19.真実
「嘘が下手だな」
エドワードは、メアリーの書いたという誓約書を音をたてて破り捨てた。
「あ…」
開いた口を塞げないニックが、チリになったそれを目で追う。紙片が床に触れる寸前、止めとばかりにエドワードが踏みつぶした。
「兄さん?…いや、父上か」
屈んだエドワードが、その端正な顔をニックに近づける。
「杜撰だね。こんなもの、僕に見せなければ良かったんだ。彼女の性格を知っている人間なら誰でも見破れるよ。メアリーが金で動くなんてあり得ないって」
「……エドワード様」
「君たちの小汚い計画なんて、絶対乗ってやるものか」
ニックは気圧されながらも、ズレた眼鏡を懸命にあわせ平常を保とうとした。
「今さら、もう引き返すことなど出来ませんよ」
それに対し、エドワードは悠然と笑い返した。
「僕は家のために出来ることをした。それだけでは足りなかったのかもしれないけど…こんな卑怯な手を使うなら、僕も、もういい」
「…エドワード様」
「家なんて捨ててやる」
ただ振られただけなら良かった。けれど、こんな家族のいざこざにメアリーを巻き込んでしまったなんて。ニックに、どんな言葉を投げられたのだろう。どれだけ辛かっただろう。どれだけ彼女の自尊心を傷つけてしまっただろう。
「それで、メアリーという女と共になるのか?」
そう言ったのは、ギルバートだった。
正装に身を包んだ兄が、扉を開いてくる。
「エルゼンデ嬢がついたぞ」
「だから?僕はもう関係ない。そんなにあの家とつながりが欲しいなら、兄さんが結婚すればいい」
ギルバートは切れ長の目を、一層細めた。
「見下げたぞ。エルゼンデとの縁談を蹴るのなら、もうお前とは兄弟でもなんでもない。この瞬間から他人だ」
「奇遇ですね。是非、そうして頂きたいと思っていたところなんですよ」
「…お前は、本当に勝手な奴だな」
いらだちを含ませた兄の声に、エドワードも怒りをのせて返す。
「メアリーを巻き込んだことだけは、絶対に許さない。エルゼンデ嬢とのことも、もう知らない。僕は出ていく」
「どうせうまくいかないさ」
「他人のことなど、どうぞお気になさらず」
エドワードは兄の横をすり抜ける。
ギルバートは叫ぶ。
「その女、お前が本当に好きだと言うのなら、どうしてそれを貫かったのだろうな」
「…兄さんたちが、無理に」
「いや」
ギルバートの嫌に冷静な声が、届く。
「求婚を、断られたんだろう?真実想いあっていたなら、お前に助けを求めたんじゃないのか」
メアリーは、諦めていた。
エドワードになにを求めることもなく。
「それが事実だ」
エドワードは、部屋を飛び出した。
と、廊下にエルゼンデの姿を見つけてしまう。
侍女ヒルデを伴ったエルゼンデは、開け放したままの扉のせいで、今の会話を全て聞いていたらしい。蒼白で立ち尽くしていた。
「…エルゼンデ」
また、癇癪を起される。
エドワードは距離を保ちながら、その頼りなげな顔を見つめる。
「…エドワード様、今のお話」
「全て事実ですよ」
エドワードは観念をした。
「申しわけない。エルゼンデ、君とは結婚できない」
「…他に、好きな人がいるんですね」
「ああ」
エドワードはエルゼンデの後ろで恐ろしいほどの無表情を浮かべたヒルデに目を向けた。
「ヒルデ。あなたが持っているクラッチ」
ヒルデの濃黒の眉が、ぴくりと動く。
「あれが、なにか」
「僕が愛したのは、あれを作った人です」
ヒルデはエルゼンデ以上に激怒していた。握りしめられている拳が、今にもとびかかってくるのではないかとエドワードは内心身構える。
しかし、当のエルゼンデはというと、哀しそうにしながらも、落ち着きをはらっている。怖れていた癇癪など起こしそうにもない。
「まあ、あれを?」
その上、クラッチの話に食いついた。
「あれ、とっても気に入ってたの。わたし。お屋敷に来た行商の方から買ったんだけど…ね、ヒルデ」
「え、ええ」
「器用な方なんですね」
エルゼンデはふうと息をついた。
「…実をいうと、わたしほっとしています」
「え」
「まだ結婚とか、考えられないと思っていましたから。でも、お父様がどんどん進めていって、エドワード様ともお会いしたら、思っていたより普通の方だったから…まあいいかなって。お受けしようと思ったんです。でも、そういうことなら、仕方ないと思います」
