第二十七話 新学期が、はじまって
(2020年9月29日追記:杏様(@x_Anzu_ill)に、第二部のイメージイラストを再び描いていただきました。杏様、ありがとうございました。)
第二十七話 新学期が、はじまって
新学期早々だってのに、キミはいったいなにをしてるのかね。
──不意にそうやって聴こえてきたのは、呆れたような苦笑のトーンで発せられた、歌奈の声だった。
なにって。寝たいんだっての。
「……眠いの。寝てない、眠いんだってば」
対応するというそれすら億劫に思いつつ、突っ伏していた机から、雪羽は頭を持ち上げる。
始業式、すごく眠かった。というか、半ば以上寝てた。
うつらうつら、舟を漕ぐたびに、後ろにいた彩夜が背中をつんつんして起こしてくれなかったら、立ったまま爆睡していたと思う。
で、教室に戻ってきて。ホームルーム中もどうにかしのぎきって。
席替えをしたばかりの窓際の新しい席に、うつ伏せに沈没していたわけである。
そこを、起こされた。
顔を上げたそこには、苦笑気味の歌奈と、彩夜とが突っ立っていた。
「なになに、夜更かし? 夏休み気分抜け切れてないの?」
「いや、そういうわけじゃ……ただ、お姉ちゃんが」
「不知火ちゃんが?」
「お姉ちゃんが──その、寝かせてくれなくて」
「……はい?」
「お姉ちゃんてば、強引でさ」
呟くように発した言葉に、ふたりが顔を見合わせる。
戸惑いがちに、持て余すように。
え、なに。なんか変なこと、言った? 寝ぼけ眼を瞬かせて、ふたりのその反応を怪訝に思う。
「や、ほら。……ね?」
「はい。寝かせてくれなかった、……って」
「え」
そんな、血が繋がってないとはいえ。
「姉妹同士で夜通し乳繰り合ったのろけ自慢、……されても、ね?」
お盛んですね、としか。
気まずげに、歌奈は眼を逸らし、頬を掻く。
そこまで言われて、自分の発した言い回しに、雪羽も気付く。
「あ」
違う。──違う、そうじゃなくて。
がばりと身を起こして、大げさに首を振る。
「じゃ、なくって。宿題終わるまで寝かせてもらえなかったってこと! 朝までかけて全部終わらせたから、寝てないんだって!」
身振り手振りで伝える。
歌奈と彩夜は再び顔見合わせて、ふっと笑って。
それもそうだね、と頷く。
「ま、たしかに。あんたたちふたりにそんな度胸ないか」
「え、なにその納得の仕方」
「別に。ね、彩夜」
「はい。──ちょっと、びっくりしましたけど」
そんな、親友たちの反応。
大丈夫ですよ、わかってますよ。彩夜がそう言って、ひとまず雪羽も納得をすることにする。
「っていうか、今年もやっぱり宿題終わってなかったんですね」
「う。……うん」
「あ、そーなん? 毎度のことなんだ」
「はい。だいたい、夏休みの終わりが近づくと困ってますね。助けてー、って連絡がきたことも何度か」
やめて。
彩夜、やめて。九分九厘偽りなくまったくもってそのとおりだけど、あんまり暴露するのは、頼むからやめて。
「そーいう歌奈はどうなのさぁ」
けっこう、大雑把なイメージがあるけど。
宿題、終わったの?
