第十九話 山腹の、墓標にて
第十九話 山腹の、墓標にて
ホテルの、朝食バイキングの会場は、既に宿泊客たちで混みあっていた。
さして早い時間に起き出してきたわけではない。むしろ朝食のサービス時間として指定された時間帯としては後半戦に近い頃合いである。とくに出発を急いでいない者たちがゆっくりとベッドから這い出して、こういった時間帯にレストランに顔を出すのは至極当然と言えた。
ゆえに同じ時間帯に人口密度が集まった結果、レストランは混雑をする。
「いっただっきまーす」
そんな中、詩亜と歌奈はどうにか見つけた空きテーブルに就いて、向き合い朝食を摂る。
姉妹、対照的な朝食を前にして。
「相変わらず、歌奈ちゃんは好きですよね、バイキング」
「うん、大好き。好きなもの、好きなだけ食べられるって最高じゃん?」
詩亜は基本的に少食である。今朝にしてもそれは変わらない。
皿の上には、ベーコンと、サラダと。軽くあたためたクロワッサンがひとつ。オレンジジュースを添えた、実に健康的かつ軽い朝食だった。
──と。一方、歌奈はというと。
「もう。あんまり食べ過ぎて、動けなくならないでくださいね?」
そもそものテーブル上に並んだ皿の枚数からして、詩亜の倍はある。
和食も、パンも。コーンフレークも──ヨーグルトまで。たくさん、たっくさん。
もちろん取りすぎて、残すなんてことにはならない。このぶんならきっとおかわりもするだろうな、と、妹のことをよくわかっている詩亜は、ぱくぱくと朝食を口に運んでいく妹を見ながら、予測する。
どんどん、お皿の上から料理が減っていく。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。きちんと腹八分目にしとくから」
食欲旺盛な妹は、言ってウインナー・ソーセージを齧る。テレビのCMのような小気味の良い、ぱきりという音がして、それはきれいに割れた。
「ねーさんって少食だよねぇ」
「歌奈ちゃんが食いしん坊さんなんですよ」
「そうかなぁ」
詩亜も、ちぎったクロワッサンを口に運ぶ。トースターであたためたそれは、ほんのり焦がした風味が香ばしくて、バターの味がよく生地に染み込んでいた。
ああ、このホテル。朝食、いい感じ。おいしいな、と素直に思う。
「島の朝ごはんってどんなだろうね」
と。もぐもぐしていた妹が、飲み込むと同時、不意にそんなことを言う。
「島……って、しーちゃんたちのことですか?」
「うん。やっぱ、不知火の実家に泊まってんのかな」
「それは──どうでしょう。ここ何年か実家にはまともに帰ってないって言っていましたし。知り合いが民宿やってるって言ってましたから。そっちにお世話になってるのかも」
「へー、民宿の朝ごはんかぁ。どんなだろ」
りんごジュースのストローをすする。
その頬にパンくずがついているのを見つけて、詩亜は紙ナプキンを差し出す。
拭いて、拭いて。仕草で要求する妹に、思わず苦笑が漏れる。
──もう。甘えん坊さんなんだから。
両眼を閉じた歌奈のほうに身を乗り出して、パン屑をはらってやった。ありがと、と妹は、満面に笑う。
詩亜の大好きな。そして大切な、妹の笑顔だった。
「島にいたころの不知火って、どんな子だったのかな。今と同じで、静かで。あとびみょーにヘタレなんは変わらなかったんだろうけど」
ねーさん、聞いてる?
