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天涯孤独の、ふたりだから  作者: 640orz
第一部 春から、夏まで
24/74

第二十四話 あなたとの、幸福

          第二十四話 あなたとの、幸福


 疎らな街灯が照らし始めた、人通りのない田舎道を見下ろしていた。

 夜が近づいているとはいっても、真っ暗な、完全な漆黒の夜の帳が下りているというほどではない。

 夕焼けのオレンジが、その暖色を失って。濃紺じみた暗い灰色を、次第にその密度を増しながら空に広げていく。

 薄昏の、そんな時間。

 レイアは眠りこけたひかりを抱いて、民宿の二階の、あてがわれた自身の部屋から、帰ってくるべきふたりの姿を待っている。

 

「ん……」

 

 暗がり始めた頃合いだ。けっして、視界が充分だったわけではない。

 けれど、見えたように思えた。

 陰に満ちていく街並みのその中にふたつ、より濃い影が一瞬、揺らめいたように感じられて。

 レイアは眼鏡の奥の双眸を眇めて、そちらに視線を注ぐ。

 

「帰ってきた」

 

 やがて、街灯の照らす中、ふたつの影は輪郭を伴っていく。

 大きいほうと、小さいほう。それが姉妹の姿だと、レイアにはすぐにわかる。

 その両者が、けっして離れることなく。

 繋がりあい、寄り添いあっていることも。

 不知火と雪羽。手と手、繋ぎあったふたりが歩いて、やってくる。

 

「──そっか。どうにか、地、固まったみたいだな」

 

 ふたりはまだ、遠く見遣っているレイアに気付いてはいない。

 ゆっくりとした足並みは時折止まったり、お互いを向いたり。互いの表情も、笑いあったり。

 広い、暗い世界で。街灯の下だけが明かりに照らされているように。ふたりは今、きっとふたりだけが照らされたスポットライトの下にいる。

 今はそれで、いいのだとレイアは思う。

 伝えあって、語りあって。また再び、笑えているのだから。互いが、互いを望みながら。

 

「……ありがとな、ユッキー」

 

 そうなったこと。雪羽がそうしてくれたことを、レイアは感謝した。

 お疲れさん。

 敷いた布団にひかりを運びつつ、背中に向かってレイアは呟いた。

 

                  *   *   *

 

「結局私は、諦めることでしか自分の未来と向き合えてなかったんだと思う」

 

 なにも、この宿で入浴をするのははじめてではない。けれど入るにつけ、なかなか立派な露天風呂だと思える。逗留をしてまだ数日だけれど、この広い、綺麗なお風呂だけは観光地の高級旅館にだって負けていないんじゃないかな、とさえ。

 身体を流して。

 湯船に右足の爪先から身を沈めていく姉の言葉を聴きながら、周囲の光景に雪羽は思う。

 

「私の前から、世界が消えて、失われて。見えなくなってからを──自分が死んでしまったあとのことのように、思うことで」

 

 それで、納得したつもりになっていた。ううん、今もきっとそう。少なからず、そういう感覚はある。明確に二分しようとしている自分がいる。

 あたたかなお湯の中、ふたり語らう。

 話すことはほんとうに、尽きなくて。

 

「あたしはただ、お姉ちゃんと離れたくない。一緒にいたいなって、ただ、それだけで」

「うん。私は逆に……いちゃいけないと、思ってた。大切な人に迷惑をかけるな。離れなくちゃならないって」

 

 諦めた私に付き合わせることはない。それは、いけないことだと。思っていた。

 ゆきには未来があって。

 私の未来は終わりが見えている。そういう差があるのだから、って。


「だけどゆきは、望んでくれた。だから、思ったんだ」

 

 私も、イヤだって。

 一緒にいられなくなるのは、イヤだ。

 

「ゆきを、失いたくない。私も、ゆきのそばにいたい」

 

 そう、思った。

 はじめて、未来に対して抱いた願望だった。

 姉のそんな言葉を聴きながら、雪羽は口許までを湯船に沈めていく。

 呼吸がぷくぷくと、水面に泡をつくっては弾けていく。

 

「見えなくなったその先の光景の中に、たとえ見えなくても、私も一緒にいたいと思ったんだよ」

 

 差し込む夕日に照らされながら、雪羽の胸の中で泣いていた姉はしかし、今は穏やかに笑う。

 それはいつもの笑顔。

 雪羽を見守り、安心させてくれるような、見慣れた姉の微笑が湯煙の中にある。

 

「怖く……ない?」

 

