第十一話 とても小さな、孤独の「ひかり」
第十一話 とても小さな、孤独の「ひかり」
晴天が、雲ひとつなく広がっている。
休日の行楽地──いくつもの、バリエーション豊かなアトラクションを、水面を数えるそのプール施設は、家族連れや、友人同士、カップルなど、思い思いの水着に身を包んだ人々に溢れていて。
雪羽も、来るのははじめてだった。
流れるプールや、砂浜の造成された人工の、波打ち際のプールなんかを目にした歌奈や詩亜は、九州にもこんな感じのリゾートがあるよね、なんて言っていた。
皆が、楽しんでいる。
皆が、華やいでいる。
そんな中にふたりだけが無言に、静まり返っている。
賑やかさに満ちたプールサイドの情景の中。
雪羽と不知火だけが揃い黙りこくっている。
水着姿に、パーカーをそれぞれ羽織ったまま、ベンチに向かいあい。座り込んでいる。テーブル上の飲み物も殆ど、手つかずに。
プールの中。ビーチボールを跳ね上げ遊ぶ、歌奈たちを眺めている。
「お姉ちゃん」
テーブル上にくずおれるように突っ伏しながら、雪羽は姉に手を伸ばす。
指先と指先が重なって、絡まりあって。指切りをするように小指と小指とが、結ばれる。
「……うん、大丈夫。わかってる、つもり」
雪羽の思っていること。どうしたいか。なにをしたいか──その考えていることをたぶん、理解している。
水遊びに興じる友人たちを流し見つめて、姉は静かにそう言う。
「そのうえで、迷ってることも。わかってるよ」
私も、同じだから。私も、迷ってるから。
遠い目をして、不知火は雪羽に告げる。
「兄さんも、小雨さんも。いつも私たちの予想だにしないことを、平然とその上を行くよね」
まったくだ、と。雪羽もまた思う。心の底から、不知火へと頷く。
眼鏡をかけた、金髪の女性のこと。彼女の連れた、ひとりの幼い少女のこと。
「どうしたら、いいんだろうね」
さしあたっては、こうして沈んでばかりいてはいけない。そのことは雪羽にもわかっている。
一緒に遊びに来た友人たちに、心配をさせてしまう。
今は、楽しまないといけない。完全に思考を忘れることは、難しくても。
「どうしようか。……難しいね」
透き通った天井から降り注ぐ晴天の日光は、日焼け止めを塗っていても水着の素肌に、ちりちりと感じられて。
なんだかそれすら、ふたりを急かしているようにも思える。
水着の姉妹は、思い、迷う。互いの指と指とを絡めて、弄びあう。解けない糸を、指先でどうしようもなく、弄り繰り返すばかりであるように。
「あたしたちは、なにが出来るんだろう」
* * *
「あ、来た来た」
夏空の下に聴こえた妹の声が、ずっと座り込んだままだった友人たちの変化を詩亜へと告げる。
たしかあっちのほうに、と覚えのある方向を見ると、ベンチから立ち上がったふたりがパーカーを脱いで、プールサイドをこちらにやってくる。
黒髪と、赤みがかったブラウンと。ふたりの、血の繋がらぬ姉妹。
よかった。少しは動き出せる心持ちにはどうにか、切り替えられたんだ。もちろんそれは単に、彼女たちがこちらに気を遣っただけのことかもしれないけれど。でも、なにもしないよりはよほどいい。なにか抱えたものがあったとしても、いくぶん気は紛れるはずだ。なによりせっかくみんなでプールに来たのだから──……。
翡翠の色をした淡いペパーミントグリーンと、白の交差しあった自身の水着に目線を落としてから、自身の理屈に納得するように詩亜は頷く。
「遅いよー、ふたりとも」
「ゴメン、ゴメン」
歌奈の口を尖らせる様子と、それに対する雪羽の反応。同様の、不知火の姿を見ながら思う。
ああ、やっぱり。言えないことなんだな。なにかあったんだ。
ここ数日の、学校での不知火の様子を思い返していく。
はじめて気付いたのは、部活の朝練のとき。
練習を終えた彼女はタオルを肩からかけたまま、シャワーも浴びずに、濡れ鼠の自分を拭うこともなくただじっと、愛用の競泳水着のまま、更衣室の長椅子に座り、俯いていて。
ホームルーム、遅れちゃいますよ。詩亜がそう声をかけても数秒、こちらを認識してくれるまでに時間のズレがあった。
顔を上げた彼女の表情にはなんだか、覇気がなくて。無意識なのだろう、自分がまるで乾ききってなどいないにもかかわらず、そのまま着替え始めようとしたほどだった。
シャワー。シャワー、浴びないと。促されてやっと、ああ、そうか、と気付く、そんなレベルだった。
授業中や、教室移動の際もそう。
詩亜と同じ、夏服姿の彼女はやっぱり俯いていて、世間話への返事もどこか心ここにあらず。
なにがあったのだろうと、心配になった。
ひょっとして雪羽ちゃんとひどい喧嘩でもしたのだろうか、とさえ思ってしまった。あの仲の良い義姉妹にかぎってそんなこともないだろうと、すぐに打ち消しもしたけれど。
大丈夫ですか。隣を歩いていて、そう問いも向けた。
うん、大丈夫だよ。……全然大丈夫であるようには見えない親友は、どこか遠くを見ていた。
その様相に、詩亜は理解してしまった。そして、廊下を歩く足を止めた。
そんな詩亜の急停止にさえ、友は気付かなかった。俯きがちに、とぼとぼと歩いていくばかり。
だから、わかった。
これは友であっても、立ち入ってはならないことなのだ、と。
そうしてほしくない──それを彼女が、望んでいないこと。
妹である雪羽を除けば、一番親しいという自信のある自分でも。学校にいる間だけは少なくとも、彼女以上に同じ時間をすごしているはずの自分だとしても、だ。
──詩亜?
