第三十七話 水族館と、誕生日 後編
第三十七話 水族館と、誕生日 後編
水族館の、最上階。単に屋上としてだけでなく解放されたそこには、イルカやシャチの大プールがあって。たった今まで、飼育員たちとイルカたちとのショーが行われていた。
そう。ほんの今しがた、終わったばかり。
「──しまったな」
だから当然、ショー終わりの時間帯ゆえにトイレなんて混み合うのである。
ずっと我慢していた子どもたち然り、ごく自然な流れとして深く考えずに赴く大人たち然り。
そういう、思い至って当たり前のことを失念して、不知火も順番待ちの列に並んだ。
別にこの階で行くまでもないということすらぽっかり抜け落ちて、律義に無意識に、のろのろと列の進行に従っていた。
その、結果である。
鞄から出したハンカチを彼女が咥え、手を洗う段に至るまでにきっかり、十分近くは経過していた。
──うーむ。思った以上にゆきを待たせてしまった。後悔をしてもそれは、あとの祭り。
だからこそ口をついて出た、「しまったな」である。
「ん?」
とっとと戻ろうとしたそのとき、羽織っているライダースジャケットのポケットから、携帯が振動を伝える。
誰だ。まさぐって取り出すと、そこには彩夜からのメッセージ。
そっちは順調ですか。そんな簡潔な文面と一緒に添付されているのは、我が家のキッチンの様子。
「──うん、いい感じ」
それは不知火と、彩夜と。そして詩亜たち姉妹の共謀だった。
みんなでつくった料理とケーキによる、サプライズディナー。
雪羽にはなにも伝えていない。完全に、内緒にしてある。
持ちかけてくれたのは、彩夜たちから。
そこまでしてもらっていいのか、とも思ったけれど。せっかくだからと言ってくれたこともあり、不知火も甘えることにした。
冷めてデコレーションを待つばかりの、きれいに焼きあがったスポンジケーキ。
マカロニサラダや、サーモンのマリネや。料理の数々。
ばっちり用意しておきますよ、と。彩夜から幾枚もの写真が送られてくる。
「ありがと、みんな」
料理できなくてごめんなさい。届かぬことを承知で、携帯の画面に向かいぺこりと頭を下げながら、不知火は呟く。
そうしてトイレから出ると──眩さが、不知火の双眸を細めさせる。
まだ、オレンジ色ではない。だが次第にそれに染まりつつある、暮れゆこうとしている高度を下げた太陽。
その輝きが、眩くて。一瞬、視界を失う。右手を翳してようやく、人々や建物の輪郭を取り戻す──いつか見えなくなる時って、こんななのかな。悲観でもなんでもなくなにげなく、そんなことを思う。
行き交う雑多な人々の流れの中に、ゆきを探す。
その辺をぶらぶらしてると言っていたけれど、さすがに待たせすぎだ。とりあえず謝らなくては。
「ああ。ゆき──……?」
そして、いた。
屋上に広がる観客席──その二階席の向こう。手すりに背中を預けた妹の横顔を見つける。
「え?」
彼女は、電話をしていた。しきりに何度も頷いていた。
その、口許を押さえて。
見間違いなんかじゃない。肩を、震わせて。眩く輝く太陽の逆光を浴びて、その頬に──涙の粒を煌かせて、泣いていた。
仕草のたびに、ぽろぽろと涙の雫が散る。
通話とともに、彼女は泣いている。
なんで。……いったい、どうして。誰と電話をして、なぜそうなった。
「──ゆ、」
ゆき。名前を、呼ぼうとした。彼女のもとへ駆け出していきたかった。
「……っ?」
それができなかったのは、なにかが右脚にぶつかってきたから。
たしかな重みのそれは、不知火の、パンプスの爪先を地面から離れさせる動作を間違いなく阻んだ。
不知火が見下ろしたそこには、小柄な、小さな影がひとつ。
「──え……」
人々の喧騒の中にぽつんと佇むそれは、まだ小学生にすらなっていないだろう小さな女の子。
ピンクのシャツと水色のスカートの、どこにでもいそうな、ごくごく普通の幼い少女である。
そこで、泣きべそをかきながら不知火を見上げている。
「……うそでしょ?」
これって。……迷子?
