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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第二部 夏から、秋まで
39/74

第三十九話 姉の唄、出会いの記憶

 

            第三十九話 姉の唄、出会いの記憶

 

 

 マンションの玄関までゆきを、不知火を。そしてひかりを荷物とともに送ってくれたレイアが、去り際に言い残していったことがある。

 

「不知火」

 

 明日朝イチで発つ。ひかりのことを、頼むな。そうやって頭を下げると同時。

 幼子を抱いてひと足先にエレベーターホールに向かった、ゆきには聞こえぬ密やかな声で、不知火にだけひとつ、あることを彼女は告げた。

 不知火たちに預けていく、ひかりのこと。

 彼女の、これからのこと。

 まだ、確定事項ではない。それはある種、今後の不知火の未来と同様。

 好転するかもしれないし、変わらないかもしれない。そういう類の情報だと前置きをして、レイアは言った。

 

「ひかりのこと。ちょっと気になることがあってな──……、」

 

 告げるレイアの表情は、すまなさに満ちていた。

 言うべきか言わざるべきか。彼女自身このときまで迷い、躊躇していた、ということなのだろうと不知火は思った。

 

「──え」

「ユッキーに伝えるかどうかは、お前に任せる。すべてが確定してからでも遅くはないと思うが……な」

 

 あくまで、可能性の問題でしかないのだから。レイアは、繰り返す。

 不知火へと、伝えていく。

 そうして不知火はまたひとつ、背負うことになる。

 それははじめて、不知火が個の「不知火として」ではなく。

 雪羽との仲の良い、ただ仲の良い姉妹だからという関係性だけでもなく。

 血のつながりはなくとも紡ぐ、ひとつの家族の姉。その一番上、家長として立つ者として考え、気を配らねばならぬことだった。

 

                 *   *   *

 

 しーちゃん、と肩を叩かれて、不知火は我に返る。

 レイアの言葉がずっと、ひっかかっていた。そのせいでずっと、考えて。ぼうっとしていて。

 

「しーちゃん。授業、終わってますよ。お昼ですよ」

 

 そうやって幾度目かに呼ばれてはじめて、授業終わりのチャイムが鳴っていたことに気付いた。

 もう昼休み。ぼんやり座りっぱなしだった不知火を見下ろすように、詩亜が首を傾げて、目の前に立っている。

 

「あ……あ、うん、ごめん。お昼ご飯だね」

 

 その手には、お弁当箱の包みがふたつ。──ふたつ?

 朝、歌奈が忘れて家を出たのだろうか。怪訝さを隠さずにいるとしかし、一層不思議そうに詩亜は目をぱちくりさせて、より困惑したような表情をつくってこちらに向ける。

 

「あの、やっぱり聞こえてなかったです?」

「へ」

 

 なにが、と思うほどに、不知火は呑み込めていなかった。

 だって、お昼休みでしょ。お昼ご飯でしょ。お弁当でしょ。これからゆきたちと合流して、食べるんじゃないの? いつものように。

 完全に、そんな感じでハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思う。

 一方詩亜は仄かに頬を染めて、朱を差して。

 

「だから。今日はちょっと先約があるので、行きますね。──って、さっき言ったんです」

「え。……ごめん、そうだったんだ。聞いてなかった」

「でしょうね」

 

 詩亜は苦笑気味に笑う。

 でも、先約? 部活の用事があるのなら私も呼ばれるはずだし、それとも委員会かなにかあったっけ?

 ほかのクラスメートと、というならそれらしく待っている様子の面子はもう、教室内には見受けられないし──そもそもその場合、詩亜が歌奈とのランチより優先するとも思えない。

 それに、お弁当ふたつって。

 

「──あ。ひょっとして、南風先輩?」

「っ」

 

 思い至った名前がぽろりと口から出た。そしてどうやら、それが図星で、正解らしかった。

 

「う。な、なんでわかったんですかっ」

「いや、だって。そりゃまあ」

 

 第一にはなんとなく。

 そして第二には──弁当ふたつ、もってるし?

