第一話 少女の姉は、彼女の兄とともに死んだ
第一話 少女の姉は、彼女の兄とともに死んだ
満開に咲き誇る桜の木の下に、その人はいた。
「──あ」
それは、別れの日。そして彼女と、はじめて出会った日のこと。
……姉の死という出来事を、明確な儀礼として改めて受け容れざるを得なかった、その日のこと。
まだ中学生という身分だったその日、雨宮 雪羽は姉に別れを告げた。
はらはらと、雨粒が舞い散るように降る桜の花びらたちが、きれいで。逆光の中に見えたそれはあまりに、きれいで。
四月からは、高校生。まだその制服は届いていない──卒業式を終えて、もう着るはずのなかった中学のセーラー服に袖を通して、その光景を雪羽は、見た。
自分とよく似た、セーラー服。違いは、こちらが濃紺で、あちらが黒を基調としている。あちらは襟が、白地だということ。そして赤毛気味の茶髪の地毛をした、ショートヘアーの自分に対して、きめ細かい、さらさらの長い黒髪を彼女はポニーテールにまとめているということ。
はじめて、あわせた顔。それはとても美しく。
同時、直感できた。ああ。この人なんだ、と。
「やあ。……あらためて、はじめまして、だね」
同い年の少女。身長は雪羽より頭ひとつぶんくらいには高くて、すらりと痩せている。
けれどそれは細すぎず。出るところは出て、きれいなカーブを、身体の起伏が描いていて。無駄なく引き締まっている。整った顔立ち、切れ長の透き通った瞳と相まって、まるでモデルのようだと思える、そんな容姿と感じられた。
「あのっ」
そんな彼女の姿に、見惚れていた。きれいだった、すごく。
彼女も、喪った。雪羽とは喪った者同士だった。
駒江 不知火という彼女の名を知ったのは、姉の死を伝えられたそのとき。
直接に対面を果たしたのは今日この日、故人たちを送り出す、この儀式の場においてだった。
「あの──、そのっ」
「……どうしようか、私たち?」
雪羽は、姉を喪った。
そして駒江さんは──兄を、喪った。
「私たち、ちゃんとやれるかな」
「駒江さん」
姉は唯一の、雪羽にとっての血の繋がった肉親だった。
駒江さんにとっての、お兄さんもそうだった。
ふたりの喪った、いなくなってしまった両者は、両者自身が望むかたちで、この春に夫婦となるはずの男女だった。
そういう、自分たちが主体となるかたちではなく、雪羽たちの間には繋がりが生まれたのである。
生涯を伴侶として生きていくはずだったふたりはしかし、同じ日、同じ場所。同じ時間に、ともにこの世を去った。
雪羽と、駒江さんと。ふたりだけが遺された。
「私はまだ、雨宮さんのことをなんにも知らない」
そんなの、あたしだってそうだ。微笑とともに向けられる言葉に対し、無言のまま、雪羽は互いのひどく似通った立場を、そして関係性を想う。
姉から、結婚することを告げられた。
そのとき姉はいつものように海外で。すべては電話越しで。なにもかもを姉が、姉の伴侶となる男性ともはや心を決めきったあとだった。もとから、こうと決めたら独断だろうとなんだろうと、迷わず突き進む姉だった──だからこそ、両親のとうに亡いふたり姉妹、支えてくれる周囲があったとはいえひとまわり近く離れた妹を遠く離れた我が家に養いながら、海外にまで進出をして成功を収めることができたのだろうけれど。
姉は演奏家だった。十代の頃より将来を嘱望され、その期待に見事応えて身を立ててみせた、ひとりのヴァイオリン奏者であったのだ。
「だけど、雨宮さんのお姉さんを愛した、兄さんのことは誰よりもよく知ってる。たったひとりの、血の繋がった肉親だったから」
年に数度、会えばいいほうだった。そのくらい、姉は海外を飛び回っていて。そういうのを終わりにしよう、これからはもっとたくさんの時間を、家族で一緒に暮らして過ごそう──電話口で、姉自身からそう伝えられた矢先だった。
次にかかってきた電話で、姉の訃報を聴いた。
新居も既に決まっていた。荷造りをしていた、ちょうどそのときだった。目の前の、この少女とその兄と。四人でこれから暮らすことも、伝えられていた。
なのに。
ふたりだけが、遺された。
その立場は、だから、駒江さんも同じ。
名前だけしか今日に至るまで知らなかった相手。
同い年で、長崎の全寮制の中学を卒業したばかりで。水泳が得意な、穏やかな女の子だと。そのことは伝えられていた。
