことでこちらも頭がいっぱいだったから聞き流してしまっていたし、今思えばそうだったな、という程度の認識でしかなかったけれども。
「わかります?」
「うん」
詩亜にしてはというくらいに明確なレベルで、なにかあるとわかりやすい。
「──ですよね。やっぱりわたし自身、緊張してるし、浮かれてるのかなぁ」
「緊張?」
浮かれる、って?
目を閉じて、つかつかと一歩前を行く詩亜。彼女はその小柄な身体で、不知火の進路を塞ぐように立ち止まって。
背中を向けたまま、言う。
「先輩に、誘われたんです。また、デートに。──それで、自分の中で肚が決まった、というか」
「デート? ……あ」
言われて、不知火の中にも記憶がよみがえってくる。
あれはゆきの誕生日。会った。そういえば、会ったよ。
南風先輩の、デートの下見だって。水族館で。文化祭休みに誘うからって、言ってた。
……っていうか。
まだ誘ってなかったんですか、南風先輩。文化祭、今週末だっていうのに。デート当日までもう、一週間きってますよ。
「しーちゃん?」
そりゃ、星架先輩だって呆れるよ。
いろいろと思い出して、いろいろと満載なつっこみどころに内心つっこんでいたら、振り返った詩亜がこちらに首を傾げている。
いかん。リアクションがあんまり薄いと──勘のいい詩亜だ。バレる。
先輩たちの、デートの下見のこと。
黙ってて、と言われた以上、態度からバレるわけにはいかない。
「あ、いや。そう、どこ行くの?」
「水族館です。市内のど真ん中にある、おっきな」
このあいだ、しーちゃんが雪羽ちゃんと行ってたところですよ。
うん、知ってる。とは言えない。先輩との約束がある。だから曖昧に首肯して、ああ、あそこね、と流す。
「それで? 肚が決まった、っていうのは?」
そして話題を、彼女のもうひとつの発言へと向ける。半ば以上にその意を理解しながら──そのくらいには、不知火だって鈍感すぎるわけじゃない。
今度は彼女が、言葉に躊躇をする。
はにかんだ笑顔。頬が微かに紅い。お腹の前で、教科書とペンケースを抱えた両手を交差させて、深く彼女は息を吸い込んで。
「──そういうこと、ですよ」
敢えて言葉として明確に表現するでなく、不知火の問いを肯定する。
それだけで十分だと、友は不知火を信じてくれた。
友との間にはたしかに、それだけで意を伝えあえるだけのものがあった。
ふたりしかいない、校舎のはずれのひっそりとした渡り廊下。もう間もなく、次の授業の、開始のベルが鳴る。その風景の中、互いは意思を、理解しあった。
ああ。この子は踏み出すんだ。
私のことをよく知っているから、そのことを伝えてくれた。
「そっか。そういうこと、か」
それ以上は言わなかった詩亜の言葉の先にはきっと、言外にこう続いている。
わたしは、行きますね。
そして、もうひとつ。
しーちゃんは、どうしますか。これから、どうするんですか。
聡い彼女は、それらの意図を含んで、僅かな言葉を親友・不知火へと投げかけたはずだった。
不知火もまた、踏み出そうとしていることに彼女は気付いているから。
枕や呼び水といった類のものを、友として不知火に差し出してくれたのだ。
* * *
だからといって不知火は、そう即座に行動を起こせる性質の人間ではなかった。
保留して、考えて。機を窺う。そのきっかけや理由を探し、反応してしまうごくごくありきたりな性質の一般人である。
まして今日は、今朝にひかりが発熱をしたばかり。
ゆきも、文化祭実行委員の仕事は歌奈に任せて、まっすぐに帰ると言っていた。
だから不知火も同じように、部活には顔だけを出して、事情を伝えて。取り急ぎ下校の途に就くつもりだった。
そして実際、正門を出る。
当初の予定と若干、異なるかたちで。
ひとり家路を辿るはずが──その隣に、自身より小柄な、年上の女性と並んで。学校をあとにする。
「大丈夫ですか、先輩」
「うん、平気。折れてはないし、たぶん二、三日で腫れも引くわ」
