第二十八話 私たちは、恋に悩む
第二十八話 私たちは、恋に悩む
今朝干した洗濯物を取り込もうと、ベランダに出ていた。
丸一日、からりと晴れ渡っていた天気の良い日の夕方である。シャツも、下着も。ブラウスも。どれもきちんと、日中照りつけていた太陽のあたたかい光をたっぷりと浴びて乾いている。
うん、大丈夫だね。思いながら、ハンガーを手にとり、また畳むべきものを洗濯かごの中に手際よく、放り込んでいく。
「──ん?」
雪羽は、夕飯の支度をしている。そんな時間帯だ。
その中でふと背中の向こう、家の中から漂ってくる匂いに、不知火は気付く。
鼻をつく、それは。
香ばしいという好意的表現をとっくに通り越して──もはや焦げ臭い。
「ゆき?」
振り返ると、室内を微かに漂う紫色の煙。
キッチンから。そこに立つ妹の傍らから。
妹は異変に気付くこともなく、ぼんやりと大根のかつら剥きに、手元をただ動かしていて。
慌てて、サンダルを脱いで、ばたばたとキッチンに駆けていく。
「ゆき、鍋。鍋!」
「……え?」
その泡を食った不知火の様子にすら、雪羽は即座には反応できずに。
「あっ」
キッチンの、暖簾をまくって発した声を受けてようやく、彼女は我に返る。
「痛っ! ……ご、ごめんっ」
そして焦げつく鍋に意識を向けて、結果手許が疎かになる。さくり、と大根を支えるその指先に、ほんの僅か、包丁の刃を食いこませてしまう。
そうして切ってしまった指先の負傷を咥えつつ、慌ててコンロの火を止める。
幸いにして、鍋の中身は下ごしらえの調味料たちだけ。料理のメインになる肉から、野菜から。それらすべてが一度に失われるというケースにはならずに、済んだようだった。
「ゆき、大丈夫?」
「うー……ごめん。気付いてくれて、助かった」
洗濯もの、取り込んでくる前でよかったね。しまい込んでいたら、焦げ臭い匂い、せっかく洗ったものについちゃうところだった。
「ごめんなさい」
指先の傷を吸いながら、包丁を置いた妹は不知火へとぺこりと頭を下げる。
絆創膏、絆創膏。居間の小棚から引っ張り出してきたそれを、不知火は彼女の傷口に巻いてやる。
薄いベージュの色の、パッドの部分にじんわりと、赤黒い染みが広がっていく。
「大丈夫? けっこう、深い?」
「えと、うん。大丈夫だと思う。じきに血、止まると思うよ」
「そっか。ならよかった」
妹の言葉に安堵して、不知火はほっと息を吐く。
それにしても、ゆきが料理を失敗するなんて、珍しいこともあるものだ──。
「どうしたの、さっきからぼうっとして。なんか、らしくないね」
鍋焦がすのも。
指先を包丁でうっかり切っちゃうなんてことも。料理でそんな失敗をする雪羽を、不知火ははじめて今日、見たように思う。
「あの、ちょっと考えごと。どうにも、考えちゃって」
「なにを?」
「──うん、ちょっと」
妹の返事は歯切れが悪かった。
なんだか気まずそうに。言いにくそうに、目線を逸らす。そんな妹の姿に、重なるものを不知火はふと思い出す。
もうひとり。こんな感じでうわの空になっている子がいたっけ。
「……なんか詩亜も、今日は一日そんな風にぼんやりだったなぁ」
「え」
尤も。あの子の場合は、あの子自身の問題があるんだろうけれど。
なにしろ同じ時間、同じ場所で。同じふたりの告白を聴いたのはほかならぬ、不知火だったのだ。
容易に彼女の悩みにも想像がつく。そりゃあ困るし、悩むと思う。
「で。ゆきは何を悩んでるの?」
「え。……うー」
「まさか、だけど。私が告白されたって言ったこと、気にしてる?」
その不知火から見て。今の雪羽の様相は、詩亜のそれとよく似ていた。
訊けば、そのリアクションが予想を確信へとひと足進めさせる。図星です、とその態度が言っている。
妹の様子を見て、溜め息ひとつ。
なんできみが、そうなるかなぁ。
「告白されたのは私でしょ。ゆきにはなんにも影響ないでしょ」
「それは」
「私が思い悩むとかならともかく。ゆきには関係ないじゃん」
「お姉ちゃんが平然としすぎなの! ……それに、関係なくなんかないし」
「なんでさ」
ぷい、とそっぽを向いて、雪羽は口を尖らせる。
言いにくそうに、そして少し怒ったように、やがてぽつりと彼女は呟く。
「……だって。お姉ちゃんが誰かのものになるかも、しれないんじゃん」
* * *
「告白されたのは、ゆきじゃないんだけどなぁ」
不知火がそうぼやくと、向かいに座る詩亜は一瞬、目を瞬かせて。やがてまじまじと、こちらを見つめてくる。
「……それ、本気で言ってます?」
「え?」
「しーちゃんはときどき、ものすごく鈍感になりますよね」
鈍感、って。そうだろうか?