「アタシ? アタシはそーいうの、終わらせてからしか遊ばないもん。そんなの、長崎行く前にとっとと全部終わらせたわ」
「う」
そーでした。ざっくりしているように見えて、歌奈は歌奈で、勉強のできる利発的なお子さんでした。
「なんだよー。アホの子はあたしだけかよー」
「アホっていうか無精もんなだけでしょーが」
再び突っ伏して、呻くように嘆く雪羽。
拗ねるな、拗ねるな。歌奈が、ぽんぽん、とその後頭部を軽く叩く。
「でも終わったんでしょ? 不知火のおかげで」
「そりゃ、まあ。全部ひと晩で」
「一切手つかずだったんかい」
「最後まで、付き合ってくれて。状況が状況だから、教え方はけっこうスパルタだったけど……わかりやすかったよ」
そして持ち上げた顎を支えるように、雪羽は机上に頬杖をつく。
自分は全部、宿題終わってるのに。
ひとつひとつ最初から、教えてくれた。
期末試験の勉強のときもそうだったけれど、姉は教えるのが上手いのだと思う。
そう、呟く。
雪羽の見せたその表情と、言葉とを受けた友人たちは、笑う。屈託なく、可笑しそうに。
なーんだ。結局いちゃいちゃしてたんじゃん。
歌奈がそう言って、雪羽の背中をぱしぱしやった。
──そういう雰囲気じゃあ、なかったんだけどなぁ。
* * *
ああ。眠い、な。さすがに徹夜は、堪える。
徹夜の眠気がそうさせた欠伸を噛み殺していると、席を立ってこちらに歩み寄ろうとしていた詩亜と目線が合った。
彼女はふっと、口許を綻ばせて。微笑みながら、不知火の席までやってくる。
「なんだか、珍しいですね。しーちゃんがそんな眠そうにしてるの」
「あー……うん、そう、かな」
正直、始業式の儀礼的な退屈さは寝不足の身にはなかなか耐え難いものがあった。何度か、寝そうになった。
たぶん、雪羽も同じだったろう。あるいはきっと、彼女のことだからおもいきり居眠りしていたかもしれないけれど。
「寝てなくて。朝まで、ゆきの宿題手伝ってたから」
解いてあげたわけじゃなくて。あくまで教えていただけ。──ね。
いつものポニーテールにかっちりまとめるのも面倒で、長い黒髪も、ゆるくうなじのところでひとつ結びにして、肩から垂らしている。リボンも手首に巻いて持ってきてはいるけれど、このままでいいや、と思う。
とにかく。眠い。
「雪羽ちゃん、そんなに残ってたんですか。宿題」
「そんなに、っていうか。まったく。手付かずだったんじゃないかな? さすがにびっくりしたよ」
ふあ、と、欠伸をひとつ。いよいよ、噛み殺しきれなかった。
部活が休みでよかった──明日は新学期の、休み明けの実力テストだから。こういうところは学業優先の進学校としてのルールが優先される校風で、助かったと思う。
──と。
「うん?」
クラスメートのひとりが、教室の扉のところから不知火を呼んだ。ぼんやりそちらを見れば、彼女とともにひとり、……リボンタイの色で先輩とわかる人物がそこに立っている。
柔らかな髪を、バレッタでハーフアップにまとめたその人は、顔見知りの女の先輩。
不知火にとっても、詩亜にとっても。同じ部活の、二年生だ。
「真沢先輩?」
水泳部二年、真沢 星架──まさわ、せいか。部内では、ふたりの教育係のような立場の人だった。
その人が、小さく手を振って微笑みながら、ふたりを待っている。
やっほー、駒江ちゃん、芹川ちゃん。ちょっと、いいかな。
そう言って、ふたりを手招きしていた。
* * *
耐え難いくらいの眠気に対して幸いにして、今日はバイトのシフトは入れていなかった。
と、いうより、白鷺のおじさんが意図的に外してくれていた、といったほうが正しい。
幼い頃から親代わりであった人物である、雪羽の学力はよく知っている。
実力テストがあるんだからコーヒー淹れてる暇があったら勉強しろ、ということなのだろう。
「──ゆき?」
しかしそんなおじさんの配慮に反して、……どうやら帰ってくるなり、自分は爆睡をしていたらしかった。
「ん……お姉ちゃん……?」
「ほら、そんな恰好で寝て。制服、シワになるよ」
風邪ひいても、知らないよ。
遅れて帰ってきた姉に肩をゆすられ、揺り起こされるまで。
ソファに飛び込んでそのまま、眠っていたようだ。
