第二十三話 姉と、妹と
第二十三話 姉と、妹と
ありがとう。ここでいいよ。
そう不知火が感謝を告げてレイアの運転するレンタカーを降りたそこは、逗留先の民宿ではなかった。
緩やかな坂道の続くその場所は、……否、島全体が、既に夕日に染まっている。
そんな、夕焼け空の時間帯。
不知火は、俯く雪羽の手を引いて、アスファルトの道を歩いていく。
あちこちが、でこぼこしていたり、ヒビを見せていたり。はじめに舗装をされて以来、長らく整備をされていないのがよくわかる、道。
それは不知火にとってはかつて、数え切れぬほどに行き来をした、なじみの深い勝手知ったる道だった。
記憶にも、身体にも。その流れていく風景が、大地を踏みしめる感触が染みついている。
「こっち」
不知火が手を引くと、雪羽は大人しく、言葉ひとつ発さぬままについてくる。
妹の双眸にはまだ、泣きはらした跡が残っていて。
鼻も、まだ少し赤い。
悄気かえった子供のように黙りこくって、ただ彼女は不知火に手を引かれているがままだった。
こんな顔をさせたくなかった。
ゆきの泣き顔を見たくなかったから、この島に一緒にやってきたというのに。
伝える言葉選びも、やり方も。下手くそだな、私。
「小学生の頃。よくこうやって夕方、この道を帰ってたんだ」
思いながら、言葉を向ける。
背中の向こう。振り返ることなく。
右手を流れていく植え込みに、一瞬目を遣りつつ。なにげない思い出話を、不知火は雪羽へと、そっと投げる。
投げ返してくれなくていい。ただ、彼女の気が紛れれば、と。
「この植え込み、金木犀でさ。秋はすごくきれいで、いい匂いなんだよね。あとひと月、ふた月くらいで咲き始めるかな」
妹は、無言を貫いている。
夕焼けの道に、手をつないだふたりぶんの影が、長く、長く伸びる。
植え込みの横を抜けていく、道を進んで。
またひとつ、右に曲がって。ブロック塀の脇を行く。
ほんの、十数歩ほど。そこで不知火は、足を止める。
「──ごめんね」
世間話は、そこまでだった。
声のトーンを落としたのは、意識してそうしたわけではない。
雪羽も雰囲気の変化に気付いてか、握り合った掌を、指先をぴくりと一瞬、反応させる。
「いきなりばっかりで、ごめん。混乱させて。泣かせちゃって、ごめん。……ひどい、姉だね」
「……っ、あ、っ。その……っ」
伝えたかった。
悲しませたり、傷つけたり、したくなかった。
笑っていてほしかった。
そういった自分自身の欲求に呑まれて、知らず知らず、舞い上がっていたのかもしれない。
「ゆき。ここが、私の生まれ育った家だよ」
前回にこの場所へと戻ってきたのは昨年の、やはり夏だった。
お正月は、帰ってこれなかったから。
インフルエンザにかかって生憎、不知火自身ダウンしていたし。兄も海外から、戻ってくる余裕がなかった。……今思えば、結婚が秒読み段階だったのだろうから、忙しかったのだろうと想像できる。
「ね、ゆき」
ごく、当たり前に。背後の雪羽が、顔を上げてそこにあるものを見上げたのが、その仕草が分かった。
分かったからこそ、そうやって重苦しさを付加することなく、彼女に声を向けられたのだと思う。
「埃っぽいところで悪いけど。──ゆき。少し、話をしよう」
ううん、少しなんかじゃきっとない。
これまで私たちが重ねてきたものと、同じくらい。
もっともっと、それ以上に濃密に。
ふたりはきっと、語らわなくてはならないのだ。
不知火、自身のこと。雪羽の、思っていること。
姉妹、ふたりが互いに対して。互いに望み、願っていること。わかりあわなくては、ならないのだと、思う。
* * *
「姉ちゃんって、彼氏いないの」
「──は?」
なん、ですと?
