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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第二部 夏から、秋まで
33/74

第三十三話 変化の訪れは、各々へと

 

            第三十三話 変化の訪れは、各々へと

 

 

 手にしたスマートフォンの画面と、目の前の建物とを交互に何度も見比べる。

 柔らかい、グリーンの色に染められた、五階建てほどの小奇麗なビル。住所も、ビルの名前も。フロア表示に記載された三階の、レンタルスタジオの名も。間違いなく、彩夜がメッセージアプリで送ってくれたそれと同じだった。

 

「──よし」

 

 その外壁の緑色を見上げながら、大きく息を吸い込む。

 指定の場所はここで正解。この場所で、ひとつ年下の子たちが不知火を待っている。彼らのバンドの、演奏練習をしている。

 夕矢くんに請われた、バンド練習への参加。

 そこに向かっていくにあたって、そうやって自分を鼓舞して、決意をする必要があった。

 なにぶん、体験したこともなければ経験もない、はじめてだらけのことだった。

 歌の練習なんて音楽の授業以外でやったこと、ない。

 バンドなんて当然、初体験。

 そしてそこに待っている相手も、夕矢くん以外初対面。いくら年下とはいえ、いきなり年齢差という部分、それだけで尊大に、ストレスフリーに振る舞えるほど、不知火は図太くはない。

 緊張だって、しようというものだ。

 それに夕矢くんだって、今の不知火にとってはまったくすんなりと言葉を交わせる、交わしやすい存在かというと……。

 

「行こう」

 

 それでも、彼の頼みを不知火は断らなかったのだ。

 彼と、その仲間たちを助けてほしいと。そう請われ、不知火は受け容れた。だからここにいる。そのために、このスタジオにやってきた。

 じっと立ち尽くしていたって、仕方がない。

 通学カバンと、それより少し小ぶりな、制服の肩からかけた薄水色の手提げ袋を握りなおして、不知火はローファーの踵を持ち上げる。

 ガラスの自動ドアの、開閉ボタンを軽く押すと、開いたその先からふわりと、芳香剤のハーブの香りが涼やかに鼻腔を撫でていった。

 待合いの椅子なのだろう、受付と思しきカウンターのあたりに置かれたソファから、少年が立ち上がるのが見えた。

 顔見知りの彼もまた、不知火同様に緊張している。

 その面持ちから、そんな心境が一見して、見て取れた。

 

                 *   *   *

 

 客席から下げてきたグラスを食器洗浄機に放り込んだところで、不意に彩夜から問われた。

 

「最近、不知火ちゃんとはどうですか。家で」

 

 どう、って。──お姉ちゃんと?

 ペーパータオルで両手の水分を拭きつつ、雪羽は友のほうを見る。

 オニオン・スライスを切る手を止めた彼女は、こちらの向けた視線と、自分のそれとを交差させる。小さく小首を傾げて、仕草にて再び訊ねた彩夜に、ちょっと考え込んで、雪羽は返す。

 

「どうって。ふつうだよ。最近は部屋にこもってることが多いけど」

「部屋に?」

「うん。ごはん食べたらすぐ戻っちゃう感じ。ちょっとやることが重なってるんだ、って言ってた」

「やること……」

「なにやってるのかはとくに訊いてないけどね」

 

 あとは別に、いつも通りだと思う。ごはんもきちんと、お腹いっぱい食べてくれているみたいだし。気になるような点は、とくにない。

 

「──ああ。あと、なんか部屋行くと、よく音楽聴いてるね、最近」

「音楽?」

「うん。あんまし、イヤホンとか着けてる印象なかったから。なんかCDなり、配信なり聴いてるんかな」

 

 音楽、と雪羽が発したとき、彩夜はなにか、ひっかかるような表情で微かに眉根を寄せた。

 なんだ、なんだ。なにか、姉の行動に気になることがあるのだろうか。

 

「……音楽、ですか」

 

 そして彼女はなにやら、考え込んでいる。

 一旦包丁を置いて、腕組みをして。ぶつぶつ、なにか自問自答するように独り言らしき、こちらからでは聴き取れぬ声を呟きながら。

 

