第十七話 亡き人たちの、見守る場所
第十七話 亡き人たちの、見守る場所
四十九日のお参りにやってきたときに、思ったんだ。
都合よく晴れてたら、きっとできるんじゃないかって。
「こういうのも、いいよね。だって、はじめてだもん」
「──うん」
「月命日にいつも来てるから、その感覚も薄いんだけどさ。それでも、……最初のお盆。最初くらい、四人一緒なのを、実感したいじゃない」
はじめての、お盆なんだから。
お墓の掃除と、お盆飾り──花の飾りつけも、お供え物も終えて。
風に乗って、お線香の香りがふたりの眠る場所から漂ってくる。
お寺と接した墓地の片隅は開けていて。旧い大樹のその下に、きっと御参りに来る人たちのために用意されているのだろう、木造の古びた長椅子が、ベンチとして置かれている。
毎月来ている場所だけれど、このベンチを使うのは初めてだ。
ふたりそろって夏服の制服。腰を下ろして、持ってきた銀の保冷バッグを開く。
サンドイッチのお弁当が、雪羽たちふたりに挟まれて。ベンチの上に広げられる。……いや、四人か。
缶のコーラは四つ。紙のお皿と、割り箸も四つ。
「ありがと」
色とりどりの具のサンドイッチに、とろっとしたタレの絡んだミートボール。ポテトサラダ、プラスティックのかわいらしい楊枝に刺した、魚肉ソーセージとうずら。チーズ入りの竹輪。どれも、保冷剤で冷えきっても、多少ぬるまっても大丈夫な献立たちだ。
「……いただきます」
その中から姉の指先が手に取るのは、光沢のある赤を挟んだサンドイッチ。
ふたりが嫌いなトマトでもなく、オーソドックスなハムのそれでもなく。
「最初に、それなんだ?」
姉の選択に、雪羽は軽く笑う。
なんとなく、そうするだろうなとも思っていた。その選択肢を今日のお弁当にと希望したのは、不知火からであったから。
「兄さんの、好物だったから。ほんとになんの変哲もない、ただのイチゴジャムなんだけど」
そう。安い、一番安い、紙カップのジャムを挟んだだけのジャムサンド。
兄はこれが好きだったんだ、と。彼女から伝えられて。すごくシンプルなそれを、雪羽もつくった。
そんなふた切れを不知火は手にとって、ひとつを自分の皿に、もうひとつを、そこから取るもののいない皿の上に置く。
「じゃ、あたしも」
うずらの卵と、魚肉ソーセージ。姉は、これらふたつが好きだった。
肉のソーセージより、牧歌的で、昔ながらで。この味を気に入っていた。
「ほんと、医者に演奏家で、お金は持ってたはずなのにね」
高級料理やらなにやらより、こういった素朴な、ごく簡単に手に入るものがうちの姉と、義兄は好きだった。
そのことが、なんだか可笑しくって。
小雨のための皿に、うずらとソーセージの楊枝を置きながら、雪羽は微笑を自分に禁じえない。
自分のぶんを指先に取って、口に持っていく。
姉もほぼ同時、自身のジャムサンドを頬張っている。
「「……うん、おいしい」」
おいしいよ、姉さん。
おいしいよ、兄さん。
このお弁当をつくった本人である雪羽としてはいささか手前味噌である自覚はあったけれど、でも、心の中でつい、語りかける。
どう、おいしい、姉さん。──お義兄さん、って。
見ててくれているか。
あっちで一緒に味わってくれているか。
きっと答えは、イエスなんだろうな、って。
妬けちゃうくらいに、ふたり仲良く。きっとあたしたちを、見下ろしている。
* * *
お墓参りをしているのは、こちらの姉妹も同じ。
「ただいま、おじいちゃん」
遠い長崎の地で、祖父母の墓標に姉妹は、手を合わせている。
芹川 詩亜と、村雨 歌奈の姉妹は揃って瞑目し、静かに亡き人々の前に向き合っている。
歌奈にとっては親代わりだった祖父母。
福岡の叔父夫婦に引き取られた詩亜にとっても、節目に会う程度ではあったにせよ、よき祖父母だったその人たちが今、この墓の下には眠っている。
そしてその隣には──、
「かーさんも。ただいま。とーさん、そこにいる?」
母の、小さな墓石。父の遺骨は、ないらしい。事情はよくは、知らない。
花を供え、水で清めてやって。お線香を置いて、頷く。
もう一度改めて、手を合わせる。じっくり、ふたり気の済むまで、両目を瞑って祈ることしきりで。
やがてそれを終えると姉妹ふたり、顔を見合わせて微笑みあう。
「雪羽たちも今ごろ、同じような感じなのかな」
真夏の日光が照りつける、開けた空の下である。
ワンピース姿の姉が日傘を差して、……そして歌奈へ歩み寄る。取り出したハンカチで、頬を伝った汗を拭ってくれる。
「ありがと」
「いいえ。日射病になってもいけないし、桶を返して戻りましょうか」
「うん」
おじいちゃんたちが、母が暑くないように。桶に残った水を最後まで、柄杓で墓石にかけてあげてから、歌奈はそれを持ち上げて歩き出す。
