第三十八話 「ぬーさん」と、ひかりと
第三十八話 「ぬーさん」と、ひかりと
毎朝の目覚めというその時間において、自身の好ましく思えるルーティーンが、その繰り返す日々の中にひとつ増えたことを、雪羽は嬉しく思う。
「──おはよ。『ぬーさん』」
その日、雪羽は設定した時計のアラームより一時間以上早く目覚めた。それは偶然の産物ではあったけれど、しかしもしかすると得たばかりのその行為を自分自身の無意識下が、遠足の朝の小学生のように待ちわびて、望んでいたからだったのかもしれない。
だとしたら、浮かれすぎだろう。いくら嬉しいからってさ。そう、自分に苦笑を向ける。
そして、おはようを告げる。
枕元。五線譜模様の、ちょこんと座ったテディベアに。
愛する姉からの、誕生日の贈り物へ──隠しきれない柔らかな笑顔を向けて、頷く。もうこれで何日目だろう。きっとこのまま、これは日課になっていく。
ぬーさん。姉・不知火のお手製テディベアだから、不知火の「ぬー」。あとは某、くまのぬいぐるみの代名詞と言っていい、はちみつ大好きな黄色のマスコットから。踏襲して、韻を踏んで、「ぬーさん」。
誕生日の夜にそのネーミングを思いついて伝えたとき、姉は微妙な表情をしていたけれど、名付けた雪羽としては絶対にこれしかない、と断言できるくらいにしっくりくる名だと思っていた。
「おはよ。今日もよろしくね、ぬーさん」
今日もあたしのこと、見ててね。
あたしと、お姉ちゃんのこと。そのボタンの両目で。
ぬいぐるみの頬を軽く叩いてやりながら、ベッドから立ち上がる。
時計はまだ朝の五時半を過ぎたところ。部活の朝練があるにせよ、さすがにまだ姉もこの時間では起きていないだろう。弁当も昨夜のうちに仕込んだやつを今日はほぼ、詰めるだけだからそんなに手間はかからないし。
かといって、二度寝するという感じでもない。
「ちょっと気合い入れて朝ごはん、つくろっかな」
ホットケーキか、フレンチトーストか。どちらにしろ大して手の込んだものではないけれど、そのぶん付属品をいっぱい拵えよう。
フルーツサラダ。ヨーグルト。
あめ煮にしたりんごや、バニラアイスなんかも添えようかな。もちろんアスリートの姉の食事だ、たんぱく質も、──お肉系統も忘れちゃいけない。ちょっとお高いハーブのウインナー、まだ残ってたはず。あれを茹でよう。あとは生ハムに、ゆでたまご。
「よっし。いい朝ごはんにするぞっと」
左肩を回してストレッチをしながら、ドアノブを回す。
とりあえず、慌てて身支度するような時間じゃない。パジャマのままでいいや。ごはんの準備、全部終わってから着替えよう。
雪羽の頭の中は、華やかな朝食のための段取りでいっぱいで。
「──へっ」
開いたそこに人の気配があったことを、その姿を目の当たりにするまで気付けなかった。
「……お姉ちゃん?」
「え、ゆき? ──もう起きたの?」
いやいや、それはこっちのセリフだよ。という言葉すら、脳裏に出てくるのがワンテンポ遅れた。
姉のほうが先に起きている。それは別にいい。うん、それはいいんだ。
でも。
「おはよ」
「って! なんでなんも着てないわけっ?」
「あ。──あー。ご、ごめん。ちょっとひと風呂浴びてて」
その姉の姿は、大人っぽい黒いショーツの下着一枚きり。濡れた長い髪に、大きなバスタオルを頭から被っているからこそどうにか隠れているけれど、ほんとうにそれだけの、上気した柔肌を晒したほぼ裸同然だった。
相変わらず悔しいくらい、いい発育をしている。妹ながら同い年の女性として、正直これは勝てないなぁ、と思う。
「お風呂って、朝早すぎ!」