「?」

「えっと。雪羽ちゃん。──あれから、不知火ちゃんと、部活の先輩……えと、真沢先輩、でしたっけ。その人のことは?」

「それも、とくになんにも。え、彩夜は逆になんか進展知ってるってこと?」

「ああいえ、そうではなくて」

 

 彩夜はなにやらもどかしげに、言いよどんでいる。

 言いたいことがあって、でも言えない。そんな感じだった。

 

「なになに。気になるなぁ」

 

 彼女の挙動不審さに、ちょっと意地悪な気分が雪羽の中で首をもたげる。

 もう少し、問い詰めてやれ。そう思った頃合いだった。

 

「──あ、お客さんです」

 

 店の扉を押し開く影に、彩夜が先に気付いた。

 彼女の声に促されるように、雪羽も振り返る。既に夕方のピーク時は終わり、店内は落ち着いている。とはいえ、バイト中。おしゃべりより、お仕事が優先である。そのくらいの分別は、雪羽にだってある。

 

「えっ」

 

 入ってきたのは、今まさに、雪羽や彩夜が、店のエプロンの下に着ているものと同じ、高校の制服姿だった。

 リボンタイの色は、一学年上。つまり二年生──スカートのプリーツを揺らして店内を見回すその女子は、……先輩は、雪羽が案内に出てくるのを待っている。

 

「え。……え、あれって」

 

 その、年上の人物の印象をおぼろげに、雪羽は記憶の片隅に見覚えていた。

 あのくらいの背丈。ハーフアップにした柔らかな髪。その顔立ちは、雪羽にとってまったく初めて、見るものではない。

 ただ通りすがりに、多数の生徒のうちのひとりとして視界を横切っただけだとか、そういうものとも違う。

 ガラスに隔てられたキッチンから出て、彼女の佇む入口のところまで歩みつつ。

 自身の記憶と、想像と。予測と、そこから導かれる確信とが、雪羽の鼓動を次第に大きなものに変えていく。

 見覚えなんて、あって当然。あるはずだ。

 だって彼女は、たしか。

 この目に映るとき、ほぼ必ずと言っていいほど──雪羽の大切な姉とともに語らい、そこにあったのだから。

 

「ああ、いたいた」

 

 そういう困惑と、緊張とが、雪羽に発声を出遅れさせた。

 いらっしゃいませ、を雪羽が言うより早く、入ってきたその人の行動が、先手を打つ。

 佇む雪羽の姿を見つけて、うんうん、とあちらで勝手に頷いて。どうやら雪羽が彼女を認識する以上にはっきりと、あちら側では雪羽のことを把握し、知っているようだった。

 雪羽の想像が正しければそれはたぶん、ただ彼女は、彼女にとって後輩としてのみ自分を知っているというわけではなく。

 

「あなたが、……不知火の妹さんね」

 

 笑みとともに向けられた言葉が、雪羽に予想の正解を告げる。

 

「面と向かっては、はじめまして。知ってるとは思うけど、真沢、──真沢 星架です」

 

                 *   *   *

 

 神社の玉砂利を靴底が踏みしめたとき、詩亜は既に、その人物の姿を視界の先に、見つけていた。

 南風神社。そう、鳥居の傍の庭石には刻まれている。

 ここが、あの人の家。日常を過ごしている、場所。

 

「先輩」

 

 緊張を憶えながらも、詩亜は声震わせることなく、その人物を呼んだ。

 紅い袴に、白の巫女装束。横の髪に揺れる、万両の枝を模した髪飾り。きっとそれらがこの場所での彼女にとっての、正装なのだろう。

 竹箒を手にしていたその人は詩亜の声を受けて、一瞬立ち止まって。やがてこちらを向く。

 

「──芹川さん? なんで、ここに」

 

 その声と表情は、彼女の受けた驚きを素直に表していた。

 

「ここが家だって教えてくれたのは、先輩のほうですよ。つい、ふらりと来ちゃいました」

 

 南風先輩は、ショートヘアと髪飾りとを揺らして、歩み寄ってくる。

 普段見せるボーイッシュさの上に、その巫女としての女性的な衣装は反発することなくよく噛み合って、彼女の身を包んでいて。その整った顔立ちを、より魅力的にしているように詩亜には思えた。