 平然と名前を出した不知火に抗議するように、わかりやすく動揺したそぶりを見せる詩亜。親友のそんな姿を見ていると、ちょっと意地悪したくなってくる。

 

「ふーん。もう、そこまで行ったんだ?」

「そ、そこまでって。べ、べつに。よかったら一緒にお昼どう、って誘われただけですよ」

「へー。必要な用事のないかぎり絶対に歌奈や私らとランチする詩亜がね」

「……うー」

 

 こんなにうらめしそうな、くるくると表情の変わる詩亜って、そうそうない。

 恥ずかしがったり、困ったり。けっこうおもしろい。

 というか。星架先輩曰くのところだと小心者だなんだと言われていたけれど、あれでけっこう南風先輩も積極的なんだな。

 

「普段鈍いくせに、どうしてこういうときだけ鋭いんですかっ」

「ひどいなぁ」

 

 いやだって、わかりやすいし。

 

「ま、とにかくわかったよ。先輩待ってるんでしょ? 行っておいで。──でも、歌奈はいいの?」

「あ、はい。朝言ったら、「わかった」って。面白くはなさそうでしたけど」

「だろうね。……そう。そっか」

 

 その辺は、お昼どきの世間話の種になりそうだった。

 じゃあ行ってきます、と小走りに駆けていく詩亜に手を振って、ようやく自分の空腹感を認識する。

 私も、行こう。

 なにも確定していないことについて悩むのは、今は詮なきことだ。

 

                 *   *   *

 

 面白いわけないじゃん。──詩亜とともに、ではなく。中庭にひとり姿を現した姉・不知火から事情が告げられて、雪羽や彩夜の視線がそちらを向くと、ここにはいないほうの姉を持つ友人は口を尖らせて、そうぶつくさ言った。

 詩亜不在だから、四人でのランチ。歌奈はむっすりとふくれ面をして、紙パックの野菜ジュースに刺したストローをすする。

 

「でもなお一層、なにが面白くないって。そうやって面白くないって思ってる自分の子どもっぽさに腹が立つっての。今朝だってねーさん、言うときすごい申し訳なさそうだったし!」

 

 したいようにしてって言ったのにさ。妹に気を遣ってさ。

 そりゃ大人だよね、彼女もできるよね、っていう。

 

「おー、荒れてるねぇ」

「くやしーんだよ、なんかさぁ!」

 

 言って、唐揚げを頬張る。詩亜もまた、今頃は同じ唐揚げの入った弁当を、先輩と一緒につついているのだろうか。

 

「不知火は不知火でモテモテだし。なんだ、姉が今のトレンドなのか」

「え。いや、私?」

「いや、そこは間違いないと思いますよ?」

 

 右に同じ。彩夜の言に、こくこくと雪羽も頷いて。

 

「男も女も。雪羽はおねーちゃんがうらやましいわー」

「ちょっと、ゆき」

 

 ねー。彩夜と頷きあう。

 

「で、でも。歌奈もモテそうだけど? 男の子にせよ、女の子にせよ」

 

 とくに女子とか。格闘技強いし、護ってくれそう、みたいに。

 困った表情を見せつつ、それでも人差し指を立てて提案してみる姉。

 

「いやいや、これがさっぱりなんだよねー。かっこいいところ、けっこう試合でも見せてるはずなのに。──あ、いっそ雪羽か彩夜、どっちかアタシと付き合っちゃう?」

「いや、それこそいやいやでしょ」

「近場でとりあえず物件を押さえとこうとするの、やめませんか、それ」

 

 雑すぎでしょ。ないわ。

 シニカルに返すと、「えー」と大袈裟に、再び歌奈は口を尖らせてみせた。

 

「あ、そだ。雪羽から聞いたよ。ひかりん、今ふたりが預かってるんでしょ」

 

 そしてあっさり、切り替えてきた。

 ひかりんって。ひかりのことかい。本来の名前より長いじゃないか、それ。

 

「うん。っていっても昼間、学校の間は『白夜』でおじさんたちに見てもらってるけど」

「そーそー。それも聞いた。今度遊びに行ってもいい?」

「もちろん。──あ」

「んお?」

 