「う、それはその、昨日つい遅くまでみっちゃんと電話してて。どうにも寝つきが浅くって──」
「いーから! とっとと服!」
女同士だからとか、姉妹だからとかそういう話じゃない。親しき仲にも、ってやつだから。どうせ、まさか起きてこないだろうと油断していたんだろうけど。
裸で家の中をうろつくって、おっさんか。
朝が早すぎるくらい早いって、老人か。
「ご、ごめん」
わしゃわしゃやっていた頭のタオルを押さえるようにしながら、裸足にひっかけたスリッパを鳴らして姉は自室へと駆けていく。
「まったくもう。夜更かしばっかし、ダメだよ、お姉ちゃん!」
後ろ手に閉めた扉の向こうから微かに、「はーい」と返事が返ってくるのが聴こえた。
そりゃあこのところの夜更かしはぬーさんをつくってくれてたからだというのは、知ってるけど。
部活もあって。夕矢の手伝いもやって、って。忙しいんだから、夜はしっかり寝なくちゃ。きちんと両目だって休ませてやらないと……さ。
「ほんとに、手のかかるお姉ちゃんなんだから」
でもそうやって呆れられるのも。
ぬーさんを、お姉ちゃんからプレゼントにもらえたのも。
お姉ちゃんの眼を心配できるのも、全部。あたしがお姉ちゃんの妹だから、なんだな。
そう思うと、こんな朝のひと悶着も、悪くない気分に思える雪羽だった。
「ね、ぬーさん」
部屋の扉を閉めるとき、くまのぬいぐるみと目線があって、雪羽はそう言葉を交わした。
* * *
「そう、そこにさっき出てきた数字を代入して。そしたらあとは公式に沿っていけばいいから」
放課後、夕矢くんたちに合流しようと携帯を立ち上げた不知火だったけれど、ひと足先にあちらからメッセージが入っていた。
みんなで『白夜』にいます、と。簡潔にひと言だけ。
なんでまた。今日、練習日じゃなかったのか。バイトだったっけ? たしか、ゆきと彩夜がシフトだって聞いていたように思うんだけれど。
そう首を傾げつつ、連絡に従って店を訪れた。
バンドのメンバーたちは各々、店の片隅のテーブルに集まって、なにやら皆考え込んでいた。
その机上を覗き込むと──そこにあったのは数学の教科書に、各々のノート。予想だにしていなかった中学生たちの勉強会の様子に再度、不知火は首を傾げる羽目になったわけである。
「うん、いいね。やればできるじゃん」
聞けば、もうすぐ数学の小テストがあるらしい。それで急遽、額突き合わせての勉強会と相成ったとかで。
そんなこんなで不知火は、気が付けば一同の真ん中に座って、中学生たちの勉強を見てやっている。勉強は別に苦手でないから、中学生の数学くらいならとくにどうということはなく教えてやれる。また幸いにして、教え子となった面々もけっして出来の悪い子たちではなかった。
大した手間ではなかった。雪羽に注文をお願いしたミルクティの、最初の一杯を不知火が飲み干した頃には殆ど、一同の苦手分野については指導を終えてしまうことができた。
皆、必要十分程度には理解をしてくれたと思う。
ありがとー、不知火さん。──隣に座ってしきりにノートをとっていた、バンドのメンバーで唯一の女の子がぴょいと抱きついてくる。
その子の名は、つばきちゃん。城田 つばきちゃん、といった。
よし、よし。頭をなでてやると嬉しげに、彼女は頬を緩める。
「でも、気付けば打ち解けましたよね、不知火さんも俺たちも」
「うん? ああ、そうだね。──そりゃあね」
そう、はじめは手探りでぎこちなかった、年下しかいないコミュニティへの参加。互いに距離を測りかねていた──けれど、継続や回数というのはやはり大切なことだ。今となってはこうして、つばきちゃんをはじめとして懐いてくれている。