数歩を行き、ようやく不知火は詩亜が隣にいないことに気付き立ち止まる。
きょとんと振り返る彼女に、ひととき詩亜は目を伏せて、言った。
──お兄さん、研究者としてもけっこうすごい人だったんですね。
それはきっと、彼女にとって不意の話題だったのだろう。
急に何を、という色がその表情に浮かぶのが、すぐに見てとれる。
──ごめんなさい。取り寄せ頼まれてた雑誌に、お兄さんの名前があるの、見てしまいました。
──少し、読んじゃいました。
商品に対して行う勝手を承知で、いくらか、辞書を引きながらページをめくってもみた。
殆どはそれは、高校生の知識に対してはちんぷんかんぷんと言っていいレベルの英字論文の羅列ではあったけれど。
どうやらヒトの老化だとか、そういう分野についてのものらしいということだけは断片的に理解はできた。
……と、思う。
確証はまるでない。あくまでわかる単語や構文を拾っていっての推察にすぎないのだから。それでも普段より少し就寝時間が押してしまう程度には、手間がかかっている。
勝手なことをして彼女は怒るだろうか、と、詩亜は目線を外して不知火の反応を待つ。幸いにして、彼女の応えは短く、「そっか」のひと言。
そして。
──そうだね。兄さんのライフワークだったから。その研究は。
──私のために。私の、せいで。
その返答に、詩亜は気付く。「その研究」、敢えてそう彼女が言いまわしたのが、物語っている。
ただ彼女は亡き兄への郷愁として漠然と、やみくもに彼の遺した論文を詩亜に取り寄せさせたのではない。
それがどういったものなのかを知ったうえで、明確に彼の遺したものを、中身を知るそれを自らが持っていたいと願ったのだ、と。
もしかしたら彼女は兄の跡を継ぎたいのだろうか。兄がその道を選んだ原因が自分にあったとわかっていたからこそ。
今彼女が見せている憂いの表情は、それに拠るものなのだろうか?
兄を追いかけるにあたっての経済的不安? それとも、学力的に? 兄の至った境地に自分もたどり着けるかどうか、ということに?
──ひょっとしなくても、心配させてるよね。
その疑念が、顔に出ていたのだろうか。
苦く笑うように、不知火は小さく首を左右に振って。
──でも、大丈夫。まったく無関係ではないけど、私が今悩んでるのは直接、そのことじゃあないから。
悩んでるのは、将来のことじゃあない。「今」のことだよ。ほんとうに、目の前にあること。
だからありがとう。大丈夫。
やっぱり大丈夫そうに見えない友は、感謝を告げる。大丈夫そうには思えない、理屈のもとに。
──その悩みは、雪羽ちゃんと分かち合えるものですか?
