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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第二部 夏から、秋まで
36/74

第三十六話 水族館と、誕生日 前編

 

            第三十六話 水族館と、誕生日 前編

 

 

 最後のひと針を通して、そこに余った糸を裁断する。

 しゃきり、と小気味の良い音。薄暗がりの、明け方の部屋に木霊した糸切りはさみの音が、たった今その行為をした不知火自身に完成の瞬間を伝えてくれる。

 

「──できた」

 

 完成したそれを見下ろして、胸に湧き上がる満足感と達成感とに、不知火は目を細める。

 よかった、なんとか間に合った──窓の外はもう、空が白みはじめている。

 なんとしても今日、完成させる必要があった。絶対に間に合わせなくてはならなかった。

 いろいろと、忙しくって。不知火にもやることがたくさんあって。時間のない中だったけれど。それでもここだけは譲れなかった。そういう状況の中、不知火はやり遂げた。

 だって、今日は。雪羽の誕生日なのだから。

 

「……うん、我ながらよくできた」

 

 机上に座す、たった今完成したばかりのそれをそっとつついてみる。

 物言わぬそれには、不知火の、精一杯の丹精が込められている。ゆきのために、その気持ちをひと針ひと針、伝えんと縫い上げていったつもりだ。

 ほつれも、型崩れもない。自信作といっていいくらいにはきれいに仕上がったと思う。

 

「いい、誕生日にするからね」

 

 今は夢の中だろう、妹に向かい呟く。

 彼女には、不知火の誕生日に心を尽くしてもらった。だから今度は、自分が姉としてそうする番だ。

 カーテンを引いて、薄明かり差し込む窓をなにげなく開いてみる。

 空には雲ひとつ見えない。そのくらいはわかる程度には、外はもう明るくなっている。


「って、いけない」


 さあ、もう寝よう。寝坊なんて、できない。たっぷりとは言わないまでも、今からベッドに入ればそれなりの睡眠時間は確保できるはず。

 寝不足で体調不良なんて、そんな情けないこと、自分で自分が許せない。そんな事態は、ダメだ。

 今日は。この誕生日は。

 ゆきと一緒に、出掛けるのだから。


                 *   *   *


「おー! でっかいね、思ったより」


 そう、デートなんだ。そのつもりでやってきたし、彼女だってそう言ってたじゃないか。


「街のど真ん中だしもっと水槽とか、ショボいかと思ってた。でもふつーに水族館してるね、これ」


 だっていうのに、せっかくやってきたこの場所に対して、そんな身も蓋もない感想から入るのはやめてあげてくれ、妹よ。


「──そりゃまあ、休日の水族館だし。行楽地って雰囲気は当然あるでしょ」


 思いつつ、ため息ひとつ。

 目の前には、行き交う人々。そして暗がりの順路。──広がる、大きな、大きなアーチ状の水槽が頭上を埋め尽くす。

 きらきらと照明を反射して、数えきれないくらいたくさんの魚たちが優雅に泳いでいる。


「っていうか。なんで水族館?」


 姉妹ふたり、デートに来ている。行先を決めたのは、雪羽だった。

 不知火は連れられて、ついてきて。バスを降りてようやく、ここが目的地だったと知った。

 市内で唯一の、水族館。

 街中、ど真ん中で。鉄道博物館のとなりにほんの数年前建設された、できたばかりの場所だ。


「べつにー。なんとなく来たことなかったし。せっかくだから一度、来てみたかったんだよね」

「なに、それ」


 そんなにアバウトな理由でいいのか。せっかくの自分自身の誕生日だろうに。

 これでもしも中身が貧相でがっかり、なんてことになっていたら残念このうえない誕生日になっていたかもしれないのに。


「でもさ、今のところは悪くないじゃん。ほら、ジンベエザメもいるって」


 順路の案内表示を雪羽は指さす。

 まあ、それはたしかに結果オーライではあるんだけど。言葉を飲み込みつつ、妹のあとを追って不知火も歩く。

 でっかいサメは目玉らしい。

 もっとも、電車で一時間くらい行けば隣の県に、同じように飼育している水族館があったはず。全国的にも有名な老舗の水族館だから──みんな、そっちに行ってしまうのだろうか。