妹の泣き顔よりずっと近く。すぐ、目の前に。
より深刻で具体的な理由明らかな泣き顔が、不知火へと向けられていた。
* * *
「あれ?」
「彩夜?」
ケーキのデコレーションに使うフルーツを切っていた彩夜が、その手を止めて首を傾げている。
彼女の手元近くには、愛用のスマートフォン。
つい先刻、不知火に首尾の順調を伝えていたはずだ。
「なに、どーかした?」
「えっと。不知火ちゃんから返信が返ってこなくなって」
「ふうん? どれどれ」
そんな彼女の携帯を、歌奈も覗き込む。
たしかに何度か、メッセージのやりとりが残っている。
だがそれも数分前の、彩夜の返信で止まっている。不知火からは既読のサインもついてはいない。
「ふたりして水族館なんでしょ? どーせいちゃこらしてて携帯しまいこんでるだけだって」
誕生日デートなんてさ。水入らずで楽しませてやりましょ。
こっちの出番は帰ってきてからのサプライズまでお預け、ってことで。
彩夜に言っていると、姉が歌奈を呼ぶ。つけあわせのマッシュポテト、剥いて潰しておいてください、って。
「はーい」
壁のフックからマッシャーを取って、肩でぽんぽんやりながらそちらに向く。
「そーいえば、彩夜。弟クン……ゆーやクンは?」
殆ど家族みたいなもんでしょ。来ないの?
じゃがいものボウルを受け取りつつ、訊ねてみる。
一瞬、彩夜は上目遣いを天井に向けて。少し、困ったように笑う。
「今年は遠慮しとくそうです。──不知火ちゃんのこととかあったから。変な空気になっちゃったら、雪羽ちゃんに申し訳ないから、って」
ユウくんのぶんと、お父さんたちのぶん。誕生日プレゼントだけ、預かってきました。
「そっか」
たしかに彼にとっては恋とは別枠で、雪羽だって大切な人のひとりだしね。
気を遣ったとしても無理もないか。タオル越しに持ち上げたジャガイモを、その皮を剥きながら、納得に頷く。
「大変だね、弟分ってのも」
色々、気配りしなくちゃいけないわけだ。
「ほんとに」
そんな少年を弟に持つ友人が、さも実感を込めるかのように深々と、歌奈の言葉に頷いたのだった。
* * *
少女の母親は、思いのほかはやく見つかった。
とはいっても不知火たちの側から積極的に、能動的にその姿を探して、というわけではない。
イルカのプールの、フロアふたつぶん下。総合案内へと幼いその少女を連れて、雪羽とふたり訪れて。彼女が迷子であることを伝えた。
ぐずる女の子を宥めるために買った、紙パックのオレンジジュース。ちょこんとベンチに座ったその子はまだ半分、べそをかいていたけれど、それでも喉の渇きが勝ったのだろう。おとなしくストローを咥えて、不知火が係員の質問に応え、事情を告げている間を過ごして待っていた。
すぐにアナウンスが場内に響き渡って。──母親というその女性が名乗り出るまでに、ほんの十分ほどもかからなかっただろう。
「──なんか、なつかしいなぁ」
「え?」
そうして、親子は再会し。平謝りに頭を下げる母親に、身振りとともに「気にしないでください」なんて言いながら、ふたりは立ち去るのだ。無事見つかって、よかったよかった。
「あたしもね、昔ここで迷子になったんだ」
「昔? ……ここで?」
妹の言葉にひっかかりを憶えて、不知火は首を傾げる。
昔、って。ここ、そんな古くからある水族館ではないはずじゃないの?