逆に言えば、それだけしか知らない相手。姉からはそれ以上、聞けなかった。そうする前に、姉はもうこの世の人でなくなってしまった。
彼女にとっては兄の葬儀。雪羽にとっては姉の葬儀。その桜の木の下で、はじめてふたりはこうして、言葉を交わしている。
「だから私は、兄さんの遺した願いを果たしたいと思う。雨宮さんは、どうかな」
少女の細くてきれいな指先が、雪羽に向かって差し出される。
「私は、そうなるはずだったこれからを、実現させていきたい」
それは誘い。遺された者から、同じ遺された者へと向けられた、素直な気持ち。
「私たちで。私たち妹が、兄さんやお義姉さんたちと始めるはずだった『家族』、やっていきたいんだ」
そしてそれは、願い。
ふたり、同い年で。
四月からは、同じ高校に通って。同じ家に、暮らすこと。
同じ、喪った者同士。
ふたりが、姉妹をやっていくこと。
「──ダメ、かな?」
寂しさと、不安の色が隠しきれていない表情で、けれど目の前の少女は雪羽に手を差し伸べて、ぎこちなくも微笑んでいた。
──ダメじゃあ、ない。
ふたりが、『家族』であること。そう、なっていくこと。
「ううん。──あたしも」
それは姉が、四人でそうしたいと望んだことでもあった。
だからふたりとなってしまった今でも、雪羽もそうしたいと願う。
「あたしも、駒江さんとやりたい。あたしたちの、『家族』」
かけがえなかった、ふたりが望んだこと。望みながら、それを過ごすのが、かなわなかったこと。
遺された私たちだから、やりたい。私たち、ふたりで。
雪羽は言って、差し出されたきれいな指先に、掌を重ねる。
一瞬、ひくりと駒江さんは反応をして、小さく目を見開いて。
下から、雪羽の掌を、包み込むように握り返していく。肌に重なるそのぬくもりを、たしかに雪羽も感じている。
初対面同士だとしても。『家族』をやろう。その気持ちはふたり、同じだった。
たとえ、いちいち強調して意識しなくてはならない、そんなたどたどしい『家族』としての関係しか今はつくれなくても。
いつかは自然にそうしていけると、信じたいと思った。
「姉さんと、お義兄さんのできなかったぶんも。ふたりに、見ててもらおう」
精一杯の笑顔で、雪羽は笑いかけた。……笑えた。
頷く駒江さんも、笑っていた。笑顔で──いられた。
姉と、義兄の葬儀の日。ふたりはそうやって、泣かずにいられた。笑いあうことが、できた。
もうこの世のどこにも、血を分けた存在がいない。永久に失われてしまった。そんな立場にある、似通った『家族』のふたり。
あるいはその実感が、このときはまだ互い、持ち合わせられていなかったのか、仮にあったとしても、希薄なものだったのかもしれない。
* * *
「その流れなら、お互いにそうしたいって望んでそのかたちになったんでしょ? だったらいいじゃん、なにが問題なのさ?」
約束を交わしたその日から、およそひと月が経とうとしている。
ひと足先に立って歩く親友は、言いながらこちらを振り返る。
「別に仲が悪いとか、一緒にやってけないとかじゃないんでしょ?」
「いや、うん。まー、そうなんだけど」
通う、高校への通学路である。
道すがらにある友の家の前で、合流をして。雪羽は一緒に登校の歩を進めていく。
「ならいーじゃん。あっちがおねーさんなんだっけ?」
「うん、ほんのちょっと、二か月だけね。誕生日が、こっちが九月。あっちが七月だから」
そういう部分でもぎこちなくなってるのかも、ね。
天を仰ぎながら、雪羽は深々と息を吐く。
「──ねえ。歌奈のとこはどうなの。大丈夫? お姉さんと、うまくいってる? いきなりふたりきりで、同居って大変じゃない?」
そしてこちらを見ている、友人に問いを投げかける。
髪の長さは、こちらとほぼ同じか、少しあちらのほうが長いくらい。黒髪にほぼ近い濃い焦げ茶の、ラフな襟足。気の強そうな、活発さを湛えた双眸が輝いている──この、ひと月で。高校への進学以来に出来た友人。
村雨 歌奈と、彼女の名は言う。
「いや、別に? そりゃあこっちも同居始めたのはこのふた月くらいだけど? それでもこっちはもともと、血の繋がった姉妹だからねぇ」
同じ黒地のブレザー。うっすら灰色がかった同じワイシャツ。同じ新入生を示す、赤のストライプのリボンタイ。同じ、チェックのミニスカート。雪羽はニーハイ、彼女は黒のハイソックスという差異こそあれ、同級生として同じ制服に身を包む彼女は、その境遇もまた雪羽と似通っていた。
