第三十一話 少年から、不知火へ
第三十一話 少年から、不知火へ
うわっ。──妹が、そんないかにもどん引きしたような声を発したのが、料理の並んだテーブルの向こう側から聞こえた。
「どうしたのさ、お姉ちゃん。……寝てないの?」
聞こえては、いたけれど。
その台詞を聞いてから。中身を認識し、それを口にした雪羽のほうを不知火が向くまでにはたっぷり、数秒の時間は必要だった。
まるで働かない脳みそを駆使して彼女の問いを認識し、わざわざ答えるまでもなく、今の不知火の状態は、妹より受けたその指摘から、なにひとつとしてズレてはいない。
「──え」
なんだっけ。なんて、今言った?
そのリアクションに、雪羽は察してくれたらしく。
「あ、うん。……なんかもうわかったからいいや。寝てないんだね」
「うん」
テーブルには、いつも通りに雪羽の用意してくれた、彩も鮮やかな、食欲をそそる朝食の数々が並んでいる。
今朝は、和食。
真っ白なご飯に、鮭の切り身。ほうれん草のおひたしに、なめこと人参のお味噌汁。ぴかぴかと光沢を反射する、かまぼこ。
いつもの通りの食欲で。
いつもの通りにしっかり眠っていて。
いつもの通りの精神状態なら、きっともっとずっと魅力的に映ったろう。
はい。寝てません。
一睡もしてないし、悶々と、延々と。それはもう一晩じゅうあれこれ、考えることしきりでした。
「え、なに。そんなに寝付けなくなるくらい昨日の先輩とのデート、とんでもないことあったの?」
先輩にいったい、なにされたの。
制服の上の、エプロンをはずしながら、自らも席に着く雪羽。首を傾げて、不思議そうに訊ねる。
「──それ、は」
すごかった、というか。ええと、ね。
顔を上げて、言葉を返そうとして。不知火は言いよどむ。
デートから帰宅して、それから。起こった出来事を、不知火は妹に、言い出せずにいた。
内緒にしていようと、決めたわけではない。言うべきか。黙っているべきか。それすら決断できず、ずるずるときている。
「ま、言いたくないなら今はべつに、いいけどね」
「え」
「ほんとは先輩とどんな感じだったか、とか。どんなデートだったのかな、とか。すんごい気になるけど。お姉ちゃんの、大事なことは言うまで時間のかかる性分、知ってるから」
だから、言えるようになるまでは訊かない。
おもしろくはないけど。どうなったかくらいは、結論が出たら聴かせてよね。
「ゆき……」
「ほら、ご飯食べちゃって。寝不足で食欲なくても、少しは食べないと」
言って、ゆきは照れ隠しのようにいそいそと、自分のお椀から味噌汁をすする。
「──うん。ありがと、ゆき」
いただきます。彼女に倣うように、不知火もまた、妹のつくってくれた料理に手をつける。
寝不足で、胃があまり元気でないはずなのに。
いつものように妹の手掛けてくれたその朝食は。
いつものように優しい味で、いつものように、ひと口運ぶたび自然に、また次のひと口が欲しくなった。
* * *
星架先輩はこのところ、部活のあいだじゅう、なんだか忙しそうだった。
それもそうだ、現時点で彼女は部の二年生エース。
新学期が始まり、秋になり。卒業を控え、三年生たちの引退も、そう遠いことではなくなってきた。
だから、だ。
おそらくは、来年以降も見据えて。次期部長は彼女との専らの噂だから、その引継ぎの兼ね合いもあるのだろう。練習に向かっている時間以上に、顧問や、三年生の先輩たちと、彼女はやりとりしていることが多かった。
今日も、そう。一介の一年生のひとりにすぎない不知火としては、それでもと声をかけるにはなかなか、おいそれともいかなかった。
「南風先輩と、もう少し近い距離で触れ合ってみようと思うんです」
「──っ?」
練習と、練習の合間のエアポケットのような時間。
プールサイドにある、休憩用ベンチへと腰を下ろして、タオルを羽織りながら。隣に座った詩亜と語らう。
親友の発したその第一声に、不知火は思わず、目を丸くする。
「それって、南風先輩と付き合う、ってこと?」
「ああ、いえ。まだそんなレベルではなくって」
ほんとうにまだ、お互い、お互いを知り始めたばかりなので。