 そういう願望を、姉に抱かせるということ。

 未来に対して不感となっていた彼女にその感情を蘇らせたということは、同時、姉にかつての惑いや怖れを呼び戻す、酷な行為でもあったのではないだろうか。

 

「怖いよ。やっぱり。今は、それを認められる」

 

 実感がないのは、変わらなくとも。

 いつかやってくるその結末に、自分がどんな状況で、どんな気持ちで向かい合うのか。

 わかったつもりになっていた。諦めることで、受け容れたと思っていた。立ち向かうのは結局最後には自分自身、独りだけなのだと。ほかの誰かを巻き込んではならない、と。

 

「世界が見えなくなって。世界から独りぼっちになって。そのときのために、覚悟をしておかなくちゃって、思っていたから。でも──でもね」

 

 ちゃぷ、と音を立てて、お湯の中から姉の指先が差し出される。

 小さく頷いた姉に、促されるように。雪羽も伸ばした指先を、そのきれいな指先に合わせて。

 

「雪羽とふたりなら、独りぼっちじゃないんだな、って思えた。ここから続くこれからのことと、世界が見えなくなってからのこと。どっちも、雪羽と一緒がいい、って思えたんだよ」

 

 重ねた指先を、姉はそっと握る。ほんの少しの、水音を再び鳴らして。

 

「責任とか。こうすべきだ、とかじゃなく。雪羽を離したくないって思った。その気持ちに、従おうって」

「お姉ちゃん……」

「そのときがきたら。やっぱり辛い気持ちにさせたり。大変な思いをさせるだろうけど──それでも」

 

 一緒がいい、って言ってくれた雪羽だから。

 

「あなたを、望みたいんだ。信じようと思ったんだよ、ゆき」

 

 雪羽に伝えると決めてからそうしていたのだろう、「ゆき」というこそばゆいその呼び名を再び、姉は口にする。ほんのちょっぴり、強調をするように発する。

 それが雪羽には、無性に嬉しくって。

 

「兄さんは世界じゅうをめぐって、ずっと私の眼を治す方法を探していた。見つけられる医師になろうとしてたんだ。だけど、肝心の私が諦めてしまっていた」

 

 もういいよ、って。

 そういう運命なんだから──思って、気持ちが擦れ違ってしまっていた。

 自分のために兄の時間を、浪費させてしまっているように感じていた。距離を置くのが当たり前になっていた。

 

「そのまま、兄さんはけっして手の届かないところに行ってしまった」

 

 兄さんの気持ちに、応えることはできなくなってしまった。たったふたりの、肉親。兄と妹だったのに。

 

「だから姉として。妹と擦れ違うのはいやだ。妹とまでは、そうなりたくない」

 

 遺された、ふたり同士だから。

 一緒でいたい。雪羽が不知火に望んだように。不知火もまた、願いを抱かずにはおれなかった。

 

「ゆきと同じものを見て、同じ場所に行って」

 

 同じものを、語って。同じ世界に、いる。

 そう、したい。

 見えている今も。

 見えなくなった、未来でも。

 一緒がいい。姉妹である、私たちふたり。

 

「願って──いいんだよね? ゆき」

 

 姉の指先が握った、雪羽の掌が引き寄せられていく。

 それは、姉の裸の胸元へと。豊かな双丘の片側に、そっと重ねられる。

 あたたかく柔らかな感触のむこうから聴こえてくるのは、姉の鼓動。伝わってくるのは、お風呂の温度で熱いくらいに高まった、姉の体温。

 

「──うん」

 

 約束。絶対、離れない。

 雪羽は不知火の、もう一方の手をとり、自らの頬へと重ねる。

 

「離れないし。離さない」

 

 両眼を伏せて、肌と肌との触れ合いの中に姉を感じている。

 ずっと、一緒。

 それが姉妹の、重ねあった同じ気持ち。

 お姉ちゃんがいるかぎり、あたしは独りじゃない。

 ゆきがそばにいる。それだけで、私は独りなんかじゃない。

 姉妹、なのだから。

 両者の想いが等しかったことが、雪羽には幸福だった。

 

 

「──あのね、お姉ちゃん」

 

 あたしも、伝えたいことがあるんだ。

 雪羽は、閉じていた双眸を静かに開いて、声を発する。

 

「これからのこと。お姉ちゃんとやりたいこと、たくさんあるんだ」

 

 いっぱい、いっぱい。ほんとうに、たくさんある。

 泳ぎを、教えてほしい。

 お姉ちゃんの出場する水泳の大会を、応援しに行きたい。

 そう、行きたいところだって、たくさん。

 