 館内は休日なりに、そこそこに賑わって、混み合ってはいるけれど。ぎゅうぎゅうにごった返しているというほどでもない。十分快適に見てまわれる程度の、ほどよい人の出だった。


「ほら、早く」

「はいはい」


 ゆきが手を引く。苦笑しつつ、彼女に引っ張られてついていく。


「──お」


 見えてくるのは、天井までを貫き通した大きな筒状の水槽。そこを回遊する銀色の、ぴかぴかの、小さな魚たち。


「サバ?」

「違うよ、もう」


 なに、頓珍漢なこと言ってるの。思わず噴き出したゆきに訂正される。


「あれはイワシ。名前見なくたってわかるよ」

 

 全然、違うでしょ。サバはもっと大きいよ。言われるけれど、そういうものなのか、としか思えない。

 どっちも青魚じゃん。どっちも食用には変わりないじゃん。

 

「まったく、情緒ないなぁ」

「う。ゆきだって、知ってるのは普段料理するからでしょ。サバやイワシで情緒もなにもないじゃん」

 

 自分でさばくから、わかるってだけじゃないか。

 目についたのだって、そうやって馴染みがあるからでしょ。言うと、図星なのか苦笑いとともに妹は、視線を逸らす。

 

「あ。あっち行こ。メインの大水槽。ジンベエザメ、見ようよ」

「ちょっと、ゆき」

 

 話を誤魔化したな──スカートの彼女の背を追いつつ、まあいいさ、と笑う。

 だって今日は、彼女の誕生日。そしてここは、彼女が望んだ場所。

 とことんまで、付き合うつもりだった。

 

                 *   *   *

 

「──あれ」

 

 そうしてやってきた、大水槽の前である。

 この中に、目玉のサメがいる。

 手すりを握って、瞳を輝かせて魚たちを見上げる妹を微笑ましく思っていると、不意に隣から声が聴こえた。

 聞き覚えのある声。誰だろう。なにげなくそちらを見れば、ショートヘアの、これまた見覚えのある顔が目を瞬かせている。

 その人自身に対してはそこまで、馴染みがあるわけじゃない。だけどすぐに、順路の薄暗がりの中であっても果たしてそれが誰か、不知火は理解する。

 

「きみは」

「えっと、……南風、先輩?」

 

 詩亜からこのところ、よく話を聞く人。詩亜に告白をした、人。

 そして友としての視点から見る限り、詩亜もなんだかんだで、まんざらでもない様子であるその相手だ。

 南風 真波先輩。その人が、困惑し動揺した表情で、そこにいる。

 

「あら。不知火?」

「──って。え? 星架先輩まで? なんで?」

 

 と、更にその向こう側から、きょとんとした表情の見知った顔がもうひとつ、現れる。

 こちらは目下、不知火にとっての気持ち惑わされる相手。星架先輩──なんで、ここに。しかも南風先輩と、ふたりして。

 

「ん?」

 

 やがてゆきも、不知火が困惑し、硬直していることに気付く。そして不知火の目線の先に、ふたりがいることを見つける。

 

「あら、妹さんと一緒なんだ。姉妹デートなんて、いいわね」

「えと、真沢先輩……? なんで。っていうか、その人」

「うん。そうだよ。南風先輩。例の」

 

 怪訝さを隠さない妹に、不知火もかいつまんで説明をする。

 それだけでその相手がどういう人物かは、ゆきだってわかる程度には事情を知っているはずだった。

 ああ、この人が。そういう理解の表情と同時、──で、なんでこのふたりが今ここに、一緒に? という疑問の表情が彼女の顔に生まれる。

 無理もないと思う。まさか不知火も、このふたりと会うとは思ってもみなかったのだから。

 たしかに親友同士とは聞いていたけれど。

 

「おふたりも、デートですか?」

 

 遠慮なく、雪羽が訊ねる。べつに他意はない。

 詩亜に告白しておいて。昔からの親友とはいえ別の女の子とデートって、それもどうなの? と思わないでもないけれど。ただ単に仲良し同士、遊びに来ただけなのだろうし。

 そういう納得が不知火にも、雪羽にもあったうえでの問いである。

 

「いやっ、その、これは……別に、あのっ」

 

 だけれど。ショートヘアの先輩は明らかに狼狽し、言葉に詰まっている。

 身振りを交えて、どう説明すべきかを自分自身の中にまとめられずに困っているのが見ていてわかる。

 

「別に、浮気とかじゃないわよ。私も、真波も」

「っ、星架」

 

 対照的に、あきれ顔を彼女へ向けるもう片方の先輩は冷静そのものだった。

 

「デートの下見。なんだって」

「へっ」

 

 デート──の、下見?

