6.エルゼンデ嬢
「初めまして」
消え入ってしまいそうな程、小さな声だった。
「エルゼンデ・ハイヴェラルグと申します」
エルゼンデは細い指先でドレスの裾をつまむと、背筋を伸ばしたまま軽く膝を折った。
屋敷の奥で、大切に大切に育てられてきたのだろう。
胸元で波打つ豊かなブルネットも、赤い小ぶりの唇も、折れてしまいそうなほど狭い肩も、男の庇護欲をほどくかきたてていた。
エルゼンデの作法通り挨拶に、エドワードも作法を以って返す。
「こちらこそ初めまして。エルゼンデ様」
エドワードの差し出した掌に、エルゼンデは疑うこともなく、そっと自身の手をのせた。
全てが、マナー通り。
なるほどな、とエドワードは心の底で笑った。
ギルバートが気に入りそうな、従順で、大人しそうな少女だ。これは御しやすい。
余所行きの顔をはりつけたまま、エドワードは身を屈め、エルゼンデの手の甲に触れるか触れないかの口づけを落とした。
「エドワード・オルグと申します」
そうしてすっと身を引く。
マナー通りに。
「いやあ、ようやく紹介が出来て良かった」
間に立った父は、とびきりの笑顔でエドワードとエルゼンデに、交互に目をやった。
「エルゼンデの父上とは前から知り合いだったんだ。いつか子供たちを引き合わせたいと話していたんだよ」
「そうだったんですか」
初耳だ。
頷くエドワードに父は満面の笑みを向けた。
「なあ、エドワード。素晴らしいお嬢さんだろう?」
「ええ。本当に可愛らしい方ですね。それに刺繍もお得意なのだとか?」
これは、夜会へ来る道中、馬車の中でニックから仕入れた前情報だ。
歳は十六。
成績は中の中。
社交界はこれで三度目。
兄が二人と、妹が二人の五人兄妹で、彼女はちょうど真ん中に位置する。
生家の子爵家は、荘園を持っており、莫大な土地と資産に恵まれていた。
だが、都では田舎者というレッテルがぬぐえず、それを払拭するために名のあるエドワードの一族と繋がりたいらしかった。
「ぜひ一度、拝見したいものです」
エドワードの社交辞令に、エルゼンデは恥ずかし気に顔を俯ける。
「趣味ですわ。お褒め頂けるようなものではございません」
「ご謙遜を…」
エドワードが言うと、エルゼンデの背後についていた侍女らしき女性が助け船を出した。
「これは、お嬢様に頂いたものなのですが…」
侍女は手にしていたクラッチから、白いハンカチを取り出す。
と、その途端、大人しかったエルゼンデは豹変した。
「ヒルデ…!」
初めてはっきりと声をあげたエルゼンデの顔は、蒼白だった。
「止めて…!ヒルデったら!」
眉を寄せながら、必死に背を伸ばし、侍女からハンカチを取り上げようと腕をあげた。
が、エルゼンデよりずっと身長の高い侍女はものともせず、ハンカチは難なくエドワードの手元に届いてしまった。
エルゼンデは壊れたカラクリのように固まる。
エルゼンデの様子に、エドワードは
受け取らない方が良いだろう。
そう、思ったのだが。
その異質な刺繍が、目に入ってしまい、返すに返せなくなった。
「…これは」
エドワードは絶句する。
シルク生地の高価なそれは、繊細なレースで四方を彩られており、一見は品が良さそうな普通のハンカチに見えた。
けれど。
「見ないでください…っ!」
エドワードの顔も、さすがに固まる。
ひどい刺繍だった。
こんなに汚い作品は、見たことがない。
何を描きたかったのか。
どんなに不器用なのか。
せっかくの高価なシルク生地の上には、黄や緑や青の糸が、ぐじゃぐじゃに指されていた。糸の留めもなっておらず、大きな糸玉があちこちに出来ている。
どう頑張っても、褒めようがない。
「…返して!」
エルゼンデは、奪うようにエドワードの手からハンカチをひったくった。