こういうところは少しは自分も成長しているのかな、とも思う。
ゆきと打ち解けるまでにかかった時間に比べれば、随分とすんなり仲良くなれたものだ。……って、そうだ。ゆき。
夕矢くんとのやりとりの中で、ふと気になった妹の姿を店内に探す。
つばきちゃんに抱きつかれて、やきもち妬かれていないだろうか。ちょっとだけ心配になって、妹のほうを見遣る。
しかし幸いにというか、取り越し苦労にというか。ゆきは彩夜との談笑に興じていてこちらのことはとくに気にしてはいない。
まあ、それもそうか。最近なにかと自分の交友関係にいろいろとありすぎて、不知火自身が過敏になっているだけか。
「でも不知火さん、教え方すっごいわかりやすかったです。ねー、夕矢」
「うん。これが雪姉じゃ訊くだけ無駄だから──うん、比べるのが間違いってわかるくらいに」
そんな和やかな空気に感化されてか、普段より夕矢くんの口調も軽かった。
告白の答えを保留している中で、それでも硬くなったり、身構えたりすることなく自然に談笑しあえている。
「ひどいなぁ。ゆきだって一応きみたちより年上の、お姉さんなんだよ?」
雪羽の成績という部分については不知火も、知っているけれども。
そういえばうちも文化祭の前に中間テストあるな。ゆき、大丈夫かな。
「不知火さんから見て、雪羽さんってどんな人ですか?」
「どんなって。そうだな」
べつに、どうもこうもないよ。
いい関係の姉妹でいられていると、思っている。
料理も上手で、素直で。楽器だってやれて。いい子だ。自分にはもったいないくらいの──。
「ふうん。ラブラブなんだね」
つばきのそんな表現に苦笑する。
なんだろう、そのいろいろと端折ったような感想は。
しかしその言葉が正しい表現かどうかは別として、ただ。
「楽しいよ。ゆきと一緒の日々は。ゆきと姉妹をやっているのは、とても」
彼女と姉妹であることで、いろんな人たちと出会えた。たくさんの好ましい人たちの中で過ごす日々がある。
「じゃあ、夕矢とも?」
「え?」
「だって、雪羽さんは夕矢にとってお姉さんみたいな存在でしょ? だったら不知火さんもそうかなって」
「おい、つばき」
つい、彼女と夕矢くんとを交互に、まじまじと見つめてしまう。
夕矢くんとは、目が合ってしまって。
彼との間にある保留事項を思い、思わず目を逸らす。
「そうだね。ゆきの弟なら、私にとっても大切な子だよ、夕矢くんも」
ああ。私はまた、当たり障りのない言葉に逃げている。
その自覚のある発言だから、当然に自己嫌悪も沸く。はっきりした態度を見せてやれない自分と、自分が招いている状況を苦く思う。
私にとっての彼。その答えが、まだ出ていない。
ゆきは、私の思うとおりにって言ってくれたけど。肝心の私がこれじゃあ全然ダメだ。
夕矢くんにも。そして先輩にも──告げるべき時が近いんだろうな。そう、心の中独りごちる。
──と。携帯がテーブルの上で振動して、メッセージを告げる。
「? ……レイア?」
それは少年にとっての姉のような立ち位置にあるのが自分や雪羽だとするなら、自分にとっての姉といっていい存在からの、報せ。
それは手短に、用件のみを伝える文面で。
近々、話がある。
ユッキーとふたり、話をしに行くから。──たった、それだけ。
「……話?」
なんだろう。あらたまって。
「じゃあさ、夕矢は付き合うとしたらどっちなの。不知火さん、雪羽さん……」
ほんの少し考え込む中、中学生たちの他愛のない話の流れに不意に発せられた少女の問いに、少年もまた不知火同様、曖昧で無難な応えに終始しているのが耳へと届いてきた。
そのほんとうの答えは、不知火と夕矢くんのみが知っていること。
