第十八話 夏の島の、女の子
第十八話 夏の島の、女の子
不知火が、目覚めるというかたちで自身の、寝入っていたその現実を認識したのは、船の航海がほぼ半ばにまで差し掛かった頃合いである。
「……ん……」
どんなかたちであれ、眠りから覚めた覚醒の瞬間というのは多くの場合、身体の失った水分を喉が欲するものだ。
やはりこのときも、不知火を目覚めに導いたのはひとつには、そんな喉の渇きであった。
まとまったものでない、短時間の睡眠特有の、重篤なものではない仄かな頭痛が彼女の眉を寄せさせる。
それは時を置けば問題なく消失する類の変調であって、小休止中だった身体が再起動をするために必要な、最低限の苦痛なのだろうけれども。それでも、爽快と呼べるものではけっしてない。
「……雪、羽?」
その目覚めの感覚の中で、肩に重みを感じる。
穏やかな寝息が、囁くように聴こえてくる。
島へと向かうための、一日に二本しかない定期便のフェリー。朝八時半に佐世保を出発するそれに乗って、はや一時間ほど。無論その時間に間に合わせるために、不知火たちは朝早く、始発の電車に乗って、長崎までやってきた。
当然、夜明け前の真っ暗な中の出立だった。どうにかフェリーに乗り込むと、安心したせいもあってか時差ぼけのように、ふたりこうして、眠りに落ちて。
……つまるところ、だだ広い雑魚寝の、カーペット張りの船室にて。壁を背もたれに、ブランケットにくるまって。寝息を立てて眠りこけている雪羽と、不知火はともにいる。
不知火の、デニムの膝と。雪羽の、ミニスカートから覗く、薄手の7白ニーハイに包まれた膝とがこっつんこする。太腿のあたりの縁取りに、緑色のリボン飾りが通っているのが可愛らしい。
そのせいか、雪羽は一瞬眉根を寄せて。やがてぽわんとした感じに、その双眸を薄く開く。
「あれ……お姉ちゃん……?」
「ああ、ごめん。起こしちゃった?」
「ん……ここ、どこだっけ……」
眠い目を擦って、ふああ、と欠伸をひとつ。ほんのつい先ほどまでの不知火がそうだったように、やはり朝早かったのが効いている。すっきりとした目覚めとは、彼女もいかないようだった。
「フェリーの中だよ。あと一時間ちょっとくらいかな。いいよ、もう少し寝てて」
「んー……喉、渇いた。おなか、空いた」
寝ぼけ眼の妹は、虚空を指先でかき回すように、飲み物をねだった。
幸い、ふたりの傍らには乗船直前、コンビニで取り急ぎ買い求めたペットボトルのドリンクと、いくつかのおにぎりとがあった。
その袋を持ち上げて、渡してやる。
「ありがと」
ビニールをまさぐって、引っ張り出したスポーツドリンクを、雪羽はこくこくと嚥下していく。
その仕草が、次のおにぎりを探すぼんやりとした様子がすごく、あどけなくて。微笑ましくって、ああ、かわいいな、と思える。こういうのって、姉馬鹿なのだろうか?
「シーチキン。もらってもいい?」
「うん。いいよ、食べちゃって」
朝、出がけにトーストをつまんでから既に数時間が経っている。不知火もそうだし、小腹が空いてきていて無理もない頃合いだ。
頷いた不知火に、頷き返して。もぐもぐと、雪羽はおにぎりを口に運んでいく。
「食べたら、眠る?」
「……うん」
咀嚼をしながら。頷きながら。雪羽の瞳は既に、再びとろんとし始めていた。
「このブランケット……お姉ちゃんが、あったかくって。冷房に、ちょうどよくって……気持ちよくって」
安心、する。眠く、なっちゃう。
雪羽の寝入りの言葉は、不知火にとってそれは嬉しいものであり。
冷房で夏風邪など引いてしまわないよう、改めて抱き寄せてやる。肩のところで少しっずり落ちたブランケットを、かけなおしてやる。
「いいよ。着いたら起こすから」
そう伝えたとき、既に雪羽は聴いていなかった。いや、微かにぎりぎり、聴こえていただろうか?