「お姉ちゃんのよく知ってる、九州の街並みだとか。あたしの好きな、野球を一緒に見にいったりだとか」

「そんなによく知ってるわけじゃないよ。この島と、中学のあった長崎市内くらい。ほかは、何度か行ったことがある程度で」

「ううん、とにかく。たくさん、たくさんあるんだ。お姉ちゃんと一緒に経験していきたい、ありふれたことが」

 

 そして、伝えていきたい。

 

「お姉ちゃんの瞳に、なにも映らなくなったとしても。あたしが見て、経験したことを真っ先にお姉ちゃんに伝えていきたい。そういう存在でありたいんだ」

「ゆき……」

 

 雪羽が、握り合っていた互いの掌をそっと放していく。かわりに、湯船の縁から、沈めてしまわないようそこに置いてあったタオルを手に取って。自らの身体に巻きつけ、立ち上がる。

 

「──え……」

 

 そして、彼女の手は不知火の前髪へと伸びていた。

 かきあげるように、こちらの額を出して。雪羽の上気した顔が、近づいてくる。

 触れ合った感触があった。

 身を屈めた雪羽の唇が、自身の額に口づけたのだと、一拍置いて不知火は認識をした。

 

「何度でも、声をかけるよ。語りかけるよ。伝えるよ。何度だって、触れ合うよ」

 

 だってあたしは、お姉ちゃんの妹だもん。

 あたしには、お姉ちゃんがいる。お姉ちゃんしか、いないんだから。

 少しだけ離れたそこにある表情は、──先ほどまで見せていたそれ以上に、雪羽の顔は真っ赤で。

 今度は微笑ではなく、心よりの笑顔で彼女は姉へと笑いかけている。

 

「あたしね。夢、みつけたよ。今日、お姉ちゃんのおかげで」

「夢……?」

「お姉ちゃんのための曲をいつか、つくること。つくれるようになる。たとえ見えなくなっても、お姉ちゃんのために、いつだってあたしが感じられるように。あたしを、伝えるために。それがひとつ」

 

 ヴァイオリンは、雪羽の特技のひとつだから。

 その言葉が、──すっと、不知火の腑に落ちていく。

 

「そして、そうやって誰かに、楽器を通じて伝えたいって思える人たちの力になっていきたい。あたしや、お姉ちゃんのためだけじゃなく」

 

 音楽を、音色を通じて伝えること。その選択肢を、どこかのだれかが採り得るように。

 どこかのだれかの、「伝える」という行為の選択肢を、増やせるように。

 

「あたしには小雨姉さんほどの才能はない。だけれど、そうやってどこかのだれかの手助けをするくらいのことは、できると思うんだ」

 

 楽器を、教えることで。

 雪羽の語った夢。それはつまり──……。

 

「ヴァイオリンの、先生。目指そうと思うんだ」

 

 妹は不知火へと、はっきりと口にする。

 その、宣誓に。不知火もまた未来を想像する。

 盲目となった自分が、陽光差し込む窓から、晴れ渡った空を見上げている。見えなくとも、そのぬくもりを感じて。

 それは、ふたりの暮らす長閑な家。その、居間と呼べる場所。きっとそこを舞台に、雪羽は自身の教室を開いているのだろう。

 成長したひかりに、不知火は肩を叩かれる。声をかけられて振り返れば、その先には楽器の教鞭を執る妹がいる。

 教え子は、幼い姉妹で。ぎこちなく、ふたりヴァイオリンを肩に抱えている。一生懸命、たどたどしい手つきで音を鳴らそうとしている。

 微笑みながら、雪羽はそれを見守っていて。うまくいかなかったのだろう、教え子である幼い少女たちは己の指導者たる雪羽を見上げ、眉根を寄せる。

 こうやるんだよ、と雪羽は自身の楽器を手に取る。

 鳴り響くのは、軽快なメロディ。

 けっして高難度なものではない。けれど世界じゅう、どこのだれもが、どこかで一度は耳にしたことがあるような、心躍る曲だ。

 その美しい音色を、そして妹と教え子たちの織り成す情景を、不知火は体験できるのだ──……。

 

「素敵な、夢だね」

 

 でしょ。頷く、雪羽。

 

「だから、一緒にいてよ。ずっと。ずーっと、さ」

 

 その体験を、望んでいいのだ。

 不知火が望むことを、雪羽も望んでくれている。

 見えなくなるまでと、見えなくなってから。両方を、ともに過ごしたいと願ってくれている妹が、不知火にはいる。

 

「……兄さんと」

「え?」

「兄さんと、小雨お義姉さんが、私たちを結びつけてくれたんだよね」

 