 

「巫女さんの恰好。よく似合ってます。かわいいと思います」

 

 その感想を、率直に伝える。

 ひととき、先輩は息を呑んで、ほんのり頬を上気させて。

 掌で、自身の口許を覆う。恥ずかしそうに、目線を詩亜から外す。

 

「先輩?」

「あ……っ。いや。その、……恥ずいのと、……うれしい、のと」

 

 両方、あってさ。

 ほんのりだったその頬の紅さは、次第に真っ赤といっていいくらいに、強く色濃く、彼女の羞恥を示すように染まっている。

 

「き、今日は? 部活は?」

「ちょっと、早く終わったんです。だからふと、ここのことを思い出して」

 

 あのデート以来、会っていなかったから。

 なんだか、お話くらいはしたいな、って思った。だから詩亜はこの神社に、なにげなく足が向いた。

 

「そっか」

 

 ──嬉しい。

 南風先輩は、恥ずかしさに覆っていた顔をようやく、まっすぐに詩亜へと向けて、にっこりと笑ってくれる。

 その笑顔は、詩亜にとってこのうえなく、好ましく思えるものだった。

 先輩の笑っている顔、好きだな。そう、感じられた。

 

「芹川さん、ほら。あっち、見て」

「?」

 

 さわさわと、山の風が神社を吹き抜ける。

 めっきり秋めいてきた、というには少し早い季節。けれどその風は、真夏の只中であった時節より涼やかで、優しく心地よく。

 冷涼な季節がもうすぐやってくるのだと、夕焼け空の下に、ふたりの少女に告げている。

 そう、夕焼け。──オレンジ色の、落ちゆく夕暮れだ。

 

「あ……」

 

 その光を浴びて照らし出される、太い、太い幹のご神木。オレンジ色に染まりながら、それに負けないほどに、深い碧にその色は美しく。

 苔むしたそれのもとに、先輩は詩亜を連れて歩んでいく。

 

「大きなご神木ですね」

「うん。そりゃあ、ずっと。ずっと昔からここにあるからね。この神社が人々の信仰するお社として、きちんとかたちになるよりもずっと前から」

 

 この大樹に見守られて、ぼくは育った。

 ずっと、見ていてくれた。そう声を発する先輩は、なんだか感慨深げで。

 

「先輩」

「うん?」

 

 そんな彼女へと、提案をする気に詩亜はなっていた。

 

「先輩。わたし、先輩のこと、わりと好きです」

「え……」

「付き合うとか、付き合わないとか。まだよくわからなくて、きっとそういうレベルじゃないですけど。こうして話していて。一緒にいて。苦手だな、とかあわないな、とかは感じません」

 

 あなたの隣は居心地が良くて。それはこの間のデートだって、同じで。

 

「だからまた、一緒にどこかに、行きたいです」

 

 妹にも、紹介をしたいと思う。

 既に、先輩という存在自体は知っているけれど。きちんと、近しい人として伝えたい。

 

「真波先輩と、お出かけがしたい」

 

 あとになって、詩亜は知る。

 この南風神社が、縁結びのお守りで知られる神社だということ。

 目の前のご神木のご利益のひとつに、大樹の前での告白の成就が、あるということを。

 

「──うん」

 

 ぼくも、だよ。

 名前で呼ばれた驚きに、先輩は一瞬どきりと目を見開いて──そのあと、泣きそうに笑って。顔を、くしゃっとさせていて。

 ありがとう。……詩亜。そう、言ってくれた。

 

                 *   *   *

 

「不知火さん」

 

 思いのほか、歌うって行為は体力を使うんだな。

 夕矢くんに案内され、足を踏み入れたレッスンルーム。

 ドラム担当の子。ベースの子。──キーボードは、意外にも女の子だった。てっきり、全員男の子のバンドだと思っていたから。

 曲の予習はしていたから、挨拶もそこそこに練習に入った。

 本番まであまり時間もないと言っていたし、新参者がかきまわすわけにもいかないと思ったから。

 

「バンドと合わせてみて、どうだった。はじめてですよね」

「──うん。思ったより、ハードだね。……うまく、やれてたかな?」

 