「いや、だから。彼氏」
弟が、不意に言った。
落ち着いた時間帯の、『白夜』店内。キッチンには姉弟ふたりきり。父はアルバイト陣の出勤シフトを組むと言って、客席の隅のテーブルでノートパソコンに向かっている。
「え。あの、……なんで?」
「いや。だって、女子高生ってそういうもんかと」
彼氏の、ひとりくらい。
食器洗浄機から出てきたお皿をまとめながら、朴訥とした感じに弟は言う。
「……いません、けど?」
弟の問いが唐突で、そのうえ訊いているのはあちらのくせになんだか期待感もゼロで、彩夜としては些か戸惑ってしまう。
そりゃ、いませんよ。いませんとも。
生まれて、このかた。
「ま、そりゃそうか」
「わかってて訊かないでくださいよ」
あんみつに使う白玉を、沸騰したお湯に入れていく。
仕込みの作業をやりつつ、彩夜は自身よりずっと背の高い中学生の弟を、上目遣いに見遣る。
「誰か、いないの。いい人とか」
「いい人って。なに、それ」
そんな、仕事ひと筋のキャリアウーマンさんに結婚を催促するお祖母さんじゃあるまいし。
思わず、弟の表現に対し苦笑する。
「いない。いないですよ」
高校生というだけで、すぐに彼氏彼女をつくれたら苦労はない。
別に期待を持たせていたわけでもない。中学生から見た高校生というバイアスがあるにせよ、それは過剰評価というものだ。
現実にそんなものいない。もちろんそれにしたって、彩夜の場合は、ということになるけれど。
「ふうん。そう」
「なんですか、いきなり」
というか。訊いておいて「でしょうね」と言わんばかりのそのリアクションは多少、失礼ではなかろうか。
一応、姉なんだぞ。
「いや。んじゃ、雪姉たちは?」
「雪羽ちゃん? いないと思いますよ」
うん。だって。
あの子は今──。
「不知火ちゃんのことで、頭がいっぱいのはずだから」
ふたり、今は長崎の離島に出かけている幼なじみとその義姉の、手と手繋ぎあった後姿を、脳裏に思い描く。
血の繋がりなんて関係ない。仲、睦まじい姉妹の情景。
「そっか。それも、そうか」
曖昧に、夕矢は頷いて。
「じゃあ、不知火さんも?」
「え?」
そうやって俯いたまま、ぽつりと付け加えるように言う。
不知火ちゃんが──なんだって?
「いや、だから」
ローテンションな弟の、ぎこちなくて、そして「しまった」という色がありありとにじみ出ている声を聴くのはもしかしたら、幼い頃以来かもしれなかった。
そのくらい、姉である彩夜から見ても、そのとき発せられた弟の声は、わかりやすかったのだ。
そこに含まれている彼の感情というか。不安というか。──心配というか、そういうものが。
「不知火さんも、その、彼氏とか」
「……いないと、思いますけど?」
両目を伏せて、深々とした溜め息を吐いたあたり、彼も観念をしたのだろう。
あまりにも直接的な、その質問が。裏にあるすべてを物語っている、語るに落ちている、と。
「ね、ユウくん。もしかしたら、お姉ちゃんの勘違いかもしれないんだけど、いいかな」
「──ああ」
多分、勘違いじゃないよ。
弟は珍しく、素直だった。そうやって、言葉に出す程度には。俯き気味のその頬が、冷静な彼らしくもなく、仄かに赤みを帯びているように思えた。
「もしかして、ユウくん。不知火ちゃんのこと、好きなの?」
それはいつだったか、彼に向けた問いとは正反対の方向性を持った質問。
あのときは、曖昧に終わったこと。
だけれどそこから先も、以前とは異なっていて。
弟は、逃げなかった。
小さく、でもたしかに。頷いて見せた。
友へと、幼なじみの姉へと、己が弟の向けた好意をこのとき、彩夜は知った。
彼の一目惚れで、初恋を──姉である彩夜は、推測でもなんでもない、確定をした事実として理解したのである。
* * *
埃っぽい、と姉が言ったように、たしかにその日本家屋は、長い間動くことのなかった空気が滞留をしていて、埃と黴の匂いが鼻の奥をつんつんと刺激していく。
長らく留守にしていたのだから、無理もない。それでどうこう、思うわけもない。
雨戸と二重になった、摺りガラスの障子戸を姉が引く。そこに、縁側に続く廊下が出来る。
「おいで」
姉はもう、雪羽の手を引いてはいなかった。
ふたり、下はショートパンツに裸足。上半身も水着の上からパーカーを羽織っただけだった。
夕日差し込む縁側に出て、姉が振り返る。
足の裏を持ち上げてみて、ああ、やっぱり。あとで足、洗わなきゃね。──なんて苦笑している。
「あっちに行くと、仏壇のある客間。お墓参りしたときに紹介した、おじいちゃんの。お父さんの仏壇、置いてあるんだ」
