5.貴族の義務
*
「縁談?」
エドワードは、ニックの老けた顔を見上げた。
本人は二十五だと言い張っているが、どう見ても三十は超えていると思う。黒髪に混じる白髪も、分厚い眼鏡も、年寄りの印象を拭えない。
哀れに思いつつ、エドワードはあやふやな記憶をたどった。そうして、訝しみながら口を開く。
「それなら…断ったはずだ」
いつ、どのようないきさつだったのか、はっきりとは覚えていない。
けれど、断ったのは確かだ。
というか、エドワードは全ての縁談を蹴っている。
結婚など地獄だと知っていたから。
結婚は貴族の義務-そんなことは、放蕩息子と陰口を叩かれるエドワードも承知している。
地位と特権を得る代わりに、いつかは必ず支払わなければならない代償だ。いつまでも逃げられるものではない。
ただ、若いエドワードには決心がつかなかった。
家庭という重圧も、妻という鎖も、想像するだけで息が詰まった。
逃げと認識しつつ、正式な見合いは一件も受けたことがない。
見合いを受ける。それはおおよその場合、婚姻を意味していたから。
「ええ、お断りはしましたが」
ニックが低い声を上げる。
「旦那様が、ひとめ会うだけでもとお誘いになられたようです」
「父上が?」
エドワードは眉を寄せた。
なおのこと、不可解だ。
「まさか」
失笑するが、ニックの表情は変わらない。
父親のオルグ伯爵は、エドワードにひどく甘かった。
欲しいと言えばすぐに与えられ、嫌なことはせずともよいと頭を撫でられた。
ただ、健やかであればよいと。
エドワードはそんな父親が好きだった。利益よりもエドワードの心を大事にしてくれる、甘い甘い父親が。
縁談の件もそうだ。
エドワードが渋っていることを知っている父は「まあまだ若いしな」と引き下がってくれていた。
そんな父が、縁談を強引に進めるとは、なんとも解せない。
「本当か?」
「ええ…半分は」
ニックの曖昧な言葉尻に、勘のよいエドワードはすぐに納得した。
ギルバートの所業だと。
厳格で、生真面目で、少しも面白味のないあいつが手を回しているのだろう。次期当主であるギルバートは伯爵家を栄えさせるために、日々尽力している。
ギルバート自身も、少しも好いていないであろう女と家のために結婚をした。今も彼は、冷えきった夫婦生活をそら寒く送っている。エドワードが結婚にいい印象を持てないのは、そんな兄の結婚生活を目の当たりにしている為でもあった。
あんな窮屈な暮らしは御免だ。
先程のギルバートの態度といい、この急な縁談のすすめ方。
つまりは「いい加減、お前も義務を果たせと」そういうことなのだろう。
エドワードは肘掛に体重をかけながら、やれやれと立ち上がった。
「で?そのエルゼンデ嬢は、どんな女性なんだ?」
「ハイヴェラルグ子爵家のご令嬢ですよ。北に領地を拝しておられます」
子爵家とは大きくでた。
どうせエドワードに爵位は継げない。その代わり、娘の莫大な持参金を得ようという魂胆だろう。
いかにもギルバートの考えそうな縁組に、かえって笑いが零れる。
「兄さんの思考回路は単純すぎて心配になるよ」
「…エドワード様にお幸せになって欲しいのですよ」
ニックは諭すように声を落とした。
「エルゼンデ嬢は大変お美しく、可愛らしいご令嬢とのことです。先日社交界にデビューしたばかりですが、すでに求婚が絶えないのだとか。それを、ギルバート様と旦那様がここまで話しをつけてくださったのです。せめて、お会いになるだけでも致しませんと…」
「分かった、わかったよ。エルゼンデ嬢は、さぞ魅力的な資産をお持ちなんだろう?」
両手を顔の横にあげて降参の意を示す。
「安心しろ、逃げやしないよ」
「エドワード様…お受けになるのですか?」
エドワードはシャツを脱ぎ捨てる。
「会うだけだよ。それでひとまずは兄さんも落ち着いてくれるだろう」
「どうか。判断を誤りませんように。お立場をお考えくださいませ」
メアリーの存在を示唆しているのを悟って、エドワードは顔を背けた。
暗に、遊びを止めろと言いたいのだろう。
「とにかく、今夜は行くしかないんだ。早く着替えを」
エドワードは、ニックに手を差し出す。
「どうせ、なるようにしかならないさ」
*
その夜会は、とある新興の貴族家が主催していた。
派手好きな女主人の趣味にあわせた華やかな会場には、いたるところに豪勢な華が飾られており、近隣諸国の要人も招かれていた。
