第二十九話 私たちと、先輩と 前編
第二十九話 私たちと、先輩と 前編
手首の側に文字盤を向けた、腕時計を見る。
待ち合わせの、約束の時間まであと三十分と、少し。
休日の街を行き交う人々を前にしながら、早くに家を出すぎたことを実感する。
駅前の、噴水の前。ノースリーブに、肩からかけたデニムの上着。そして黒のミニスカート。おろしたばかりのストッキングが伝線してないか、また履いてきたパンプスの具合を踏みしめて確かめつつ、手持ち無沙汰に不知火は待ち人がやってくるのを待つ。
「……デート、っていったって」
いったい、どこに行けばいいんだろう。
なにが、したいんだろう?
指定された場所と時間にあわせてきたのはいいけれど、不知火の側にまったくといっていいほど、材料が与えられていないのが現状で。
正直なところ、困惑をしている。
ルートや、行き先はこっちで決めるから。先輩がそう言っていた、その流れに任せきってしまった。それ自体、不知火にとって今回のデートが、自身の主体性によるものではないことの証左にほかならない。先輩の要望に流された結果のものでしかないからなのだけれど。
ほんとうにこれでよかったんだろうか?
「私、ひどいことしてるのかな」
──してるんだろうな。きっと、そうなんだろう。いくぶんの自己嫌悪に、胸がちくりと痛む。
噴水の広場を見下ろす大時計が、午後一時の鐘を鳴らす。その鳴り響く音色にそちらを見上げて、不知火は待ち人でない相手のことをふと、思う。
「ゆきはそろそろ、仕事終わりか」
不知火が悶々としていたのは、なにも今にはじまったことではない。
昨晩から気になって、寝つけなくて。
いつもより遅く、目覚めてしまった。
起きたとき、既に雪羽は『白夜』でのバイトに出てしまっていて。
あたためて食べて、という書置きと、朝食の準備とが残されているだけだった。
今日のデートを告げたときから、妹の様子はなんだかそっけなく。だから今朝、そのような経緯で言葉を彼女と交わせぬまま出てきたことが、不知火の心にはどうにもひっかかり続けている。
もうすぐ、ゆきの誕生日なのに。
やりたいこと。やっておきたいこと。やらなくちゃいけないこと。いっぱいあるのに。
私はいったいなにをやってるんだろう──……。
「しーちゃん?」
「え?」
考えれば考えるだけ、そのぶん思考の迷宮の奥底深く、気持ちが沈み込んでいきそうだった。
そんな中に、不意に声を聴いた。
聴けばわかる、親友の声だった。
「え。……え、詩亜? なんで?」
「しーちゃんこそ。今日、デートでは」
よそいきの、かわいらしい着衣に身を包んだ小柄な親友。彼女が驚いて、目をぱちくりして首を傾げている。
昨晩、電話で話して知った。
彼女もまた今日、告白を受けた相手に呼び出されていること。でも、その彼女がなぜ。
「それは詩亜もでしょ。……え?」
待ち合わせ場所も、時間も。……同じ?
「ああ、いたいた。早いねふたりとも」
疑問に思考が埋め尽くされる中、また異なる方向から声が投げられる。
ふたり、向いた先には。
同じく、先輩がふたり。
「せっかくだから。同じタイミングのほうがわかりやすいかなって思ったの」
安心してよ。べつに、ダブルデートってわけじゃないから。
そう言ってくすくす笑っている、──星架先輩。
また、その隣にいる、例のボーイッシュな先輩。
そう、名前は──、
「南風先輩」
その人の名前は、南風、真波。──みなみかぜ、まなみ先輩。
ショートヘアのその人は、髪をかきあげてふたりに小さく、会釈をした。
一見すれば気障ったらしいものにも見えかねないその仕草が、とても様になっているようで、実に嫌味なく、似合っている。
そのように思えた。そう、不知火の眼には映ったのだった。
* * *
やっぱし、すごいよね。なにかしら、楽器を一人前の腕前に演奏できるってさ。
「アタシには、楽器も音楽も、きれいだなぁ、すごいなぁ、くらいにしかわかんないからさ。ほんと尊敬するよ。演奏ができるってこと、そのものを」
演奏を──とはいっても、練習にと弾いていたほんの一曲を終えて、自身の楽器を下ろした雪羽の背に、ささやかなひとりぶんの拍手とともに投げかけられるのは、友人の声。