だから、思わず訊いていた。
その言葉に、不知火は息を呑む。見透かされていないと思っていたのか、それともそういう発想すら抱けないくらいに、思考に埋没をしていたのか。きっと、後者なのだろうと思う。
曖昧に彼女は、頷いた。
それは百パーセントの安心をもたらすものでは無論ない。
だが、否定をしないでくれただけで、十分だと詩亜は思った。
自分ひとりで苦しんでいるのではないのならば、大丈夫。姉妹で、立ち向かえるのなら。
だから信じようと、詩亜は願った。
だからこうして、歌奈や彩夜とともに、ふたりを皆で過ごす憩いの中に連れ出してここにいる。
プール遊び。きっとふたりも、気晴らしになると信じて。
思い起こしながらも、声をかける。
こちらに向かい来る、ふたりに。
「ふたりとも、せっかく来たんです。楽しみましょう」
彼女たちならば、大丈夫だろうと。
だからこそ、寄り添いやってくる不知火たち姉妹の様子をただ、見守っていようと思える。
彼女たちが二人三脚で前を向いていると信じて、そう声をかけられる。
分かち合える人がいる。その幸運を、詩亜もまたこれまでの人生の中で幾度となく、妹に教えてもらえた実体験があるから。
彼女と雪羽もきっと、同じだから。彼女が今抱えているものが、妹と分かち合えるものならば、大丈夫。そう思うのだ。
* * *
眼鏡をかけたその女性は気風良く、からからと豪快に笑っていた。
「不知火から聞いてるよ。キミが妹の、ユキハチャンね。よろしく、ユキハ」
「えと、……はい、まあ」
そして、流暢な日本語で雪羽へと語りかけてきた。
ところどころ、少しイントネーションがズレてはいても、十分に理解可能な範疇の、誰にでも伝わるような完璧な日本語。
まるで金色の砂糖でつくった綿菓子のようなふわふわの、きめ細かい金髪の女性が──そうやって、応接テーブルの向こう側にいる。
雪羽と、お姉ちゃんの家。突然の来客である彼女を、姉は「レイア」と、そう呼んだ。
「改めて。レイア・マクマハウゼンだ。医者をやってる」
「どうも」
その彼女が、姉の呼んだ名を再度名乗り、握手を求める。テーブル越しに差し出された右手を、雪羽も握り返す。
この人、誰。何者。
呑み込めないまま、握手を交わす。
「雪羽。この人はね──……」
「ハルヒコとは大学の同級生でね。元カノってやつさ」
「え」
「違うから。ただの研究仲間で、ゼミが同じってだけの友だち」
満面に笑って言うレイアの言葉へと、相変わらずだな、という素振り交じりに不知火は訂正を加える。
「大体レイアは一度、ふられてるでしょ」
「オーウ。痛いところ衝くねぇ。容赦ないぞ不知火」
「このくらい全然堪えてないくせに」
ジト目を向ける姉の様子が、雪羽には新鮮に映る。
「お義兄さんのことを好きだった……人?」
興味を引くにはそんな姉の姿は十分なはずだった。けれどその中にあって、それは聞き流すことの難しいフレーズだった。
晴彦さんは、姉の旦那さんになるはずだった人で。
その人を、好きだった人。失恋をした人が目の前にいる。いったいそれはどういう巡りあわせなのだろう。思わず、身構えてしまう。
「ああ、そんなに警戒しないで。もうとっくに整理のついたことだし、そもそもキミのお姉さんにも会ったこと、あるからね」
「え? 姉さんと?」
そ。あいつと、キミのお姉さんが結婚するって連絡もらって、さ。
ちょうど、行けない距離でもなかったから。何度かそれまでも連絡はとりあっていたし──どんな人で、どんな相手なのかも気になっていたからね。
「そりゃあね。ふられたとはいえ、好きになった相手だからね。気になるさ。……ときに、ふたりの馴れ初めについては?」
「聞いてます。姉さんと、晴彦さんのこと」
姉が姉らしくて、義兄が義兄らしく生きてきたからこそ出会ったのだろうと、電話越しに聞かされたとき、思ったことをよく覚えている。
その頃、小雨姉さんは各国でのコンサート活動もひと段落をして、違う刺激を。変化を求めていた。
彼女がその結果選んだのは、貧困や戦乱に喘ぐ国々をまわって、その難民キャンプを癒す──慰問コンサート。
流石に危険と隣り合わせの只中に飛び込んでいくとあって、黙ってそうするのに気が引けたのか、既に決めたこととしてではあったけれど事前に、姉からそうする意向であると連絡をもらった。
もちろん、ものすごく心配をした。同時に遠くの世界のことすぎて、実感の湧かない自分もいた。
「姉さんが晴彦さんと出会ったのはその何か所目かの、コンサートの折だったと聞いてます」
あのとき、止めていれば姉は喪われなかったのかもしれない。
でも、そうしていたら姉は、愛する人と巡り合うことはなかった。
あたしにとってよかった選択肢と、姉の望んだ選択肢は結果的に、異なっていた。
姉の訪れたキャンプで、晴彦さんは医師として貧しい人たちを分け隔てなく、診察し労わっていた。
日本人そのものが珍しい、母国からは遥か遠い国でふたりはそうして、出会った。惹かれあったのだ。