「そうですよ。将来のこと考えたり、雪羽ちゃんとの今後のこと、悩んだり。そういうところは気遣いをしすぎるくらいにする性分なのに」
「そうかなぁ」
「気を遣うくせに、鈍感です」
アイスの、抹茶ラテをストローからすする。
休日の、セルフサービスのカフェにて。不知火へと呆れたような溜め息を吐く詩亜はオフショルダーのワンピースに、薄手のストールを肩から羽織っている。
彼女の前にあるトレーには、小さなフルーツタルトと、オレンジを浮かべたアイスティのケーキセット。
告白されたふたり、誘い合わせてここにいる。
お茶をしながら、不意にふたり同時、訪れた先日の事態について語らっている。
「それで? 詩亜はどうするの?」
「どうって……まだ、わかりませんよ」
はじめてのことなんですから。
フォークの縁でタルトを割って、詩亜は俯く。その頬がほんのり紅いのは、外気のせいではなく、話題が話題だからなのだろう。
「しーちゃんほど、こういうことに慣れてないです」
「いや、私だってそんなに」
「嘘。前にも言ってたじゃないですか。中学時代にも何度か告白されたって」
はい。言った覚え、あります。
たしかゆきにも、言ったっけ。
「全部、断ったんですよね。どうするんですか、今回は」
モテモテさんは、羨ましいです。
詩亜が、珍しくジト目をこちらに向けている。
小さく切ったタルトを、フォークの先に刺してぱくり。
可愛らしい、小ぶりな唇がもぐもぐと、動いているのを不知火は眺める。
「断るよ、もちろん。先輩には悪いけど」
そうしながら発した言葉は、告白を受けたその日に既に、心のうちで決まっていたものだった。
詩亜の反応は、「やっぱり」というか、「なんでまた」というか。そんな色合いが入り混じった、眉根をひそめた表情で。
「その結論って、きっと先輩自身に対するしーちゃんの評価とはまったく無関係に言ってますよね? なんなら、告白される前から既にしーちゃんの中で決まりきっていた、凝り固まっていた、というか」
「そんなことはないさ。これでもあの日、あの夜はわりと悩んだし、考えたよ。先輩にはお世話になってるし、先輩のことは別に嫌いでもなんでもないし。むしろ好きだし」
「……でも、先輩の魅力うんぬん、以前の問題なんですね」
顰めた詩亜の表情は、少し厳しさを増している。
不知火自身、自分の結論と、そこに至るまでの道筋と。発している言葉とが持っている性質を理解しているから、そういう反応にもなるだろうな、と思う。
先輩からの告白に対して。
不知火の出した答えには、先輩という要素が希薄なのはわかっている。
「ひどいな、って思う?」
自分自身、そう思っている。
せっかく気持ちを伝えてくれた相手に。その相手を中心にフォーカスするのではなく、見渡して。結論を出すなんて。
冷静で、飄々とできてしまっているのも自覚がある。
ひどいやつだと思う。
ここ数日、部活の間もうわの空で、ぼんやりとしたミスのいつになく多かった詩亜とは、大違いだ。
彼女は相手のことをひたすらに考えて、真剣に悩んで。相手に対して自分がどうなのかをつきつめて思案している。身近な、部活の先輩からの告白だった不知火よりよほど希薄な関係性の、ほぼ初対面と言っていい相手からの好意だったにも関わらず──……。
「でも今は、正直。ゆきと過ごす今の、この生活のほうが大事なんだ」
たったひとりの、家族のこと。
かけがえのない、妹。彼女と暮らす生活が、不知火の心の中心にはある。彼女と、自分とが大切に思う人々。手の届く範囲にある、今かけがえなく思うものを、まずは大事にしていたい。そう思うのだ。
先輩には部活で、世話になっている。感謝しているし、少なからず好意を持っていないわけではない。いい人だと、思う。
だけど自分の優先順位は、真沢先輩にはない。
「それに私の場合は、私の眼のこともあるしね。真沢先輩でなかったとしても、おいそれと、誰かと付き合うってことは今は、考えられない、かな」
自分自身の問題を抱えて。
ゆきにも、支えてもらっている中で。