不知火の驚く様子に、少し慌てつつ、詩亜は首を左右に振る。軽く両手を上げて、小さく動かして見せながら。そうではないと、身振りで表現をする。
「ただ、もう少し。より、知ってみてからでもどうするか考えるのは、遅くはないのかな、って」
先輩も、今はそれでいいって言ってくれていますし。
デートのその日に、記憶を馳せているのだろう、プールの水面を見つめながら声を紡ぐ詩亜の頬は、柔らかい表情をつくって、ほのかに上気している。
小柄な、小柄な友人。だけれどその仕草や、至った境地がなんだか、ひどく大人びたものに思える。
ひたすら惑い、悩んで。どうするべきか困っている自分がすごく……子どもじみて感じられる。
「歌奈には、なんて」
「まだ、なにも。好きにしたら、とは言ってくれてますけど」
突き放すような意味合いではなく。率直に。
妹の言葉を、彼女はそう言って端的に伝える。
「──すごいな、詩亜は。ちゃんと現時点での答えを、時間の経過に合わせて出せるって」
「別に、答えというほどのことでは」
ちょっと、先送りにしているだけです。
ああ、詩亜。なんだか、照れている。そういうところは、たった今大人びて見えた彼女が、やはり同い年の友人だと実感できて、少しほっとする。
「しーちゃんは、どうですか。なんか、困っているような。悩んでいるのが、見ていてわかります」
「うん」
取り繕いようもないし、友に対して隠すことでもない。
勘のいい詩亜に隠せるとも思っていない。
素直に、認める。そして。
「──その。先輩に。……星架先輩に。……キス、された」
「……えっ?」
それでもあらためて言葉にする際には、頬が熱くなった。すぐには声を、吐き出せなかった。
「え、それは。あの」
絞り出した言葉に、一瞬、詩亜は呑み込めぬ、きょとんとした表情をして。次第にその頬を、──彼女自身のことではないにもかかわらず、紅く染めていく。
「真沢先輩と……お付き合いを……?」
「じゃあ、ない。詩亜と、南風先輩と同じ。そういう状況の、前段階でしかない。それでお互い、納得したんだ」
今度は詩亜に、不知火が否定をしてみせる番だった。
星架先輩と、不知火も付き合ってはいない。
そういう関係にはない。──ない、のに。
──お土産、って。ずるいですよ、先輩。あんな唐突に。隙あり、みたいに。
「それで、……ね」
肩にかけたタオルを、胸の前に引き寄せながら次の言葉を探す。
本来、探すまでもない。先輩から口づけられて、そのあとに不知火へと起こった出来事はたったひとつの現実でしかありはしないのだから。
プールの水に濡れた、裸足の爪先に目を落とす。
ペディキュアなんか、殆どやったことはない。こういう部活をやっていると、あっという間に剥げ落ちてしまいそうで。そもそも休日や家くらいでしか、裸足でいることもないのだし──そうやって碌に飾ったり、手入れをしたことのない両脚の爪だけれど、わりあいに整っていて、きれいなものだと思う自分もいた。
そんな指を、曲げて、伸ばして。ひと呼吸黙りこくる。
先輩と交わした、肌と肌との密着。その、あとの出来事を告げるために。その気持ちを準備する。
「それを、夕矢くんに見られちゃった」
「──え」
「中学生に見せるには少し、不適切な光景だったよね、きっと」
彼を通じて。あるいは彼から、姉の彩夜を経由して。雪羽は知ることになるのだろうか。
それは嫌だな、と、不知火は思う。
できたら、伝えるなら自分の口で。そうしたい。
「夕矢くんって……彩夜ちゃんのところの?」
「うん」
だけれどなんだか、少しそういう意味合いとは異なる反応が、詩亜の見せた表情と、雰囲気とには含まれているように感じられた。
「そんな──そんなのって」
「詩亜?」
「いや、それより。しーちゃんはそういう感想でいいんですか?」
「え?」
愕然と、というか。そんな反応。
不知火でも、先輩でもない。まったく異なる誰かを、なにかを案じるような。
怪訝に思い、不知火は次の問いを彼女に向けようとする。
夕矢くんが、どうかしたのか。
自分と先輩の行為は、そんなにも拙いものだったのか。
そして自分はどう思うべきだったのか?