制服も脱がず、着替えもせず。
「──あ」
ハッとすると同時、身を起こす。おもいっきり、右側の髪に寝ぐせ。
外はもう薄暗い。時計を見れば、──というか、お姉ちゃんがもう帰ってきてるということは。
「ごめんっ! 家事もご飯の準備も、なんもやってない!」
「だろうね、すごく気持ちよさそうに寝てたし」
鞄を置いて、可笑しそうに相好を崩す不知火。背中越しに僅かに曲げた首から、僅かその微笑みの表情が見え隠れする。
「さっき、帰ってきたところ?」
「うん。ちょっと、詩亜と。部活の先輩に呼び出されて」
「そっか、わかった」
すぐ、ご飯つくるね。キッチンに入っていきながら、壁掛けからエプロンをとる。
「──あれ? でも今日、部活ないって言ってたよね? ミーティングかなにか? ……はオッケーなの? そういうのもダメなんじゃ?」
と、なにげなく思ったことを口にする。
部活は今日は禁止のはず。同じクラスの子たちも、とくに集まりなどせず、まっすぐ帰っていたはずだから。
「いや、部活は関係ない。先輩の用件自体はすぐに終わったよ」
「?」
「用件、自体はね」
──そのわりに、帰り遅かったんだね。
これまた素朴に、訊ねる。とくになにか、他意があったわけでもなく。
なのにぴくりと、姉はその動作を止める。
首を傾げつつその様子を見ていると、部屋を見渡すように目を逸らして、少し言葉を姉は迷って。
「ちょっと、詩亜とふたりで考え込んでて、さ」
「なにを?」
「呼び出してくれたのは先輩だったんだけど。ついていったら、もうひとり先輩がいてさ」
部活の先輩の、クラスメート。
そこで、姉は言葉を躊躇した。言おうか、どうしようか──迷っているのだろうその頬は、何故だか紅かった。
一度目を伏せて、肚をくくるか、といった風に深い吐息をひとつ。
「告白、された。ふたりから」
どうしたものか、答えの出ていないもどかしさを示すように、髪をかきあげて、後頭部を掻きながら。姉にしては冴えない表情で、そう告げる。
「へ?」
「私は、先輩に。詩亜は、そのクラスメートだっていう人に」
好きだ、って。
よかったら付き合わないか、って。
「え。その先輩たちって」
「うん。ふたりとも、女性。女の子だよ」
今日日、そんな珍しいことじゃないのかもしれないけど。
そういう、告白があった。
「どうしようか。……どうしたらいいと思う、ゆき?」
* * *
普段から、こつこつ勉強を積み上げていくスタンスの、彩夜である。
だから始業式のあと家に帰ってからも、とくに集中して、特別熱心に試験勉強をしていたわけではなかった。
さすがに店には出ないにしろ、いつものように肩ひじ張らず、いつも通りの勉強をしていただけ。
小説を書くのも、今夜はお休みだ。
「それで、ボーカルの子がいなくなっちゃったんですか?」
だから弟が部屋にやってきても、別に世間話をしていてすぐに影響があるほど切羽詰まっていない。
いや、世間話というのは些か彼に対して失礼か。
夕矢が姉の部屋の扉を叩いたのは、相談事があってのことだったのだから。
「そ。勉強しろって親に禁止されたって。そんで、誰か知り合いにやってくれる人いないかみんなで当たってるんだけど」
それは中三の彼が組んでいるバンドのこと。
メンバーの離脱と、その補充メンバーを探している。勉強中の姉に彼は、それらについて語っていて。
「文化祭のステージまであとひと月ちょっとくらいしかないしさ。この際高校生でも──姉ちゃん、誰か歌うまい人の心当たり、ない?」
「歌の、うまい……。うーん」
「あと、ステージ映えしそうな外見の人。俺たちに埋もれないくらい」
「ユウくんたち大きいから……。つまり彩夜は完全に問題外なわけですね」
歌。彩夜は別に苦手ではないけれど、特別上手いわけでもない。ごくごく普通だから、まずそこから違う。
そしてステージ映え。はい。自分の身長のなさは嫌というほどわかっていますとも。弟と、そのバンドメンバーたちの背丈と比べて、ステージ上で埋もれないわけがない。
上背があって、それでいて歌も上手い。できたら女性。そんな都合のいい人材なんて。
「……いないわけじゃ、ないですけど」
「え」
マジで。弟が言う。
はい、マジです。姉も返す。
