第三十五話 眠れぬ夜の、約束
第三十五話 眠れぬ夜の、約束
「──ゆきが」
どうすればいいのか、わからなかった。
だから今、不知火はここにいる。妹を伴わず、ひとりで。
「ゆきが、口聞いてくれないんだけど」
昼休みの混雑した学食。ふだんは弁当だから購買にジュースを買いに来るくらいで、あまり訪れることはない。
実際、今日もきちんと雪羽のつくってくれたお弁当箱の巾着を、不知火は両手に抱えたままだ。
詩亜と歌奈の姉妹が、たまたま今日は学食だったから。
というか、主に歌奈が「たまにはお昼にラーメン食べたい」とわがままを言った結果、今日はこの姉妹がお弁当でないから、それについてきたわけである。
雪羽は、彩夜とともに『白夜』に行っている。なんでも、文化祭の出し物の、メニューについておじさんと話し合うとか、なんとか。……歌奈は行かなくていいんだろうか。
「どうしたら、いいかな」
レンゲから、歌奈はとんこつラーメンのスープをすする。
彼女と詩亜が並んで座っている向かいに、不知火も弁当を広げている。
「どうしたら、って。そりゃまあ、雪羽だって怒るでしょ」
そんなんじゃ。呆れたように、歌奈は息を吐く。
彼女はとんこつ。詩亜はしょうゆ。ラーメンがふたつ並んでいる。相変わらず、仲のいいことで。
「真沢先パイ? のことがあって。しかもおまけに、今度は彩夜んとこの弟クンでしょ? しかも、雪羽だけ知らなかった。自分だけがのけものだったって知ったらそりゃあ怒るって」
「べ、べつにのけものにしてたわけじゃ」
言う機会を、ベストのタイミングを窺っていただけ。
そしてどうやら、その計っていたタイミングを、おもいきり誤ったらしいというだけだってば。
不知火が言うと、やれやれ、とばかりに大げさにもう一度、彼女はため息。
「ものは言いようだねー、このタラシ」
「やめてよ、その言い方」
本人的には茶化しているだけかもしれないけれど、そこになんだか棘を感じてしまうのが今の不知火である。
あの、『白夜』での一件のあと、ゆきと不知火、ふたりで一緒に帰りはした。
でも会話はふたりの間に殆どなくって。それは家に帰り着いてからも続いた。
最低限の、必要な意思疎通と。うん、とか、いや、とか。そういう相槌を交わすばかり。いつになく、ふたりの暮らすマンションの一室は気詰まりの空気に満ちていた。
「そんで、仲直りできないまま今朝も出てきた、と」
そう。そうなのだ。
ゆきがどういう風に怒っているのか。どのくらい怒っているのか。それすら不明。だが口を聞いてくれないというのはそういうことなのだろう。
それを、時間経過以外でどう解きほぐせばいいのか、不知火としては正解がわからない。だからこのお昼休み、第三者のアドバイスに助けを求めたのである。
授業中も延々、考えてみたけれど。なにを言っても結局言い訳になるような気がして、肚を決めかねた。正直、困っていた。
あの『白夜』での一件が一昨日。
昨日も、今日も。不知火も不知火で、部活の朝練のために先に家を出たし。朝はおはようの挨拶くらいしか交わせていない。
ゆきも忙しそうでもあったし、それは学校でも同じだった。教室移動のときに何度か、ちらと目線があった程度だ。なんにも話せていないのだ。結局。
表面上の変化は、そのくらい。
開いた弁当箱の中身にしても、昨日も今日も、いつもどおりになにも変わらず、ゆきの力作だった。
本日の献立は、海苔を巻いた、小さめの俵型おにぎり。
味噌の味がついた、白身魚の西京焼き。──西京焼きの西京ってなんだっけ。ふと声に出していたら、詩亜あたりから「味噌の種類ですよ」とつっこみが入りそうなことを、料理に疎い不知火はぼんやり思う。
卯の花も、にんにくの効いたエビも。いつもどおりにおいしい。ゆきの作ってくれた、いつものお弁当だ。
そこにはなにも変化はない。なのに、食がすすまない。
問題があるのは、不知火の気持ちのほうだ。その解決策が見出せない。
「あんたでもそんな、途方に暮れた顔するんだ」
「え」
「ま、自業自得だけどさ。とりあえず、あんたが一番大事なのはやっぱ、雪羽なんじゃん。不知火」
「そんなの」
──そんなの。そうに決まってるじゃないか。
反論じみた口調を返すと、そうだね、と歌奈は頷く。
「だったら謝り倒すしかないんじゃない?」
ラーメンと一緒に注文したおにぎりを、彼女は頬張る。
謝る。うん、それは必要だと思う。思うけど。
そのためのきっかけとか。どうして謝っているか、自分がきちんとわかっていることとか。けっこう、することが多くって。
「もう、歌奈ちゃん。あんまり意地悪しちゃだめですよ」
そうして困っていると、歌奈の横から詩亜が助け舟を出してくれた。
「しーちゃん。ほんとに雪羽ちゃんは、怒ってるから口を聞いてくれないんでしょうか?」
「え?」
思慮深く、勘の鋭い友人は言う。
「今日、二限目のあとにプリント届けに行ったんです、先生に頼まれて」
歌奈ちゃんや、雪羽ちゃんたちの教室に。
そのとき、少し話したんです。
「たしかに雪羽ちゃんはなんだか元気がなくって、口数も少なかったですけど。わたしの目には怒ってるとか、そういう風には見えませんでした」
「どういう、こと?」
「怒っているというよりも、そう。なにかをひたすらに考えているというか。むしろ雪羽ちゃん自身が考えなくちゃいけないこと、気になってることに意識が向いているような──」
ゆき自身の、こと。
私に対して怒っているのではなく?