「ああ、そっか。ちょっと語弊があるか。──まだここが広場だった頃。隣の鉄道博物館の一角だった頃だよ」
姉さんと一緒に来たんだ。
駅前のホールで、姉さんも参加するコンサートがあってさ。当時既に、姉さんは天才高校生ヴァイオリニスト、みたいに知られてたし。
「帰りにふたりで手を繋いで、ここまできてさ。姉さんもひと仕事終えて気は抜けてただろうし、あたしも舞い上がってたんだよね」
それで、はぐれた。博物館の中で。
「ちょうどさっきの子みたいに大泣きしてさ、いや、もっとかな。姉さんがおじさんと迎えにくるまで、手が付けられなかったらしくって」
「へえ。なんか、意外」
「そう? でも、思い出しちゃった。この場所で、迷子を見たら」
窓の外には、件の鉄道博物館が見えている。
泣く。涙、──か。
雪羽が外へと向けた遠い目と言葉とを受けて、先刻、彼女が見せた涙を思い出す。
今、訊くべきだろうか。
あの電話、そして涙はなんだったのか。
今はもう乾いている。妹の顔は、ほんのり目尻のあたりが、「言われてみれば赤いかな?」という程度にほんのり色づいているくらい。
気付かなくたって、なにも不自然ではない。そうやって見なかったことにすべきなのだろうか。せっかくゆきが取り繕ってくれている。なにも言わずに、ただ楽しい時間として今を過ごそうとしてくれているのだ。
なにより今日は彼女の、誕生日なのだから。彼女の気持ちのいいようにしてやるのが、姉としての自分の務めだと──……。
「? お姉ちゃん、どうかした?」
「あ──ううん。なんでもないよ」
そう思って、胸にしまったつもりだった。けれど自分で思ったほどには、不知火は隠しごとや誤魔化しが上手ではなくて。
妹の顔に、怪訝の表情を見る。
「……お姉ちゃん。なんか言いたいこと、ある?」
「え」
だから、図星を隠しきるなんてできない。
どきりとして、一瞬目を逸らす。視線を戻せばそこには、微動だにせず注がれ続ける、雪羽の上目遣いがこちらを見上げている。
バレバレなのが自分でもわかる。
「なーに。言ってよ。どうしたの」
「いや、その。それは」
言うべきか否かを迷う。
ゆきが知りたがっている。けれど知りたいのはむしろこっちだ。果たして言葉をぶつけていいものかどうか。
ああもう、嫌だな。こうやって迷って、優柔不断で。我ながら嫌になる。つくづく悪い癖だ。
「……ちょっと、気になってることがあって」
「うん?」
「その──、その。うん。ちょっと」
最後まで突っ走り切れない。ほんとう、煮え切らない。
しっかりしろよ。お姉ちゃんだろ、私。妹は今日誕生日だぞ。
こちらを見上げじっと待つ雪羽を、直視できない。
躊躇していると、不意に大袈裟に、妹は深くため息を吐く。
「もう。あのね、お姉ちゃん」
「う、うん」
「あたし、誕生日なんだよね。──だから隠しごととかは、しないでほしいなぁ」
気持ちの上でもすっきりしてたい。そういう願望、わかるでしょ。
彼女は言葉を繋いで。窓ガラスの向こう側、暮れなずんでいく鉄道博物館を──そのシンボルともいうべき、屋外展示をされたSL列車を指し示す。
「じゃあさ、あっち行こうよ。ここじゃ言いにくくても、あそこならまだ人も少ないでしょ」
そして、不知火の手を掴む。
「今日はめいっぱい楽しんだから。ゆっくりお話、したいなって」
こげ茶色をした革張りの、愛用の小さなリュックを背負った妹は気負うでもなくただ、言葉とともに屈託なく笑った。
* * *
遠目には幾度か目にしたSLは、近くに寄ってみると思いのほか黒く、重々しく。そして大きくて。迫力に満ちていた。
「うわ、こんなに大きかったかなー」
隠しごとをしないでほしい、と言って不知火を連れてきた妹は、けれどそれ以上を促して、こちらからの言葉を急かすことはしなかった。
