第二話 親友と、シュークリーム
第二話 親友と、シュークリーム
お疲れさま、と差し出されたタオルに、不知火は顔をあげる。
「なんだかちょっと、考えごとしながら泳いでました?」
どうしてそんなにこの子は察しが良いのだろう、と、不知火はいささか不思議に思う。
思いながら、タオルを受け取る。
ありがとう、と。短く感謝を告げて。その肩に、ふかふかのそのタオルを羽織る。
水泳帽をはずすと、水を吸って重くなった長髪を振って、そこにある水分を払う。
友人の隣に立って、プールサイドを歩き出す。
「……なんで、わかったの? 私が集中できてないって」
「そりゃあ、見ればわかりますよ」
しーちゃんが、ぼんやりしてることくらい。クーリングダウンのスローペースで泳いでるだけとはいえ、あれだけのんびり、どこ見てるでもなくぷかぷか背泳ぎで流れて行ってたら。
この四月に出会ったばかりの友は、言って微笑む。
不知火にとって出来たばかりの『妹』より、更に低い身長の『親友』。
その髪は、きれいな光沢のある、灰白色をしている。白銀の色にすら時折、輝いて見える。
──名前だけ見たら、自分だって「しーちゃん」だろうに。返す不知火の側の表情は、苦笑だった。
「わたし、泳げませんけど。見ていることはできますから」
見守るのは、得意なんです。これでも立場上、それなりに年季の入った『姉』なので。
また、笑う。白髪のように乾いた感じのない、艶やかな美しい、白銀の髪の少女。
染めているのではない。
アルビノ、という単語も、はじめて出会ったときには脳裏をよぎった。けれどそれも違う……らしい。
生まれつきで、地毛で。こんなにもきれいな髪の色があるのかとはじめ、思った。
雨宮さんの幼なじみ──白鷺さんの、蒼みがかって見える独特の光沢もきれいだったけれど。それとも、違う。
「そろそろ上がってきてくれないとホームルーム、遅れちゃうなーって。思っていたので、声かけようかなってところでした」
「それは……悪かったね」
芹川 詩亜と、友の名はいった。
彼女にもまた、姉妹がいる。そしてまた、両親は既に、いない。
雨宮さんと同じクラスに、双子の妹を持つきり。ふたり同士だけで暮らす家がある。そんなところが似通っていたから、自分は彼女に惹かれたのだろうか、と思う。
同じクラス。席は同じ窓際で、前後同士。マネージャーとして水泳部に一緒に入ってくれた彼女がいてくれなければ、この中高一貫教育の高校で、外部進学組の自分は未だ、クラスに独りだったかもしれない。出会えてよかったと思う。同じく外部から受験して入ってきた、境遇もよく似ていた彼女と出会わなければ──……。
「お悩みは、妹さんのことですか?」
「──うん。まあ、ね」
いや。もしかしたら、彼女の存在に甘えてしまっているのかもしれない。
よく似た立場の、友を得てしまったがために。
彼女を得ることなければ、新たな暮らし、新たな環境。新たな周囲において拠り所は、不知火にとって雨宮さんだけであったはずなのだから。
彼女の存在を理由に、あるいはどこか、逃げてしまっているのかもしれないと、このときの不知火は密か、思った。
「あんまり、私自身人づきあいとか、得意ってほうじゃないから。……なかなか、難しいね」
大切にしたいと思っているのに。
兄がそうしたいと願った女性の、妹のこと。
たった二か月ぶんの、生まれの差ではあっても、今は不知火にも彼女は、『妹』なのだから。
* * *
なんでここにいるんだっけ、と。ただ学校生活を送っていて、時折思うことがある。
とくに教室で、独りでいると。こうして詩亜が担任にでも呼ばれて、席を外している昼休みなんかは、ちょくちょくその感情が頭をもたげてくる。
「……うん、おいしそう」
そんな中、同居人の『妹』から朝、渡された弁当箱を、不知火は開けるのだ。
