8.仕組まれた縁談
*
その夜会から七日後。
エドワードはまた届いていたエルゼンデからの手紙を、憂鬱な思いで見つめていた。
「お開けいたしましょうか?」
手紙をデスクに置いたまま、いつまでも封を切ろうとしないエドワードを見かね、ニックが声をかけてくる。
「…ついでに、返事も頼めるか」
エドワードは言って、デスクをがたりと離れた。
その口元からは、知らず深い息が零れていく。妙な娘になつかれてしまったものだ。
あの夜会の日から、二度、エルゼンデはエドワードの屋敷を訪れていた。
人前で泣きわめくといった醜態など忘れてしまったかのように、エルゼンデは「こんにちは」となんの屈託もない笑顔を浮かべて訪問してきた。しかも、その後ろには子爵である父親まで引き連れて。
元々父親同士が知り合いだったということもある。
父オルグが「どうぞどうぞ」と機嫌良く招きいれる客人をエドワードが追い返すことなど出来るはずもない。
エドワードは仕方なく、招かれた茶会の席に座り、よく喋るエルゼンデの途切れない話に耳を傾けた。
「…本当に、気に入られましたね」
開けたばかりの分厚い手紙の束に、ニックがぼそりと呟いた。
エドワードは振り返って「だろ?」と皮肉気な笑みを浮かべる。可愛らしい筆跡で書かれている文章はおおよそ予想がつく。「先日はありがとう、またお会いできる日を心待ちにしています」だ。
全く、誤算ばかりだった。
血眼になって反対してくるものと思っていたギルバートは何も言って来ないし、父は顔を合わせればエルゼンデの話題しか口にしない。
-逃げられそうにもない
私室から出ようと、エドワードが扉の金飾りの取っ手に手をかける。
と、ニックが慌てて立ち上がった。
「どちらへ?」
「ついてこなくていい。父に呼ばれただけだ」
ニックはそうですか、とほっとしたように、腰を下ろした。
まるで監視員だな、と鼻を鳴らし、エドワードは背を向けた。
「付き合いは、順調のようだな」
ギルバートは安心した様子で、紅茶を一口飲み込み、笑みさえ浮かべている。
父の書斎に入ると、そこには父ばかりでなく、ギルバートも布張りの椅子に座り、足を組んでいたのだ。
「…付き合っているわけでは」
屋敷に来るから、相手をしているだけだ。
顔をしかめたエドワードの肩に、父オルグが手をかける。
「まあまあ、いいから。座りなさい」
「はい…」
にこにこといつものように笑顔を浮かべた父は、自らカップに紅茶を注ぎ、エドワードに渡す。
「いい茶葉だぞ。これは。ハイヴェラルグ子爵が先日、土産にとお持ちくださったものだ。希少価値が高いんだぞ」
「…頂きます」
エドワードは仕方なしに紅茶を流しいれる。
正直、珈琲の方が好きだ。
「で、ご用件は?」
エルゼンデのことだろうとは、解っていたのだ。
前置きは不要とばかりに、エドワードはカップをテーブルに戻す。
「ん…その、エルゼンデとのことなのだが」
やはり、父はそう言って、頭をかいた。
「どうだ?このまま話しを進めてもいいか」
まさか、確認してくれるとは思わなかった。
いいも何も、エルゼンデを父親ごと屋敷に招き入れ、既に新興を深めているのはこの家の家長である父本人なのだ。
いったい何を今さらと、少々怒りが沸き立つ。
「僕が嫌だと言えば、断れるものですか?」
父オルグは、ふくよかなその顔を俯けた。
「お前に、無理強いはさせたくない。だが、いつまでも遊び呆けさせるわけにもいかんのだ」
「ええ」
贅沢で、何不自由ない生活が終わりを迎えようとしていた。
「承知しておりますよ」
エドワードはすっと息を吸い込む。
ずっと脳裏をよぎるのはメアリーのことだった。優しく、穏やかで、少し抜けたところのある、今まで一番平凡な恋人。彼女とも、終わらなくてはならない。
なんと伝えれば、一番彼女を傷つけずにすむだろう。
考えるのは、そればかりだった。
…泣くだろうか。
あの綺麗な目にいっぱいの水を浮かべて。
ああ、できれば、泣かせたくない。
「エドワード」
父の声に、エドワードははっと顔をあげる。
「何か思うことがるなら、正直に言ってみなさい」
「いえ」
なにも。
テーブルに置かれた黄金色の紅茶には、冴えない表情を浮かべるエドワードの顔が揺らいでいた。
*
父の書斎をあとにしたエドワードとギルバートは、長い廊下を、縦に並んで歩いた。
前を行くギルバートが、ふと顔だけで振り返る。
「…エルゼンデとは、上手くやれそうか?」
ギルバートが自分を気遣うなんて。気味が悪いこともあるものだった。
「…努力いたします」
「まあ、夫婦などどこも似たようなものだ。表面だけでも、上手くやってやれ」
そうしてまた前を向いてしまう。
この男が破談にしてくれるものとばかり思っていた。