ただSLの巨体を見上げて、感心したように声をあげる。それだけである。
そんな妹の姿を見て、なお不知火は迷う。
気を遣わせている。なのにその上に更に、妹の誕生日に陰りを与えてしまう結果にならないかと、疑念を拭えずにいる。
「小雨さんとは、よく来てたの?」
「うん? まあ、たまに……ね。小学校上がるまでは何度か来てたと思うよ」
だからこそ、会話のための枕が必要だった。
いきなり言葉をぶつける勇気を出せないからこそ、そういうまどろっこしい手順を不知火は欲した。
「誕生日も?」
「え? 誕生日──うーん、どうだったかなぁ。誕生日に敢えてここ、ってのはたぶんなかったんじゃないかな」
「そう」
そっか。
──過去を懐かしみ、そして妹のそんな思い出を知るだけの、他愛のないやりとりかもしれなかった。
だけれどほんとうに、必要だった。
その段取りがあったから、次のひと言を不知火は発せたのだと思う。
なんてことを言ったら、「いい加減臆病すぎでしょ」って、歌奈あたりには呆れられるだろうけど。
「そっか。それじゃあ私は今日、ゆきの『はじめて』をふたつも一緒に過ごせたんだね」
「え?」
はじめての、水族館。
誕生日を、はじめてここで過ごすこと。
「なに、それ。今更じゃない?」
「いや、それはそうなんだけど。──ね、ゆき。ゆきは今、悲しくない?」
「え?」
「そうやって小雨さんを思い出して。よみがえってくる寂しさとか、悲しさを。私は埋められている? それ以上の楽しさや嬉しさで、満たしてあげられてる?」
ショーのあと、見た表情。あれを思い出す。
あの涙はなんだったのだろうか──……。
「どうしたの、急に」
「誰かと、電話してたよね。……ゆき、泣いてたじゃない」
だから、心配で。大丈夫なのかな、って。
「さっきの迷子の件でうやむやになっちゃったけど、気になってしまったんだ」
「電話──ああ」
不知火の向けた言葉に、雪羽は一瞬、記憶を辿るようなそぶりを見せる。
やがて合点がいったように、微笑を浮かべて。
ちょっと恥ずかしそうに、頭を掻く。
「あれか。そう、見られちゃってたんだ。気付いてたんだ」
「当たり前だよ。待たせちゃってたし、せっかくの誕生日だし。そんなタイミングであんなの見せられたら」
「や、ごめん。別に大したことじゃないんだ」
ほんとうに。全然、深刻なものとか、これからつらくなるものじゃない。
引きずり続けるショックな代物では、ないんだ。
「そうだね、お姉ちゃんのよく使う言葉借りるなら、「もう、なんでもないこと」なんだよ」
だから気にしないでほしい。心配かけてごめん。
言いながら、ゆきは携帯を取り出し操作する。
通話履歴を呼び出しながら、こちらに歩み寄る。見せられた画面に表示されるのは、不知火にとって正直、記憶にあるとは言い難い、見知らぬ名前。
「──『響さん』。ひびき、さん? 誰?」
「この人ね。大学時代に姉さんの先輩だった人。長らく、海外での姉さんの活動をマネジメントしてくれてた人なんだ」
小雨さんの先輩で、パートナー。その言葉を脳裏で繰り返してみる。
そんな相手から受けた電話って、いったい。
「ようやく、海外で姉さんの携わってたお仕事。コンサートや、チャリティや、興行や。そういったものの残務整理が終わったって。ちょうど今日終わったから、って報告、くれたんだ。その電話」
地球の裏側から。今日があたしの誕生日だってこともちゃんと覚えててくれた。
それが嬉しいやら、懐かしいやらで──つい、感極まってしまって。
「もう少ししたら帰国するから、いろんなものを渡しに行くからって言ってくれて。だからつい──泣いちゃった」
ひさびさにめいっぱい、姉さんのこと思い出しちゃって、さ。
姉さんが遺したことが今日、あたしの誕生日に終わるってのも巡り合わせだな、みたいに思うと、センチメンタルになってしまって。