多分買い置きのお線香と蝋燭、残ってたはずだから。
あとで、お線香上げに行こうか。
「私たちの家に持っていくことも考えたんだけどね。兄さんが、『ここが父さんたちの家だから』って。忘れないように──私たちが来ればいい、里帰りすればいいんだ、って。だから、ここにある」
目の前に広がるのは、こちらもやはり長らく放置されたこともあってか、手入れが行き届いているとは言いきれない、草生した庭。
それを前にして、姉はこちらを手招きして。縁側に腰を下ろす。
その表情も仕草も、明るくて。
雪羽に伝えたこれからも、決意も。どこかに行ってしまったかのように、笑っている。
「座ろう。話を、しよう」
そんな姉が、わからない。
泣きそうになってくる自分が、いる。
「そんな顔、しないで」
姉は繰り返し、雪羽へと促す。
数瞬の躊躇があった。板張りの床の冷たさから、やがて雪羽は爪先を持ち上げる。
話を、する。いったいなにを話せばいいだろう。どう、話せばいいんだろう。姉はどんなことを、話したいんだろう。
「この家に住んでた頃のことを、聴いてほしいんだ」
姉の隣に、身をかがめて腰を下ろす。
庭石の上へと、裸足の両脚を投げ出す。
「世界を失う、その未来を知る前までと。知ってからのこと。そうだね、どこから話そうか」
夕日を見上げて、姉は呟いた。
その言葉は雪羽だけに向けられたわけではなく、自問のためのものでもあったのだろう。
「……ずっと前から、知ってたの?」
だから。雪羽が思わず向けた問いが、彼女を一瞬、きょとんとさせる。
ああ、そういう流れからいけばいいか。
きっと、姉はそんな風に、安心して。決めかねていた話の枕を定めたのだと思う。
「うん。……みっちゃんたちと、何度こういう話をしたかな。──私がこういう性格になったのも、未来を知ってしまったからっていう部分があると思うんだ」
* * *
「終わりがやってくるって知るまでは、夢があったんだ」
「夢? 将来の?」
「うん。お裁縫、好きだったから。お洋服のデザイン──ファッションデザイナー。自分でつくった服が、たくさんの人たちに着てもらえたら、って」
小学生の頃、とにかくたくさん刺繍や、お裁縫やってたんだ。
自分でなにかつくれるっていうのが楽しくって。どこまでも、なんでも出来る気がして。
姉は過ぎ去った過去を懐かしむように目を細めて、夕日を見つめている。
それは遅かれ早かれ、子どもが理解してしまう領域のことだったのだろう。
自分になんでも出来ると思える、幼少時代。
それが過ぎ去り、気付く。自分に出来ること、出来ないこと。
けれど姉はその洗礼を、他者より早く、違ったかたちで。そしてある種、より残酷に、受けてしまった。
「自覚するより先に、私は突きつけられちゃった。残念ながら……ね」
持ち合わせた自身の向き不向きや、スキル的な部分からではなく。
その、肉体ゆえの限界。終わりを、否応なく示されてしまった。
言って笑う姉の姿に雪羽が抱くのは、罪悪感に類する感情。何度も繰り返してきた、けっして爽快ではない会話を姉に、再びさせてしまっているという、申し訳なさの痛みだ。
「……ごめんなさい」
「ゆき? ……そんな。謝らないでよ」
私は、大丈夫だからさ。
手を伸ばして、頭を撫でてくれる姉の表情は優しかった。でもそんな姉に、自分は無理をさせてしまっているのではないかと、雪羽はどうしても、思ってしまう。
何度も、心の中で繰り返してきた疑問。
ほんとうに、平気なのか。
なぜそんなに、平然と笑っていられるのか。それらが消えることなく、ぽっかりと空洞になったようにすら感じられる心の中で、幾度も明滅しては残響する。
「なんで、大丈夫なの」
どうして、平気でいられるの。
残酷を承知で、雪羽は次の言葉を紡がずにはいられない。姉が、わからなくて。
「もう、諦めてしまったって、ことなの。あたしと出会う、ずっと前から」
言って、後悔をした。すぐには姉の顔を見ることが出来なかった。
沈黙の中、恐る恐るに視線を移した姉の表情はしかし、ショックを受けた様相でも、悲しげに歪んだものでもなく。
少なくとも将来の不安や、怖れに支配されたそれでは、ない。
「諦めちゃったわけじゃないよ。すぐに治せる方法が見つかったなら、それに飛びつくと思う」
ただ、微笑んでいる。雪羽を安心させようとしてくれているように、笑っているのだ。
「けど。ただ、今はほんとうに。雪羽を見ていたいんだ」
永遠なんてない。いつかはなんにでも終わりがやってくるって教えてくれた、このふたつの眼で。
この眼が最後に見えなくなる、最期の瞬間には、雪羽を見ていたい。