先輩のことにまでかまっていられるほど、自分の器量は大きく懐広くは発達しきれてはいない、と思うのだ。
「だから先輩に限らず、──誰かと付き合うっていうのは今は、考えられないと思うんだ」
「そう、ですか」
納得してくれたのか、頷く詩亜の表情はどこか寂しげで、またこちらのことを案じてくれているようで。
「ほら。そんな顔、しないでよ。……今は詩亜は、詩亜自身のことを考えてなきゃ。でしょ?」
「……はい」
詩亜の、小さな唇の隅に、タルトの生地の破片がくっついて残っている。
不知火は自身の口許をつついて、彼女にそのことを示す。──詩亜はきょとんとして、伝わらなくて。
「仕方ないなぁ」
せっかく、モテてるんだから。身だしなみはしっかりしなくちゃ。
苦笑とともに指先を、彼女の顔へ向かい伸ばしていく。
そっと、破片を不知火は摘み上げて。
自分の唇へと運ぶ。ほんの小さなかけらだけれど、歯ざわりがさくりと音を立てて、香ばしいバターの風味を鼻に感じた。
「……そういうところですよ、しーちゃん」
一瞬、びっくりしたような表情ののち、詩亜は言う。
「なにが?」
「とにかく。もう少し、真沢先輩のこと、考えてあげていいんじゃないですか」
モテモテさん、って。
死語じみた言い回しで、不知火のことを表現して、呆れたように笑うのだ。
* * *
どう、しよう。
盗み聞きなんて、ほんとうは、するつもりはなかった。
だからこそなおのこと、彩夜としてはたった今耳にしてしまったやりとりを、持て余す。
「どうしましょう、……ユウくん」
欲しかったジーンズを買いに出た、その帰り道だった。
たまにはいいかと、セルフサービスのカフェに寄って。──なにしろ自分でそれなり以上に満足のできるコーヒーを淹れられる、彩夜である。チェーンのコーヒー屋さんなんて、ごくまれにしか行かない。
チョコチップのスコーンがおいしそうで、カフェオレと一緒に注文をして。
小柄な彩夜自身がすっぽりと隠れるくらいの、大きなゆったりとしたソファ席の背もたれに身を沈めてくつろいでいると、不意に聞き覚えのある声がふたつ、背中の更に向こう側で、なにやらやりとりを始めたのである。
それが不知火と、詩亜であることは彩夜にはすぐにわかった。
背もたれから顔をひょっこり出して、声をかけようかとも思った。
けれど彩夜がその意志を固めるより先に聴こえてきた、ふたりが交わす会話の内容はなんだか、横から入って行きづらくって。
不知火ちゃんが。
詩亜ちゃんが。
それぞれに、どこかのだれかから、告白をされた。
彼女らふたりはそのことについて議論している。主に、──とくに不知火は否定的に──困りながら。
ゆきとの生活のほうが大事、と彼女は言っていた。
男女にかかわらず、相手が誰であるにせよ。特定のだれかと恋愛をするつもりはない。付き合う気はないとも、また。
親友のそんな発言と意志とを知ってしまうと、そういう主義である彼女に対し片想いの好意を秘めた弟を持つ身としては、そりゃあ途中からその会話に交じって行きにくくもなろうというものだ。
だって、誰もが互いを嫌っているわけでもないにもかかわらず。
不知火ちゃんは、ユウくんのことを見ていなくって。
雪羽ちゃんだけを、見ていて。
ユウくんにとっては雪羽ちゃんだって、姉のようなもので。けっして嫌いなんかじゃない。むしろ付き合いの長い、仲のいい相手なのに。
なぜだかふたりは恋敵のようなものになってしまっている。
そして更に、そこには不知火ちゃんに告白をした、どこぞの先輩さんまで加わってくる──ああ、なんてややこしい人間関係なんだろう。
半分ほどの大きさに割ったスコーンを見遣りながら、彩夜は頭を抱える。
どうしよう。彩夜は、どうするのが正解なんだろう。
「じゃ、行こうか」
椅子を引く音とともに、ふたりぶんの気配が背後から遠ざかっていく。
すぐそこで盗み聞きをしていたのがばれやしないかと、彩夜はひやひやしながら、小さなその身体をより一層縮こまらせた。
ユウくんのために、お姉ちゃんとしてわたしができること。
バンドのことも、彼の恋愛のことも。