「きっとそれで、考えることに頭がいっぱいで。余裕がなくなっているだけだと思うんです。……それにほんとうに怒っていたら、こんな手間ひまのかかったお弁当、つくってくれないですよ」
「あー。それ、たしかに。アタシだったら千円札一枚投げつけてるかも」
「もう、歌奈ちゃん。雪羽ちゃんはそんなことしませんよ」
「わーかってるって」
あっけらかんと言う妹に、窘める姉。色違いの、同じデザインのカーディガンをおそろいに羽織って、頷きあう。妹に悩む不知火に彼女たちは、彼女たちなりの助言を続けていく。
「だから、今はそんなに深刻に、自分を責める必要はないんじゃないかな、って思うんです。少なくとも、そんなに腹を立てて相手をずっと無視するような子じゃないでしょ? しーちゃんの知る雪羽ちゃんは」
「うん。ゆきは、──違う」
少なくとも、私はそう思う。
「なら、信じて待つしかないんじゃない? さんざ、あんただって雪羽に言いたいこと、言わなきゃいけないこと、考えまとめるのに時間かかった前科があるんだからさ」
プラスティックのくすんだウォーターグラスから、ぬるくなったお冷を呷って、歌奈はひと息入れる。
「あとは、そうだね。これからあんたがどうするかでしょ、不知火」
雪羽の必死になって考えてること。それを尊重するのなら。
「だって、真沢先パイにせよ、彩夜ん家の弟クンにせよ。どちらを選ぶにしろ、どちらも選ばないにしろ──これからのことには絶対に、あんた自身の未来が関わってくる」
今は、ここにいる三人と。雪羽と、彩夜しか知らないこと。
不知火の、これからのこと。
「雪羽が悩んで、迷ってるなら。その中には十中八九、あんたの目のことだって含まれてる。あんたを案じてないわけ、ないんだから」
いつか目が見えなくなること。親しい人たちだけが今は知っていること。
そうだ。いつかは、今知っている人たちだけではなくなる。伝えるべき相手は、きっとこれから増えていく。
先輩や、夕矢くんに。自分はどうするだろう? 伝えるのだろうか。伝える勇気を、出せるだろうか? 共有したいという願いを、向けられるか。ゆきにそう願い、ゆきが受け容れてくれたように。今はまだ、わからない。
「うちらが保証するよ。あんたたち姉妹、そうとう仲良しだからさ。あいつのこと、たぶんほかの誰より信じてるでしょ。実際」
でも、それはわかりきっていることだ。
歌奈の向けた問いについては、答えはひとつ。
イエス以外の回答なんて、ない。
「もうすぐ、っていうかもう今週末でしょ? 雪羽の誕生日。しっかりしなさいよ、お姉ちゃん」
* * *
あれから、不知火ちゃんと話せましたか。
店からの、『白夜』から学校に戻る道すがら。おじさんの淹れてくれたコーヒーに満足感を感じながら歩いていると、彩夜がふと、言った。
「ユウくんのこと。ごめんなさい。雪羽ちゃんにだけ言えずにいて、だましうちみたいになって」
「──ああ、それ」
だましうちなんて、そんな。
伝えるタイミングがそれぞれ、行き違っただけでしょ。大げさな友の物言いに、少し困って、雪羽は首の後ろを押さえる。
「昨日も、今日も。教室の前通りかかるたびに不知火ちゃんが不安げにこっち見てましたから。ちょっともめたのかな、喧嘩しちゃったのかなって」
「いや。もめたとかじゃないんだけど」
むしろ、喋れてない。なんとなく、きっかけがつかめないでいる。
その原因も主にあたしだ。その自覚は、雪羽にもあった。
いろいろと考えて、もやもやとしていて。お姉ちゃんにどう話すべきかを決めかねている。いや、それ以前にどういう意見でいるべきかが固まっていない。
少しずり下がっていた、右のニーハイを引っ張り上げる。今日のは、最近おろした新品。太腿のあたりに小さく、クマの模様のワンポイントが入っている。このブランドのこのデザイン、ソックスに限らずけっこう最近お気に入りだ。
「ね、彩夜。夕矢はまだ、知らないんだよね。お姉ちゃんの、目のこと」
彩夜は頷く。──うん、そうだよね。
「あの。……ひょっとして、怒ってますか? 不知火ちゃんに」
そして続けられた言葉に、一瞬立ち止まる。
怒る? そういう風に、見えている?
