gift6 小さな努力を積み重ねるという事の裏側
【師匠視点】
新しく何かを始めるという事は非常にデリケートな問題じゃ。ここでサイズ感を間違えば確実に続かない物となってしまう。かといってサイズが合っておっても放置したとしたら、その時もまた続かなくなってしまうのじゃ。
それ故に正しくこれを熟すには、後にこの状況を良い意味でエスカレートして変化を付けていかねばならぬ。
最初は恐怖を司る大脳辺縁系を騙しつつ小さく始める。そして感覚が麻痺し始めた頃に少しずつサイズを大きくしていく。この手順でなければ、いつまでも続くような習慣にはならぬのじゃ。
少年ソルダートを永遠に見てやれるとも限らぬ、儂の命はいつ尽きるとも分からぬのだから。だからこそ、一時的に強くなるのでは無く、継続的に自ら強くなれる精神と【習慣】を作ってやらねばならぬ。
それにソルダートにはほぼ自覚はないじゃろうが。
実際は何もしていない訳ではない。
訓練と呼称してしまえば重荷となってしまうが、果実採取に行くと言っては敢えて険しい道を少し早いスピードで進み、獲物を捕らえる罠を作るぞと言っては感覚的な集中が必要な作業をさせたりしておる。
要はゲーム感覚でなら訓練と違って大脳辺縁系の拒絶は少ない、という訳じゃ。やらなければならない大いなる変化だと認識されては拒まれるが、別の事だと思い込ませながらやらせれば修練の時間なぞ幾らでも延ばせるのじゃ。
十五分ランニングを行う! は辛いじゃろう。
じゃが十五分鬼ごっこを行う! は可能なのじゃ。
この辺りの差が、訓練と訓練もどきの遊びを織り交ぜた訓練を行うという事なのじゃ。
薬草採取など本来は近場で済ませられる。じゃか敢えてわざわざ必要もない遠出をしたりして、その道中では魔力ごっこと称しながら遊び歩く始末。
あれも立派な魔力コントロールのトレーニング。それに魔力総量の増加にも寄与しておる。フォーッフォッフォ、隙などないわい。
そんな訓練の日々が始まってから一週間、訓練が続いた所で儂はソルダートを呼び出した。
そして、おめでとうと声をかけたのじゃ。
全ての物事を始めるに最初が最も辛い、というのは事実じゃ。例えば車輪を転がす時、スタート時は摩擦で重くて辛いが、転がり始めてから後は押している感覚すら無くなってくるじゃろう。運動も勉強も習慣も、初動の摩擦が最も強力にして実に厄介なのじゃ。
勉強を始めるのに凄く時間がかかったにも関わらず、始まったら意外と何時間も勉強が出来たりと。誰しも経験があると思うのじゃが、それらも全て同じ事なのじゃ。
故に、まずは始める事に細心の注意を払わなければならぬ。じゃが正しく始まってさえしまえば、後はこっちの物なのじゃ。実は【習慣】は始めるというそれだけで大きな意味を成しておる。
その意味とは、新たな自己コントロール能力を生み出し、意志力を増大させる効果を持っておるという事実に他ならぬ。素晴らしい効果じゃ。
これは脳の性質である【可塑性】と【汎化】という物を利用したテクニックで、簡単に言えば【慣れ】と【伝染】じゃ。
一つの所で培った意志力はその力を増やしながら、その動作自体の辛さを麻痺させていき、最終的にゼロにしてしまう。これこそ【可塑性】の力にして真骨頂。
そしてそこで培われた意志力は次の動作を始める時の辛さを軽減し、新たな習慣が生まれ易い環境が整っていく。つまり【伝染】していくのじゃ。
しかしながら、いつかは慣れるとは言えじゃ。本来はそんな簡単に習慣が身についたりなどしない。機関の研究で普通の習慣が身につくのに凡そ六十六日かかるとされておる。一週間では習慣化したとはとても言い難い。
じゃが実はなかなか習慣が身につかぬ者程、一度身に付いた習慣を手放したくなくなる習性があり、ここを利用する。
この捨て難い感覚と、続いている事による可塑性と汎化を利用し、完成しつつある習慣に新たな習慣を付属させていく。
するとどうじゃ、その習慣そのものへの小さな変化は取り組みへの飽きを防ぎ、そしてモチベーションを上昇させる。
飽きさせぬ様に習慣を強固にしていく。
それが反復横跳びを追加した理由じゃ。
順番を変えるなどの工夫もして、その訓練自体のボリュームは僅かな変化にも関わらず、まるで違う物に取り組んでいるかの様な新鮮味が蘇る。