卵焼き。唐揚げ。今日のメインなのだろう、大きめの鮭。
ああ、料理ができる人がつくっているんだなぁ、と見ていてわかる、オーソドックスだけれど素朴で綺麗な、家庭的なお弁当。
ずっと寮暮らしで、食堂や売店ばかりだった、料理経験なんて殆どゼロの自分には到底無理な、丹精込められたそれを見下ろして、不知火は微笑む。
流石だな。今日もありがとう、雨宮さん。そんなことを想いながら。
「いつも……ごめん」
そう。ありがとうと、ごめんなさいで、感謝を想えるのだ。
だから今のこの状況を後悔しているなど、けっしてない。
雨宮さんと一緒に暮らすこと。『家族』をやっていくこと。家族に、なっていくこと。兄が望んだことを、不知火自身望んでやっているのだから。
弁当をつまみながら、なにげなく窓の外を見る。
中学時代とは、なにもかも違う光景。
ついこの間まで長崎にいたのが、夢だったようにさえ思えてくる。
……いや、逆か。まだ夢うつつのような感覚が残っているのは、今ここにある自分。直面している今に対してなのだろう。
兄さんが、もういないこと。
そして始めた、新しい生活のこと。新しい、『家族』のこと。
きっとまだ、実感をしきれていない。そしてそれは多分、同じく直面している、雨宮さんもそうなのだろうと思う。
「難しいね……ほんと」
ふと、目線の先に見覚えのある三者を見つける。
それは雨宮さんと、その友人、ふたり。
その三者の組み合わせの中で、雨宮さんは屈託なく、笑いあっている。
「……雨宮さん」
無論、彼女たちの側からは、見下ろす不知火のことなど気付いていない。ゆえにだからこそ、そうやって三人が見せるその光景は、不知火を愕然とさせる。
それは、彼女にとって。彼女が雨宮さんに、ともに暮らすようになってなお、つくらせることのついぞできていない、自然な表情であったから。
ぎこちなく笑いあうだけの、自分たちの関係性と。比較をせずにはおれなかったのである。
ああ。あんな風に笑えるんだ。
その笑顔は、とても素敵で。本来の彼女、というように思えて。
彼女をあんな風に笑わせてやりたい。彼女がああやって笑える場所で、自分がなくてはならない。『家族』、そして、『姉』として。
そういう場所でならなければいけないというのに──……。
「しーちゃん?」
「! ……詩亜? 戻ってたの?」
「はい。わりと、二、三十秒は前くらいから」
それは自分でも驚くくらいに、衝撃で、がつんときたのだろう。
いつしか友人が、きょとんと目の前に突っ立っていたことに、彼女から声をかけられるまで気付かない自分がいた。
詩亜の手には小さなお弁当箱の包み。椅子を反転させて腰掛けた彼女は、不知火と食卓をともにする。
あちらはサンドイッチ。妹さんも、詩亜も料理は得意。弁当は交互につくっていると言っていたから──……、
「今日の弁当は妹さん?」
「はい。洋食は歌奈ちゃんのほうが得意なので。和食はわたしですね」
膝裏のスカートが気になったのか、一度座った姿勢を、両脚の裏側で布地を直して、それから詩亜はサンドイッチに手を伸ばす。
ハム。卵。野菜。ありふれたものだけれど、こちらもどれも、きれいに拵えられている。
「それで──しーちゃんのお悩みも、朝に引き続いて妹さんですか?」
「え」
「わたしから見えたのは一瞬ですけど。窓の外見てたの、妹さんがいたからでしょう? 歌奈ちゃんの姿もちらっと見えたので、あとはリアクション的にもたぶんそこかなって」
「……そう」
朝に引き続き、という彼女の言葉を借りるなら、相変わらずよく見ているな、と思う。
物静かで、大人しくて。穏やかなのにやたら、洞察力は鋭い。
はっきり不器用で、あまり人の感情の機微なんかを感じ取れるほうではない自分とは、大違いだ。今、置かれている状況下においては──正直、羨ましくさえ思える。
