1.メアリーの恋人
***
「やぁメアリー。また逢引か?」
待ち合わせの喫茶店へ向かう途中、メアリーは、ばったりとロルフに会ってしまった。咄嗟に視線を逸らしてしまったのは、咎めるような彼のそれから逃れるためだ。
「めかしこんで。楽しそうだな」
小馬鹿にしたような声に続き、ロルフと腕を絡ませていた女が笑うのがわかった。メアリーは顔をあげることも出来ず地面の石ころを見つめる。
やっぱり、編み上げのスカートなんて似合わなかっただろうか。
流行を真似てこつこつと縫っていたものが、昨夜ようやく出来上がったばかりだった。優しい弟は素敵だと褒めてくれたけれど、身内の称賛などあてにするものじゃない。
着替えに戻ろうか。でも、それでは約束の時間に間に合わなくなる。
「あれ」
近づいて来たロルフは、わざわざメアリーのそばで立ち止まり顔を覗き込んできた。次いで冷笑される。
「化粧も変えた?ほんと、必死だな」
「……そういう、わけじゃ」
愛想笑いをしてみたけれど、その声はだんだんと小さく、か細くなってしまった。
ああでもない、こうでもないと鏡台の前にいる時間が普段より長くなったことは確かだ。思い返すとチークを塗りすぎたような気もしてきた。髪型も何度も直したせいで時間はなくなるし、そのくせ結局はいつものおさげにおさまっている。
どうしてこう自分は要領が悪いのだろう。
これではとろくさいと言われても仕方がない。
ロルフが、笑顔を引っ込める。
「はあ?そういうつもりだろ。なに言い訳してんの?まあ、オレは別にいいんだよ。あんたが休みの日にどこで何をしようと。きちんと働いてさえくれればね」
メアリーは「ええ」と頷く。
メアリーの営む雑貨店は、半年前にロルフに買い取られていた。
今は、彼がオーナーを勤めている。
この付近の店はだいたいそうだ。それで皆、ロルフに頭が上がらない。
それが例え幼馴染だとしても、同様に。
ロルフとメアリーは、子供の頃からの知り合いだった。
街一番の商家のひとり息子――ロルフ・ヴォーグは、両親の愛情を一身に受け、大切に大切に育てられた。
そのせいか、ロルフは小さな頃から自分勝手で、我儘で、威張っていて、メアリーをからかってきた。クセ毛だと髪を引っ張ってきたり、物を隠したり、スカートをめくったり。大人しいメアリーは口答えも少なく標的にしやすかったのだろう。あるいは単純に席の近いクラスメイトだったからか。
十八ともなった今では、さすがにそんな事はしなくなったけれど、代わりにこうして言葉でつっかかられる事が増えた。
最近は、特にそれがひどい。
元々、派手で目立つリーダー気質の彼と、手芸が好きなメアリーとでは嗜好も話も合わない。
だから話しかけられても上手く返せないし、ロルフにとっては何てことないはずの大きな声も、メアリーには責められている気分になってしまう。
いっそ心底嫌いになれたらいいのだが。
やっかいなのは、彼が根っからの悪い奴ではないということだった。
赤字ばかりのメアリーの店がなんとか続いているのは、事実、ロルフのおかげだった。
彼が別ルートでメアリーの作る手芸品を捌いてくれるお金で、メアリーは生活が出来ている。面倒で、手間のかかることだ。大店の息子と言えど、そう容易く出来ることではない。それをロルフは偉そうにしながらも、「商品を買ってやる」と自ら申し出てくれた。兄貴分というか、リーダー気質のせいもあるのだろう。
実際彼は交友関係も広い。良い人だと思う時もあるし、感謝もしている。
してはいるのだけれど。
子供の頃の経緯が起因しているのか、メアリーはどうしてもロルフの威圧的な態度が苦手だった。
今この瞬間も早く行って欲しいと思ってしまう。
なのにロルフは、腕を組み首を傾げる。まるで立ち去る気がない。連れの女性とどこかへ行く途中なのだろうから、メアリーに構っている暇なんてないはずだろうに。
「で、またあいつと会うわけ?」
あいつ、とはエドワードを差していた。三ヶ月前に知り合ったばかりの、メアリーの恋人だ。
こくりと頷けば、軽くため息をつかれてしまう。
「せっかく貯めてるお金、搾り取られないようにね」
「お金なんて、渡したことないわ……」
わずかな反論も、ロルフには笑い返される。
「今まではな。これからはどうかわからないぜ」
どうしてそんなことばかり言うんだろう。
エドワードは、そんな男じゃないと何度も言っているのに。
彼は一度たりともメアリーに何かを要求したことなんてないし、それどころか、食事代も、デート代も、いつも彼が出してしまう。悪いと思って払おうとしても、「ダメ」と優しく断られるばかりだった。
そんなことを知りもしないで、ロルフは勝手にエドワードを金を無心してくる男だと思っている。
メアリーが騙されていると、決めつけているのだ。
「ごめんなさい、急いでいるから」
メアリーはロルフに軽く会釈をしてそのそばをすり抜けた。