 いい汗をかいた、というのが率直な気分だった。

 憶えてきた限りの曲を、ひととおり一同と合わせて。ここをこうしてみたら、みたいなやりとりも交わして。

 今は練習終わりの、休憩中。床に直接腰を下ろして、肩からかけたタオルで汗を拭う。

 夕矢くんが差し出してくれたペットボトルを受け取って、呷る。ミネラルウォーターが喉の奥をひんやりと流れていく冷たさが、素敵だった。

 

「普通に上手くって、びっくりしましたよ。姉ちゃんや、雪姉から話は聞いてはいたけど」

「そうかな? あんまり実感、ないんだけどな」

 

 請われてここにいて、お世辞を言われているのではないのだと思う。

 あの夜の依頼を果たして、彼とその仲間たちが満足してくれるだけの結果を初日としてはまず、果たせたのだと信じよう。

 そして彼に対してはもうひとつ、果たさなくてはいけない義理がある。そのことだって、不知火なりにわかっている。

 

「ね、夕矢くん」

 

 こっち、おいで。膝を立てて三角座りをしたまま、隣のフローリングを軽く叩いて彼を呼ぶ。

 小さく頷いて、大柄な彼が、腰を下ろしてなお不知火より高い視線を保ったまま、そこに姿勢を崩し、座り込む。

 

「こうやって、きみたちの力になること。それとは別にもうひとつ、きみからのお願い、……あったよね」

「……っ」

 

 ほかの、バンドメンバーのほうを見る。

 彼ら、彼女らは互い同士、昨晩のバラエティ番組の話題でひとしきり盛り上がって、夢中になっている。ひとまず、ふたりきりの会話を聴かれるということもなさそうだった。

 このタイミングが、ほんとうに正しいのかどうかはわからないにせよ、伝えることは今、可能だと思った。

 

「もう少し、待ってほしいんだ。返事をするのは。──答えを出すのを、待って、ほしい」

 

 彼の掌が、自分のすぐ脇に投げ出されているのを不知火は横目に見る。

 思わせぶりになってしまう行為だろうか、と一瞬躊躇して、しかし自身の手をそこに重ねる。ぴくり、とその瞬間、彼が動揺した反応を見せたのが分かった。

 

「今の私にとって、きみはまだ、妹の大事な、弟分で。彼女が弟だって思っている、そういう存在で」

「……」

 

 だからアウトオブ眼中だ、などと言うつもりはない。

 

「少なくとも、私にとっても経緯はどうあれ、大切な存在には違いないんだ。そこは、胸を張って言える」

 

 雪羽も大事。

 きみも、大事。家族と、それにほぼ等しいくらいに近い場所にいる、という意味合いで。両者ともに大切にしなくてはいけないと、思っている。

 

「でもだからこそ、今はゆきのことを一番大事にさせてほしいんだ」

 

 せめて、今は。

 

「今、もうすぐ。──ゆきの、誕生日でしょ?」

 

 彼の掌に重ねたのとは逆の手を伸ばして、不知火は自身の荷物を持ち上げる。

 薄水色の手提げ袋。その中には、まだ完成状態にない、とても大切なものが押し込まれている。

 

「それは?」

「もうすぐ。あとちょっとで、出来上がるんだ」

 

 彼には見せても、いいかと思う。袋の口を広げて、彼のほうに向ける。

 夕矢くんはその中を覗くと、小さく「あっ」と、軽い驚きを、その反応で表現をして、不知火のほうに目を向ける。

 もう、それがなにかわかる程度のかたちにはなっているから。見ればたしかに、そういうリアクションにもなるのだろう。

 

「……そういうのって、手作りできるものなんですね」

「もちろん。洋服だってそもそも、昔は買うものでなく縫い合わせるものだったんだから」

 

 その、延長線上でしかないよ。

 体格に反していかにも年齢相応の中学生男子らしい、素朴な驚きを見せる彼に、不知火は笑う。

 

「だから、さ。きちんと完成させたいし。全力で、あの子のことだけを考えて祝ってあげたいんだ」

 