妹の寝顔がそこにはあって。それが、微笑ましい。
右手首の腕時計を再び見遣る。
あと少しくらいなら、私も寝てもいいかな。
カーペットの船室には、不知火たち以外ひと組、ふた組ほどの客が散発的に、思い思いに足を伸ばしている程度だった。
島は漁期、真っ只中のはずだけれど。出稼ぎに来る漁師さんたちは、既に島に溢れている季節だった。だからお盆明けとはいえ、船室はそうやって、いかにもな閑散とした様子を見せている。
これなら不知火も寝たって、さして無用心ということもないはずだ。
「……そういえば、前もこんな風にひとつの毛布で眠ったね」
雪羽の寝息に、呟くようにひとりごちる。
あのときは一緒になって風邪を引いて。治りかけなのに、ベッドから抜け出して。ちょっぴりふたり、悪い子だった。
今は気付けば当たり前に、雪羽が風邪を引かないよう心配している、見守っている自分がいる。
少しは進歩や成長、できているってことなんだろうか。
思いながら、不知火もまたその瞼を閉じる。
おやすみ、と。妹に囁きながら。
島は、もうすぐ。あと少しで、雪羽とともに故郷に訪れることが出来る。
その期待と、不安と。
喜びとともに、眠りに落ちていく。
* * *
「おー、遅かったな、お前ら。高波で船、遅れたか」
船着場から、船の降ろしたタラップを通じて港に降りて。
潮の香りとはじめて見る風景とに感じていた新鮮さは、その人の姿によってもはやへったくれもなくなっている。
「……なんでいるんですか、レイアさん」
「なんでとはひどいなー。せっかくピックアップしてやろーと車まで借りて迎えに来てやったのに」
そして、フェリー・ターミナル──とはいってもそんな大規模なものではない、せいぜいが二、三階建ての小さなビルだ──から出た雪羽たちは、言葉を交わしている。
なぜだか、そこにいた相手と。
黒のレンタカーを背に、麦わら帽子をかぶせたひかりを抱いている、レイアが。なぜだか、ひと足先に、ふたりを待ち受けていたから。
初上陸の感動より、その驚きと不思議さとが、勝ってしまった。
「なんで。どうやって?」
「んー。昨日の夕方、飛行機で。つってもちっさなセスナだけどな」
島の名は有川島。もちろんその名前は姉から聞いていたし、最初の一歩を踏みしめたときには、ここがお姉ちゃんの故郷か、なんて感慨もあったのだけれど。
姉も言っているように。
……なんでいるの、当たり前のように。始発でやってきたふたりより、早く。
セスナってなに。昨日って、それじゃあたしたちが動くより早く、こっちに来ていたってこと。
「もう。長旅はレイアにも、一緒に連れて来るひかりにも大変だろうからって敢えて声かけなかったのに。来ちゃったの。大変だったでしょ」
口を尖らせる不知火。
こくこくと、雪羽も彼女に頷く。
小さな子を連れてここまで、大変だったろうに。
「なんだよー、歓迎しろよー。それにお前ら忘れてねーか。ワタシもひかりも、ニホンに来るまでどれだけ飛行機で長旅してきたと思ってんだ」
今更このくらい、どうってことねーよ。
──そう言われればなるほど、ぐうの音も出ない。
「ま、いいだろ。それより乗れよ。暑いだろ」
「あ、うん。ありがと」
レイアに促され、行こう、と姉がこちらを振り返る。
頷いてふたり、自身の荷物のスポーツバッグを持ち上げる。
ころころと引いて移動できる、キャスターつきのキャリーバッグは今回持ってきていない。
けっこう坂道や、でこぼこ道もある島だから、という姉の勧めがあったからだ。
車の助手席にはチャイルドシートが既に備え付けられている。ひかりと一緒にきたのだから、当たり前か。
「トランク、使う?」
「大丈夫。抱えて乗るから」
そうか、と言って、レイアはキーレスエントリーのボタンを押す。後部座席にそれぞれ、雪羽と不知火が身を滑らせる。
「しかしお前たち、島での移動どうするつもりだったんだ? ワタシが来なかったら足、なかっただろ」
全員がシートベルトを締めた頃合いで、四人を乗せた車がゆっくりと動き出す。
「タクシーでも拾おうかと。タクシー会社は調べてあったし。最悪、本数少ないけどバスだってあるし」
「日に何本あると思ってるんだよ。この暑さじゃ待ってる間にふたり揃って日干しになるぞ」
そんなふたりのやりとりを聞きながら、雪羽は窓の外に視線を移す。
港の風景が流れていく。
海岸線の道を、車は走っていく。──レイアさんが、ウインドウを開けてくれた。吹き抜ける潮風が涼しくて、気持ちよかった。
「──ふふっ」
「雪羽?」
かもめかな。うみねこかな。水鳥たちが防波堤のあたりをさかんに飛び回っていた。
雲ひとつない晴天で、島は太陽に燦々と照らし出されている。
「ほんとにあたし、島にいるんだなーって。お姉ちゃんの、生まれた島に」
大好きな人が、生まれた場所。
そして姉が大好きだった人も、生まれた場所。そこにやってきている。自分の足許にそれが広がっている。
その現実が、なんだかとても不思議で。
同時になんだか、心をわくわくさせている。──嬉しい!