歌奈に問われ、静かに詩亜は首を振る。
島でのことを、あまり不知火から聞いたことは詩亜とて、殆どなかった。いくら同じクラスで、親友とはいえ。やはりお兄さんのこともあるのだろうか、あまり過去を話す子では彼女はなかったから──……。
「わたしも、わかりません。……だからちょっぴりそれが、悔しくて」
今、しーちゃんはわたしの全然知らないところにいて。
でも、そこは彼女にとって勝手知ったる土地で、そこには勝手知ったる人たちがいっぱいいる。
きっと彼女が、親友と。幼なじみと呼べる子も。
いないわけがない。
「わたしの知らないしーちゃんがそこにはいて。それを知っている島の子が、正直羨ましく思います」
これを、たぶん嫉妬というのだろう。
* * *
そして。詩亜たちが会話の中、交わしていたように──遠く離れた小さな島でも、まさに朝食の時間帯であり。
雪羽の前にも、朝ごはんの献立が並んでいる。
皮目にしっかり焦げ目のついた、塩鮭。
小分けのビニールの、ひと口大の長方形の味付け海苔。
きれいに焼けた、黄身だけ半熟のハムエッグ。ミニサラダを添えて。
真っ白な炊き立てご飯からは湯気が立ち上っている。
素朴だけれど、見た目もきれいな、家庭的な朝食だ。もちろん雪羽自身、お腹だって空いている。
なのに。──なんというか。身の置き場に困る、というか。
箸が、進まない。なんというか。妙に緊張して、食欲の湧かない自分がいる。
「雪羽?」
「っ、……あ、うん。なに?」
「どうしたの、全然食べてないじゃん。食欲、ないの?」
そうやって手が止まっていることに、姉が気づいてしまった。
いけない、気遣わせてしまう──とっさ、一瞬考えるそぶりを見せて、やがて雪羽は不知火に告げる。
「えと、大丈夫。未経験のことばっかだったから、少し考えごとしてただけ。お腹、空いてるよ」
そう。お腹が空いているのはほんとう。なんだか入っていかないだけなのだ。
「ほんとに? 昨日も朝早かったし、一日長かったんでしょ? 疲れてるんじゃない、妹さん。時差ぼけ、みたいな」
そう。なんとなく、落ち着かない。
目の前に座る少女の言うような、「妹さん」なんて呼ばれ慣れてない余所行きの呼称も、どきりとするし、なんだか背中がむずむずする。
姉、不知火の幼なじみという、女の子。この民宿の子──森山さん。
「大丈夫。ほんとに、大丈夫ですから」
その距離感がむずがゆく、もどかしいのだ。
「キンチョーしてんだろ。ユッキー、ここ来るのはじめてなんだし。そんな人見知りしないほうでもないだろ」
ほぐした鮭をひかりに食べさせてやりながら、レイアさんが言う。うん、まさにそれ。
この場所もはじめてなら、森山さんとも昨日、はじめて顔を合わせたばかり。ぎこちないのは仕方ないと、自分でもわかっている。隣にいる姉とだって、こうやって打ち解けるまで時間を必要としたのだから。
「そっか。原因はこっちか」
「あ、いえ。そんなことないです。……いただきます」
すまなそうな表情を見せた森山さんに、むしろこちらが申し訳なくなる。
出会った昨日はハーフアップだった髪を、今日の彼女はツーテールに結んでいる。どうやらこれが、普段の彼女の髪型らしい。朝、起きて顔を合わせたとき、姉がそんなリアクションをしていたから。
ふたりの馴染んだ様子に対して、なんだか少し蚊帳の外の、雪羽だった。
お姉ちゃんしか知らない、女の子。
その子からの、「妹さん」という距離感。
自分から離れた場所に、隔絶されたコミュニティが見えている、という感覚があった。
心配げに、姉がちらちらとこちらを見遣ってくるのがわかる。
あたしと暮らし始めた頃のお姉ちゃんも、こんな感じだったのかな。
自身と、自身のまわりに形成されたその共同体の中にひとり、飛び込んできてくれた姉に、そんなことを思った。
* * *
照りつける太陽の下、石段を上っていく。
まだ午前中だというのに、熱く、暑く。日射がその燃え盛るやりすぎなほどの灼熱を緩めることはなく。
森山さんが帽子を貸してくれてよかった、と雪羽は内心、感謝をする。
地元・九州のプロ野球チームの野球帽。被っていなければ、すぐにでも日射病になってしまいそうだった。
「こっちだよ」
姉は朝着ていた、持ってきた部屋着ではなかった。
いつの間に、鞄の中に詰め込んでいたのだろう。また、こういうのも持っていたのか──ノースリーブの、薄手のワンピース。白のサマードレスに、同じ色の帽子を重ねて。いつものポニーテールも下ろしている。