告げる雪羽の眼には、今は涙はもうなく。こそばゆさを含んだ微笑で、不知火に向かって笑う。
「だからあれは、嬉しさとか、あったかさとか。そういうプラスの気持ちがあたしの内側にじんわり、吸い込まれていく涙だったんだよ」
不知火の両手を、雪羽の両手が包んで握っていく。
ごめんね。ありがとう。
誕生日だっていうのに心配かけて──手のかかる妹で。
そんな彼女の言葉が、掌から伝わるぬくもりとともに、不知火の中にしみこんでいく。
「ね、お姉ちゃん。お姉ちゃんはほんと、いつもあたしに気を遣ってくれるよね。今日だってこうやって、ほんの些細なことでも心配してくれて」
「別に、大したことじゃ」
「ううん。それでおまけに、自分がされた告白も、あたしに気を配りながら悩んでくれている」
真沢先輩のこと。
夕矢のこと。
「ありがと。あたしもそれにすごく、支えられてる。すごく甘えてる」
甘えてるから。あたし、お姉ちゃんのこと大好きだから。
告白されたー、って聞いて正直おもしろくなかったよ。とられちゃうような気がして。
でも、夕矢もだ、って聴いて考えた。すごくいっぱい。すっごく、いろいろ。
あたしはどっちがいいだろう。どう思って、どう言うべきなんだろう。すっごく、考えたよ。
そしたらちょっと凹んだ。もし気持ちがはっきりしたとしても、夕矢ならよくて先輩ならダメ、みたいなこと言う妹って最低だな、って。それは言っちゃダメだよなー、ってさ。
「だってこの件はあくまであたし、第三者だもん」
影響与えちゃダメでしょ。そのことに気づけよ、って。
「子どもだなー、あたし、って」
そんなことはない。そうやって考えて答えが出せるなら、よほど自分よりしっかりしている、と不知火は思う。
「お姉ちゃんは、あたしのこと気にしなくていいんだよ」
「え」
「少なくとも、誰が好きかとか、誰とどう付き合っていくかなんてことはお姉ちゃん自身が選んで決めることだもん。そこの選択理由の中にあたしを入れなくて、いいんだよ」
誰かと、なにかをする。その選択をするにあたって大事なのはあたしじゃない。お姉ちゃんがその人を、どう思うか。──でしょ?
「ゆき……」
「それが、今日誕生日を迎えるにあたってのあたしの抱負。せっかくお姉ちゃんに追いつくんだもん。ちょっと大人になるんだーって。ふたりっきりのときにこうして、宣言しておきたくて」
だから、誘ったんだよ。もちろん、お姉ちゃんと誕生日デートしたかったのも間違いないけど。
少し照れながら、雪羽は言う。
「──うん」
そんな彼女に、不知火は思った。──ここだ、って。
ふたりきりのこの瞬間に自分がすべきことはたったひとつ。そう、ひとつだけ。
ここしか、ないよね。
* * *
だから、もう迷わなかった。
いつ渡そうか、はらはらすることもない。
「それじゃあゆき。私もふたりきりだからこそ、やりたいこと。今からやるね」
「──うん?」
トートバッグから引っ張り出すのは、薄水色の包み。
自力でラッピングしたそれは、我ながら素人にしてはきれいに飾り付けて、包み込めたと思う。
「誕生日のプレゼント。私のときも、ふたりきりで渡してくれたから。だから私からも今、渡すね」
リボンで口のところを飾った包みを、ゆきへと差し出す。
ゆきは一瞬きょとんとして、けれどすぐに、ぱっと明るく、表情を輝かせて。
「──おおー! やった、すっごい嬉しい!」
ぴょんと飛びつくように、彼女の腕の中にラッピングの包みを抱える。
そんなに重いものではない。彼女が持ち上げて、ぐるぐる回して全体を見ることができるくらいには、手軽に扱える。
「家まで待ったほうがいい? 今、開けていい?」
「いいよ、今で」
──というか。帰ったら彩夜たちがいるし。
むしろ、今がいい。