* * *
「そう。最近忙しいね、不知火も」
「ええ、まあ。──って、『も』?」
翌日である。部活後の、シャワー室。もうすぐテスト前の、部活休止期間に入る。だからかそこにいるのは、ふたりきり。
星架先輩の返してくれた言葉に反応してそちらを見ると、ちょうど彼女は着ていたホワイトの競泳水着を脱ぎ捨てたところ。彼女のいる隣のブースの、互いの輪郭がぼんやりわかる程度に色濃くつくられた、不知火の側との仕切りになった擦りガラスの足元へとそれを、雑に落としたところだった。
こういうところ、意外に雑なんだよな、この人。
自身はガラスの縁に脱いだものをひっかけて。熱めのお湯を全身に浴びながら、不知火は思う。
「ああ、知らないわよね、当然。こっちの話。真波がしつこく生徒会選挙に勧誘されてて、あの子今忙しいのよ」
「選挙って……南風先輩、立候補するんですか? 生徒会に?」
「本人は嫌がってるけどね。部活もあるし、あの子は家が神社だからその手伝いもあるし。そもそもそういうの苦手な恥ずかしがりやだってことは不知火ももう知ってるでしょ」
「ええ、そりゃまあ」
人の前に立つのが苦手でなかったら、告白に誰か付き添ってもらったりしない。
後輩ひとりデートに誘うのに、友人に下見へと付き合ってもらうなんて準備もわざわざしないだろう。
「見てたらわかると思うけど、あれでノーと言えない日本人って面もしっかりあるから、このままだと断れないでしょうね」
「それはまた……」
南風先輩、そんなに人気高いんだろうか?
ま、それはそれで置いておくとして。シャワーのお湯を出しながら、星架先輩は逸れかけた話題を戻す。
「そのレイアさんって人の呼び出しで早く帰る日があるかもしれないってことね。了解、わかったわ」
「すいません」
「いいわよ、別に。もともと文化祭も近いし、テストもあるし。逆にめぼしい大会も直近であるわけでもなし。みんな誰かしらよく抜ける時期だからね」
誰かさんがこのところ、かわいい妹のために必死こいてプレゼント作ってたのも、かわいい弟分のためにバンド練習に帰ってたのも知ってるから。部活なんてあとあと。
わざと意地の悪い声音をつくって、愉快そうに先輩は言う。
「その節は、どうも」
「後者はまだ終わってないでしょ。いいなぁ、見に行こうかな、私も」
「あ、はい。ぜひ見に来てくださいよ」
そこまでは、他意なく言葉を紡いでいたつもりだった。
けれど言葉を続けようとして、……ゆきも誘うつもりなんで、と発しようとした寸前に、ふと不知火は思い至る。
不知火の言葉が急に止まったことに気付いて、髪の毛を丁寧にほぐし洗っていた先輩もまた、怪訝そうに訊ねる。
「どうかした?」
「先輩。あの、ですね」
夕矢くんとのこと。伝えておくべきかもしれない。そう、思った。
知らないよね。気づいてないよね──……?
「私。──夕矢くんにも、告白されたんです」
「え」
別にモテたよ、って自慢でもなく。
だから先輩ごめんなさい、っていう話でもなくて。
「今はまだそれだけで、先輩と交わしたのと同じ以上の返事なんてできていないんですけど」
告白されたのは、先輩からが先です。
彼のバンドを手伝うことになった、そのときに一緒に、彼の気持ちを伝えられたから。
先輩のほうが、タイミングとしては早かった。
「だから、ほんとうに優柔不断で申し訳ないんですけど。──早いもの勝ち、みたいな結論の出し方はしたくないんです」
私自身、先輩も、夕矢くんも好きなのは間違いないから。
その「好き」の性質がなんなのか、今も考えているところだから。