「ウン。ワタシが会いに行ったときもふたりは一緒で。仲睦まじかったよ。ああ、お似合いなんだなって──納得させられてしまった」
これが夫婦になる関係性か、って。負けを認めちゃった。
「レイア」
「ふたりがまだ、生きてた頃。いなくなってしまう、ほんの二、三週間前のこと、だったな」
いくらお似合いのふたりだからって。
ふたりっきりで旅立ってしまうことなんてなかったのに。
雪羽の出したアップルティをカップからひと口すすって、遠くへ向けた苦笑を彼女は見せる。
「次にあいつのことを知ったのは、事故に巻き込まれたって聞いて。それからはハルヒコのやり残してた仕事の後始末とか、整理とか。やってたんだよ。不知火ともときどき、連絡はとりあってた」
「そうだったんですか」
「──うん。現地のことは小雨さんのマネージャーさんたちと一緒に、実作業的な部分は殆どレイアがやってくれてたんだ」
ごめん、黙っていて。おじさんとも相談しながら、だから。結果的に雪羽だけに知らせていなかった。隠していたことになるね。
不知火がすまなそうに言う。
別に、負い目を感じるようなことでもないのに。
「そんな。全然だよ。お姉ちゃんもおじさんも、気を遣ってくれてたんでしょ? それに知ってても知らなくても、海外のことなんてどのみちあたしにはどうしようもないわけだし。気にしないで、お姉ちゃん」
「雪羽……。うん、──ありがとう」
寧ろ、気遣いが嬉しくて。また、こちらのほうが申し訳ないくらいだった。気を遣わせるばかりで、感謝しかない。
「それで? レイアはどうしてこっちに?」
「ん。まぁ、そのうち様子は見に来なきゃ、とは思ってたし、来たかったんだけど。いろいろ立て込んでてこの時期になっちゃったってだけ。ほんとはもっと早く、顔を見にくるつもりだった」
眼鏡の彼女は向き合った椅子から立ち上がり、居間のソファへと歩いていく。
そこには、幼い女の子が寝息を立てている。
ふかふかのクッションと、雪羽たちの匂いの染み込んだブランケットに包まれ、埋もれるようにしながら。
「この子のことも、あったしね」
一見してモンゴロイド系だとわかる、アジア人的な顔立ちの幼子だった。実際、日本人なのかもしれない。
あどけない、無垢な寝顔が可愛らしい。
「可愛い子ですね」
雪羽の率直な感想にレイアは頷いて、膝を折る。そっと、少女の寝顔を、起こさぬよう注意しながらに撫でていく。
「レイア、その子は?」
そう、そして。その子のことも、まだ聞いていない。
「──この子はね、ひかり、って言うんだよ」
ひかり。──ひかりちゃん、ね。
まだ一歳か、二歳か。ものごころなんてまだまだつく前の、幼い女の子。
「ハルヒコと同じキャンプで活動していた仲間の、あいつと同じで珍しい、日本人の医師夫婦の子でね。やっぱり両親を、ハルヒコたちみたいな事故で喪っている」
「え……」
それじゃあこの子も、たったひとり。肉親のない、天涯孤独の子……?
「そして。……それで、ね」
ひとしきり少女の寝顔を見つめて、レイアは膝を伸ばし立ち上がる。
彼女と、幼子の織りなす光景を揃い眺めていた雪羽と不知火に、まっすぐに目を向けて佇む。
「ハルヒコと小雨さんが、引き取ることになっていた子なんだよ」
一瞬伏せた目は、意を決したように開かれて、雪羽たちを射抜く。
「この子を……兄さんが?」
「姉さんたちが──引き取る」
それはすぐにはかみ砕けない宣告。ゆえに一瞬、理解をしきれずに疑問形の言葉となってふたりの唇から溢れ出る。
引き取る、ということは。それはつまり、
「ひかりは、晴彦たちの養子になるはずだったんだ。手続きも順調に進んでいて。あとは最終的な渡航の許可を待つばかりだった」
そう。姉夫婦にとっての子になるはずだった、ということ。
雪羽の。
不知火の。
姪になるはずだった子が、ソファに眠るひかりなのだ。
「だから今日、連れて来たんだよ。ハルヒコたちの忘れ形見のキミたちに、ひかりを会わせるために」
キミたちとひかりは、家族になるはずだったんだから。
言って、レイアは深く深く息を吸い込む。眼鏡を外して、胸ポケットに差し込んで。間になにも置かずに、その双眸で姉妹を見つめる。
「そのうえで、訊きたいんだ。不知火。ユキハ」
果たしてその問いに、どう答えるのが正しかったのだろう。
雪羽自身、どうしたかったのだろうか。
不知火はいったい、どう感じ、どうすべきと思ったのか。わからない。
「ひかりを、キミたちのもとに──引き取ってみないか。あいつらの遺した、最期の仕事を」
それはまるで、雪羽にとってこれまでに想像だにしたことすらない、状況にして、提案であったから。
「ほかの誰より、キミたちにこそふさわしいと思う。ひかりと、家族になってやってほしいんだ」
それが、皆で出かけるその日まで続くことになる、ふたりに向けて与えられた、熟考すべき宿題だった。
(つづく)