問うより先、三年生の先輩のひとりが、不知火を呼んだ。別方向から、詩亜もまた、呼ばれた。
不知火は、リレー競技の泳者順の相談のために。
詩亜は、備品の置き場所について。
どちらも些細な、ほんの些細な事。たったそれだけ、そのために、ふたりの会話はそこで途切れた。
部活中という、その時間の中に、言葉と疑問は溶け込んで、見えなくなっていったのである。
* * *
ぐつぐつと、鍋の中で南瓜が煮えて、揺れている。
串で刺してみると、その身は既に柔らかい。問題なさそうだな──そこに、練った小麦粉の団子を、雪羽は千切っては入れていく。
煮えていく南瓜自身にも粘り気はあるし、小麦粉の煮える過程で、勝手にとろみはつく。
南瓜も、下茹ではしていない。今似ている煮汁には既に砂糖も、出汁も入っている。多少煮崩れたほうが、汁全体に南瓜の甘みが広がって旨い。
夏、島にいたとき。ご馳走になって、気に入って。観月さんに教わった、田舎風の南瓜の団子汁。
姉も好物というその料理を、雪羽はつくっている。
「これでよし、と」
あとは、団子に火が入ればいい。
一度コンロの火を消して、冷ます。煮炊きものは冷めていく過程で味が染み込んでいくから、もう自然に任せるだけだ。
夕飯に添える、デザート的な一品。ただこれ自身、そこそこ重いボリュームがあるから、食事自体は今日は軽めの献立にしてある。
お姉ちゃんはもうじき、部活切り上げてくる頃合いか。壁の時計を見遣りながら、雪羽は身に着けていたエプロンを、はずしていく。
「……少し、練習しとこうかな」
ヴァイオリン。少しくらい、触れる時間の余裕はありそうだった。
時計から、壁へ。そしてドアノブへと目線を移していく。
その過程に、電話台の上に置いたカレンダーが目に留まる。テディベアの描かれた、二か月ごとの、カード形式を抜き差しして入れ替える卓上カレンダー。
今月の、二十日。そこに赤いマジックで印がつけられている──その赤マルを書いたのは、姉だった。
「……別に、待ち遠しくてしかたないってくらい、小さな子どもじゃないつもりだけどさ」
それでも。──期待はしたくなる。
姉さんも、毎年祝ってくれた。日本にいるときも、いないときも。贈り物だけは、忘れることはなかった。
今年は、はじめて。お姉ちゃんと一緒。
そんなはじめての──誕生日。
自分が姉のそれを祝ったからとか、見返りを要求してそう思うのではない。
「記念日を一緒に祝いたい相手って、いるよね」
ほんとうだったら。お姉ちゃんだけじゃない。姉さんも、お義兄さんも一緒だったはずの誕生日がもうすぐやってくる。
どんな料理、つくろう。どんな日になるだろう。
いい日だと、いいな。そう思うのは、当然じゃないか。
「──今だって、ほんとは寂しくって。不安なんだぞ」
嫉妬深いと、笑いたければ笑え。ドアノブに手をかけたまま、姉が、件の先輩とやらと一緒にプールサイドで語らっている光景を想像する。
うん。……面白く、ない。楽しい光景じゃあ、ないな。
薄暗い廊下に出て、後ろ手に扉を閉じる。
ぱたんと、聞きなれた音を立てたドアに体重を預けながら、ひとりごちる。
「……あたしだってお姉ちゃんのこと、大好きなんだから」
お姉ちゃんの、ばか。
先輩にとられちゃうの。
面白く、ないよ。ヤダ、よ。
* * *
「──彩夜?」
部活の終わり時間。詩亜は、資料整理が残っているからと、まだ部室に残って机に向かっていた。
その姿は声をかけるのも憚られるくらい、真剣で。
だから練習を終えて、ひと足先、ひとりで不知火は部室をあとにした。
──星架先輩の姿は、顧問とともにいつのまにか、見えなくなっていた。
正直、ほっとしながら。下駄箱にやってきて。友人の姿がそこにあることに、気付く。
詩亜同様、いやそれ以上に小柄な友。
「どうしたの、彩夜。部活、入ってないよね?」
彩夜が自身の鞄を手に、彼女のではない、不知火たちのクラスの下駄箱前に佇んでいた。
委員会? 日直か、なにか?