またくるね。そんな言葉を、後に残して。
姉が肩を寄せて、日傘を傾けてくれたから、それに甘えて相合傘をする。
石畳の上を、歩いていく。
「お昼、どうしようか」
「ホテルに戻ってからでもいいですけど、歌奈ちゃんはどうですか?」
「けっこうお腹空いてる。このまま行く? おじいちゃんたちも一緒、って感じがしてそれも悪くないなって」
「それもそうですね。じゃあ、お店は任せても?」
「うん、オッケー」
歌奈としては、長崎へと戻ってきた感はある。そういう感覚で、ここまで今日やってきた。
だがかつて住んでいた家は、既にない。昨年末に祖父を喪い、家に独りとなって。中学を卒業すると同時、引き払った。
一応は家主として、祖父が遺してはくれたけれど。叔父さんたちとも話し合って、借家に出すことにした。だから今は別の家族が住んでいる。つまるところ、雪羽のケースとよく似たかたちをひと足先にとっていたわけだ。
姉も、叔父も。高校入学までの間、福岡に来ればと言ってくれた。逆に姉の側から長崎に来ようか、とも。
もちろんそれは魅力的で、でも同時に受け容れるべきでない提案だった。
ほんの二、三ヶ月のために自分が学校を変えるのも。
姉に学校を変えさせるのも、違う、と思ったから。
どのみち、その頃には既に、高校の進路も、姉とのふたり暮らしの準備も着々と進んでいたのである。それまではこの場所、この環境で自分が頑張るのが筋だ、と思っていた。しっかり、長崎でのおじいちゃんたちとの生活を完遂する。そうすべきだ、と。
ご近所さんや、知人たちに助けられながら中学卒業までのその間を、歌奈は独り暮らしでやり遂げたのである。
「おうちには行きます?」
「んー。ま、外から見るくらいはしてもいいかな」
「はい。行きましょう。わたしも、久しぶりに見たいです」
だからこの地は、歌奈にとって「やりきった」場所なのだ。
こうしてまた戻ってくるし、顧みもする。
けれど今はここを居場所とはしていない。自分の巣立っていった場所だから。姉と一緒に時折、帰ってくる。母や祖父たちのもとに、元気な姿を見せに来る。
歌奈がそういうスタンスであること。それは亡くなる前、おじいちゃんも望んでいたことだ。
「叔父さんたちは?」
「ひと足先に来て、今朝日本を発ったそうです。時間がなくてすまない、って」
「いんや、きれいにお墓、掃除してくれてたし。むしろ遠い海外から戻ってきてよくやってくれたって思うよ」
そして姉の暮らしていた家も、もうこの国にはない。
姉の高校入学と同時に、叔父夫婦も海外転勤の話を受け容れて、旅立っていったから。
彼らに実の子はなく。姉が殆ど、娘同然だった。その娘が巣立つなら一緒に、ということだったらしい。
血の繋がった両親は幼くして既に亡かったけれど。周囲には恵まれた姉妹なんだと我ながら思う。
雪羽たちといい。アタシたちも自分を不幸と実感はできない。……優しい人たちに、囲まれた。
「ああ。よっそう──『吉宗』行こうか」
「よっそう?」
「ほら、市内の。昔、ねーさんが叔父さんたちと来たときに一緒にいった。でっかい茶碗蒸しの」
「あ。そういえばありましたね。豚の角煮と、蒸したお寿司の?」
「そうそうそれそれ」
おじいちゃんの、好きだった店。
ふたりで、行ってみよう。
* * *
こっちだよ、と姉が手を引く。
お墓参りの、帰り道。
行きと反対の電車に乗るのではなく。
行きと同じ方向に進む電車に乗って、ふた駅。──さして街中という風もない、閑静な道をふたり、姉妹は手を取り合って、歩く。
「雪羽と暮らし始めるまで、今の街に接点はなかった。降り立ったことも、そこに誰かが住んでたということもなくて」
だけど何度か、見て。おぼろげにその存在を認識してもいた。
今いるこの地に。街に。やってくるたび。その電車の車窓から、その行き来の傍らに眺めて眼にしていた。
「兄さんから新しい家の場所を聞いて。……お墓の場所を、雪羽から聞いて、はじめはちょっと驚いた」
でもなんだか、少し納得もした。
まったく同じ場所ではなく。
眼と鼻の先というにも、ほんのちょっと、遠い。
けれど兄と義姉の間には本人たちが知らず知らず、距離近付いた縁があったかもしれなかった。
それぞれがそこを想像を出来る場所が、ともにあった。
そしてそうやって幾度か近付いたかもしれないふたりの存在が、遠い海外の地で交差をした──、ってさ。
「もしかしたら小雨さんも、この街の。私と兄さんとの繋がり、知ってたのかなって。もちろんそれは圧倒的な確率で、そんなことありえなくて。思うこと自体が自惚れなんだろうけれど──……」
とめどなく、姉はぽつぽつと語っていく。
真夏の、道。アスファルトを歩いているのは、制服姿のふたりきり。
今から、不知火お姉ちゃんが雪羽を連れて行こうとしているところを、小雨姉さんも知っていた?