 たったひとりの、家族だから。

 同じように祝ってくれた、ゆきだから。私からも、すべてをつくして、あの子の生まれた日を祝ってやりたい。

 だから、ごめん。──待っててほしい。

 

「答えは、見つけるから」

 

                 *   *   *

 

 そういう会話を、彼とした。それからほどなくして、スタジオをメンバー揃って、あとにした。

 ありがとうございました、と手を振る面々と別れて、不知火と夕矢くんはふたり、街中から離れていく家路につく。

 ふたり並んで歩く道には、人通りはほぼなくなっている。

 

「雪姉が大事なのなんて、そんなの。俺も同じです」

 

 会話少なである中、やがて彼が発した。隣を見上げれば、──年下の相手を見上げるなんて、不知火としてはそれは珍しい構図だ──まっすぐに前を見ながら、彼はひと言ひと言を自分自身に確かめるように、言葉を続けていく。

 

「いくら自分のほしいものがあるからって、雪姉を押しのけてまでなんて、そういうのは絶対違う。そこまで、俺も子どもじゃないです」

 

 不知火さんが、雪姉の姉貴になってくれて。あの人をひとりにしないでくれて。ほんとうに嬉しかった。感謝もした。

 あなたが来てくれてよかった、って。ほんとうに、思っていたんです。

 

「だから、……うまく言えないんですけど、そこに割り込んでいくのは違うっていうか。俺が崩しちゃだめだろ、って。どっちも俺には重要で──その」

 

 彼の言葉は、己に確かめながらそれでも明瞭さが十分ではなかった。

 十五歳の少年という年齢の、そこが限界なのだろうけれど。しかし、言わんとするニュアンスに関しては、不知火にも理解はできた。

 

「その、待ってます、から」

 

 納得するまで、納得したいことをやって。

 それからで、十分だから。

 かみ砕ききれぬ表情ながら、しかし彼はそう言った。

 

「俺だって。不知火さんも、雪姉も大事なんです」

 

 ギターを背負った彼の真摯な言葉。それに不知火も、頷く。

 

「ありがとう」

 

 そして、ごめんね。──待たせて、しまって。

 

「っと?」

 

 車道の側を、ごく当たり前に夕矢くんは歩いてくれていた。だから本来、それはあり得ぬ動きだった。

 自転車の、ベルの音。近づくそれにふたり振り返れば、当然それが迫るのは車道の外か、歩道内においても夕矢くんより、更に外側であるのが当たり前で自然なはずなのに。

 その、見ず知らずのサラリーマンが漕ぐ、オーバースピードに迫るそれは──なぜか、不知火より更に内側を駆け抜けようと、車体をねじ込む素振りを見せて。

 なんて無茶な、という感想も、思う暇があればこそ。

 

「ちょ、ちょっとっ。なんでっ」

 

 とっさに、大きく飛び退く羽目になる。

 交通ルールや、モラルの無視もいいところだ。こちらが道を開けるように、歩道側に寄ってふたり歩いていたこともあって、突然で無茶な通行をされたという感覚はより一層強い。

 

「不知火さんっ」

 

 アスファルトの上に、どうにか着地して。とん、とん、と。慣性を中和するように、数歩あとずさるかたちで、転倒することは免れる。そのくらい思いきり避けていなければ、ぶつかっていた。夕矢くんが袖を引いてくれたくらいでは、どうにもならなかったろう。それほどに急で、無理やりな自転車の動きだった。

 

「危ないなぁ」

「不知火さん、こっち!」

 

 呆れつつ、過ぎ去る非常識な自転車の背中を見遣る。交差点を、自転車はすぐに左折していった。

 いくら左に行きたかったからって。マナー、悪いなぁ。思いながら、ひやりとした胸を撫で下ろす。

 ──瞬間、だった。

 

「え」

 

 びりびりと全身に響くほどの、クラクションの音を不知火は聴いた。

 そして気付く。

 自分が今立っているのが、歩道の上ではないということ。

 迫っている、自動車の姿。

 必死にブレーキを踏んでいる、そのドライバーの姿を。

 浮揚感を全身が包む寸前、避けきれぬということをそのときには既に、不知火は理解していた。

 

 

             (つづく)


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