不知火が訊ねるとしかし、歩み寄る彼女に対して、彩夜は真剣な面持ちを持ち上げて、そちらを向く。
「不知火ちゃん。このあと少し、時間ありますか」
「え」
それはなんだか、憶えのある流れ。
どこかのだれかに、呼び出される。
自分にはコントロールできないどこかに、いざなわれる。ついこないだから、それは繰り返してきたこと。そんな既視感が、不知火にはあった。
「裏門のところ。一緒に、きてください」
* * *
不知火の手を引く彩夜の力は、いくら元スポーツ選手とはいえ、この子にもこんなにも腕力があったのか、と思えるくらいに強くって、ゆるぎなくて。
そんな必要もなければする意志もなかったけれど、振りほどくことさえ困難であるように思えた。
彼女に引っ張られ、いつも帰る方向とは反対側の、裏門を目指し歩く。
もう、殆どの部が一日の活動を終えようかという時間帯。もとより利用者の少ない裏門側ということもあり、校内でありながら、レンガ造りの道は、ひっそりと人の気配の少なさに静まっている。
一帯が暗がりと化した、裏門の柱が見えてくる。この頃には、周囲の暗さにいくぶん目が慣れてきている──そこに立つ、ひとつの長い影に、不知火も気付く。
そのシルエットは彼女も、よく知っているものだった。
「……夕矢、くんっ?」
それは不知火の手を引く友人の、弟。その姿に、どきりとする。
そしてつい昨日、最も見られたくはなかった場面を、偶然に見られてしまった相手であり。
その背にギターケースを背負った、年下の少年だ。
「……どうも」
彼の眼前へと、彩夜の手に引っ張られていく。
昨日の光景をどうしたって、思い起こしてしまう。
先輩に重ねられた唇。
それを見てしまった、彼。あまりにも今顔を合わせるにはばつが悪すぎて。
あちらからはともかく、こちらとしてはとても、気まずい。彼とうまく目を、合わせられない。
「や、やあ」
面と向き合って対峙すると、目線をまっすぐ向けられない。なんてところを見られてしまったんだ、我ながら。
あたしとだってしたじゃんか。おでこだけど。──脳裏では腕組みをした妹がそんな抗議をしてくる構図が浮かんだ。けれど、それはそれ。だいたい、あのときはふたりきりだったし。
「彩夜は、先に帰ってます。ふたりで、ごゆっくり」
「えっ」
そうやってつとめて落ち着こうとしている中、彩夜の手が離れていく。
「ユウくんから、大事なお願いがあるそうなので。聞いてあげてください。それが不知火ちゃん的に飲めるかどうかは別として」
「ちょ、ちょっと、彩夜っ?」
不知火が手を伸ばすも、もはや彩夜は振り向きもせず、ひらひらと掌を振って立ち去っていく。
擦れ違う瞬間、彼女は弟に笑いかける。不知火には聴こえないくらいに小さく、「がんばれ」と唇をかたち作って、囁いていく。
彩夜がどんどん、小さくなっていく。夜の中に消えていってしまう。
夕矢くんとふたり、取り残される。
「──あの。不知火さん」
「は、はい」
長身の少年は、ポケットにつっこんでいた両手を出して、目線を逸らしたまま、ただ不知火の名を呼んだ。
そこで言葉を切る。なにかを、この少年は言おうとしている。
「あの。頼みがあるんです。ふたつ」
「……ふたつ?」
「ひとつは俺自身のこと。もうひとつは、俺と、俺の仲間のこと」
どっちから、聞きたいですか。
頬を指先で掻きながら、彼は問う。
いや、どっちからって──どっちがいいんだろう?
唐突で。選択のための情報がなくって。不知火が困っていると、それもそうだよな、という風な表情で彼は深く息を吐く。
「じゃあ、俺自身の問題から」
「は、はい」
鼓動を抑えるように、彼は胸に手を当てて、何度も何度も、息を吸っては吐く。
落ち着け、落ち着け。自分自身に、そう言い聞かせているように、その様相は見えた。
「雪姉のことや、雨姉のこと。お兄さんのこととかで大変なのは知ってます」
「はい」
「それと、昨日のこととか」
でも、言わせてください。
その前置きと共に彼はまっすぐに不知火を見る──そこまでの発言で、彼の表情や、しぐさや、雰囲気で。不知火はどうして察せなかったのか。
「不知火さん。俺と、付き合ってほしいです」
鈍感を指摘されたのは、それほど前のことではなかったはずなのに。
「え」
「俺。不知火さんに、惚れてます」
同じような状況、ついこの間に経験しておいて。
なぜ学習をしない。駒江、不知火。
「好きです」
誰より不知火自身が、自分自身に対してこの状況を、無用心すぎる自分を、そう思わざるを得なかった。
ほんの僅か後ずさった靴の踵が、小石を踏んで、足許のレンガにがりりと音を立てた。
付き合ってほしい。
惚れている。
好きです。
少年の発したその三段活用に、不知火はただ、うろたえるよりなかった。
(つづく)
第二部の密かなテーマは「不知火に悩ませ、困らせる」だったりします。