「だけどさ、ちょっとわかっちゃったな。演奏そのものはわかんなくても。……アンタが今、わりと平静じゃないってこと」
楽器を置いて、ピアノの上に持ってきていたペットボトルから水を呷る。そんな雪羽に、苦笑がちに歌奈は告げて。
「ああ、こいつもアタシと一緒だなー、って」
格闘技、それなりにやってたからかな。
なんていうか、呼吸とか、雰囲気でちょっとわかった。
──そう微かな声に発する歌奈の言は、間違ってはいない。
バイトから帰って、もぬけの空の家で、少しヴァイオリンの練習でもするか、と楽器ケースの蓋を開けたタイミングで呼び鈴が鳴った。そうして訪れた歌奈は彼女自身また、どこか覇気のない眠たげな様相で。
それだけで、「ああ、彼女もか」と雪羽は思った。
姉が。誰かとデートを現在進行形に楽しんでいる同士。
だから、雪羽は彼女の指摘を否定できない。
なんだか、落ち着かない。だから演奏だって散漫になるのだ──……。
「歌奈はいつ聞いたの。今日がデートだって」
「昨日。出かけるっていうから。あと、なんか様子が変だったし」
ああ。たしかに、詩亜は隠しごととか、へたっぴだろうな。
「それにしたって、変な話だよね、まったく。ねーさんが付き合うかどうか返事だってまだなのに。デートしよう、なんてさ。順番があべこべなんじゃないの」
「たしかに、ね。……でも、それを言うならうちのお姉ちゃんだって」
断るつもりなのに、そんなお姉ちゃんを捕まえて「デートしろ」なんて。
「無茶苦茶だよ、ほんと」
「ねーさんもよく知らない相手によく合わせるっていうか。……先輩って、たった一年先に生まれたくらいでそんなに偉いかね」
ふたり、気付けば愚痴を持ち寄ってしまう。
友人同士、目と目が合って。そのことをどちらからともなく、双方自覚する。
要は、あたしたちは。気に食わないのだ。
「アタシたちって、だいぶんシスコンなんだね」
「──否定できないなぁ」
結局、そういう自己評価に行きつく。失笑気味に、天井を見上げる。
姉さんとは離れ離れのときも、平気だったのに。
お義兄さんのこと伝えられたその際も、べつになんともなかったのにな。
お姉ちゃんと一緒であることに、慣れすぎたのかもしれない。ずっと一緒だって約束したからこそ、なおさら。
「ね、さっきの曲、なんていうの」
「ん? アーモール」
「はい?」
「だから、アーモールっていうの。……って、これはヴァイオリン弾く人間にしか通じないか。うちらはそう呼んでる。ヴィヴァルディって知ってる?」
「音楽の授業で習った」
「そう、そのヴィヴァルディのつくった、ヴァイオリン協奏曲。イ短調の曲だから、アーモール。ドイツ語だよ」
「へえ」
腰を曲げて、楽器ケースに手を伸ばす。
ヴァイオリンを手に取って、お腹の前に抱き上げて、ピアノに寄りかかる。
「協奏曲……って、ひとりで弾くやつじゃないんだ?」
「本来はね。ただ、わりとひとりで弾いたりもするよ。この曲なら小学生でも弾ける難易度だし。気軽に」
「ふうん」
じゃあさ、もう一回。気軽に弾いてみせてよ。
歌奈はふと、そんな要求を投げてくる。──いや、なんでまた。べつにいいけど。
「多少吐き出したぶん、今ならさっきより気楽に、自然体に弾けるでしょ? 聴かせてよ」
「──ああ」
そういうことね。
「高いよ、演奏料」
「そこはつけといて」
「しゃーないなぁ」
姉の帰りを待つ同士だ、今回はサービスしておいてやろう。
雪羽は手にした楽器を持ち上げて、構えていく。
そして音色が、雪羽自身の手で紡がれていく。
この曲も、はじめて聴いたのは今は亡き姉の演奏だった。
それほどには上手くはない、練習を再開したのだってつい先日、ブランクだってある。だけれど──、
ふたり、むくれあっていたのが嘘みたいに、今はよどみのない演奏ができた気がした。
その最初の一音から、最後の弓のひと振りに至るまで。
歌奈も穏やかに目を閉じて、旋律に耳傾けて満足げだった。
悪くない出来映えに、弾き切れたと思える演奏だった。
* * *
ふと気付くと、先輩の目線がこちらを見上げている。