 きょとんとする雪羽。当然だ、不知火の言葉は、唐突が過ぎる。自分自身、そんなことわかっている。

 亡きふたりが、一緒であったなら。もっと、どんなによかったろうか。そう思うのもたしかに事実だ。だけれど。

 ふたりはいなくても。

 雪羽という存在が今、いてくれる。その幸福を、不知火は心の奥に噛みしめる。

 彼女のことを幸福と思って、いいよね。兄さん。……小雨さん。

 

「いいね。ヴァイオリンの先生か」

 

 すごく、似合っていると思う。

 素直な感想をそう告げた不知火に、一瞬、雪羽は羞恥したように頬を掻いて。

 やがて、笑った。

 破顔して、くしゃくしゃになって。

 がんばるよ、──って。

 

                  *   *   *

 

 お風呂から出て。そのさらさらの長い髪にドライヤーを当てる姉の後姿を「やっぱしきれいだなぁ」なんて思いながら堪能をして。

 気付けば、他愛のない会話が尽きない。そんなやりとりの中、ふと雪羽は、思ったことを口にする。

 

「みんなには、……どうしようか?」

 

 いくぶん、抽象的な言い回しだったと思う。

 部屋へと戻る廊下を歩きながら。寝間着姿のふたりで交わしたその表現はしかし、姉にもちゃんと理解をされていて。

 みんな、というのは、友人たちのこと。

 どうしようか──それは無論、姉自身のこと。

 

「……折を見て、伝えるよ。皆にも、知っていてほしいから」

 

 大丈夫、と訊こうとして、一瞬、雪羽は躊躇する。

 迷っていると、察してか姉は、雪羽の手をその手で握って、笑ってくれる。

 

「大丈夫だよ。雪羽が一緒だから」

「──……もう」

「そういう勇気を、雪羽がくれたんだよ」

 

 下ろした長い髪が、姉の背中でさらさらと揺れていた。

 スリッパの足音を摺り鳴らして、食堂の前を通りかかる。

 

「──あ。不知火? 雪羽ちゃん?」

「ん、みっちゃん? なに?」

 

 足音と、会話の声とに気付いてか、暖簾のむこうから観月さんがふたりを呼ぶ。

 暖簾の隙間から見えるのは、流しの作業台で、まな板に向かう彼女の背中。

 小気味よい音を立てて野菜を刻むその手を、彼女は止めることなく。よどみなく、作業と会話を両立させていく。

 

「ふたりに、お客さん。レイア姉が呼んだって話だから、ふたりの部屋に通しといたよ」

「お客さん?」

 

 しかも、レイアさんが呼んだって。

 一体誰なんだ。心当たりなく、ふたりは顔を見合わせて首を傾げる。

 普段暮らす家に訪ねてくるならともかく。

 ここは離島だぞ。しかももう、すっかり夜。こんな時間に、誰が来たというのだろう?

 姉妹、ふたり揃って眉根を寄せて、怪訝に頭を捻りつつ。

 襖で仕切られた、部屋に戻る。 

 

「あ」

 

 たしかにそこには、気配があった。しかも、ひとりではない。

 小さな、囁くような会話の声が微かに、漏れ聞こえてくる。

 襖の前で、再びふたりは顔を見合わせて。

 それから、不知火が、襖の縁を軽くたたいて、ノックをした。

 ──会話が、止む。

 気配が、動く。足音が、衣擦れの音が、続いて。

 

「おーっそい。ったく、こちとら長旅で疲れてんのに、どんだけ長湯してんのよ、お二人さん」

 

 こちらが開くより先、あちらから力いっぱい、襖が左右に引き開けられた。

 

「え。……マジ?」

 

 予想だにしなかったふたりが、そこにいた。

 

「なんで。詩亜たちが、いるの?」

 

 それは、親友たる姉妹。

 詩亜と、歌奈の双子。

 そりゃあ、同じ長崎にいるとは聞いていたけれど。なんでここに、離島にいるの、お二人さん。

 

「明日には、彩夜ちゃんも来ますよ」

 

 ジト目を向けてくる歌奈の横で、移動疲れからか少し眠たげな眼を擦りつつ、詩亜が言った。

 つまり。

 ──友人五人、この島に集合しちゃう、ってこと?

 姉妹が三度顔を見合わせたのも、ある種必然だった。

 

               (つづく)

多忙&体調不良(お風邪を召しました)によりこんな時間(朝五時!)ですが更新です。

よろしくお願いいたします。

更新日程が変則になる場合はこちらでも告知しておりますのでよろしければ参照まで。

twitterID:640orzdesuyo

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