 そんな他愛のないやりとりに、少し安心している自分を雪羽は自覚する。

 詩亜のように勘の鋭くない、むしろ鈍感な部類のあたしだけど。でも今朝、というかひかりをレイアさんから託されてからの、姉のなにか考えている雰囲気はずっと気になっていた。

 もちろん無理なからぬことだと思う。気にしがちな性格の姉だから。

 自分の目のこと。その期待と不安と。

 レイアさんがそのために単身、アメリカに戻っていってくれたこと。その感謝と申し訳なさ。

 ひかりのこと。自分たちで面倒を見る責任と、そこへの緊張感。

 いろいろとまた、ひとりで自分の中に抱えようとしているのではないかと思ったから。

 あるいはもっと異なる、雪羽では予測のしきれない性質の悩みを抱いてしまったのかもしれないけれど──……。

 

「ならさ、せっかくだし。勉強会しようよ。もうすぐテストだし。今のうちから少し、やっとこうよ」

「えー」

「そこ、文句言わないの。一番やばいの、ゆきじゃないの」

「う。べ、べつにそんなことないもん。テスト、文化祭前でしょ? あと二週間もある。そんだけあれば大したことは」

「テスト前に大したことやんないから、いつも直前になって苦しむんですよね?」

「あ、彩夜っ」

「それに二週間ってわりとあっという間だよ? じきに不知火だって部活お休み期間入るっしょ?」

 

 うん、うん。雪羽を除いて三人、頷きあっている。……ひどくない?

 

「まーまー。不知火だってかわいい妹を心配して言ってくれてるんだから。素直にここは受け取っときなさいよ。実際助かるでしょ?」

「うー……」

 

 もしかして。お姉ちゃんの心配とか悩みって、そういうこと?

 さすがにこんな軽いノリのものではなかった……、と思いたい。

 お姉ちゃん、教え方けっこうスパルタなんだよなぁ。

 

「でもでも。この間、ユウくんたちに教えてたとき、わかりやすいって好評だったじゃないですか」

 

 特に厳しいわけでもなく。丁寧に教えてましたよね。彩夜の指摘に、雪羽も反論を出せなくて。

 いや、あるにはあるんだけど。でも。

 あれは高校より簡単な範囲の、中学生が相手でしょ、とか。──彩夜から「中学の頃も大して成績変わらなかったですよね?」つっこまれるだけだから、言わないけど。

 夕矢、あいつ教えなくたってべつに勉強できるじゃん。──「それ、中学生に負けてるって自白してる?」うん、歌奈か姉が言いそうだ。

 藪の蛇をつっつくだけだから、言わない。

 

「……よろしくおねがいします」

 

 なにを言っても、言い負ける。観念して、雪羽は頭を下げる。

 いえーい、とハイタッチする姉と歌奈。いえーいじゃないよ、いえーいじゃ。

 中間テスト。それは姉にとってのではなくむしろ、自分の抱える悩みだ。

 抱えさせられた、というか。──いえ。なんでもないです。

 がんばろ。うん。

 

                 *   *   *

 

「お姉ちゃん?」

 

 気付けば部屋の中に微か聴こえていた、歌声があった。

 明日のお弁当の仕込み。その手を止めて振り返れば、抱き上げたひかりをあやし、腕の中に寝かしつける姉の姿がある。

 そんな彼女の紡ぐ、そよ風のような子守歌。

 姉の歌声は、ヴォーカルを頼まれるのも頷けると思えるくらい、きれいで。

 そのメロディが、姉とひかりとを包んでいるようにさえ見えた。

 歌声に満たされていく部屋の中、姉の腕に抱かれたひかりは眠っている。

 軽く、やさしくその背中を叩く不知火の掌にあわせて、そのリズムとともにこくり、こくりと首を揺らす。

 静かに、歌声はか細く消えていく。それはさざ波が砂浜の上を滑らかに引いていくように、姉自身がそうしているのだと、そこにある人為を思わせないほどにごく自然に、静寂へと、無声へと進んでいく。

 なんでもない蛍光灯の明かりの下、双眸を閉じた姉の見せるその光景に、終わりゆく歌声に。目を奪われ、聞き入っている。そんな自分に、気付くまでいったい何秒ほどがかかったろう。雪羽はひどく間抜けなほどに遅れて、茫然としていた自分に思い至り、我に返る。