「そんな大袈裟な場所じゃないよ。島自体は、車でほんの二時間もあれば一周できる小さなものだし」
「えー。でも、はじまりの場所だー、って勿体つけたのお姉ちゃんでしょ」
「それはそうだけど。……なんか、期待されると照れるっていうか」
右手に広がる海岸線からは、その更に外の、海を一望する。水平線が、こんなにもいっぱい伸びているなんて。
海まで遠い、普段の生活圏ではなかなか見られない光景だった。
空も、海も。蒼くって。きれいで。ほんとうに、テレビの中の南の島にいるようですらあった。
「んで、泊まりは? いつものとこでいいの?」
「ああ、うん。そうだね。予約ももうお願いしてある」
「オーケー。だったらワタシたちと同じか」
「えっ」
ステアリングを握るレイアと不知火のやりとり。
雪羽が小さく声を上げると、バックミラー越しにレイアは怪訝な表情を見せる。
「なに。ワタシたちが一緒だとヤなの?」
「いや、そうじゃなくって。予約? でお泊り、って。どこか、泊まるの?」
「え? そりゃ、泊まらないと」
「だわな。野宿でもする気だったんか」
「そういうことじゃなくって。……てっきり、お姉ちゃんと、お義兄さんの住んでた家に行くのかと思ってたから」
きょとんとした顔のふたりに、おずおずと言う。
一瞬、ふたりは瞬きをして、言葉を切って。やがて、
「ああ、そっか。言ってなかったね。うちには何年も、だれも住んでないから。行っていきなり泊まるのはさすがに無理かな」
「だなー。掃除とか、イチからやろうとするとなぁ。ザ・日本家屋って感じで、なまじ広いだけにすげー大変そう」
苦笑を交わしあいながら、それぞれに納得したように頷きあって。
「泊まるのは、すぐ近くにある民宿。もちろん、うちにもあとで案内するけどね。雪羽には見てもらいたいし」
リゾートホテルなんかみたいには、そんなに大きくはないけれど。昔からそこにある、ご近所さんだった民宿。出稼ぎに来た漁師さんなんかで、けっこう繁盛している。
「露天風呂もあるし。そこの家族ともみんな昔馴染みなんだ。いい人たちで、いいところだよ」
「へえ」
温泉のある、離島の民宿。なんだかふつうに旅行みたいだ。
「いいなぁ」
「そこの子とは、小学生まで一緒で。中学に入ってからも里帰りのたびに会って、遊んでた。昔からの幼なじみなんだ」
「え」
「雪羽たちと出会うまで。詩亜たちと仲良くなるまでは──ほんとうに。一番の親友だったな。もちろん、今だってそう思ってるけれど」
* * *
森山 観月にとって、この季節は。時期は、特別だった。
「おばちゃーん。朝に電話で頼んでたやつ、もう揃ってる?」
大好きな、海と。水泳と。それらがシーズン真っ只中であるからというだけではない。小麦色に焼けた肌がそう示すように、季節を満喫しているとしても、だ。
花火。夏祭り。それらイベントが盛りだくさんだから、ということでもない。
この季節、島はさまざまな地方からの、出稼ぎの漁師たちで既に賑わっている。
地方特産の、トビウオ。こっちの言葉では、「アゴ」。殆どの地域では秋が漁のピークだけれど、海流の関係とかでこの辺りの島ではお盆のこの時期から漁が始まっている。
出稼ぎの漁師さんたちを毎日、家業である民宿でもてなす。そのあくせくとした日々の中、明日にだって彼女たちが帰ってきてくれるかもしれない。
その、期待ができる時期だったからだ。
島で唯一の高校に通い始めた、今年の夏だってそう。
観月は、待っている。
親友が島へと戻ってくる、その日を。
「ゴメンねー。うちのお母ちゃん、注文すっかり忘れてたみたいなの。お盆も明けたばっかだってのに、申し訳ない」
コンビニなんて、島にはたった二軒しかない。しかもそれも、島の中心、回転寿司だとか、携帯電話ショップだとか。チェーンの本屋だとかが数軒密集した、辛うじて賑わっているといえる商業街にあるきり。
歩いてすぐの、馴染みの酒屋さんに、観月は親から頼まれたおつかいに来ている。
味噌だとか、醤油だとか。けっこうたくさん。お盆明けすぐに、離島の個人商店に発注する量としてはなかなか無茶な数だった。
その無茶に応えて揃えてくれた、店主のおばさんには感謝することしきりだった。いつもだったら定期便の業者に頼んでいたはずのものだ。急な要望に、よくぞどうにかしてくれたものだと思う。
ぺこりと頭を下げる観月に、おばさんは気にするなとばかりに手をひらひら振って見せて。逆に、訊いてくる。