「かわいい。きれいな髪飾りだね」
その垂れ目がちの双眸は、不知火の髪を彩る、大切なふたつの銀色に向けられている。
「そういうの、あんまりつけてるところ見たことなかったから。よく似合ってる」
「……どうも」
そうやって大切なものを褒めてもらえるのは、相手がどういう存在であれ、嬉しくてこそばゆい。
「どちらも兄と。妹からの贈り物なんです。そう言ってもらえるのは、悪い気分じゃないです」
「そこは素直に嬉しいって言ってくれていいのに」
「なんか、すいません」
「私服も案外、けっこうガーリーなんだね。もともとの背が高いからきれいでかっこいいけど」
先輩は隣を歩きながら、面白そうに言う。
どこに向かっているのかも、不知火はよく理解してはいない。ふたりの手にはそれぞれ、行きずりに通りがかった、スタンドの店で買ったタピオカミルクティがある。先輩は、抹茶。不知火は黒糖だ。ときどき紅いストローからすすりながら、ともに歩く。
「普段はジーパンとかも多いんですけど。どっちのほうが好きってこともとくになくて。単純に、今日の気分で来ちゃいました」
強いて言うなら、洋服そのものは、ファッションは好きだ。あまりたくさん、買うほうではないけれど。ずっと昔、子どものころ。それをデザインする将来の自分を夢見たくらいには、衣類を、洋服の多様さを眺め、見つめるのは好きだった。
考えたり、描いたり。そんな瞬間は、時間のたつのを忘れた。そういう幼少時代があった──。
「うん、似合ってる。きれいで、かっこよくて。それで、かわいい」
「かわいいかどうかは、……どうでしょうね?」
「かわいいよ。年上の言うことを信じなさい」
「はあ」
曖昧に、不知火は返す。
ひょっとしたら先輩は、不知火に男役のような立ち位置を求めていたのではないか。だとしたら期待を裏切ってしまったことになる。いまのところは彼女の反応を見る限り、どちらともつかないけれど。
褒められていることを、素直に受け取るべきなのだろう。
「お兄さんもいたんだ。妹さんって、ときどき一緒に帰ってるあの子? 年子なんだ。あんまり似てないね」
「ああ、ゆきとは、血が繋がってませんから」
「え?」
「兄の、奥さんの妹なんです。だから血縁上は義妹ってことになりますね」
簡単に、説明したつもりだった。
しかし先輩は隣を歩きながらしばし、目をぱちくりさせて。
きっと、たった今不知火が言った言葉の意味を脳裏で反芻して理解につとめているのだと思う。
「お兄さんの……って、そう。四人で暮らしてるんだ。なんか、双方複雑な家庭環境だったりする?」
「言ったほうがいいです?」
「──ううん。言いたかったらでいいよ」
ごめんね、踏み込んだこと訊いて。そう言ってタピオカをすすり、言葉を切る星架先輩。
急には、あまり訊くべきでないことを訊いた、みたいに気を遣わせてしまっただろうか。……させてしまったんだろうな、きっと。
だから、言っていいように思えた。
気を遣ってくれた相手だから。自分を好きだと言ってくれた人だから。きちんと、告げるべきなのだろう、と。
「兄さんも、ゆきのお姉さんももうこの世にはいません」
「──え」
目の前のスクランブル交差点は、赤だった。
立ち止まると同時、人の波に紛れながら伝える。
好意を示してくれた、先輩へ。
自分の喪ったものと、今、一番大切なものを。
「この音符の髪飾り。兄の形見なんです。四人で暮らすはずだった──でも、今はふたりきり」
たったふたりでの、ふたりだけの家族。
不知火にとってなにより一番、それはかけがえのないものだ。
「このヴァイオリンは、ゆきからの贈り物なんです。今の私の、一番のたからもの。たったひとりの、大切な家族。それが妹なんです」
ああ。この人も、思うのだろうか。
自分は、思わせてしまうのだろうか?
雑踏の中、伝えたこと。雑然とした周囲の環境音に満ちた晴天の下、それでも紛れてかき消えてしまわないよう、たしかな声で発した言葉を、彼女はどう受け取っただろう?
どうしてそんなに重い事実を、そんなに平然と、なんでもないことのように告げるのだろう、って。
彼女にも、思わせてしまっただろうか?