エドワードはやはり不可思議に思いながら、その背に声をかける。
「…兄さんはてっきり反対されるのだと思っていました」
「わたしが?どうして」
「エルゼンデの癇癪、ご覧になったでしょう」
「ああ、あれか。正直者で、いいじゃないか」
「…」
やはりおかしい。
ギルバートはそんな血の通った人間ではない。
少なくともエドワードにとっては、冗談も通じない、気の合わない男だ。
そんな男が、あのような無作法を演じた娘を褒めるはずがないと思った。
「兄さん」
「なんだ」
「何を隠しているんです」
ギルバートが、立ち止まる。
肯定だ。
エドワードも歩みを止め、じっと兄の言葉を待つ。
「…エドワード。お前は今まで、わたしの仕事にも、父の仕事にも、なんの口出しもしなかったな」
冷たい声に、エドワードは寒気を感じた。
「そのくせ金だけはしっかりと食いつぶす。まさに、ゴク潰しという奴か」
「兄さん」
「知らなかっただろう?オルグ家の財政など。興味も関心もなかったろうからな」
ようやくこちらに顔を向けたギルバートは、笑っていた。
ぞっとしたのは、よくある話だからだ。
貴族家の没落。エドワード自身、何度耳にしたことだろう。
「…傾いて、いるのですか」
合点がいった。
財政を立て直すための資金繰り。それがこの縁談というわけだ。
「どうして」
教えてくれなかったのだ。
憤るエドワードには、口出しすら許されなかった。
「安心しろ。端からお前に労働など求めていない。だから、父上もわたしも、今までお前には何も話さなかったのだ」
期待されていなかったから。
話しても無駄だから。
「だが、お前は必要だ。エドワード」
身体から力抜けていくような感覚だった。
なんだろう、この喪失感は。
毎日やることもなく、遊び呆けてきたのは事実だ。
それにすら飽いて、メアリーに手を出した。
そのツケが回ってきたのだろうか。
「あの馬鹿娘との結婚。それが、伯爵家の一員としての、お前の役目だ」
結婚は義務。
特権と地位の代償。
何度となく繰り返されてきた言葉が、エドワードの頭を反芻する。
「祝福してやろう。式は、盛大になるぞ」
ギルバートの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
*
気が付くと、見知った路地を歩いていた。
古びた民家。
前を見ずに走って来る子供たち。
そのひとりとぶつかりそうになって、エドワードは身体をよけた。
「すみません」
元気よく叫んだ少年に「気を付けるんだよ」とエドワードは声をかけた。
下町の商店街は、いつも活気にあふれていた。
気を抜けば人とぶつかり、ただ歩いていても、突然方向転換をする人とぶつかりそうになる。文句を言いたいくらいなのに、彼らは、こちらが悪いかのようにしかめつらをしてくるのだ。割に会わない。
「メアリーちゃん、これ、オマケしとくね」
喧騒の中で、そんな声が聞こえた。
エドワードが声のした方を向く。と、半分屋外の野菜店の軒先で、メアリーが買い物をしているところだった。
相変わらず、綺麗な横顔をしている。
「ありがとう、おじさん。助かるわ」
そう言いながら、新聞紙で包まれた緑色の何かを受け取り、腕にかけた麻のバッグの中にしまう。
「またおいで」
「ええ」
メアリーはそれからまた一言二言野菜店の男と話したあと、雑踏にまぎれそうになった。
エドワードは、足早に追いかける。
「メアリー」
メアリーは立ち止まったかと思うと、辺りをきょろきょろと見渡す。
一瞬こちらを向いた気がしたのに、視線は素通りされた。
どうして、気づいてくれないんだ。
なんだかとても悲しくなって、エドワードは人の間をぬい、その腕を掴んだ。
「…っ」
驚いたメアリーの耳元に唇を寄せる。
「メアリー、僕だよ」
「エ…どうして?」
「近くを通ってたら、君が見えたから」
「…そうだったの、お仕事?」
メアリーの顔から、驚きが薄れてにこりと微笑まれる。
エドワードはまた嘘を重ねる。
「ん。荷物運びだけどね」
「ふうん。そんな綺麗なカッコウで?」
しまった。
ぼうっとしていたせいで、いつもの下町用の服に着替えていなかった。
道理で、いろんな人たちから奇異な視線を送られるはずだった。
「…本当に、なんのお仕事してるの?」
メアリーが不思議そうに首を傾げる。
もう白状してしまおうか。
その内、手を切らなければいけないのだし。
そう思うのに、それでもまだ、エドワードの口から飛び出したのは、虚実だった。
「だから、運び屋」
「…もう、いいわ」
メアリーが頬をふくらまかし、顔をそらす。
こんな風に拗ねてくれるのは、甘えてもらってるから、だと思っていいのだろうか。
「本当のこと、知りたい?」
本当のことを話してもらえない-それは、相手に信用されていないから。話すに値しない、無価値な人間だから。