観月ちゃん、今日も元気だね。いや、いつも以上じゃないの。
なにか、いいことあった? ──って。
「へへっ。……うんっ」
ハーフアップにまとめた、柔らかなウェーヴがかかったその髪を揺らして、観月は笑い返す。
「あの子がね、帰ってくるの」
それは酒屋さんたちにも、よく知った少女のこと。幼い頃、ふたりで一緒に、ここで瓶のコーラを買ってその場で飲んでいた。ときどき、サービスだよ、って。おばさんがドーナツなんか、出してくれたりもした。
「晴兄を連れて帰ってくるって、電話があったんだ」
その連絡を受け取ったのは、観月自身ではない。電話が民宿にあったとき、彼女は学校で。吹きさらしの、太陽がかんかんに照りつけるプールで、部活に勤しんでいた。
鍵なんてかかっていない。別に悪さをする人間だっていないから、入りたい放題。好きに練習できる。
母から、その旨を聞いた。聞いて、心から嬉しかった。楽しみだった。
そして今日が、その日だから。心だって躍ろうというものだ。
「それじゃ、ありがとうございますっ」
渡すよう言われていた、代金の入った封筒をおばさんに差し出して。自転車の荷台に荷物をくくりつける。
幸い、瓶なんかは入っていない。それでも、何本かペットボトルの、大きなやつらが混じっているダンボールはそれだけで結構な重さがあった。
よっこいしょ、なんて声が出た。年寄り臭いだろうか?
ちょっと、漕いでいくのは無理かな。愛用の赤の自転車の隣に並んで、押していく。
真夏の、鉄板のように熱くなったアスファルトの道。それもきちんと舗装されているのは海岸線のコンクリートと、この辺りの住宅地までだ。
民宿の裏手には小高い山が広がり。そこを切り開いて、山肌に沿って造営された、この一帯の家々の、代々のお墓が聳えている。
棚田のように、段々になって。真ん中を貫く百段近い石段の左右に、それぞれの家の墓標が立ち並ぶ。
都会ならばすぐ裏手が墓というのは縁起の悪いもので、遠ざけられるべきものなのだろうけれど。ここは離島。土地は限られているし、家々にとって亡くなった人々というのは何れもが、身近な存在で、忌避の対象などではなかった。
そういう、ごく小さな規模の、しかし小ぢんまりとまとまった、社会だった。
「っと?」
観月が自転車を押す、その脇を。一台の車が、充分に彼女と距離を空けながら通り抜けていく。
後部ウインドウに貼られた黄色のロゴのシールで、島のレンタカー屋のものだとわかる。黒の自動車。三人──いや、四人。助手席の、荷物のようだったそれはたしかにチャイルドシートだった。子ども連れの、四人。
「……ってことは」
その心当たりは、ひとつしかなかった。車自体にも、見覚えがあった。
つい、ほんの一時間ほど前に、民宿の駐車場から出て行ったもの。それ自体はぼんやり、ああ、あれだ、くらいだけれど。
でも、あの車は──レイアさんの乗ってきた車だ。
「帰ってきたんだ」
荷物で重い自転車を、押す両腕に力がこもる。それは殆ど無意識に、ごく自然に。水泳で鍛えた両脚も、いつしか駆け足に変わっていた。
運転していた、金髪の、眼鏡の女性。昨晩だって、久々に会った観月のことを覚えてくれていた。一度、二度。数年前、晴兄たちと一緒にやってきた際に会ったきりだというのに。
彼女の車が帰ってきたというのは、そういうことだ。
「──不知火っ!」
民宿の、普段自転車を停めている裏手の勝手口ではなく。
駐車場に、自身と自転車とを滑り込ませる。足許に敷き詰められた砂利が、ぱきぱきと音を立てた。
「不知火、おかえりっ!」
灼熱の太陽の下、僅かとはいえ走った観月の頬には汗の雫が伝う。
けれどその上気は、観月にとって眼中になく。
向けた視線の先に、長い黒髪の、ポニーテールの少女を臨んでいる。
ぴくりと反応した少女はやがて、ゆっくりとこちらに目を向けて。
驚いたように、そして次には、嬉しそうに柔らかく笑う。
「──ただいま。みっちゃん」
ああ、そうだ。観月のことをこう呼ぶ友人は、彼女だけ。
駒江、不知火だけ。
その少女が、観月の知らない少女と、ともにいる。
「帰ってきたよ。……兄さんを。妹を、連れてきた」
そう言う、晴兄の姿はどこにもない。けれど、知らない少女はたしかに、不知火とともにいて。
ハンカチで、彼女の汗を拭ってやっていた。ありがとう、と短く不知火が伝えるのが、聞こえた。
妹、って。その子は。──その子は、だあれ。
(つづく)