* * *
これはデート、なのだろう。そう言って誘われたのだから、そこは間違ってはいない。
しかし正直、気詰まりな空気が続いている。……少なくとも、詩亜はそう感じて、戸惑っている。
困っている、といってもいいかもしれない。
「ごめん」
「──え?」
映画館の、上映前。シネマ・コンプレックスの入場が始まるには僅かばかりの時間を残した、その頃合いだった。
入場口前にいくつか置かれた、待合いのソファにふたり腰を下ろして、続いていた沈黙。それを不意に破ったのは、今日という日を誘った側の彼女だった。
「こないだもそうだったけど。なにもかも、唐突で。ごめんね。……ぼくも、いろいろと頭がいっぱいで」
このとき詩亜ははじめてこの先輩が、自分自身のことを一人称として「ぼく」と呼ぶのだと知った。
南風先輩。ほどよくダメージの入ったジーパンに、革ジャンと、ボーイッシュなそのショートヘアの外見によく似合ったラフな格好で、彼女は今ここにいる。
あの日、真沢先輩に告白をされた不知火と同じく、彼女から告白を受けるまで。詩亜はこの先輩のことを、おぼろげにしか認識をしていなかった。
言葉を交わした、はじめてのあのときから。いくぶん、彼女の人となりを、知っていそうな事情通のクラスメートや、……それこそ真沢先輩に訊いたりもした。
南風、真波。その身長は殆ど、雪羽と同じくらいで。
ショートヘアの髪型が、細い目をした中性的な顔立ちによく似合っていて、下級生の女子たちからの人気も高い。部活はテニス部──真沢先輩とは、幼なじみの関係にあるらしかった。
「誰かに告白するなんて、はじめてだったから」
「──そう、なんですか?」
ある意味、不知火に似てるかな。真沢先輩はそう言った。
立ち位置が、中性的であるところとか。
でもほんとうは純朴で、男らしいというよりむしろ、大人しいところとか。
こうして間近に接しているとわかる。たしかに、詩亜の親友と似通っていると思える部分は、ある。
殆ど話したこともない。
なにを彼女と話したらいいかもわからない。それゆえの気詰まりさは、先輩が口を開くまで確かにあった。
けれどぎこちなく始まったこの会話はけっして、不快でももどかしくもなくて。
ただ、素朴さと真摯さが雰囲気から伝わってくる。
そういうところ、不知火と似ていると思う。
売店で買ったポップコーンは今、彼女が両膝の上に抱えてくれている。
手をつけるわけでもなく、ただ一緒に買ったカップのドリンクを、そのウーロン茶をひと口ストローから吸って、先輩は乾いていたであろう喉を軽く、潤して。
「今日のデートも、唐突でごめん。……女の子同士で「好きです」なんて、それこそいきなり言われて、困っちゃったよね」
ただ違うところがあるとするなら、どこかこの先輩は臆病であるように思えた。
ここはこうだ、これはこうだ、という風に思考を自己完結させがちに見える。それはもちろん不知火についても思えることだけれど、彼女は結論としてそういうところに落ち着くことが多い。しかし一方この先輩は、防波堤のようにまず築き上げるタイプのように、詩亜からは感じられた。
人見知りだけど人なつっこい不知火に比較すると、人見知りで、臆病で。だから周囲からはクールでボーイッシュ、そう思われる類の性質なのだろう。もちろん悪い意味でもなんでもなく、単純にそういった性分として。
不器用で。臆病だから──真沢先輩と一緒でなくてはきっと、告白も、デートの待ち合わせも。できなかった。
「あの。なんで、わたしなんでしょう」
だから詩亜も、意地悪としてその質問を返したわけではない。
きちんと接して、まだほんの数十分足らず。それでも詩亜はこの先輩の人となりを、嫌いになれないものだと既に思い始めている。
女同士だから、などというのはとくに大きな要素ではないとも思っている。
なにぶん生まれも、家族の構成や育ちも特殊を認識する詩亜である。誰が誰を好きになるかも、多様性のひとつでしかないと認識しているから。今どきそんな括りにこだわるものでも、ないだろう。
「……ごめん。わからないんだ」
「えっ?」
それでも、その返答のはじめのひと言には、思わず目を丸くした。
わからない、って。じゃあ、なんで。
驚いて、南風先輩を見つめる。直後その驚愕と困惑は、ほかならぬ先輩自身の言葉によって氷解していく。
「ちょくちょく、星架と話してる姿を見てはいた。星架から、どんな子かとか、聞いてはいたんだ」
きれいな、小柄な子だな、って思ってた。
ずっと、気になってた。
「ひとめ惚れじゃあ、なかったと思う。芹川さんのこと、ずっと見ていたから。気になっていたのが、だんだん大きくなっていったから」
映画館のスタッフが、入場口のチェーンを外して受け付けに立つ。
入場、開始します。呼ばれたスクリーン番号は、時間通り。詩亜たちのチケットに記載されたもので。
「理由なんか、高尚なものはなにもないんだ。ただ、ぼくは。あなたのことを、好きになってしまった」
立ち上がりながら、先輩は詩亜へと告げる。
胸を押さえて。その鼓動をきっと、どくん、どくんと脈打つその早鐘を自覚しながらに。
心に渦巻く気恥ずかしさと緊張とで真っ赤に上気していることがひと目でわかる、彼女にとって精一杯になってしまっているその精神状態の中、必死の言葉で詩亜へと伝えてくれるのだ。
「好きに、なっていたんだ」
(つづく)