「私って、なんにもしてあげられてないな、って思ってさ」
「なんにも、って。妹さんにですか?」
「うん。一緒に暮らそう、家族だ──なんて、自分から持ちかけておいてさ。そうやってもうひと月も経つってのにまだまだ全然ぎこちない。詩亜の妹さんたちがやってるようにさえ、ごく自然に笑わせてあげることさえできてないんだから」
こうやって、毎日早起きをして。部活のある私より早く起きて、お弁当まで用意してくれてるのに。
私はなんにも返せてないな、って。
けっこう、落ち込んでる。
自嘲気味に、詩亜へと笑ってみせる。
詩亜は咀嚼していたハムサンドを呑み込んで、ひと息吐いてから。
「それは少し、極端に思いますけど?」
「極端?」
手元の、紙パックの牛乳を啜る。そうして、やがて。
「もうひと月、って言いましたけど。「まだ」ひと月の間違いだと思います、それ」
まるきり冷静に、詩亜は不知火の言葉を評する。
「もう、じゃなくて、まだ」
「はい。あまり焦る必要はないと思います」
それは、年季の入った姉妹の先輩、同居生活の先輩としての発言?
「そう思ってくれていいですよ。……それに、これから始めていくところなんだ、ってはじめに言ってたのはしーちゃんのほうじゃないですか」
「……そりゃあ、そうかもだけど」
「きっと、妹さんともお互い様ですよ。双方、相手になにができるのか。どうやったら、距離を縮めていけるのか。まだはじまったばかりなんですから」
「……うん」
煮え切らない返事をしている自覚はあった。
察しの良い友人は、それすらわかっているようで、くすりと笑って。
「しーちゃんって、見かけかっこよくて、すらりとしてて。物静かでそういうキャラなのかなって思えるのに。案外人見知りで、怖がりですよね」
「う」
「そういうところ、嫌いじゃないですけど」
結構ヘタレ。
ああ、この人も誰かに護られてきた、本質的には妹さんなんだなぁ、って思います。
詩亜は、そう言って、また牛乳を飲んだ。
──できること。
──はじまったばかり、か。
* * *
「……うーん、と」
だから、ひとまずやれることから、始めてみようと思った。
そう考えて起こした行動はあまりに直接的かつ物理的で、即物的だったかもしれないけれど。
「……大丈夫だよね。シュークリームとかなら」
部活帰り。独りになった帰り路、駅前のショッピングモールに足が向いた。
詩亜に言われたことが、部活の間もずっと頭の中をぐるぐると回っていて、そのように身体が動いたのだ。
一階の、食料品売り場から続く、ケーキ店や和菓子屋の並ぶ一角。スイーツコーナーに、不知火は今、立っている。
お土産、買っていこう。短絡的で、「そういうことじゃないだろう」かもしれないけれど、まず始めてみようと思った。
プレーンな、カスタード。
生クリーム。両者のダブル。
チョコや、イチゴや、抹茶。さつまいもに、レアチーズケーキ風なんてのまである。
ショーケースに並ぶシュークリームはどれも美味しそうだったけれど、同時にどれにするか、不知火に迷わせる。
甘いものならきっと、雨宮さんも好きなはずだし。家でもお菓子をつまんでいるのを何度か見た。
でも、苦手な味とかないだろうか。……そんな、些細な。小さな好みひとつとったにしても、私はまだ彼女のことを全然、知らない──……。
「抹茶……は案外、ダメな人いるし。チーズも。やっぱり普通のカスタード……?」
不知火自身、甘いものは好きだった。だからとくに悩まずにさっさと買っていけばいいはずなのに、考えてしまう。
どれがいいか。何個、買おうか。一個ずつだと少ないかしら。でも二個ずつは、おやつには多い気もするし。
ああだ、こうだと。雨宮さんにはどうだろうか。雨宮さんはどう思うか。雨宮さんのことばかりを、ひどく。
それが──呼び水となったのだろうか?