「いや。怒ってないよ? どうしようかなぁって、ずっと考え込んではいるけど」
ほんとうに、怒ってなんかいない。少なくとも自分では、そう思っている。
知らず知らずそう感じる要素が、周囲から見ればにじみ出ているのかもしれないけれど。雪羽自身としては感情の中に怒気はない、と思う。
「もちろん、先輩のことや、詳しく状況がわかってないのはおもしろくはないよ。でもきちんと、お姉ちゃんは伝えてくれたじゃん?」
しかも。
「おまけに、夕矢。ゆーやだよ? あいつとお姉ちゃんの間のことなんだから。あたしがどうこう言うことじゃないよ」
あたしの気持ちとかは、別問題でしょ。
言うと、彩夜はどこかほっとしたような表情と、仕草を見せる。
「じゃあ、もしもユウくんと不知火ちゃんが──、」
「まあ、応援するか──できるかはこれも、別問題だけど……ね」
「あ。雪羽ちゃん?」
スマートフォンの画面を見る。
思ったより、昼休みの残り時間は少ない。
彩夜、ちょっと急ごう。友を促して、彼女とともに雪羽は走る。
自分の中のはっきりとしない結論と、感情とはひととき、そこに置いて。
偶然に行為と言葉が重なったのでなく。半ば意図して、友の言葉を遮って駆けだしたことも、雪羽自身承知していた。
姉のこと。弟分のこと。
「雪羽ちゃんっ」
ふたりに対して。
そして、姉とその先輩に対して。
雪羽自身の気持ちや、そうありたいと願う立ち位置もまだ、定まっていなかったから。
まだもう少し、考えさせてほしかった。だからこのときは、逃げてしまったのだと思う。
* * *
「──しまった」
指先に目を向けたままそちらを見ずに手に取ったカップは、既に空っぽだった。
カフェオレ。まだもうひと口ぶんくらいあると思ってたのにな──ちょっとがっかりしながら、不知火はカップを置く。
ベッドの枕元を見る。時刻はもうすぐ深夜二時。
もうそろそろ、寝なきゃな。カフェオレ、もう一杯飲みたいな、とも思ったけれど。眠れなくなってもいけないし、我慢しよう。
手にしていた布地と針をひとまず置いて、不知火は伸びをする。首の後ろの筋肉をほぐして、関節を鳴らして。向き合っていた作業のひと段落を実感する。
机の上にはたった今、不知火が投げ出した、作業途中の布きれ。自分で引いた型紙に沿って、それらは既に、用途通りのかたちに切りそろえられている。
そして昔から長く使っている、愛用の裁縫箱。いくつもの糸巻きや、綿や。それら作業の残滓の向こう側に、空っぽのカップがある。
ゆきの誕生日まで、あと三日。部活や、文化祭の準備や。バンドの練習などもあることを考えると、けっこうスケジュール的にはぎりぎりだ。前日はもしかしたら、徹夜になるかもしれない。
「でも、ゆきの誕生日だもんね」
間に合わせる。がんばらなくちゃ。
自分のことでこのところ、ゆきにはいろいろと気を揉ませっぱなしだから。絶対にいいものに仕上げるんだ。ゆきに、喜んでもらえるように。
「──ん?」
ただ、コーヒーはやめておくにせよ、喉が渇いているのも事実だった。
たしか冷蔵庫にオレンジジュースがあったはず。軽くひと口でいいから、潤してから寝よう。そう思った。
カップを手にして、スリッパをひっかけて立ち上がって。その、矢先である。
部屋の扉の外で、物音がした気がした。
ほんの、微かに。足音のような。
思わず一瞬、踏み出しかけた足を止めて、じっと耳を澄ます。
扉のすぐ外に、気配がある。微かに聞こえてくる息遣いとフローリングの軋みを確かに、不知火は感じ取る。誰かがそこに、立っている。
いやまあ。こんな時間に部屋の前にいるなんて、この家にいるかぎり、そんなのひとりしかあり得ないんだけど。