その上新たな習慣として反復横跳びを始めた事が継続していくうちに、次に繋がる新たな意志力を生み出し、そのまた次に始める習慣への良きアプローチとなり続いていくのじゃ。
そしてその新たな習慣が息をする様に自然に出来る様になってきた頃に、それをエスカレートさせる。
時間にして一ヶ月。
かなり早い方じゃ。
これは環境も影響しておるのじゃが、この森の中という環境では訓練に取り組む以外に意志力を阻害する物が極端に少ない。
故にこのテンポで進められるが、街にいたのではもう少しスローペースにならざるを得ないじゃろう。
街には日常生活を送るだけで意志力を削ぐ物が散漫しておるからの。誘惑などそこいらじゅうに転がっておるのじゃ。
そして今回のサイズアップにはβ(ベータ)プランを付属させた。これは少し大きく習慣のサイズアップをしたい時の手段として有効な技じゃ。
これにはいくつか狙いがあっての。
まず人は何かを目指す時、その到達地点が遠ければ遠い程、手段がいくつかあった方が辿り着きやすいという性質があるのじゃ。
故に最低限こなすべき目標は定め、余裕のある時のみと限定し、その二つ目のプランとしてサイズの大きい物を用意してやるのじゃ。そしてここからがこのテクニックの真髄。
このサイズアップ、熟せた場合にのみご褒美をつけるのじゃ。そしてそれが【剣】という訳じゃ。
剣をご褒美化する為に敢えて剣の訓練を今日まで丸一ヶ月絶ってきた。触れる事すら禁止として、見える位置じゃが儂の預かりとして儂が管理した。
これによって、本来は苦しい訓練となるべき【剣】がご褒美として用意され、もしもその【剣】を得る為に頑張れたなら。
【剣】自体へのモチベーションが大きく高まり、技術の習得速度が異常に上昇する。その上、剣の訓練自体がご褒美化される事によって飽きが来づらい状況で臨む事が出来る、という訳じゃ。こうなってくると、得られる経験値はそれはもう爆発的に変わってくる。
今まで振らされていた剣が、ご褒美として自らの努力で勝ち取らねば与えられない状況に陥る事で、自発的に喜んで剣が振れる様になる。
この場合は【剣】という目的の物を得た時点から運動効果とご褒美効果で脳の側坐核が刺激され、ドーパミンが脳内で分泌され始める。これによって大脳辺縁系が麻痺してしまい、拒絶を起こす事なく目的の物を訓練ではなく【ご褒美】として享受する事が出来る、という訳じゃ。
凄まじいと思わんか?
自分からより辛い訓練の選択肢を選び、その度に意志力を高め、その結果得た物さえも【訓練】であり、その得た全ての経験値は嫌々やっていた頃の何倍もの量で速さで蓄積されていく。
ここにこの一連の流れの【極意】が詰まっておる。
振らされる剣になど殆ど意味はない。ゼロという事はないじゃろうが、どちらの方が効率的かは火を見るよりも明らかじゃろう。
順を追ってやれば大きな変化さえも自らの好奇心を持って乗り越える事すら、人は本来可能としておるのじゃ。
要はやり様、という事じゃな。
「本当に今日は何もしないの?」
「そうじゃ、戦士にも休息は必要じゃて」
「でも僕……訓練出来るよ?」
「そうかそうか、日々の鍛錬の賜物じゃな。この休息はその努力をより貴い物へと昇華する大切な物なのじゃ」
「……どういう事?」
「今日しっかり休むと、明日からもっとパワフルに訓練が出来る様になるのじゃよ」
「え!? 休んだ方が強くなれるの!?」
「そうじゃ、故に戦士にも休息は大事なのじゃよ。しっかりと休むのじゃ」
「休むって言ってもさ、何したら良いの?」
「フォーッフォッフォ! ならば儂と普段より遠くまで探検してみるかの!」
「え!? 良いの!?」
「そりゃ、儂もお主と共に出かけるのが楽しくて仕方ないからの、ソルダート」
「……えへへ」
「さ、そうと決まれば準備するのじゃ、何が必要かのぉ」
「あ! えっとね、これと……これと……」
休息とは誠大事なフェーズでの、これを軽んじておる者はこれを起点として大体失敗するのじゃ。
訓練、仕事、勉強、凡ゆる意志力を伴う動作は、例えどれだけ丁寧にストレス管理をしたとしても、連続二週間を超えると脳内で【コルチゾール】と呼ばれる物質が通常時よりも過剰に分泌され始める。
これは所謂ストレス物質と呼ばれとる存在じゃ。その働きはと言えば、意志力を低下させ、疲労を増大化し、脳の海馬を萎縮させる。イヤイヤ物事に取り組んだりした時に実は脳内で分泌されとる。うむ、実に恐ろしい。