 首を傾げる姉妹を尻目に、星架先輩は声を続ける。

 

「今度、来月の文化祭休みあるでしょ。そのときに芹川ちゃん、誘いたいんだって。でも来たことないから、いきなりは不安だから──、って。我が友ながら心臓小さいわよね、まったく」

「せ、星架っ」

 

 別に下見するのはいいけど。

 女の子口説くためのデートの下見に、昔ながらの腐れ縁とはいえ別の女連れてくるなっつうの。

 ああ、なるほど。さすがに幼なじみで親友。この人、南風先輩にはこんな毒舌になれるんだ。不知火も雪羽も、はじめて見る先輩の一面に、唖然と目を瞬かせる。

 

「そ、そうですか」

「……なので、このことは詩亜には内緒で。おねがいします」

 

 真っ赤になりながら、観念したようにぺこりと頭を下げる南風先輩。胸元を押さえているのは、どきどきしている心臓を鎮めようとしているからなのだろう。

 

「とっとと誘いなさいよ。まったく、ノミの心臓なんだから」

「うるさいな。わかってるよ」

 

 たしかに言われてみれば、そもそも告白の際、親友である星架先輩につきあってもらうようなお方である。見た目のボーイッシュさ、快活さに反して意外に、気が小さいのかもしれない。

 

「だからほんとに偶然。まさか不知火たちに会えると思ってみなかったわ」

 

 一方で、そんな親友を弄り倒して、星架先輩は楽しげだった。

 親友同士でもこの人のほうが一枚上手なんだろうな、と思える。

 

「べつに、邪魔するつもりはないから。適当に、別々にまわりましょ。──妹さんの、誕生日デートなんでしょ」

「えっ」

 

 なんで、それを。

 

「そのくらいわかるわよ。芹川ちゃんにも聞いてたしね。四六時中なんか必死こいてつくってるし」

「わ。先輩、ストップ」

 

 それ以上、言わないで。慌てて不知火が遮ると、先輩も察してか口許を押さえて、若干すまなそうに会釈をみせる。

 まだ、言ってないんだから。まだ、秘密にしてたんだから。

 肩から提げている大きめのトートバッグ。その中に入っているもの。まだ、ゆきはそれを存在すら知らないのだ。

 

「お姉ちゃん?」

「ああうん、なんでもない。なんでもないから」

 

 不思議そうな顔のゆきに、下手くそをわかっていて誤魔化す。

 触れてはいけないところに触れた負い目からだろうか、そのふたりのやりとりに星架先輩は──、

 

「とにかく。お互いそれぞれ、楽しみましょ。ほら、行くよ真波」

「え。あ、うん」

 

 ぱん、と両手を打つと、南風先輩の、Gジャンの裾を引っ張って踵を返す。

 またどこかですれ違ったら、そのとき会いましょ。お互いあくまで、徒然に、ということで。ひらひらと背中越し、手を振りながら、だ。

 

「じゃ、ごゆっくり」

 

 言って、人波の向こう側に消えていく。

 ぽつりとふたり、残される。……行っちゃった。顔を見合わせて数瞬、姉妹で苦笑をしあう。

 

「私たちも行こう、ゆき」

 

 今度は不知火から、ゆきへと掌を差し出す。

 

「うん」

 

 まだ今日という日は、はじまったばかり。手と手とりあって、歩きだす。

 ゆきの誕生日をいい日にすること。そのために。

 

「ね、お昼なに食べたい?」

「えー。なんでもいいよ。お姉ちゃんは?」

「ゆきの誕生日なんだから、ゆきが決めてよ」

 

 今日は私が、私のお小遣いから、奢るからさ。

 

                 *   *   *

 