不知火が頷くと、ゆきは手近な花壇の縁に腰を下ろして、リボンを解いていく。
「ゆきもプレゼント、ふたつくれたから。私からもふたつ。気に入ってくれるといいんだけど」
そうしてまず、包装紙の中から現れるのは、薄手の小箱。黒くてシックな外見のそれは、箱自体のデザイン自体、購入時にこだわった一品で。
その蓋を、雪羽は開く。
「……あ……!」
彼女は目に飛び込んできた贈り物に、その姿かたちに目を丸くして、やがて不知火を見遣る。不知火自身へ、ではなく。今このとき、不知火が身に着けている銀のアクセサリーへと。
「お姉ちゃんと、お揃い……!」
華やぐ声を隠すことなく、彼女は箱から贈り物を持ち上げる。
銀の細いチェーンの、ネックレス。そのペンダントヘッドに揺れているのは──不知火の髪飾りに煌くヴァイオリンと対を成す、弓のかたちをした銀細工。
ヴァイオリンと、弓。どちらが欠けてもダメ。いつも一緒にいられるように。心が寄り添いあう存在でありたいから。その願いを込めたネックレスであり、ペンダントだった。
「単純に、さ。ゆきとお揃いのをつけたかった……から」
そういう不知火自身のわがままも込められた、プレゼントがひとつ。そして。
更に雪羽は袋をまさぐっていく。緩衝材と、内袋のビニールとをかきわけて、残されたもうひとつを探し出す。
その手触りを、輪郭を認識していくにつれ、彼女の表情が驚きと紅潮とに染まっていく。
「──クマさんだー!」
彼女の指先が探り当て、ボタンスカートから覗く膝の上へと載せたのは、一体のテディベアのぬいぐるみ。
その両腕に抱き上げるのにちょうどいいくらいの、人間の赤ちゃんくらいの大きさをした、クマさんだ。
「すごーい! これ、楽譜の生地じゃん!」
その身体を構成する布地は、やはり雪羽のくれたプレゼントと同じもの。
彼女からのリボンがそうだったように。ヴァイオリン曲の楽譜がプリントされた生地。
街の、あちこちの手芸ショップを探し回って見つけたそれで、小さなクマの身体はつくられている。
「テディベアなんてつくったの、久しぶりだから。へたっぴかもしれないけど」
「全然! そんなことないよ。すっごいかわいい。すっごくすっごく、嬉しい!」
雪羽はクマを抱き上げて、その鼻づらをつんつんしては歓声をあげている。
喜んでくれてよかった。徹夜した甲斐があった。心から、そう思う。
「大事にするね」
「──うん。そうだね。そいつには、願掛けもあるから」
「願掛け?」
そういう気持ちが、不知火自身の口を軽くしたのだと思う。
歩み寄ったその先に手を伸ばして、自らの生みだしたぬいぐるみの頭をそっと撫でてやりながら、告げる。
「いつか、私の目が見えなくなっても。ゆきのことを見守っていてほしいな、って。そういう気持ちを込めて、ひと針ひと針縫ったんだ」
「お姉ちゃん……」
そんな願いを込めて、両目のボタンをつけたんだよ。ずっと見ててね、って。──よろしくね、クマさん。
雪羽の抱き寄せたクマに語りかける。
誕生日だけじゃない。今までだっていっぱいいっぱい、数えきれないほどのものをもらってきた。たくさんのことをゆきは、私に与えてきてくれた。
これ以上ない、自分にはできすぎたくらいの妹だと思う。さっきの決意表明だってそうだ。こんなにかけがえなくって、得難いものなんてない。
大好きだ。大好きだよ、ゆき。たった一日、今日のプレゼントだけで返せたなんてまるで思ってない。
「──ゆき」
彼女と、彼女に贈ったクマさんとを一緒に抱きしめながら、言う。
全然まだ足りない、こんなものじゃ返しきれないくらいもらってばかりの私だけれど。それでも、言わせて。今は、このひと言だけは。伝えたい。
「ハッピーバースデー、ゆき」
誕生日の、囁くような「おめでとう」だけは。
(つづく)