同じクラス、席が隣同士になって。話が合ったのは苗字が近かったからとか、性格的にもよく似ていたからとか、そういうだけではない。
「ずっと前から計画してたことだし。高校生になったら一緒に暮らそう、同じ高校に通おう、ってさ。おじさんたちや、おじーちゃんにも相談して、準備して。だからその辺はあんま参考になんないかなー」
歌奈にも、既に両親はいない。幼い頃、双方を亡くして、九州の、福岡の叔父夫婦に引き取られて育ってきた。
双子の姉とは、別々に、だ。血を分けた姉妹と、長崎の祖父に引き取られたというその人とは年数度会うくらいの、そんな人生をこれまで送ってきたと、彼女は言っていた。
そんな姉とともに、雪羽も通う私立明聖学院高校へと進学し、亡き父親の伝手を頼り、街の小さな本屋に暮らし、切り盛りをしながら。この春から同居を始めて今に至る。
姉以外の『家族』を持たず。
その同居生活を、引っ越しを始めたばかり。
そしてその姉は同い年で──……、話していて、「似てる」と、率直に思えた。こちらの事情も、あちらから「似てる」と、そう思えたようだった。
「でもさ、これからじゃないの? ようやく少し、生活も落ち着いてきた頃じゃないの? その、……実のお姉さんのこと。結構な有名人でもあったんでしょ?」
「んー、まあ……ね。国内はともかく、海外ではそれなりにだったらしいから。はじめのうちは記者さんとかが押し掛けたこともあったかな」
「へえ」
そんな、よくワイドショーなんかであるような、アイドルや芸能人みたいな規模じゃなかったけれど。
不意の呼び鈴に応じるとそういう要件だったのは、一度や二度ではなかった。改めて、ああ、うちの姉さん、けっこうすごいヴァイオリニストだったんだなぁ。なんて、実感もしてみたり。
あるいはその亡くなった状況が、一般的ではなくある程度特殊だったからなのか。一介のクラシック演奏家としては──……これはまだ、歌奈にも伝えられてないことだけど。
その都度、記者さんやら、なにかの運動家さんみたいな人たちが訪れるたび、対応をしてくれたのは駒江さんだった。
雪羽をリビングやキッチンに残して、「大丈夫だから」とひとり玄関まで出て行って。
絶対に家の中までその人たちを入れようとはしなかった。あれはきっと、雪羽のことを護ってくれていたのだと思う。
たった二か月。ほんの少し先に生まれただけとはいえ、自分が年長者だから。この『家族』における、『姉』だから──……。
「お互い、遠慮しあってしまってる、っていうのはわかるんだよね。同じ家にいても、さ」
「遠慮かぁ。──うん、やっぱしうちは参考にならないかなー。アタシもねーさんも、昔っから連絡だけはちょくちょく取りあってたし、やっぱし生まれついての姉妹だしね。亡くなったお姉さんと雪羽も、離れててもそんな感じだったでしょ?」
「うん。わかるよ。すごく、わかる」
曲がり角を折れると、もう学校の正門は近い。ちらほらと、同じ制服の女子たちや、男子たちの姿が見え始める。
「まだ、これから。これからなんだよ」
そう。まだ名前ですら、お互いを呼べていないこと。呼ぶことに、躊躇してしまうという距離感。
お弁当は毎日、雪羽がつくっている。駒江さんは料理、全然できないらしいから。食事当番は、雪羽の担当だ。
それを持ってひと足先に家を出る駒江さんと、まったくのゼロではないにせよ、朝にはあまり、言葉を交わせていない。
これは水泳部に入った駒江さんには朝練があるのだから仕方がない。
このひと月、なによりどたばたしていた。お互い余裕がなかった。やっと、落ち着いてきた。だから、これからなのだ。
「まずは、名前で呼べるといいね。駒江さん……おねーさんのこと」
「うん──お互いに、ね」
駒江さんと。双方が双方を、名前で呼びあえたらいい。
前方の道の先には、既に生徒たちを吸い込んでいく正門が見えた。
そこで、待っていて。やがて雪羽たちの姿を見つけてか、こちらに向かって手を振っている影がひとつある。やっぱり同い年で、雪羽にとってはもうひとり、親友と呼べる相手。
「彩夜。おはよ」
特徴的な、照り返しによっては青みがかっても見える光沢をした髪が、肩より少し下で揺れている。色素の薄い、不思議な色。アッシュグレーとか、アッシュブルーとか。どちらともつかない、そういう曖昧な髪色なんだとか。