ギルバートと連れ立って会場を歩くと、久しぶりに公の場に姿を現したエドワードに注目は集まった。挨拶を交わしつつ、エドワードは兄に耳打ちした。ギルバートの妻の姿が見当たらない。
「義姉さんは?」
ギルバートは前を向いたまま口だけを動かす。
「具合が悪いんだと」
「それは心配ですね」
「…出かけ間際になるといつもそうだ。大したことはない」
ギルバートはむすりとしながら、エドワードのそばを離れる。
「父上を探してくる、そろそろ着くころだ」
父、オルグ伯爵は遠方へ旅行に行っていた。
その帰りに、直接この会場へ来る手筈になっている。
エドワードは頷く。
「かしこまりました」
「…妙な行動はとるなよ」
「ええ」
無闇に女性には近づくな。
ギルバートはそう言い残して、身を翻し、人込みの向こうへ消える。
エドワードはやっと息が出来たような心持ちで会場を見渡した。
よくもまあこれだけ人を集められたものだ。
泡立ちの良いシャンパンを給仕から受け取り、エドワードは壁際によった。
夜会は、見栄でもある。
どれ程豪勢に出来るか、どれ程の人物と繋がりがあるかを見せつけることで、権力を誇示し、地位を明確にする。
その点でいけば、この夜会は成功と言えよう。
広い会場には間をおかず、立派なお仕着せの使用人が配置されており、客人をもてなしている。異国料理も美味であるし、顔ぶれも豪華だ。古い王侯貴族、話題の女優、作家、と著名人が並んでいる。
だが、それでもやはり、エドワードは退屈に襲われていた。
どれもこれも見たことのあるような景色で、聞いたことのある会話だ。
既視感に、うんざりする。
早く帰りたい。
ため息をつきそうになったエドワードは、その代わり映えのない景色の中に、見知った顔を見つけた。
「あらエドワード。ご無沙汰ね、生きていたの」
嫌味と共に、イザベラ夫人はほほ笑んだ。
四十も年上の夫を亡くしたばかりの寡婦である。妖しい美貌と不幸を背負った彼女は、まだ二十数年しか生きていないくせに、他を従わせる貫禄があった。
エドワードも笑みを返しながら、その手をとり恭しく指輪に唇を落とした。
「おかげさまで」
「あなた、深窓のご令嬢に捕まったと聞いていたけれど」
「僕が?ご冗談を」
「残念。あなたを骨抜きにした女性を見てみたかったのに。今夜は連れていらっしゃらないの?」
「居もしない人を、どうしてご紹介できましょう?」
イザベラは三日月のように両目をしならせ、扇で口元を隠した。
「あなたが出し惜しみするなんて。本当に興味が沸くわ」
虚言は通じない。
エドワードは苦笑して「本当にいませんよ」とごまかした。
面倒な女に捕まったものだ。軽く中身のない会話は楽しいけれど、秘密を探られるのは好きではない。
「そうだわ。探偵でも雇おうかしら」
エドワードは口の端をあげる。
「妖精を捕まえるようなものですよ。金と時間の無駄だ」
「無駄でないことなんてこの世にあって?」
くすくすとイザベラは笑う。
そうして、切なげに視線をダンスホールへ向けた。紳士淑女がくるくると音楽にあわせて踊っている。いつもと同じ光景。
「毎日退屈なのよ、わたくし。なにかおもしろいことが起きたらいいのに」
「…同感です」
エドワードが頷くと、やっぱり気が合うわね、と満足そうにイザベラは笑った。
彼女は若い、そして美しい。
その気になればいくらでも恋人は出来るだろうに、結婚はしたくないと言った。
もうこりごりだと。
そんな人だから、エドワードはたまに彼女と話したい気分になった。この虚無感をわかりあえる相手として。
と、そこへよく響く声が届いた。
「エドワード」
暖かい声に、エドワードは振り返る。
「父上」
人をかき分けながら、父がこちらに向かっていた。
また少し太ったような気がして、エドワードは仕方がない人だな、と息をつく。父は、己にも甘い。医者に止められている甘味を、こっそり食しているに違いなかった。
エドワードは胸に片手をあて、イザベラに頭をさげた。
「では、イザベラ様。よい夜を」
「ええ、よい夜を」
別れを告げ、エドワードは父の方へ向かう。
その後ろには仏頂面のギルバートがついている。そうして、もうひとり。
ギルバートの陰に隠れるようにして、背の低い令嬢がこちらを窺っていた。
「彼が、エドワードですよ」
帰宅の挨拶もそこそこに、父は上機嫌で少女の手を引いた。
その影から姿を現した少女は、可憐という言葉がよく似合っていた。