 声が、止んだ。その数瞬前から既に、聴覚に聴こえるものでなくなっていた姉の発声はしかし、彼女の小さな頷きとともに、深々としたひと呼吸で目に見えるかたちで明確に、周囲へと終わりを告げて。

 頷くように一瞬俯いた姉は顔を上げると、その瞼を開く。

 

「──やっぱし歌、うまいよね。お姉ちゃん」

「あ。──ごめん、料理の邪魔してた?」

 

 ひかりの安眠を確認するようにその顔を覗いた姉へと、その腕の中の幼子を起こしてしまわぬ程度の声量で言葉を向ける。

 

「ううん。いいもの聴かせてもらったよ」

 

 夕矢が、バンドに誘うわけだ。実感を伝えると、姉は少し赤くなって。

 

「べつに、普通だよ。ゆきのヴァイオリンみたいにきちんとやり方を練習したり、学んだりしたわけじゃない。感覚でなんとなくやってるだけ」

 

 人並み程度に歌が嫌いでなくて。

 あくまで、人並み程度になにげなく歌える歌があるというだけ。自分のそれが嫌いでないという程度に、できているだけだよ。単なる素人芸だ。

 

「ううん。あたしだってお姉ちゃんの歌、好きだよ」

 

 言うと、姉は恥ずかしそうにはにかんだ微笑を浮かべながら、ひかりをソファのところに連れていく。

 眠るひかりを下ろして、その傍らに膝を曲げて、寄り添うように座り込む。

 

「よく眠る子だよね。たくさん寝て、たくさん大きくならなきゃ、って身体全部で表現してるみたい」

「……うん。ほんとに」

 

 姉はひかりを起こさぬよう注意しながら、その顔にかかった前髪を掃ってやっている。

 レイアさんと一緒のときも、ひかりはよく眠っていた。けれど一緒に暮らすようになって、一層思う。ほんとに、よく寝て。起きているときは無邪気に、なんてよく笑う子なんだろう、って。

 この子が小雨姉さんと。晴彦さんの娘なんだ。なるはずだった、じゃなく。ああ、娘なんだ──そう思えた。既に認識していたその気持ちをより、実感できた。

 歌と、実感。そのふたつの要素に、雪羽は思い起こす。

 それは、あの日。──ひかりの両親であった姉夫婦の、葬儀の日。

 すなわちそれは、雪羽と不知火の、出会いの日だ。

 桜の木の下、ふたりははじめて顔を合わせて。互いを、知って。

 けれどその場所へ雪羽を導いてくれたのは実は、今と同じ、姉の歌だった。

 桜舞い散る春の日。

 実姉と義兄を送り出したその日、ひと目見た彼女を自己紹介より早く、この人が新しい姉だと悟った。

 満開の桜の下、佇む不知火は息を呑むくらい、絵になっていて。

 その光景を雪羽が、視界のファインダーの中に収めたのはまさに、先ほどのように歌がごく自然に消えゆくそのタイミングだった。

 ほんの微かな音色が耳の片隅に届いて、ずっと残って。それが雪羽に、その源を探させた。そうして出会った。

 歌詞までがきちんと、十分に聴こえてきたわけではない。なにかを歌っている。それが偶然か必然か、白鷺のおじさんと会話をしていた雪羽の耳にも微か、届いただけだった。

 けれど心地の良いメロディ。死者を送る日にけっして不似合いではない、やさしく穏やかな、──しかし歌い手のおかれた現況を、そして心を反映してか、少し、ほんの少し哀しさと寂しさの色を陰として差した、歌。

 今日ほどクリアではなかった。むしろ、震えていた。消え行くまでもなく、雪羽以外の誰も気づけないくらいにもとよりか細く、ところどころが掠れて、儚かった。音楽に触れていた雪羽だからなんとなくわかる。ひと筋に流れていくのでない、心の中の乱れが伝わってくるようだった。でも、美しい歌だった。