ようやく彩夜が顔を上げて振り返ったとき、店内にはもはや不知火も、詩亜もその姿を影もかたちも残してはいなかった。
そうしてようやく、彩夜はひと息を吐いて、解放感に満たされつつ、カフェオレをすすることができたのだった。
* * *
そして、月曜の朝だった。
「あ」
「あら」
部活の、朝練。
いつもより早く目が覚めたから、いつもより多少、早く出てきたつもりだった。
けれど彼女はひと足先に、既に更衣室にいた。
「真沢先輩」
不知火が、おはようございます、と小さく会釈をする相手。はい、おはよう。そう返してくる先輩。
数日前に、不知火へと告白をしてきた人が、そこにいる。
水着に着替える真っ最中に、ブラウスをはだけて。
スカートと下着だけになって、こちらを振り向いている。
早い時間だから、部室にはふたりだけ。
プールにもまだ、誰も出てはいない。ふたりきりの空間が、今ここにはある。
その接触は唐突で、不知火自身心の準備ができていなくって。そこから発する言葉と、次の行動とに逡巡する。
「──あの。先輩」
あちらのほうが年上だけれど、身長は不知火のほうがずっと高い。
見下ろすことになる相手へと、意を決して不知火は言葉をかける。
「このあいだの、ことなんですけど」
「ああ、はい。なに?」
「私。考えたんです、いろいろと。真沢先輩のこと──、」
「星架」
「え?」
「名前。下の名前で呼んでほしいなぁ。星架、って。べつに、先輩はそのままでいいから」
自分の意志を、はっきりと伝えるつもりだった。
誰とも、付き合うつもりはないこと。
先輩のことはいつもお世話になっているし、感謝もしている。好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きな人物、好感を持っていることも。
けれど、……どうやら相手のほうが、一枚上手だった。
緊張気味に発した不知火の声をいなすように、微笑みながらそんなことを言って、名前で呼ぶよう促して。
不知火の意志からは距離を置きながら、しかし自らの間合いで精神上の距離をつめてくる。
「……星架、先輩」
こういうのが、たった一年ながらも存在する、重ねた年輪の差というやつなのだろうか。
ほんの二か月ほどの差でしかなくとも、不知火自身が雪羽に対して姉をやれているように──埋まることのない。
「その感じだと、答え、出してくれたのね」
「──はい」
「……なんか、聞かなくてもわかっちゃうな。……そう、ありがと」
スカートのホックをはずしながら、苦笑気味の笑顔を見せる先輩。重力に従って、着衣がすとんと落ちる寸前で、彼女の指先はふと手を止めて。
「あの、星架先輩。私は」
「ね、駒江ちゃん。私も下の名前で呼んでいい? ──それと、デートしない?」
「……は?」
先輩の態度で、彼女がこちらの結論を察してくれたのだと思った。
だから、それと半ば反するかのようなその言葉に、不知火は戸惑う。
名前。べつにそれはかまわない。
けど、デート、って。
「現時点では、脈がないんだなってわかった。でも、それですんなり諦めるほどものわかりが私、よくないの。現時点での答えなら、追い追い変えていけるんじゃないか、ってね」
先輩は着替えを続けつつ、不知火に背中を見せる。その向こうから言葉を投げかける。
「不知火だって、今までの人生で終始一貫して同じ気持ちだけで、まったく変わることなく走ってきたわけじゃ、ないでしょう?」
先輩の、その指摘は間違いのないことだった。
「だから、見て。感じ取ってよ。改めて評価をして。先輩としての私じゃなくって。あなたに告白した、私を」
だから次の日曜、デートしよう。
言葉にすれば一方的にも思えるその要求をしかし、不知火は跳ね除けることができなかった。
おそらくは彼女に対して出した結論について、すまなさを感じていたからということもある。
だけれどそれ以上に、なぜか。
星架先輩の求めたその提案が、なんだかとても正当なことのように、不知火は心の深いところでは感じられていた。
──幸いにして、その日の予定はまだ、なにも埋まってはいなかった。
(つづく)