「そのとき、雪羽が笑っていてくれたなら最高だなって。そう、思うんだよ」
まっすぐな瞳が、こちらを見つめている。
そこにいつか、自分が映らなくなる日がやってきてしまう。たとえ視線を交差させたとしても──言葉ではわかっていても、けれど雪羽には遠い、実感のないことに思えてしまう。
実感はないのに。それがものすごく、怖い。
そうなったときあたしは、お姉ちゃんが望むように笑っていられるだろうか。
自信が、なかった。
「私のわがままだって、わかってるから。そこから先に、雪羽を付き合わせるわけにはいかないって、思ったんだ」
わからないことだらけで。
呑み込めていなくって。
だけどひとつだけ、はっきりしていることがある。
* * *
「いやだ」
「え?」
すっくと、気付けば立ち上がっていた。
逆光の中、姉の視界の前に、立ち塞がる。
そうだ。いやだ、と思ったのだ。そんなの、いやだ、と。砂浜で泣きながら思い、姉へと懇願したように。
その気持ちは今も、雪羽の中で変わらない。
今だって、油断すればぽろぽろと涙をこぼして、泣いてしまいそうだ。
「いなくなる、なんて言わないで」
姉が自分のわがままだ、なんて言うなら。
雪羽にだって彼女にわがままをする権利はあるはずだ。
彼女の将来に、これからについて。彼女とともに歩む、自分に対して。
「お姉ちゃんがいなくなったら、あたしは笑えない」
あたしは、これからも。その先も。お姉ちゃんと一緒にいたい。
「ゆき……」
いつまでも、なんて贅沢は言わない。言えるわけない。
やってくる終わりを知ってしまっている人に。けれど、それでも──……。
「あたしはずっとずっと笑ってたい。お姉ちゃんの隣で。お姉ちゃんと一緒に」
姉だって、言ってくれたじゃないか。
あのとき。あの場所で。あの映画館で。
見たい、ではなく。聴きたい、と雪羽に言ってくれたのは、そういうことじゃないのか。
違うのは、雪羽がそれを終着点と思っていないこと。
そうとも。姉の終着点なんかに、させるもんか。
あそこは終着点なんかじゃない。あたしが、お姉ちゃんと。これからも何度だって訪れる場所。そうあってほしい、じゃない。そうしていかなくちゃいけないんだ。
「あの映画館で。お姉ちゃんの前で、演奏したい。お姉ちゃんに聴いてほしい。一度だけなんかじゃない。何度も、何度だって」
だから、お願い。
「あたしから、離れていかないで。お姉ちゃんがいなかったら、あたしなんにもできない」
笑えない。
そういう未来だって、つくれない。たくさん、たくさんつくっていけるはずの、そんな素敵な未来さえ──……。
「あたしは、お姉ちゃんの妹で。お姉ちゃんはあたしの、姉なんだから」
負担とか、重荷とか。そんなのどうだっていい。
この時の止まった家にやってくるまで、ずっと引かれるだけだった手を、今度は雪羽の側から差し出す。
姉が一瞬、躊躇をしたのがわかった。けれどそれでもゆっくりと、指先と指先を、彼女は重ねてくれて。
その手を包み込む。こうしてふたりは、繋がりあう。
「いい、……の?」
「あたしが、そうじゃなきゃいやなんだ」
重なり合った手と手を、姉は見つめていた。
そして少しずつ、言葉を、たどたどしく発していく。
「……つらく、させるかもしれない」
「お姉ちゃんがいなくなるほうがつらい。もう、喪うのはいやだ」
「ゆきには、ゆきの人生が」
「あたしの人生には、お姉ちゃんもいてほしい」
そうやって、幾度かの言葉を上塗りしあって。
やがて、息を詰まらせたように姉はひととき、俯いて、黙りこくる。
「……いい、の? 望んでも」
そうしておもてをあげた彼女の表情は、このときはじめて、決壊寸前の、泣きそうな顔をしていた。
「いいよ。あたしが、望んでる」
姉の肩が、震えている。瞳に涙を、ためている。
その様相は、葬儀の日にも、……はじめて雪羽のかつてを見せた四十九日のあの日でさえも、密やかに顔を埋めて、四十九日見せなかったもの。
弱々しくて、ほんとうに。今にも壊れてしまいそうな──はじめて見る、同い年の、未熟な年齢の少女としての姉の姿。
「あたしは、お姉ちゃんがいい。お姉ちゃんと一緒が、いい」
受け容れたつもりだった未来に、差し伸べられた手がある。そこに縋りつきたいと願う、少女がいる。
「あたしのお姉ちゃんでいて。不知火」
姉は、雪羽の胸の中にいた。
この日、はじめて雪羽は聴いた。
不知火の、子どものように大きく響く、泣き声を。
いつもとそれは、立場があべこべだった。肩を震わせて嗚咽するその人を、自分が包み込んでいる。
この人が、あたしの姉で。
あたしは──この人の、妹だ。
(つづく)