銀色のヘアピンふたつで髪を飾って、手首には雪羽の渡した、誕生日プレゼントのリボン。
長身でかっこいい姉だけれど、今はそれら服装も相まって、すらりとしていて、女性的で、美しかった。なんだかモデルさんみたいだ。
ヒールこそ高いものではないけれど、足許だって、真っ白なサンダルで涼しげにまとめられていた。
「おじいちゃんがね、私のこういう格好してるのが──女の子してる姿を見るのが、好きだったんだ。ほんとに小さい頃。殆ど家ではジャージだかトレーナーだったし、こういう島だからおしゃれしてどこか出かけるってのも、小学生の頃にはほとんどなかったけど」
「孫の晴れ姿、みたいな」
「なにそれ。ウェディングドレスじゃないんだから。……でも、そんな感じに思ってくれてたのかもね」
まだ、当時では十歳にもなってなかった孫のことを。
兄さんを除けば、おじいちゃんにとっても残った、唯一の肉親だったろうから。
一歩一歩上っていく、姉妹の両脇を、いくつもの段に造営されたお墓の列が流れていく。
丘に毛が生えたくらいの、小高い山を切り開いてつくられた、に山腹の墓地。そこはけっして、幽霊とかを感じさせる、おどろおどろしい雰囲気は一切なくて。
よく開けていて、太陽の下気持ちよく、空から照らし出されている。
それはまるで、この世を去っていった人たちが穏やかに日光浴をしているようでもあって。
故人たちを悼むというより、彼らの安らげる場所として造られたのだと、そう思えた。
「こっちだよ」
二の腕から先が完全に露出した、きめ細かいきれいな姉の手が、雪羽の手を引いて、ひと足先に段を上っていく。
足が早まったのは、もうじき目的の場所が見えるからなのだろう。
山腹の半ばより、もう少し上。けっしてゆるやかではない石段を、息を切らせてふたり、上る。
レイアさんは、来なかった。墓参りはひかりと一緒に、昨日来てすぐに済ませたから、って。
きっと。こうやってふたりで、ふたりきりでやってくることが大事なんだって、気を遣ってくれたのだと思う。
段を踏みしめた姉の足が、そこで止まる。ふたりの身体はゆっくりとカーブを描いて。右に曲がる。
数歩を進んだ先に、それはある。
姉が、今度はぴたりと、そこに踵を落ち着けたから。
なにより、その碑に刻まれた、家名を雪羽が読み取れたから。
「で、……ここだよ」
──駒江家之墓。
そう、ここが。これが、お姉ちゃんの。
お姉ちゃんやお義兄さんの家系が、その人たちが眠る──お墓。
* * *
そのお墓は、きれいに四辺の整ったぴかぴかの長方形なんかのかたちは、していなくって。
むしろ歪な、天然の岩をそのまま誂えたかにも思える、縦長の、でこぼこした墓石で組まれている。
表面はあちこち欠けたり、削れたりしていて。くすんだ色のその上に、ところどころに緑色をした苔だって生えている。
お墓というならば、雨宮の家のそれよりずっと古めかしくて、遥かに年代を感じさせる代物だった。
「雨宮の家のお墓みたいに、ちょくちょく来れる場所じゃないし。この立地だから、潮風にも当たってる。そのせいでどうしたって傷みやすいんだよね。……ずいぶん、古ぼけて見えるでしょ?」
一応、年代的にはあっちと変わらないはずだよ。
そう言って佇む姉の声はしかし、自嘲や羞恥の色をけっして含んではいない。
むしろ、なつかしさや、愛おしさ。帰ってきたんだ、という感慨。
そこに眠る人たちへの「ただいま」が、きっと姉の胸の内にはいっぱいに詰まっている。
「ただいま。おじいちゃん。……父さん」
そうして、その想いを言葉にする。
「帰って、きたよ。そっちではみんな、元気にしてるかな」
雪羽の手を握ったまま。もう一方を伸ばして、墓石の表面を撫でる。それはさながら、故人たちとのスキンシップを図っているかのようであり。
「兄さんはもう、そっちに着いたかな。一緒に、連れて帰ってきたつもりだけど」
「あ……」
喪って間もない故人のことを、先に旅立った故人たちに彼女はこの瞬間託したのだ、と雪羽は思った。
だって。お姉ちゃんが告げたのは、お義兄さん、晴彦さんのことだけじゃなくって。
「お義姉さん。奥さんも、一緒だから。仲良くしてあげてね、ふたりとも」
小雨姉さんのことも。彼女は、彼女の喪った大切な人たちに、願ってくれた。
「それで、兄さんを叱ってあげて。うんと、お説教してあげてよ」