染めているわけではないらしい。あくまでも地毛。なんでも、何代か前の血筋に白人系が混じってるとかで、しかもその家系もなにやらややこしく髪色やらなにやらが混じりあっているらしい。
白鷺 彩夜。彼女とはものごころつく前、ううん、もっと。両親同士の代からの、父親がともに親友であったという、そこからの付き合いだ。
だからなにもかもをお互い、知っている。
雪羽たち姉妹の、両親のこと。両親を亡くしてからの、姉妹の過ごしてきた日々のひとつひとつを。
既に歌奈とも打ち解けて、三人で一緒に高校生活を送っている。
「おはようございます、雪羽ちゃん、歌奈ちゃん」
身長は、高いほうから順に歌奈、雪羽、彩夜。……たった今合流した、彩夜が一番低い。
小柄で、ちんまりしていて。たぶん中学生料金であれこれ出来る。いや、もちろん素直な彩夜がそんなこと、するわけもないんだけれど。
小動物みたいで、純真無垢で。控えめで、人なつっこい彩夜のことが、雪羽は大好きだった。彼女にも今回の、雪羽の周囲を巡る環境の激変にはたくさん、心配をかけたと思う。
いや、彼女だけじゃない。ずっと世話になっている彼女の両親や、そして彼女の弟にも──……。
心配も、迷惑も。いっぱいかけたんじゃないかな。
「駒江さんは今日もプールですか?」
「うん、朝練。歌奈のお姉さんもだっけ? それとも単に出が別々になっただけ?」
「あー。練習、出てるはずだよ。まあねーさんはマネージャーだからプールには入らないし、おまけにカナヅチなんだけどね。ねーさんてば、人のお世話とかするの大好きだからさ」
「知ってる」
駒江さんと同じクラスの、歌奈のお姉さん。この三人と、彼女たちふたりとで、学年は同じでも教室は分かれているから。
まだそこまで言葉を交わしたわけではないけれど、その程度には交流はある。駒江さんからも、少し聞かされた。
「雪羽?」
教室へと向かう、ゆるやかな人の波の中でふと足を止めて、雪羽は体育館のほうを見遣っていた。
バスケットボール部の、ボールがコートを弾む朝練の音が、始業前の朝の空気に乗って、ここまで届いてくる。
その更にむこうには、駒江さんたちのいるプールがあって。
なんだか、思った。
お弁当、少なくはなかっただろうか。ひょっとしたらお昼より先、朝練のあとにお腹が空いて、欲しくなったりしないのかな。もっと弁当箱、大きいのにすればよかった。
そういうやりとりすら、まだ出会ってひと月足らずの自分たちの間には、なかったから。
──今日。帰ったら、訊いてみよう。
「なんでもないよ。……少しずつ。少しずつね、って思っただけ」
「?」
ふっと笑んで、立ち止まりこちらに首を傾げているふたりへと歩き出す。
まだ、ひと月なんだ。そう、実感をした。
「四十九日までには、ちゃんと『家族』やれてるといいな」
駒江さんと、きちんと『家族』を、ううん、『姉妹』をやれているところ。お墓参りのときに、姉さんたちに、見せられるようでありたい。
ほんとうにあるのかどうかはわからない、死後の世界。いわゆる、天国という場所。
死して五十日目に、姉が義兄とともにこの世から旅立っていってしまうそのときに。ふたりが、安心をして逝けるように。
風習や、俗説でしかない概念かもしれないけれど、雪羽にとって五十日目というその区切りは、それはほどよい目標設定であるように思えてならなかった。
「ふたりで笑って、姉さんたちを送り出せたら──いいよね」
そう、雪羽はひとりごちる。
笑えたらいいな、と思う。その気持ちの中、彼女は既に微笑んでいる。
姉を亡くしてからまだ、彼女は涙を落としてはいない。その自覚も、ある。
雪羽はまだ、ちゃんと泣くことができずにいた。
薄情なのだろうか。それともまだ、実感がないだけなのか。
駒江さんは、どうなんだろう。
「姉さんたちを笑って、送り出して。そうしたら、それから」
それからふたりで、亡き人たちのことを想って、うんと泣けたらいい。分かち合えたら、いい。
雪羽はまだ、姉の死に対して、心の底からの悲しみを以て、泣くことができていない。
そこに彼女の仄かな自己嫌悪があったのも、事実だった。
「泣けると、いいな」
それは言葉尻だけならば、ひどく奇妙に聴こえる願望だったに違いない。
(つづく)
(2020年8月22日追記)
杏様(https://twitter.com/x_Anzu_ill)より素敵なイラストをいただきました。
前書き部分にて掲載させていただいております。