……どうだろうか。少なくとも雪羽には、この街の駅で降り立ったことのある記憶はない。あるいは幼い、ものごころつく前。印象に残るより以前にはあったのかもしれないが、今現在の覚えとしては持ち合わせてはいない。
亡き姉が生前に、この街へと独りでやってきたことは、あったのだろうか?
なまぬるい風が吹く。さして冷たいわけでもないそれは、けれどそれなりに強くて。吹き抜ければ、さわさわと植え込みを揺らし、汗ばんだ肌に心地よい。
「もうすぐだよ」
思考に入っていきそうになって、手を引く姉の声に我に返る。
ちらと目線で雪羽を見た姉は、そのまま、目で前方を指し示す。
その視線の先を、雪羽も追う。
「あれが私の──兄さんの、終着点だった場所」
道の先。そこにはたしかに、終着点という表現がふさわしく思える場所がある。
枯れ果てた、旧きもの。
「映画館……?」
一軒の。古びた、木造の……朽ちた劇場が、そこにある。
* * *
やはりというべきか、想像したとおりに、……その建物の中は埃に塗れていて、黴くさい匂いに満ちていた。
空気なんてまるで入れ替わることのない空間。澱んでいる。なのに、真夏だというのになぜだか、蒸し暑さもない。むしろ、ひんやりとしている。
姉が南京錠に差し込んだ鍵はがりがりと錆びの音を立てていたし、そうして押し開いた扉も軋んで、その重さに姉は顔を顰めていた。
老朽化しきった、すべてが終わった場所。そういう印象を、雪羽は抱いた。
「ここは?」
それは外観どおりの、古びた、その機能をやめてしまった街の映画館。
今日びの、大型ショッピングモールなんかに併設されているような、大型シネマ・コンプレックス型のものなどとは比べるべくもない、小さな、小さな。吹けば飛んでしまうような、かつてそこに存在を「した」、映画館で「あった」場所だ。
と、いう以上のことは、雪羽にはわからない。
埃の降り積もった、ロビー。
売店やチケット売り場だったのだろう、ショーケースの備え付けられたカウンターがある。
年代ものだとひと目でわかる、朽ち果てた錆びだらけの、見たこともないような缶ジュースたちの並ぶ自販機。
姉はそれらの前を、通り過ぎていく。
雪羽の問いに応えるでなく。再び、こっち、と促して、手を伸ばす。
姉の前には、ビロードの張られた、重厚な紅い扉。
その柄を握って、大きく息を吸い込んで。姉はそれを押し開く。
やはりというべき光景が、扉の先には広がる。
「ここはね。私と兄さんの、おじいさんのやっていた劇場なんだ」
その光景を前に、ようやく不知火は口を開く。
これまた外観から想定できる、小さな容量。
おそらくは百人も入ればいっぱいになってしまうであろうそこには、扉とは違う色の、同じ生地が張られた椅子が並ぶ。
奥に見える、埃がまとわりついてくすんだ、白いスクリーンも、昨今の映画館の印象にあるものと比べるとずいぶんと小さく見えた。
スクリーンのぶら下がったそこは舞台でもあった。姉の言った「劇場」という表現からして、映画だけでなく部隊演劇の会場としても使われていたのかもしれない。
「おじいさんが、映画好きで。始めて。父さんの代に、その役目を終えた。父さんは跡を継がずに、医者になったからね」
だからこうして、建物だけがひっそりと残っている。
だれにも、なにも使われぬままに。
「兄さんも、……たぶん半分くらいは私のために、医者になってしまった。だから手付かずは変わらなかった」
「あの。終着点、っていうのは?」
姉の細めた目は、遠くを見ているようだった。たぶん、目の前の光景ではなく。そこから思い起こされる過去の、そして人々の記憶を彼女は今、見つめているのだと思う。
姉自体がその記憶の中に行ってしまったようで、これまでになく、雪羽には姉が遠く感じられた。……ぞくりと、身震いがした。
それは雪羽の、まったく知らない姉だったから。
「父さんも、兄さんも。この場所を手放さなかった、ってことさ」
職業として継ぐことはなく、この劇場を再開することはなくとも。
自らの傍に、置き続けていた。
「残念ながら、父さんのことは兄さんからの又聞きだ。でも、兄さんからは昔、ここで言われたことがある」