今の私の一番はゆきで。それとは違う『一番』って、なんなんだろう。ずっと悩んでいる。考えている。
だから順番なんて関係なく、きちんとそれぞれに向き合いたいんです。
そんなもので人を選り好みできるほど、自分は大した人間ではない。そういう思いもある。
不知火がそう言って告げる間、擦りガラスの下の隙間から覗く先輩の爪先は、リズムをとって心を静めているかのように、何度も繰り返し、その白くてきれいな指先を握っては開いて、床のタイルを撫でていた。
「そう。……じゃあますます、ライブは見に行かないとだね」
そして、彼女はシャワーを止めた。お湯の雫が滴るその音の中で、苦笑交じりに言ったように、不知火には聞こえた。
「恋敵で。一番の決まってる誰かさんの一番になろうと、無謀な蛮勇に挑もうとしてる者同士としては──ね」
* * *
思いのほか文化祭のミーティングが長引いてしまったおかげで、すっかり夕暮れ時になってしまった。でもこの時間まで学校に残っていたのは結果的に、都合がよかったのかもしれない。
「おう、悪いな呼び出して」
「いーえ。どうせ残ってやっとくことあったんで」
レイアさんは、裏門近くのコインパーキングに愛車を停めて、その傍らに佇んで待っていた。ボンネットの上には飲みかけの缶コーヒー。車内、助手席のチャイルドシートではひかりが、カーナビのモニターに映ったアニメーションに夢中になって、幼いその瞳を輝かせている。
「ほんとは家まで行くつもりだったんだけどな。でも、まだ学校っていうから。こういうのは早いほうがいいかと思って」
あいつももうすぐ来るってさ。姉・不知火の名が表示される携帯を振って見せた彼女に、雪羽も頷く。
「あ、そだ。誕生日のプレゼント、ありがとうございます」
「うん? ああ、なに。ささやかなモンだけどな」
雪羽は姉を通じて、彼女からも贈り物をもらっていた。
肩紐をボタンで留める、ペンギン模様の水色のエプロン。少しお子様っぽいけれどかわいらしい、肌触りのいい、滑らかな生地のやつだ。
また、姉からは聞いてもいた。
レイアさんから話があると、呼び出しがかかったこと。そのうちにも連絡があるだろうから、って。
「なんですか、話って。あらたまって」
「ん……まあ、ちょっとな」
面子がそろっていないからか、レイアさんの反応はなんだか曖昧で。
らしくない歯切れの悪さに雪羽は首を傾げる。
「昼間のうちに『白夜』にも顔出してきたよ。んでいろいろと、白鷺さんに相談も、お願いもした」
「おじさんたちに? ──んで、あたしたちにお話し、ですか」
「ああ、そうだ。……ちょっとした、頼みごと、だな」
喉に渇きを覚えたのか、レイアさんは眼鏡の奥で顔をしかめて、缶コーヒーをひと口呷る。そうしていると、彼女の目線が道の向こう側を見遣る。
姉の姿が、こちらに近付いてくるのが見える。
「お待たせ。ゆきもまだ、学校いたんだ」
「うん、文化祭の打ち合わせで──お姉ちゃんは部活?」
そ。もうちょっとで禁止期間に入るから、今のうちに少し泳いでおかないとね。
言いながら、姉は足元に自身のスポーツバッグを下ろす。
「スマンな、ほんと。ふたりして忙しいところを」
彼女がひと息吐いたのを見て、一瞬目を伏せて。レイアさんはやがて口を開く。
実はお前たちに頼みたいことがあってな──先ほどの、雪羽への言葉を彼女は繰り返す。
「頼み?」
「ああ。……お前ら、文化祭っていつだっけ」
「来月、だけど?」
ほぼあと、ひと月後くらい。頭の中でカレンダーを思い浮かべながら、姉妹頷きあう。
「そっか。じゃあ微妙な線だな。なるべく、それまでに一度くらいは戻ってきたいとは思ってるが」
「え?」
微妙? 戻る?