「──ゆき?」
こんな時間に、まだ起きていたのだろうか。自分自身、他人のことを言えない夜更かしをしているのを理解しつつ、声をかけてみる。
「ゆき、そこにいる?」
再度、呼びかける。
暫し、夜の空気の中に沈黙が流れて。
「ごめん、お姉ちゃん。起こしちゃった?」
やがて、聞きなれた声が──この二、三日の間、殆ど聞いていないように思える親しんだ声が、静かに扉の向こうから不知火へと届く。
「ううん、起きてたよ。することあったし」
「そう。そっか」
「どうしたの? 眠れない? 勉強?」
寝てないのはお前も同じだろ。自分で自分につっこみを、心の中で入れる。
この他愛のない会話がこの二日間、自分の生活に欠けていた。そんな渇きの感覚が、潤されていくのが実感できる。なんだか少し、気持ちが軽くなっていく。
けれどあちらは不知火ほどには気楽なわけでもないようで。こちらから向けた問いに、また少しだけ、ゆきは口ごもる。
「ゆき?」
「え、ああ。うん。それは前者……かな」
曖昧に、ゆきは不知火に返してくる。
それ以上を積極的に言葉、繋ぐでもなく。部屋の外でなにやらぶつぶつ、聴き取れないくらいの声で言っているのがわかる。
「眠れないなら、話す? 部屋、入ったら?」
だからこちらから水を向けた。
ワイシャツ一枚、下着一枚の不知火は数歩の距離を詰めて、こちら側のドアノブに手をかけた。の、だけれど。
「あ! いや、うん。それは大丈夫。夜遅くに、ごめん」
そんなに時間はとらないから、と。ごにょごにょ、彼女は言った。
「あのね、お姉ちゃん。──話そう、ふたりで。今じゃなくって、あらためて。ちゃんと、もっとゆっくりと」
「うん?」
なにを話すか、という点について疑問を抱いたのではない。さすがにそこまで、鈍感じゃあない。
一昨日の、夕矢くんとのこと。そして先輩とのこと。ゆきの気になることって、今はそれらしかないもの。もちろん、そのくらいはわかる。
でも、じゃあ。──いつ?
「あたしの思ってること。お姉ちゃんがどうしたいか。ちゃんと伝えたいし、聞きたいんだ」
扉一枚隔てた先の妹が、今どういう顔をしているのか窺うことはできない。
ただ不知火は、彼女の吐き出す言葉に耳を傾けていく。
「だからさ、別に。先輩や夕矢に嫉妬してるとか、うらやましいとか。そういうわけじゃないんだ。……ないんだよ? ほんとだから」
「え」
「その。だから──デート、しようよ。あたしと」
週末。土曜日に。
「お出かけ、しよう。久しぶりに、ふたりで」
「土曜。──土曜って」
「いい。お願いだよ。絶対。約束、したからね」
おやすみ。また明日。一方的に言い置いて、ばたばたとスリッパの足音が部屋の前を離れていく。
ちょっと、ゆき。呼び止めかけて、右手を伸ばしかけたままの姿勢で扉越し、置いて行かれる不知火。
大丈夫、とも。その日はちょっと、とも。なんにも言ってないっていうのに。
「──なんだよ、もう」
絶対って。約束って。土曜日って。一方的すぎるじゃないか。
拒否権なんて、あってないようなもの。
「断れるわけ、ないじゃん」
土曜日。だって、その日は。
その日は──……ゆきの、誕生日なんだもの。
「もう。仕方ないなぁ」
わかったよ。空けとくよ、その日は。無言に、心の中だけで呟く。
拗ねたような口調が、こちらの素直でない部類の表現にあたるのだとは、自分でもわかっていた。
楽しみに思う感情のほうが大きかったこともまた無論、自明だった。
ふたり、一緒に出掛けるのはずいぶん、久しぶりのようにすら、思えた。
(つづく)