実の父と兄からこれほどまで信用を得ていなかった自分が、情けなくて、惨めで、仕方がなかった。
メアリーの琥珀色の瞳が、わずかに揺れる。
「エドワードさん…?」
と、メアリーの細い肩に通行人がぶつかりそうになった。エドワードはその手頸を掴んで引き寄せる。そうして近くの路地へ入り込んだ。それでも、メアリーの視線はエドワードを捉えたまま、じっと覗き込まれる。心を見透かそうとするかのように。
「…何かあったの?」
メアリーの細い指先が、頬をかすめる。
「どこか、お店に入りましょう。顔色悪いわ」
「…ごめん。大丈夫、ありがとう」
エドワードは、必死にメアリーから手を離した。
けれどすぐに、メアリーに掴み返される。
「大丈夫じゃないわ」
遊び相手の、ただの庶民。
そんな女に、なにがわかるというのだ。
「エドワードさんのこと、知りたいと思う。でもそれは、話したくなったらでいい。話せるようになったら、話してくれたらそれでいいの」
メアリーは、幼子にいい聞かせるように、エドワードの髪を撫でた。
幼い頃に亡くした母の手を彷彿とさせる、優しい手つきが心地よかった。しかし。
「わたしも、あなたに言えてないこと、あるし」
「…君も?」
メアリーの口から出た残酷な言葉に、エドワードはとどめを刺された気分だった。
手を、振り払う。
「エドワード…」
「君にも、秘密があるのか。僕は頼りないから、話せない?」
「ちが…」
「もういい」
エドワードはメアリーから一歩下がる。
狭い路地の、汚い土壁に背中が触れた。
「…ごめん。今少し、僕…変なんだ」
「エドワードさん…」
振り払われた手をもう片方の手で握りしめたメアリーが、視界にうつる。
傷ついたような顔に、エドワードの心臓はひねりつぶされるようだった。
「…また、来るから」
そう言うのが、やっとだった。
何がしたかったのだろう。
慰めて貰いたかったのか、それとも、いつものように現実逃避をしたかったのか。
ぐちゃぐちゃの心が、エドワードを殺そうとしていた。
***
「メアリー・フェリスか」
その夜。
オルグ伯爵は、ニックからの報告に頭を悩ませていた。
その手元には、ニックが作成したばかりのメアリーという娘に関する書類がある。
メアリー・フェリス。
三代続く小さな雑貨店の娘で歳は十八。
両親は亡く、十四の弟と二人暮らし。
現在は経営悪化のため、ヴォーグ商店の息子がオーナーとなっている。
男性遍歴はなく、おそらく、エドワードが初めての恋人だろうと最後に書き添えられていた。
「…いったい、エドワードはどうやって知り合ったんだね」
オルグ家の屋敷の一室に集まったのは、屋敷の現当主オルグと、エドワード付きの従者ニック、それから長兄のギルバートだった。燭台の灯りだけを頼りに、大の大人の男が三人もそろえば、それはもう、悪だくみをしているようにしか見えなかった。
ニックは、背筋をただしながら口を開く。
「エドワード様はこれまでにもお遊びで身分を隠されて街にいらっしゃることはありましたから…」
「…そうか。そんなことまで」
深い。
深いため息をつきながらオルグ伯爵は項垂れ、椅子に肘をつき、片手で自身の顔を覆い隠した。そのまま手を下にずらし、顎を撫でるようにして、腕を下ろす。
「自由にさせすぎたかな…」
「ですから何度もあいつの素行については申し上げていたはずです」
ギルバートが苛々とまくしたてる。
「ニック。エドワードが、まだその庶民娘と会っているのは、本当なんだな」
確認するように言ったギルバートに、ニックは身の引き締まる思いで頷く。
「はい。本日もお会いになられておりました。エドワード様がこんなにもお一人と続かれることはありませんでした。…ですからメアリーさんには、もしかしたら、思い入れが強いのかもしれません」
メアリーの件について。
延々と報告を迷っていたニックがついに行動を決意したのは、とうとう婚約が進むこととなったからだ。
穏便にことを進めるためにも、女性問題は、一切取り除くべきだ。最大の障害に、オルグは顔をしかめる。
「人付き合いの巧いのは…エドワードの長所でもあるんだがなあ」
「父上、あれはただの軽薄というものです」
ギルバートは一層眉間の皺を深くした。そうして、ニックを睨み据える。
「…エドワードは、別れそうか?娘と身体の関係は。急に子供がいるなどとでも言われたらかなわないからな」
「それは、ないかと」
オルグは、胃が痛む思いだった。
「ニック」
「はい」
「…もし、エドワードが悩むようだったら…汚い役目を、引き受けてくれるか」
ニックは胸に手をあて、深く頭を下げた。
皆まで言われずとも、主の意をくみ取る。それが、自分の使命だと思っていた。
「かしこまりました」