いることには、いる。
「はい。ただ、ちょっと」
ちょっと、問題が。
歌が上手いということは、ついこの間、九州から帰ってきてから知った。
夏休みの最後の思い出に、と。みんなでカラオケに行って、そして。
「──不知火ちゃん」
カラオケははじめてだという彼女の歌声に、皆びっくりしていた。もちろん彩夜も、家族である雪羽でさえ。
彼女なら身長もあるし、そうして歌声も保証済みだ。
だけど、彼女に声をかけるというのは──、
「不知火ちゃん、歌上手ですよ。でもユウくん、大丈夫ですか?」
我が弟には。……ひと目惚れで片想いの恋をしている真っ盛りの彼には、その相手をバンドメンバーに誘うという行為はなかなかにハードルの高いものではないだろうか。
「不知火ちゃんに声、かけられますか?」
なにしろ時折顔を合わせるのでさえ、肝心の不知火から、あるいは周囲から、彼が彼女を嫌っている、苦手に思っていると勘違いされるほどに一歩踏み出せずにいるのだから。
そういうところが、背は高く成長してもまだまだ子どもなんだなぁ、とかわいく思えるのだけれど。
お姉ちゃんとしてはユウくんが純朴な少年でいてくれて、大変微笑ましくって、嬉しいし。
「ユウくんが平気なら、彩夜から不知火ちゃんに相談してみますけど?」
でも、この場合はそういう煮え切らなさ、幼さが邪魔をするのだろうな、と思った。
案の定、彼は不知火の名を告げられて、呆然と立ち尽くしていた。
少し、考えさせて。そう言って部屋を出ていくまでには更に、もう数分の時間を彼は、必要とした。
その一部始終を、彩夜は勉強の手を止めて、眺めたのだった。
* * *
とりあえず、混乱をしていた。
自分が混乱しているのだという自覚は、あった。
熱いシャワーの雨に打たれながら、頬の火照りが、バスルームに満ちた湯気の熱気だけを原因としたものでないことを、既に理解している。
ねーさん、バスタオル置いとくね。──妹の、歌奈の声に蛇腹の引き戸の摺りガラス越しに頷いて。
詩亜は自らの頬を、その熱さをそっと撫でる。
「はじめて、──です」
そう。こんなの、はじめてだ。
身近な人たちへの「好き」は、詩亜からの、また詩亜へと向けてもらえた親愛としての情の「好き」は、これまでたくさんあった。幸いにして、そう思ってもらえて、言語化してもらえたケースは、少なくなかったのだ。
だけど、これは。
真沢先輩のことはよく知っていた。
部の、エースと言っていい存在で。しーちゃんともよく話していたし、いろいろとマンツーマンで指導もしてくれていた。だからあの人が彼女に惹かれるというのは充分にあり得ることだし、わかる。
でも。──わたしは。わたしの場合は。
「ひと目惚れだった、って言われても」
ほぼ、初対面の相手だった。
幾度か真沢先輩と並んで歩いていたり、会話しているのを見た憶えはある。軽く、会釈くらいはしたこと、あると思う。
それでも名前も認識していなかった、ひとりの一学年上の先輩という記号でしかなかった人から突然、告白なんて。
「どう、しよう」
好きとか、嫌いとか。わからない。それ以前の問題だ。
どう思っているか、なんて。
急なことでごめん、と相手のその人は言っていた。
答えは急がない、じっくりと考えてほしい、とも。
「わからないよ」
少なくとも、今はまだ。
はじまりが、唐突にただ投げられ、一方的に与えられたばかりなのだから。
絶え間なく降り注ぐ熱いシャワーを全身に受けながら、思う。
果たしてこれは、妹に相談をしていいことなのだろうか。それとも自分ひとりで考え、解決すべきことなのだろうか、と。
微かな幸運であったのは、その決断をしたとしてもそれを共有することが可能な人物が、詩亜には存在するということだった。
しーちゃんが一緒で、よかった。
同時に告白を受けた友もまた困惑をしていた。
「しーちゃんは、どうするんでしょう」
親しい、先輩とのこと。
一緒に告白をされて。彼女はどういう結論を出すのだろうか。そしてその判断を、自分はどう思うのだろう?
詩亜の悩みは尽きなかった。
考えても考えても、今はまだ、答えなんて出るはずがなかったのだ。
(つづく)
第二部、突入です。どうぞよろしくお願いいたします。