「メアリー!」
強く呼ばれる。
メアリーは聞こえない風を装って、大通りに飛び込んだ。
今は仕事時間じゃない。
それに、雇い主だからと言って、エドワードとのことまで口を出される謂れはないはず。
ああ、いやだな。
一週間ぶりにエドワードに会えるというのに、心はすっかり沈んでしまっていた。
*
待ち合わせの喫茶店に入ると、奥の二人掛けの席に座っていたエドワードが手をあげてくれた。
「メアリー、ここだよ」
ほっとしてメアリーは歩みを進める。
優しい笑顔と落ち着いた低い声に、ささくれていた気持ちが凪いでいく。
「なににする?」
腰を下ろして一息つくと、エドワードにメニューを手渡された。
「ええと、紅茶を」
「了解」
エドワードはウエイトレスを呼んで、メアリーには紅茶とケーキ、自分には珈琲を頼んだ。
「私、お茶だけで」
「僕が食べたいんだ。でも、あんまり可愛い奴だから頼みづらくてさ。半分こしよう」
ね、と懇願するように微笑まれメアリーは頷くしかなかった。
まただわ。
実はメアリーも美味しそうだと思っていたところだ。心を読まれたようで、内心驚いてしまう。
エドワードといるとこういうことが度々起きた。
足が疲れたと思うと、さりげなくベンチに誘ってくれたり。
体調が優れない時は、残念そうにしながらも早めに解散をしてくれた。
不思議な人。
彼がどこに住んでいるのかも、どんな仕事をしているのかも、メアリーは知らない。
一度だけ訊ねたことはあるけれど、「少し遠く」とか「詩人みたいなことしてる」とか、その答えは曖昧だった。メアリーがきょとりとすると、その瞳が少しだけ困ったように瞬いた。だから、怪しく思うよりも、話して貰えないと嘆くよりも、話したくない事なのだろう、とメアリーは解した。
メアリーだって、ロルフとの会話は聞かれたくないし、あまり話したくない。
楽しい話題でもない上に、惨めだ。
せめてエドワードといる僅かな時だけでも幸せな気持ちでいたかった。
お互いのこと。まだ話すには勇気がいることも、だんだんと伝えていけたらいい。
メアリーは、そう思っていた。
「お待たせ致しました」
間もなくウエイトレスが運んできたケーキは、なるほど、可愛らしかった。
金縁の丸皿に乗ったカップケーキは、パウンド生地の上に生クリームがふわりと絞られ、艶のあるストロベリーが飾られていた。全体には、パステルピンクの粉砂糖がちりばめられている。
珈琲二配分の値段がつけられるだけのことはある。
「お先にどうぞ」
エドワードに言われて、メアリーはおずおずとフォークを手に取った。一口分切り分けて、口に入れる。
生クリームと、パウンドケーキが相まって、甘い感覚に満たされた。自然と頬が緩む。
「美味しい?」
珈琲に口をつけながら、エドワードがにこりと尋ねてきた。
彼の淡い金髪の隙間から、碧い目が見え隠れする。
その瞳に、メアリーは弱かった。
「美味しい、です」
なんとかケーキを飲み込んで、答える。
エドワードは少しだけ困ったように眉根を下げた。
「敬語、取れないね」
「あ……」
最初はお客だったのだから。仕方がない。
「ごめんなさい」
これでも歩み寄っているほうだと思う。
「ゆっくりでいいけど」
言って、エドワードはフォークを取り上げると自分でもケーキを食べた。すぐに、美味い、と声をあげる。そうしているとごく普通の青年に見えた。
――騙されてるんじゃないか?
ふと、ロルフの嘲笑が蘇る。
――そもそも、本当にあんたの恋人なの?どう見ても遊ばれてるだろ
そんなことない。
メアリーはいやな考えを追い払おうと、まだ暖かい紅茶のカップに両手を添えた。
騙されているなんて、考えるだけでも失礼なことだ。それに、メアリーには搾り取られるようなお金もないのだから。
でも。
ロルフがそう思うのも、仕方がないことかもしれない。
エドワードは、素敵すぎる。メアリー自身付き合っていることが信じられないくらいだ。
ちらりと見上げると、エドワードと目が合う。そうしてすぐに微笑まれた。
「そのスカート君が作ったんだろ?すごく似合ってる」
気づいてくれた。
嬉しくて、だけど少し恥ずかしくて、メアリーは頷きながら紅茶を含む。
「ありがとう……」
こんなにも真直ぐに褒められたことなんてなくて、だから、どう反応すればいいのかわからなかった。
エドワードは、まるで童話から飛び出してきた王子様みたいだ。
サラサラの淡い金髪も、彫刻みたいに整った顔立ちも、すらりと伸びた長い手足も、作りもののように完璧で、綺麗で。
その口から飛び出してくる言葉もそうだ。
可愛いとか、愛してるとか、彼は平気で口にする。
その度にメアリーは返答に詰まった。
なんとか「私も」と返すのが精いっぱいで、気の利いた言い回しのひとつも思いつかない。
だからだろう。余計に、ロルフの言葉は胸につきささるのだった。