もはや顔だけでなく、むき出しの首や鎖骨まで赤く染まり、大きな両目には涙さえ浮かべている。
そうして侍女に怒鳴りつける。
「…ヒルデの馬鹿!最低…!」
「隠したところで、どうせ本性などすぐにバレます。取り繕うなど、愚か者のすることですよ。お嬢様」
侍女は冷静に小さな主人を見下ろし、言った。
エルゼンデは返す言葉を探しながら、肩を震わせている。
「大嫌い!」
周囲の人間が振り向いてしまうくらい大きな声でそう言うと、エルゼンデは脱兎のごとく走り出した。
「エルゼンデ…!」
追いかけようとした父を、侍女は止める。
「いつものことですから。お気になさらず」
「しかし、迷子になっては」
「子供ではないのですから」
言い争いに、何事かと眉を顰めた紳士淑女たちは気にかけているくせに、素知らぬ風を装い、談笑に戻った。どうせ後から話題のタネにするのだろう。
エドワードはと言うと、笑いだしそうになっていた。
エルゼンデの、あの、取り澄ました顔は演技だったのだ。
短時間でもうっかり騙された自分がおかしく、隣で呆気にとられているギルバートには「ざまみろ」という気分だった。彼が見つけたとびきりの箱入り娘は、箱を出た途端、とんだじゃじゃ馬になってしまった。
「エルゼンデは、いい子なんだがな。癇癪をもっているから…」
驚く様子のない父は、初めから、エルゼンデの本性を知っていたらしかった。
侍女に向かって苦言を呈す。
「しかしヒルデも人が悪い。なにも…初対面であれを見せることはないでしょう。エルゼンデもいいところを見せたかったのでしょうし…」
「お言葉ですが、伯爵。未来の伴侶に虚栄をはることがいいことだとは、わたくしには思えません」
全くその通りだと、ギルバートも頷いている。
そうして侍女は、凛と背を正したままエドワードたちに頭を下げた。
「とはいえ…大変失礼をいたしました」
「いいえ」
エドワードは首を振った。
伴侶という言葉は引っかかるが、エルゼンデが可哀想なのも事実だった。
社交界にデビューしたばかりだと言うし、少しくらい背伸びをする少女の気持ちも、わからないではない。
エドワードにもそんな時期があった気がする。
見た目を気にして。
大人の言葉を真似て。
間違っていて、恥ずかしくて。
「可愛い人じゃありませんか。それに、とても元気だ」
「そう言っていただけるとお嬢様も救われます」
侍女は初めて、ほっとしたような笑みを浮かべた。
そうして言う。
「エドワード様。お気に召されない場合は、どうか、率直に申し上げてください。性格は一日や二日で変わるものではございませんから」
その、侍女の言葉にエドワードは羨ましく思った。
エルゼンデはこの侍女に心底愛されている。
義務の結婚などさせたくないと。
こんな恥をかいてまで。
嫌われてまで。
首を覚悟で、この女はエルゼンデの幸福を願っているのだった。
なんて真直ぐな人だ。
その主である少女も、多感で、感情表現が豊かだ。
取り澄ましているよりも、ずっと好感がもてる。
だからと言って婚姻を受けるつもりはないが、このまま無碍に断るのもどうかと思った。
どの道、ギルバートがエルゼンデの本性を知ってしまった。十中八九破談になるだろう。
苦い思い出ばかりが残るのもかわいそうだ。
「僕がエルゼンデ嬢を探してもよいものでしょうか」
侍女は、ええ、と神妙な顔つきになった。
「よろしくお願いいたしますわ。わたしでは、お話もしてくださらないでしょうから」
ヒルデが美しく頭を下げるのを見て、エドワードもつられて頭を下げそうになった。
ああ、この人に教育されたから、エルゼンデはあんなに綺麗な挨拶が出来たのだろうと、そう思った。