 浅瀬の生き物たちのふれあいコーナーには、幼い子どもたちが歓声を上げて、無数に寄り集まって騒ぎはやしていた。

 海星やら。海鼠やら。小魚たちや、貝が、干潟と磯を再現した、ちびっ子たちの胸元くらいの高さの水槽に飼育されて、彼らの夢中の対象になっている。

 

「──はぁ」

 

 そんな華やいだ情景を前にして、親友はため息を吐いて頭を抱えている。

 ベンチに腰を下ろして、がっくり項垂れているのだ。

 

「ちょっと、真波。そんななにもかも終わった、みたいな顔しないの。別に不知火も妹さんも、告げ口するような子たちじゃないわよ」

「いや、でも。……絶対誤解された」

「されてないって。そこまで気にしてるの、たぶんあなただけだから」

 

 傍らの自販機の、オレンジジュースのボタンを押しながら。呆れ声を星架は投げつける。そこの落ち込みやさんには、コーラでいいか。

 

「ほんと、肝が小さいんだから。大丈夫よ、芹川ちゃんとだって最近、いい感じなんでしょ?」

「そう、思いたい。……そうだと、思うけど」


 ああ、もう。このへたれ。

 親友がその「かっこいい」に部類される容姿に似合わず繊細で、気が小さくて。そこから一念発起して、勇気を出して。好きになった後輩に告白したのを、もちろん星架だって知ってはいるけれど。

 気にしすぎだってば。──まったくもう。今度はこちらが深くため息を吐く。


「……星架はどうなのさ。駒江さんに、別の女とふたりでお出かけ、なんて見られてさ」

「いや、別に。ほかの相手ならともかく、あなただし。ふたりの間柄も、それぞれ別に好きな相手がいることも、不知火たち知ってるじゃない」


 なにを後ろ暗く思うことがあるというのか。

 至極当然でしょ、という風に返すと、真波はうらやましげな表情をその端正な顔立ちの中につくった。


「ただまあ、ちょっと残念ではあるかな」

「残念? なにが?」

「もう、ここには不知火とは来れないかなって」


 それはこういう出会い方をしたから、ではない。


「この場所にデートに誘っても、もうきっと勝てないから」


 勝てない? その言い回しに不思議そうに、真波が顔をあげてこちらを見る。

 そうとも、だって。

 今日は妹さんの、誕生日で。

 ふたりで迎える、はじめての。そんな妹さんの誕生日で。

 その記念日に、ふたりきりのデートにと訪れた場所が、この水族館なのだ。

 そこにはきっと、第三者として出会った星架には不可侵の領域がある。

 彼女たちふたりの間に生まれた今日という日の思い出を前に、同じ場所にデートへ誘って──それを乗り越えられるほどのものを自分と不知火の生み出すことなんて、そうそうできるはずがない。それほどに鮮烈な思い出……つくれる自信はさすがに、ない。


「だからちょっと、悔しい」


 先、越されちゃった。ぐうの音もでないくらいに、正当な理由で。


「星架……」


 今の私の立ち位置で、それ以上は望めない。妹さん以上の優先は望むべきではないし、望むべくもない。


「あー。誰かさんのが伝染ったかな。ちょっと、凹む」


 下見に付き合って、って真波に頼まれたときに。

 いいな、それ、って。私も今度誘ってみようかな、ってさ。

 我ながらせこいなぁ、と自嘲しつつも思ってしまったのも事実だから。 

 そうやって想像し、思い描いたりもした。そんな期待は、残念ながら塗りつぶされてしまった。

 

「やだなぁ、年下に対して。嫉妬深いみたいで。そういう子じゃないつもりだったんだけど」

「……ごめん、星架」

「いいよ。謝らないで。知らずに誘って、あの子と私の間に温度差感じるよりはよかったと思う」

 

 まだ下見の段階で知ることができて、よかった。

 出くわしたのが今日で、不幸中の幸いだったと思う。

 

「だから今日は、ふたりで楽しもう。それで、真波の本番が最高のデートになるよう、計画を立てよう」

 

 コーラのペットボトルを差し出して、真波へと星架は告げる。

 

「芹川ちゃんが一発で落ちるくらい最高のデートプラン、考えようね」

 

 オッケー。

 親友はコーラを受け取って、整った顔立ちを微笑ませながら、頷いた。

 

                 *   *   *

 