片足を引き摺るように歩く、その人の歩幅に合わせて進む。
今日、学校で。体育の授業中に足を痛めたらしく。星架先輩は時折、顔を顰めては忌々しそうに溜息を吐く。
「いいのよ、不知火。先に行って。姪っ子さんのこと、気になるんでしょ」
「いえ、そういうわけには。うちにはゆきだっていますし。それより痛むんだったら親御さんに迎えに来てもらったほうが」
肩、貸しましょうか。不知火の申し出に、星架は首を振る。
「うちの両親、旅行中。結婚記念日だー、って。まあ、駅まで着いちゃえばあとはすぐだから。このくらい自力で歩くわよ」
「そう、ですか」
「それにしても、恥ずかしいなぁ。水泳以外だってべつに、運動音痴じゃあないはずなんだけど。──ほんとに、行きたかったらいつでも先に行っていいんだからね、不知火」
「送りますって。せめて、駅くらいまでは」
「そう、ありがと」
足を痛めた彼女のペースだから、歩調はあくまでもゆっくりだ。自然、会話に費やす時間も増える。
「姪っ子さん。ひかりちゃんだっけ。かわいい子ね。おとなしくって、とってもいい子だったわ」
文化祭のライブのときもぐずったりせずに、雪羽ちゃんの腕に抱かれてた。
「雪羽ちゃんと、ひかりちゃん。あのふたりが、今の不知火にとっての一番大事な、かけがえのないふたりなんだね」
「──はい」
「そう。羨ましいな」
また、考える時間も増える。
寄り添い歩く、彼女のこと。彼女へと伝えねばならぬこと。訊きたい、こと。
今でいいのか。もっとふさわしい瞬間は、ないか。
いや。決めたんだろう、告げるって。いつまで躊躇している。決めたからには、踏み出せ。
雪羽のおかげで知ったはずだ。訊ねること。知ってもらうこと。そして──信頼する相手へと、甘えること。
「兄さんと。義姉の忘れ形見ですから。ふたりとも、私にとって」
「うん」
「ずっとずっと、見ていたい。その姿を忘れたくない。失いたくなんか、ない。それがけっして、不可能だとしても」
一瞬、不知火の発した言い回しに、その大仰さに、先輩が眉を顰める。
わかっている。事情を知らなければそういう反応にもなる。そんな発言だという自覚は不知火自身、ある。
赤信号。横断歩道の前で立ち止まりながら、そして続ける。
「でも、失いたくないものだっていうなら。それは星架先輩や、夕矢くんだって同じです」
だから、今から言うことで私は、先輩を失ってしまうかもしれない。
将来にではなく。今、このときの言葉によって。
「それでも言うのは、先輩が好きだからです」
先輩も。
夕矢くんも。かけがえのないものにはかわりない。先輩が夕矢くんや、ゆきの立ち位置にはなれないように。ゆきや、夕矢くんだって同じ。
欲張りなのかもしれない、とも思う。けれど失いたくない──それは心からの本心で。
信号が、青に変わる。けれどふたりは踏み出さない。
不知火の伝えるべきことを互いに、待って。そこに佇み続ける。
「先輩のことは、好きです。好きなんです。けど、私は殆ど確実にこれから先、先輩を失ってしまう」
私の世界から。
先輩だけじゃない。
ゆきも。ひかりも。夕矢くんも。詩亜たちだって。消えていく。
「先輩。私が先輩を見えなくなっても。失ったと、しても。先輩は、私を失わずにいてくれますか」
世界を失った私を。
あなたの世界の中にいさせて、くれますか。
「──え」
言葉は、願望や要求ではなく、確認だった。
これは私から求めるなんて図々しくて、とてもできないこと。
そして同時に、先輩の想いに応えようとするならばけっして、避けては通れぬことだった。
知ってもらいたかった。結果離れていくでもいい。
伝えること、そのくらいは今の私にでもできる甘えだから。
今なら失ったとしても、先輩のことを刻み続けていられる──……。
(つづく)
第四十一話、お届けしました。いかがだったでしょうか。
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