同時に好奇心なども低下してしまうのでドーパミンも足りなくなり、記憶力まで低下してしまうという。厄介極まりないものなのじゃ。
正に効率に於ける天敵、という訳じゃの。
ならばこのコルチゾールを抑える手段はないのかと。
危険な物質に抗う術はないのか、と。
無論、存在する。
そのストレス物質に対を為す素晴らしい働きをしてくれる物質が存在する、その名も【オキシトシン】。この物質は別名愛情ホルモンとも呼ばれ、他人から信頼されたり、恋人と抱きしめ合ったり、或いは誰かを助けたりすると脳内で分泌される。
働きとしては色々あるが、ここでの狙いは勿論一つ。コルチゾールの減少じゃ。ここに寄与してくれる貴重な物質なのじゃ。
かつて大昔、人が群れを成して生活していた頃。その群れの状態をより円滑に有益に熟せる様に、人同士で助け合う事が人体のホルモンレベルで効率化される様に進化した結果得た能力という訳じゃ。これを利用するのじゃ。
オキシトシンは存在としては一応ストレス物質に分類される。過剰に分泌すると鼓動が早くなり認識が甘くなるという性質も併せ持つからなのじゃ。
まぁ……なんじゃ、好き過ぎる人が目の前にいたら胸がドキドキするアレじゃ。愛情ホルモンなのじゃ。一緒にいたくて不安になるアレじゃ。会いたくて震えるのじゃ。そう、アレがオキシトシン。恋は盲目とは良く言ったものじゃフォーッフォッフォ!
……オキシトシンの事はそれくらいでええじゃろう。話を続けよう。
休息という物には狙う効果が大きく分けて二つ存在する。
一つ目が身体を、引いては脳を休ませる事。脳内に過剰分泌されるコルチゾールを食い止め、翌日以降の意志力や作業効率を獲得しなければならんのじゃ。ちゃんと休まなければ、休んだのに休んだ気がしないのは実はコルチゾールが引き続き分泌されておるからなのじゃ。
二つ目が脳を慣れさせない事。この状況が続くと分かると脳は頑張る事をやめ、成長のレートを下げようとしてくるのじゃ。良くも悪くも、慣れるという訳じゃな。より大きな効率を持って臨みたい場合は、やはりこの成長の慢性化は由々しき事。これを避ける為、状況は予断を許さないが故に引き続き精進せよ! と脳に教えてやる事が出来るのじゃ。
ふむ、少し分かり難いのぉ。
ならばこの【休息の重要度】を分かりやすく例えると【ダイエット】でも同じ事が言える。
ダイエットを志し、二週間以上連続で無理をしようとすると、例によってコルチゾールが過剰分泌され始め、意志力が低下してしまうのじゃ。そりゃ甘い物に手が伸びても仕方あるまいて。
更にこれを乗り越えたとしても、身体が今の状態が平常運転であると判断したならば、そのダイエット効果が著しく低下してしまう。身体がダイエットに慣れるという事じゃな。
だからダイエットは二週間辺りから決意が挫けやすくなり、効果が薄くなるというダブルパンチから失敗しやすくなってしまうのじゃ。
では休息の言ってもダイエットの休息ってそんな物存在するのか? と疑問に思う者もおるじゃろう。
安心せい、あるのじゃ。
存在するのじゃ。
この厳しい二週間という難関を乗り越える有効な手段として存在する、その名も【チートデイ】。
チートデイを簡単に解説すると、二週間に一日はそのダイエットのルールを全て無視してもオッケーな日を作るという手法の事。
たった一日の暴飲暴食は二週間の努力にほぼ何の影響も与えず、寧ろストレスと効率の観点から継続力と効果を多大に向上させてくれるという素晴らしい手法じゃ。
決められた守るべきルールはたった一つ。チートデイは突然思い付きで決めるのではなく、予めこの日をチートデイにする! と決めた日に必ず実行する事。これを怠らなければダイエットの成功率は爆発的に上昇する。
成功する理由など最早不要じゃろうて。
当たり前じゃ。
要は全ての物事は続かなくなる事が最大の問題。
続く事こそ至高にして全てなのじゃ。
少し話はそれたが戦士にとって【休息】とはこれ程までに大切な事。休む事も大切な効率へのアプローチである事を忘れてはならぬのじゃ。
そして、その効果を正しく理解しておる者にのみ与えられるもう一つの大いなる恩恵。
その名も【ノセボ効果】。
これはその内容に関して深く知れば知るほどその効果が身体に多大に反映されるという人の性質じゃ。
学びとは知識。
知識とは即ち力。
人にとって知るという事は、とてもとても大切な事なのじゃ。