 これで、終わり。

 メールの文面を一度、上から下まで目で追って、ミスがないか確かめて。

 つい力のこもってしまった指先で、エンターキーを押して、レイアはその文書を送信する。

 

「──よし」

 

 これで、当面片付けるべき仕事は片付いた。

 卓上のカレンダーに目を遣る。日付は九月の二十日。今日が雪羽の誕生日だということを、もちろんレイアも知っている。

 

「できることなら、朗報は今日伝えてやりたかったけどな」

 

 ごめんな、ユッキー。

 ──でも、プレゼントは用意した。今はそれで我慢してもらうとして。

 

「クリスマスにはとびきりのプレゼントを渡せるよう、頑張るから」

 

 居間のソファには、ひかりがお昼寝中。

 その前にある座卓。机上に置かれたのは、いくつかの書類と、乱雑に開封されたエアメールと。そして。

 ハクトウワシの描かれた──彼女が母国の、パスポート。

 

                 *   *   *

 

「?」

 

 とくに、なにかがあってそうしたわけではない。

 だがなんとなく、なにかわからないものが気になって、……気になった気がして、不知火は屈めていた身を起こし、辺りを見回す。

 

「お姉ちゃん? どうかした?」

「──? いや? ううん。なんか、ふと周りが気になっただけ」

 

 いくつもの、海月が漂う水槽が並ぶコーナー。

 その静謐さ、穏やかさに引っ張られてか、来場客たちは小さな子どもたちもおとなしく、静かにぷかぷかと浮かぶ海月たちに目を奪われている。

 その中のひとつに、不知火と雪羽も目を注いでいた。

 きれいだね。

 うん。

 そんなやりとりだけで、十分だった。

 

「ごめん、ごめん。きっと気のせいだ」

 

 あ、ほら。あっちもきれいだよ。

 次の水槽を指さす──たった今見ていた海月たちよりも、次の水槽の子たちは少し小さくって、丸みを帯びていて。よりゆっくり泳いでいる。漂っているだけ、なのかもしれない。

 照らし出す照明のせいなのか、そういう色なのか。よりそれらは神秘的な青みがかって見えた。

 

「ふふっ」

「なーに、急に笑って」

「いや、きれいだなって。ゆきの誕生日なのに、ヘタしたら私のほうが楽しんでるかも」

 

 先輩と偶然、ばったり出会うというイレギュラーはあったとしても。

 気付けば水族館という空間にて、ゆきとふたりのデートに熱中している。ここ数日のことなんて忘れたかのように夢中になっている。

 

「でしょ。来てよかったね、ここ。思ってたよりずっと」

「ほんとに」

 

 こうやってゆきと思い出をつくっていけることが、嬉しい。今更ながらにそれを再確認したように思える。

 その発見そのものが重ねて、不知火を嬉しくする。

 こうして今、私はゆきと過ごして、同じものを「見ている」。

 まだ、「見えている」のだ。こうして、彼女の誕生日に──。

 

「お姉ちゃん?」

「うん。次、どこ行こうか」

 

 そうやって、今日を迎えられた。なんて幸せなんだろう、って思う。

 最初は少し不安だった。デートの誘いも唐突で。星架先輩や、夕矢くんのこともあったから。

 だけどゆきは笑ってくれている。屈託なく、心から。不知火の大好きな、一生脳裏に刻んでいたい笑顔で。

 だから「お前」も、今日のこの幸せのお返しなんだ。──不知火はバッグの中にある、丹精込めたそれに対して心の中呟いて。

 もうすぐ。あと、少しだから。

 あともうちょっとで、渡せる。

 

「じゃあ、ラッコ! ラッコに行こう!」

「オッケー」

 

 不知火の右腕を、雪羽が抱き寄せる。重ねた掌を、不知火も握り返す。

 エレベーターの呼び出しボタンを押す。乗り込んで更に押し込むのは、ラッコの水槽の階。

 

「ゆき。楽しい?」

「もちろん!」

 

 その答えだけで、十分だった。

 あと、もうちょっとで渡せる。「お前」を、ゆきに。

 だからあと、ほんの少しだけ待っていて。

 ゆきも。「お前」も。

 それが私からの、ゆきへの精一杯の、誕生日プレゼントだから──……。

 

 

              (つづく)

 

 

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