 こんなときに歌を、なんて思わせない。健気さと静謐さの同居した歌を、それらを内包した人物が歌っていた。

 あれは姉自身の気持ちを癒し慰めるためのものだったのだろうか。

 いや、きっと。あれは──姉にとっての、義兄への鎮魂歌だったのではないか。

 最愛にして唯一の肉親を喪った、姉と雪羽だった。

 その実感はまだなくとも、歌なんて本来、自然発生のできる心境ではなかったはずだ。

 それでも彼女は、歌っていた。背中の側から見守る雪羽には、それが誰かに対し語りかけるように歌っている、そう見えたから。

 姉から。死した親愛なる人たちへ向けられた歌だったんだろう。

 きっと何故そうしたのか、姉に今訊いても理由はわからないのではないか。

 音楽に日常的に接する習慣のなかった姉である。半ば彼女は無意識にそうしていたのかもしれない。

 だからあれは、姉自身のための歌じゃない。

 晴彦さんと。──彼に寄り添いともに逝った、小雨のために彼女の本能が手向けた、歌。

 理性の中にそのときまだ喪失の実感なく、それゆえきちんと「泣けなかった」不知火が、その本能が涙の代わりに流し、滲み溢れさせた歌声だったのだと思う。

 邪魔なんてできなかった。中断なんてあってはならないことだった。

 だからあたしはあのはじまりの日、お姉ちゃんに声をかけなかった。かけられなかった。──彼女から、ふたりに向けた鎮魂が終わるまで。その光景の美しさに魅了される、ばかりだった。

 

 ──『──あ』

 ──『やあ。あらためて、はじめまして、だね』

 

 そう言って、姉・不知火の気付くまで。時間にしてみればほんの数秒だったかもしれないけれど。そんな葛藤が、自制があったのは、姉自身に対してさえ内緒の、雪羽だけの内にある秘密だ。

 

「さて、と。そろそろお風呂入れるね」

「あ、うん」

 

 ひかりにタオルケットをかけてやり、姉が立ち上がる。

 そのままバスルームに向かうのだろう。彼女から目線を切って、雪羽は手元に意識を戻す。

 

「……ゆき」

「うん?」

 

 しかしひととき、姉は動き出すのを遅らせた。

 呼びかけられ、顔を上げると。キッチンカウンターに空いた小窓越しにいつしか、姉が眼前にいる。

 

「私ね、伝えようと思うんだ。先輩に。私の、目のこと」

 

 告げる瞬間向けられたそれは気負いによる表情でなく。

 むしろ、かつて雪羽に対してそういったように、彼女にとって「なんでもないこと」──そのなんでもない感情が、見えて。

 

「伝えていいなって、思った。……もしかしたらこれから、好転するかもしれない可能性が出てきたんだから」

「お姉ちゃん……」

 

 カウンター越し、腕を回して彼女は、雪羽の首を抱く。

 

「ちょっと、ね。「言っていい」って思えたから。──それだけ」

 

 お風呂、入れてくる。再び告げて、姉の身体が離れていく。居間の扉がその背中側で閉じられて、向こう側に姿が見えなくなって。

 

「──そう。そんな風に思えるなら、いいことだよね」

 

 思うようにやって、と言ったくせに。

 そのくせ、お姉ちゃんと先輩との関係、面白くなかったはずなのに。姉の囁いてくれた言葉を嬉しく思う自分がいた。

 結局あたしも、お姉ちゃんに笑っててほしいだけなんだな。

 笑って、未来を見ていてほしい。その気持ちでいっぱいなんだ。

 レイアさんのおかげで微かにとはいえ、そんな希望の光が灯った。

 まだ、「そうなるかもしれない」可能性がほんの僅か生まれただけであっても。

 けれどそれでも、見えなくなるはずの未来がそうでなくなるかもしれないのだ。

 姉の未来の選択肢が増えるということは、雪羽にとってもまた、喜ばしいことには違いなかった。

 それによる姉の変化を、歓迎しないわけがない。

 

「がんばれ、お姉ちゃん」

 

 今はそんな姉のために、精一杯おいしい料理をつくろう。

 そう、思った。

 

 

 

              (つづく)


気付けば次でもう40話ですね。

引き続きお楽しみいただけると幸いです。

 

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