「レイア、どこか出かけるの? 大学講師の出張かなにか?」
姉がひと足先に呑み込んで、問いを向ける。しかしレイアさんはそれらの質問への応えも些か、曖昧で。
「早ければもっとすぐに──どうだろうな。落ち着くまでにかかるとしたら、もっと。年内いっぱいくらいかかるかも。あるいはもっと。今のところはなんとも」
車内のひかりに、目線を流す。
そして交互に雪羽と不知火を見遣っていく。
「ちょっと、アメリカに戻ってくる。馴染みの大学と、病院と──しばらく、あっちに」
彼女はそれから、言った。
アメリカ。そっか、出身地だもんね。雪羽は素朴に、実に能天気に、そういう感想がまず浮かんだ。
同時、なにもそんなかしこまらなくても、とも思った。別にむこうに行ったまま金輪際帰ってこないわけじゃないだろうに。
こちらとしてはいってらっしゃい、以上に言うこともないじゃないか。
そう思ったのだ。次の彼女の台詞を聞くまでは。
「だから悪い、しばらくひかり、預かっててくれ」
「──へ」
ええっ、──と、ヘンな声が出た。
ひかりを預かる。うちで三人で暮らす、ってこと。ひかり、置いていくの。
あんなにかわいがってるのに。
「あっちでの生活は研究がサイクルの中心だから、だいぶん不規則になる。それに目的があってアメリカに戻るんだ。研究のために──そのために全精力を集中したい。ひかりのことを考えたら、お前たちに預けていくのが正解だと思ったんだ」
姉も戸惑っていた。そんな姉妹の、降ってわいた混乱の様相に対して気楽にさせるでもなく、笑いかけるでもなく、レイアさんはただただ真剣な表情であり、声をして向かい合う。
「急な話で悪い。でも、これを逃すわけにはいかないんだ」
「どうしたの、レイア。そんな急に」
大きく彼女は、呼吸を吸って、吐いて。
「不知火。おまえのためにも」
「──え」
正面に姉を見据えて、レイアさんは言った。
視線と言葉とにまっすぐに射抜かれた姉は一層の困惑をその表情に湛え、旧知の金髪女性から双眸の先を外せずにいる。
「わ、私?」
「……この間、連絡をもらったんだ。アメリカの、馴染みのドクターから」
秋風が吹いていく。乱れた前髪を、レイアさんはかき上げる。
ぬか喜びをさせるようなことはしたくない。だから告げていこうか、どうしようか迷っていた。だからどうか、過度な期待はしないでくれ。
「それでも十年ぶり。……十年ぶりに、だ」
そう。それほどこれは、滅多にないこと。
「十年ぶりに、アメリカに。お前とまったく同じ臨床例の患者が出た」
お姉ちゃんと、同じ。
その言葉だけが強く、雪羽の耳に残って。
「ほんのちょっとだけの儚い可能性かもしれない。それでも、なにかわかるかもしれない。──その症例に臨み、解明しようとしてる医学チームがある」
同時、どくんと胸を大きく高鳴らせていく。
お姉ちゃんの目と、同じ症状。──それが解き明かされるかもしれない、解決策を見出し得るかもしれない場所がある。
治せるかも、しれないのだ。
「だったら、行くしかないだろ」
ほんの少しでも。今すぐではなくても。
治せる可能性を見出せるかもしれない。その道筋にたどり着けるかもしれない。
いくつもの努力と、意見とがリアルタイムで交錯しあう中で──光を失わずにすむための、光明を。探し出せる確率が、そこにある。
「晴彦がいない今、その役目をするのはワタシだ」
だから、行く。行ってくる。
「ひかりを、たのむ」
お前たちの姪を──さ。
そうして彼女がひと息に飲み干した缶コーヒーが、仄かに漂ったその焙煎の香りが、秋風に乗ってふたりの鼻腔をくすぐっていく。
たったひとりの、姪。
それが秋の日、夕暮れの中。ふたりに託されたものだった。
血のつながらぬふたりの姉妹がつくりあげてきた家族が、血縁なくともひとつ屋根の下、身を寄せ合う三人家族へとなった、出来事だった。
(つづく)
(五月十七日追記)
時系列の表記ミスを修正しました。道理で次の話かいてて時系列噛み合わなかったわけだ。
× そういえばうちも文化祭のあとに中間テストあるな。ゆき、大丈夫かな。
○ そういえばうちも文化祭の前に中間テストあるな。ゆき、大丈夫かな。