むしろ良かったと、思っていそうな表情を浮かべ、エルゼンデはにこりと笑った。
「エルゼンデ、なんてことを…!」
と、そこへ、息をきらしながら、父が走って来た。
「エドワードと結婚して、わたしの娘になってくれるんじゃなかったのかい」
「おじ様…申しわけありません」
エルゼンデは深く膝を折る。
「エドワード様とは、出来れば友人としてお付き合いをさせて頂きたく存じます」
「そんな…」
父がへなりと座り込む。
「父上」
「エド…」
近寄ったエドワードに、父が生気を亡くしたまま顔をあげる。
「…お前たちは上手くいくと思ったんだ…許してくれ」
「いいえ。謝らないでください。僕も、期待通りに生きられなくてすみませんでした。ここまで育てていただいた御恩は、一生、忘れません」
「エドワード…?」
「今まで、ありがとうございました」
ギルバートが言った。
「出て行って、メアリーと一緒になるのだそうですよ」
「まさか」
父が、信じられないと手を伸ばしてくる。
それを避けて、エドワードは再び歩き出した。
「わかった、エドワード!わかったから」
なにが分かったというのか。
エドワードはこれ以上騙されるつもりはない。
「もう、その手には乗りませんよ」
「…今度こそ、本当だ。認める…認めるから出て行かないでくれ。わたしが悪かった」
父は、結局はエドワードに甘かった。
亡き母の面影を残した息子だからなのか、まだエドワードを子供だと思っているのかはわからない。しかし結局は、エドワードもこの男の息子だった。他人に、甘いのだ。いい歳をして涙を浮かべる父に呆れながらも、許したいと思ってしまう。
「メアリーが許してくれるなら、戻ってきます」
エドワードはそれだけを言って、屋敷をあとにした。
***
視界がにじむ。
ぼやける。
仕事が、進まない。
溢れてきた涙が、止まることはなかった。
メアリーはひとり雑貨店の隅で縫いものをしていた。エドワードが去った店内は、しんと静まりかえっている。
大丈夫。
すぐに良くなる。
時間が経てば、傷口はふさがるはずだった。
なのに、ぬぐってもぬぐっても、涙が枯れることはなかった。
最後に見たエドワードの背中。
縋りつきたい衝動を堪え、メアリーは唇をかんだ。
なんて悲しい結末だろう。
思い返せば、刹那の恋だった。
優しい思い出が、今はメアリーを苦しめ続ける。
「エドワード…」
呼んだわけではない。
ただ口にしてみただけだった。
期待なんてしない。
絶望するだけだから。
「メアリー」
幻聴が聞こえた。
穏やかで、どこか苦しそうな、エドワードの声。
「メアリー、ごめん」
幻覚が見えた。
背後から包まれる。暖かい腕が前にまわり、強く抱きしめられた。
「全部聞いた…守ってあげられなくて、本当にごめん」
「離して…」
こぼれ落ちた涙が、頬をつたい。エドワードの上等な上着に染み込んでいく。
「汚れちゃう」
「いくらでも汚していいよ。君が許してくれるなら」
振り向かせられ、エドワードの顔が、近くにくる。
整えていた髪は乱れ、彼の目にも涙が滲んでいた。
「エドワード…」
「やり直そう。僕は君と一緒にいたい」
「駄目」
「どうして」
メアリーは最後の砦を崩した。
これでもう、捨ててもらえる。本当に、あきらめがつくと。
「わたしの目、見えなくなるかもしれないの」
エドワードの息がつまったのがわかった。
メアリーは、目が悪くて助かったと涙をこぼす。
エドワードの表情が、こんな近くにいても、わからない。
よかった。
「今に作品も作れなくなるわ。お医者様に言われたの」
「…どうして教えてくれなかったの」
いや、とエドワードは首を振った。
「言えるわけないよね、僕、頼りないし」
「そんなことない」
咄嗟に言うと、エドワードはふわりと笑んでくれた。
「じゃあ、助けさせてくれる?」
「…?」
「お医者に行こう。もっとずっといい医者に。作品だって、ゆっくり作ったらいいんだ。君の出来る範囲で。ただし、僕のそばで」
「エドワード…」
戸惑うメアリーの手を、エドワードがとった。
「もう一度言うね」
いいのだろうか。
こんな自分でも。
メアリーは、握られた手を、握り返す。
「僕と、結婚してください」
真摯で、どこか得意げなエドワードに、メアリーはようやく笑った。




