第四十八話
水の中を泳ぐことしばらくして、シノトは途中から自分の体に息継ぎが必要ないことを知る。思ったよりも深いところを泳いでいくクロノゴを追いかけ、シノトはいつか来るであろう潜水の限界と少し遠くに見える水面に不安を感じながらも泳ぎ続けていた。しかし水を掻く回数が百、また百と重なっていくに連れてシノトはいつまでたってもあの酸欠の時に起こる苦しみが来ないことを知る。シノトは自分の体がそういうものであるということに驚きと、わずかばかり恐怖を感じたものだったが、それを知った時以上の衝撃を今水の中の光景に抱いていた。
はじめクロノゴに続いて水の中に入ったシノトは、その遠くまで見ることのできる海の透明度に驚いていた。横は地上よりもはるか遠くまで見渡せるようで、下は光の届くところ全て色彩豊かなものがはっきりとシノトの目には見て取れている。きっと昼間であればもっと鮮烈な光景を焼き付けることができただろう。
しかししばらくして、泳ぎ続けたシノトの視界は突如一変した。下は先程よりさらに深くなったのか不気味なあおぐらさをたたえていたが、しかしその一方でシノト達の行く先には先程まではるか向こうまで見渡せていた風景に突如白い壁が立ちふさがっていたのだ。視界いっぱいに、それまでその広大さを存分に示していた海の一角に見えたそれはそれ以上に大きく、近づくシノト達の視界を見る見るうちに占めて行った。
「どうですか、美しいでしょう?でも美しいからといって止まらないでくださいね、長老様がお待ちしておりますので。」
クロノゴはそう言っていて、確かにシノトもそう感じているようだった。夏の空の遠くに見える雲のように海の中にそびえる真っ白な壁は、近づけば近づくほどシノトにもその完璧なまでの白さがはっきりと分かるようになっており、そして不思議と綿のように柔らかそうでもあった。
しかし近づいてみたら、その正体はそう珍しいものではなかった。青い海に燦然と輝く白を放っていたのは、ただの粒。それも信じられないくらい細かい、どこまでも途切れることなく続く――――唯の気泡であった。
シノトが白い壁が何で出来ているか、それを確認できるところまで進んだところでシノトの前を行くクロノゴが急に進みを止めた。シノトはてっきり泡の向こうにまで行くと思っていたが、どうやらそのようではなく、クロノゴはそのまま今度はシノトの方へ手を伸ばしてきた。
「それでは、こちらへ。どうぞお手をおとりください。」
クロノゴに言われたとおり、シノトは差し出された手を握った。ここまでしばらく泳いできたせいか不気味なくらい冷たい男の手はともかく、シノトは次に何をするのかと男に目配せをする。だが、クロノゴの目は既にシノトのほうを向いてはおらず、暗い海の底を一心に見つめていた。
「しっかりつかみましたね?それでは決して、離さないようにしてください。」
シノトがその言葉を理解する頃には、二人の姿はその場から掻き消えていた。
水の抵抗と、目をつぶっていてもわかるぐらいに次第に暗くなる周囲。それが何を意味するのかわかっただけでシノトは咄嗟に手を放そうとしたが、クロノゴの力は信じられないほど強くシノトが状況を理解する前に全てのことは終わってしまっていた。遥か深いところにあるはずだった海底に足をつけたシノトは、不思議と暗闇の中でも変わらず光をたたえている泡の壁、それに照らされたクロノゴに文句を言おうとして、そこで自分が水の中にいるということを思い出し視線だけで意思を伝えようとする。しかしクロノゴはそんなシノトに目を向けることはなく、泡の壁の方へ僅かのためらいも見せず消えていき、渋々とではあったがシノトもそれに従った。
泡をくぐった先は、驚くことに水がなかった。いやそれだけではない、水の中だということが嘘のような世界が広がっていた。上を見れば空のように青く、シノトが固く閉じていた口を開ければ新鮮な空気が肺に流れ込んできた。耳には確かに僅かに吹く風の音すら聴こえてくる。原理こそシノトには理解できていなかったが、ただ確かなことはそこには水の中のような浮遊感も、深海のような暗い静けさもないと言うことだった。
「クロノゴ、帰ったか。」
「毎度任務ご苦労、しかし・・・・・・今度は無駄ではなかったようだな。」
そしてシノト達を待ち構えていたらしい彼らは、見る限り人ではなかった。シノトとクロノゴを挟むようにそびえ立つその二つの巨体は、蛇のような体にひとつ一抱えもありそうな鱗のようなものが体を覆っており、顔はいささか毛深いぐらいに、その中でもとりわけ二本は特に長く、それはまさしくシノトの故郷で竜と呼ばれた架空の生き物の姿そのものだ。
「ああ、長老の言っていた人間だ。これから連れて行くところだ、何か言うことはないか?」
「役割的にはまあ、素性を確認しなくちゃいけないところだがそれは必要ないな。個人としてなら、言いたいことはあるが。」
地鳴りのようなその声は威厳に溢れ、なるほどこれは神として崇められるわけだとシノトが感心していたところ、二匹は急にその姿を消した。いや、正確にはその姿を縮めたのだ。二匹の龍がいた場所には見慣れない服装の大男二人が立っており、突然の事に驚くシノトに男二人は更に頭を下げた。
「我らが先祖がお世話になりました。お忙しい身分ではございましょうが、どうぞくつろいでいってください。」
その姿に威厳すら感じ取れた存在が、会ったばかりのシノトに頭を下げた。予想外のことにはシノトもさすがに驚いたようで、なんといっていいのか分からずに立ち尽くす。そんなシノトを尻目にクロノゴが二人の前を立ち去り、シノトも慌ててそれに続いた。
「あの、俺なにかしましたか?」
「さあどうでしょうね。昔のことは所詮昔のことですが、真面目な奴は真面目ですからね。」
クロノゴの言葉はシノトにも理解できなく、シノトがもう一度訪ねようとしたその時、また別の景色がその目に映った。