なにやってるんだ、って。
「来るのが、早すぎる。お嫁さんを独り占めするにしたって、ちょっと我慢ができなさすぎたんじゃないか、ってさ」
たくさん、たくさん。叱ってあげて。
「私と、──この子のぶんまで」
* * *
私と、この子のぶんまで。
姉はそう言って、墓の前に佇みながら。雪羽をしっかりと、抱き寄せて。その下に眠る人たちに、向き合わせてくれた。
「紹介するね。私にできた、新しい家族。父さんにも、おじいちゃんにも。きちんと、知ってほしいから」
「おねえ、ちゃん?」
上目遣いに、姉を見遣る。
こちらを見下ろす姉は、優しい目で。雪羽に向かって微笑んでくれて。
改めて、向きあった墓標を見つめる。
深く吸い込んだ息ののちに、発する。
彼女が、伝えたいこと。
伝えたいと思ってくれた、雪羽のことを。伝えたい、聴いてほしい人たちの眠る場所に。
「この子が、私の妹。大切な、妹だよ」
雨宮、雪羽。──雪羽は、ゆっくりと発声される自分の名を聴いた。この世のものでなくなってしまった人々にも、姉の発したその声が届いていてくれたらいい、と思った。
「──えっと。はじめ、まして。お姉ちゃんの、お父さん。おじいさん」
だから、雪羽も自然、言葉を紡いでいた。
なにを言えばいいか。どう語ればいいかなんて、わからない。
そりゃそうだ。故人に向かって、まして会ったことも、顔すら、その存在すら知り得なかった相手に対して言うべき言葉なんて、思いつくはずもない。
けれど考えてのことでなく、なぜだか声が溢れてくる。当たり前に喉の奥から出てくる声が形成する言葉を、雪羽は墓標に向かい、投げかけていく。
「姉さんのこと、お願いします」
そっちで。仲良くしてあげてください。
「絶対、お姉ちゃんは、あたしが守るから。……支えるから」
お姉ちゃんがつらいとき。助けてほしいとき。
きっとあたしが、そばにいるから──……。
* * *
「だって。あたしはお姉ちゃんが、大好きだから」
こうして一緒に島に来て。こうして、大切な人たちに紹介してもらえる。
それが、ほんとうに嬉しいから。
「お姉ちゃんの隣には、あたしがいるから。だから、安心してください」
まだまだ子どもで。
お姉ちゃんより、子どもで。
全然、頼りないかもしれないけど。
この気持ちは一片たりとも、偽りのないまっすぐなものだって胸を張れるから。
それら言葉を最後まで言った瞬間、ぴくりと姉の肩が反応をしたのが分かった。
えらそうなこと、言っちゃったかな。少し、生意気だったろうか。
「また、来ます。何回も。何回だって。お姉ちゃんと一緒に」
墓標に載せられた、姉の手に、自らの掌を雪羽は重ねる。
石のひんやりとした冷たさと、姉の手のあたたかさを両方、同時に感じられる。
亡き人と。
今を一緒に生きる人。両方が──ここにいる。
「でしょ? お姉ちゃん」
再び、雪羽は振り仰ぎ、姉を見る。
一瞬、呆けたようだった姉はしかし、ハッとしたようにこちらの向けた視線に気づいて。
その表情は……なんだかちょっと、泣きそうで。
でも、笑ってくれた。笑いかけた雪羽に、笑い返してくれた。
ああ。これがお姉ちゃんの、生まれた場所。
お姉ちゃんの、はじまりの島。
「──そう、だね。私も、隣にいるよ。雪羽の隣に。私が目の前から世界を失う、そのときまで」
そのときはきっと、雪羽の隣にいたい。
掌を墓標に重ねあわせ、姉妹は頷きあう。
それはまるで、誓い。
はじまりの島。故郷の島での、雪羽と不知火の交わした──無意識の誓いの儀式、だったのだろう。
「……いい、眺め」
ふと一瞬、背中越しに雪羽は、眼下に広がる眺望へと目線を移す。
山の中腹からは、島の南側が一望できる。
ふたりの逗留先である、民宿。
途中、見てきた酒屋さん。
港。島の、家々。
そして広大に広がる──海。こんな素敵な風景を、ここに眠る人たちはいつも満喫している。
何度も。何度でも、あたしたちもここに来よう。
それこそ、何度だって、お姉ちゃんと、このお墓にいろんな報告に来よう。
一緒に、この眺めを見に来よう。お姉ちゃんの、はじまりの場所に。時間や機会は、きっと何度だってある。
雪羽は、そう願った。そう、思った。
姉もまた、まったく同じ気持ちだと、思っていたのだ。
(つづく)
年末進行で火曜更新です。第十九話お届けしました。
12月31日、これで今年中の更新は終了です。それでは皆様、よいお年を。