噂をすれば、というものでもないにせよ。
「駒江さん?」
「──え?」
声が、聴こえた。それはたった今、まさしく想っていた相手の声。
振り返れば、そこにいる。
明るく赤茶けた、快活なショートヘアー。想っていた、相手の姿がある。
「え……雨宮さん? なんで? 先に帰ったんじゃ?」
「あ、はい。だから買い出しです。ちっちゃいスーパーにも寄ったりしてたから」
週末なんでいろいろ買いだめしときたかったんで。
たしかに、買い物かごを載せたカートを押す彼女の手許には、大した量ではないにせよ、このショッピングモールのものではないスーパーのビニールがぶら下がっている。
「駒江さんは? 部活、早く終わったんですか? なんかさっきからずーっとシュークリーム屋の前で悩んでましたけど」
「あ、えっと、うん。顧問が明日出張だからって。だからちょっと寄ってみたんだ」
場所だけは知っていた。けれどこのショッピングモールに、直接やってくるのは初めてだった。
というか。
けっこう前から、こうやって悶々と悩んでた姿、見られていたのか。
「えっと」
どうしよう。──といっても、今更隠しようも、取り繕いようもない。
「雨宮さんも、食べるかなって思って、さ。どれ買おうか、何個買おうかなーって」
お土産、買って帰ろうかな、って。
甘いもの……平気だよね。
頬を人差し指で弄りながら、そこが熱を持つのを実感する。
気恥ずかしいやら、自分の説明がぎこちなくって呆れるやらで。
「駒江さんが。あたしに?」
「うん。……余計だった? まさかダイエット中だったとか」
それら言葉を受け取った雨宮さんは、一瞬きょとんと、目を瞬かせて。
やがておずおずと吐き出された不知火からの最後の言葉に応じるように、微笑んで。
「ううん。嬉しい。とっても、嬉しいです」
その笑顔が、とても眩しかった。微笑から広がっていったその輝きが一層、不知火の頬を熱くしていく。その実感がある。
「もうどれ買うか決めました? あたしも買いますよ」
「え、でも。それだとお土産には」
ならない、と言おうとした口許を、差し出された彼女の人差し指が制する。
ほんのり前屈みになって指を立てた雨宮さんは上気した頬でくすりと笑って、上目遣いにこちらをまっすぐに見る。
「あたしのぶんは、駒江さんが買ってください。駒江さんのぶんはあたしが買いますから」
お互いが、お互いにお土産買って帰りましょう。
「そしたら、一緒にお夕飯なにが食べたいか考えてください。買い物、付き合ってくださいよ。……いいでしょ?」
ほんの一瞬、その指先は、僅かに不知火の唇へと触れていた。
まったくの偶然、微かなものでしかなかったとはいえ、不知火が口づけていたことに、彼女は気付いていただろうか?
「……うん」
もちろんだとも。柔らかな感情が、自らの内側から穏やかに溢れてくるのを不知火は実感する。
ぎこちなくなどない、自然な微笑がきっと今、自分の表情には浮かんでいるのだろう。
「あたし、チョコがいいな。駒江さんは?」
「生クリームの、ホイップ」
ああ、いいですねー。あたしも生クリーム、大好き。屈託ない笑顔の彼女は、ショーケースの前、不知火と並ぶ。
「「すいません」」
ケーキの箱を組み立てていた、可愛らしい制服の店員さんにふたりぶんの声が投げかけられる。寸分違わず、ふたりの声は重なっている。
「「シュークリームふたつ、ください」」
長髪と短髪。
黒髪と、赤毛と。
同じ制服。
ストッキングと、黒のニーハイ。
並び立った『姉妹』は、お互いへの土産を一緒に注文するのだ。
(つづく)