今はまだ、この場所をどうこうするのは無理なこと。
いつか、この場所に戻ってきたい。それはしかし、今じゃない。
「ずっと先かもしれない。でもおじいさんや、父さんの願いを継いで。リタイアをしたあとでもいいから、この劇場に人を呼び戻したい、って」
「……また、映画館をやるってこと?」
「いいや。時代にそぐわない場所だともわかってる。ただ、きれいにして。一度きり、一度でいいから。近しい人や大切な人と、この場所に火を灯したいって、言っていた」
ほんの、ささやかなものでいいから。
おじいさんのつくった、この場所でそうしたい。
「兄さんが旅立ってしまった今、私もその願いを持ってるよ、雪羽」
ああ。だから、終着点。
日々の生活とか。将来の夢とか。──姉にとってまだわからないと行っていた先々のことより、もっとずっと、遠くにあること。
すべてを終えたあとでいいから、辿り着きたい場所。それが……ここ。
「ねえ、雪羽。わがままなことを、言っていい。雪羽を、私の勝手に巻き込んで、いい?」
先導するために握られていた掌に、再び姉からの力が篭る。
重なり合っていた掌同士から、指と指とを、交差させあっていく。
わがまま。それは幾度も互いに対し、繰り返してきたフレーズ。
「遠い。遠い、未来だよ。そのときには私も、雪羽もそれぞれに生活があって、それぞれのやるべきことをやっているかもしれない。だけどね」
でも、いつか。──いつか、ね。
「私、この場所で雪羽のヴァイオリンを聴きたい。彩夜や、詩亜や、歌奈たちや。レイアや、大きくなったひかりたちと──雪羽の、やさしい音色を」
私には映画は分からない。けど、雪羽のヴァイオリンは、大好きだから。
ダメ、かな。
遠い光を湛えた双眸が、こちらに振り返る。
その輝きが。姉の発した言葉たちが、雪羽にその光景を想像させていく。
姉が緊張をしているのがわかった。そう、普段落ち着いていて、格好よくって。頼もしいのに。時々こうやって、不安げになる。
こっちが妹なのに、護ってやりたくなる。
けれど不知火へと雪羽が発した言葉の立脚は、そこではなくって──、
「……うん。いいよ」
純粋に。その光景を、雪羽も素敵だな、と思ったのだ。
姉がいる。
みんながいる。
あたしと、ヴァイオリンが、いて。ある。
「いいに、決まってるじゃん」
そんなコンサート。小雨姉さんほどうまくはきっとできないけど。
遠い未来の、自分へのご褒美でしかない。
「あたしも、お姉ちゃんの終着点に、一緒に行きたい。一緒に、そこにいたい」
* * *
──それで。お姉ちゃんはここにあたしを、連れてきたかったんだね。
そう言ってくれた雪羽の穏やかな声に、けれど心安らぐばかりでないのは、その理由を不知火自身が一番よくわかっている。
ああ。また。
私は彼女に、罪悪感を抱いている。
こんなにも優しい雪羽に甘えている自分に。
これでもまだすべてを話しきれてはいない自分に、嫌悪を持っている──……。
「ここだけじゃ、ないよ」
大丈夫。大丈夫だ、きちんと伝えられる。すべてを伝えきると、決めたのだ。
ここで、過去の人たちとのことを。
そしてあの場所で、未来のことを。いずれも、確定しきっていることを。
「雪羽、後ろを見て」
絡めあい、握りあっていた指先を、不知火はそっと解く。
雪羽の制服の立てた衣擦れの音が、彼女が不知火の言に従って身を翻したことを告げている。
「扉の横に、絵がかかっているだろ。それが、私と兄さんの故郷」
きっと彼女はその油絵を、見つめている。
蒼い海に囲まれた、小さな島の絵。
ほんとうに。なにからなにまで妹を振り回して。悪い姉だ、と自嘲をする。
「私たちの生まれ育った場所。駒江の実家があった、そしてお墓のある島。名前が、有川島っていうんだ」
既に、伝えてはいる。
連れて行きたい場所があること。
いいよ、と。とうの昔に、雪羽も頷いてくれた。だからこれは今更のこと。
不知火自身が決心を鈍らせてしまわないための──儀式。
「私のはじまった場所なんだ。おじいちゃんに。父さんに。雪羽のことを紹介したいんだ」
(つづく)