第三十話
初めは見晴らしのいい山岳地、その向こう側に突然現れた黒い何か、その兵士の認識はそんなものだった。そそっかしい同僚達を反面教師にしようと考えていたその兵士は、その黒い影がなんなのか検討が全くつかなかったが、兵士はだんだんとそれが近づくにつれて、それが人間大のなにかだと気づくことができる。土煙を上げるそれの速さは馬か何かと見間違うほどで、兵士が危険に気づいて対応に他の兵を呼ぶまで、その僅かな時間ですらそれには壁にたどり着くには十分すぎるくらいだった。
しかしそれだけの速さで迫ることができたとしても、高い壁はどう見たって梯子無しにはとても登れる高さではない。だからこそ少し対応が遅れたとは言え、兵士もまだ心に余裕が有り、十分に対応できるとタカをくくっていた。・・・・・・だから、その黒い何者かが一瞬きのうちに何でもないかのように目の前まで飛び上がったとき、兵士は致命的な隙を見せてしまう。
「どうも真面目にお仕事中すみません。大変だろうとは思いますが、どうか俺を探し出し出してくださいね。」
男はフードをとり、その黒い髪を日のもとにさらすと笑ってみせ、次の瞬間のは兵士を飛び越えてそのまま街の中に落ちていった。慌てて兵士が男の姿を目で追うと、建物の上を黒い影が飛び飛びに渡っていくのを目にする。兵士が人を呼ぼうと振り向いた時、その視界に駆けてくる仲間の兵士の姿が写った。
「大丈夫か!?何かがここを通っていったのは見えたが、一体あれはなんだ?」
「黒人だ、黒いフードをかぶった黒人が街に侵入した!守衛長に今すぐ連絡だ、急がないと街が血の海になるぞ!」
まもなくして、街に鐘の音が響く。詰所にいた兵士たちも、慌ただしく動き始めた。
「なんだなんだ、警戒の鐘が鳴らされてるぞ?・・・・・・まあ案の定いつものごとく、その臆病さを発揮してのことだろうけどよ、耳障りだから金があればその金で鐘を買いなおしてくれないものかねえ。」
ある広場にて、リュートのような物を持った老人がそうぼやいていた。以前鐘が鳴ったときの騒ぎが、門前での衛兵と商団の単なる揉め事だったと知る老人は、憂鬱な気分で目の前を通っていく人々をいつものように目で追いかけている。
その時広場に入ってくる人影がいたのだが、老人が思わず驚きで顔を歪めるほどにその姿がとても目立っていた。服装自体は旅人がよく使うたぐいのそれに似ていたのだが、上着は若葉のような生き生きとした緑色に染まっており、ズボンの右半分は血で染めたかのような赤色に、左側は目もくらむような眩い黄色だ。靴は真っ黒に染まっており、顔が見えなくなるように顔面に貼り付けられた葉には片側に笑った表情が、もう片方に悲哀に満ちた表情が描かれている。頭は葉の塊が被さっており、完全に髪を覆いかぶさって見えなくさせていた。
「おいおい、今日は随分と変なのがいるな。ここにはこれまでも変な奴がたくさんいたが、これだけ変な格好している奴は初めてだぞ。」
老人が呆れ半分にそうぼやくうちに、他の道行かう人たちも男の存在に気づき視線を向けるようになっていた。それも当然、この広場は見世物や芸をする人間が居る場所として有名なのだ。それだけ目立つ格好をする者が現れれば、必然的に観る者が何かをするだろうと期待を掛けるのも当然のことだろう。
「あの格好のせいで敷居が高くなっているが、どう見たって初心者だよな?ここで罵声を浴びせられてやめなければいいんだが・・・・・・気になって仕事になんねえな全く。」
老人は同業者が増えることで収入が下がるかも知れないと考えるよりも、将来有望な新参者の心が折れないかどうかのを心配していた。芸人よりもここ最近は兵士になったり、畑を持ったりとする若者が増えているおかげで、広場にいるそういうものはここ最近少なくなる傾向にある。もちろんそれだけが理由ではなく、芸を考えて実際にやったところでそれが確実に人に受け入れられるというわけではないというところもあった。観る側だって、基本的に面白くないと思えば無言で立ち去っていったり、罵声を浴びせてくるものも少なくないのだ。金を投げてくれる客はその半分もいかないのだからなおさら。
老人が心配して見守るのもつゆ知らず、その人影は広場の真ん中までずかずかと歩いていくと突然立ち止まった。ここを知っているなら普通緊張して動きが萎縮しそうな一連の動作だったが、何のためらいも躊躇も見られなかったところから、もしかしたらこいつは他の街から来たのかもしれないと老人が思う間に、辺りを見渡していたそれは老人の方へと歩いていく。
「あのすみません、お隣よろしいですか?」
若い男の声だったが、顔に張り付いた仮面はそれなりに厚みもあったのか、まるでがらんどうのような瞳が老人を覗き込んでいた。言葉遣いが丁寧なところから真面目な人間なのだろうが、格好が常軌を逸している分完全にその様相は不審者のものだ。だがそこは老人、職業柄そんな変人に絡まれることが多いのか特に慌てる様子もなく、かえって訝しげに受け答えをした。
「おいおい、ここは皆の中央広場だぜ?よろしいもクソもあるかよ。そんなことよりも芸はしなくていいのか?」
「芸とは・・・・・・もしかして表現的な何かとかですか?」
「それ以外にあるかよ、そんな格好をしてここにいるんだしもちろん分かっているだろ?俺は邪魔しないからよ、そんなに牽制しなくていいぜ。」
男はそう言われて、まるで自分が迷子であるように辺りを見渡した。その動作に昔ここで初めて楽器を弾いた時を思い出したのか老人は懐かしそうに目を細めたが、そんなことは知らない男は肩をすくめて首を縦に振る。
「はあ、じゃあやってみます。とは言っても本場の人と比べられるのは・・・・・・下手くそだと何か罰則あったりしますか?」
「いいからやってみろ、ここでやるのは初めてなんだろ?俺が見ててやるから思う存分にな、失敗しても得るものはあるから。」
男ははじめためらっていたが、老人に背中を押される形で広場の真ん中まで進み出ていた。男はしばらく呆然とした様子で道行く人たちの姿を眺めていただけだったが、そのなかでさりげなく始めたのはどこから取り出したのかわからない棒を宙に投げることだった。老人は始めどういう芸なのだろうと注目したが、投げる棒がいつまでたっても無くならないことに気づいて、それが投げた棒を受け止めては投げるの繰り返しであることに気づく。
形も長さも不揃いな棒、それを不思議な規則性を持って循環させているそれはしばらく単調にただ繰り返すだけだったが、徐々に年月をかけて植木が枝を張るように、少しずつだが変化がそれを見飽きさせないものへと変えていくのが老人にはわかった。この広場では見たことがない分物珍しさのためか人が集まる中、その芸の変化は次第に明確なものへとなっていく。
あるときはついに落としたかと思われたがそれが足の上に落ち、いつの間にか腕以外でも足でやるようになったり、ひときわ高く投げられる二つ目ができて輪が二段できたりと、変化ができてその度に歓声と拍手が起きる。最後はここ最近で一番の大勢の前で棒を一番高く放り投げると、横に広げた腕にその全てを立てて着地させて終わりとなった。割れんばかりの拍手に男は手を振って答えると、老人の方へと戻っていく。――――――老人は手を挙げて男を労った。
「見たことないネタだな、どこで身につけたんだ?」
「昔取った杵柄というか、ある先生から教えを受けたんですが、そのついでにこれも伝授されたんです。昔やったときはもっと違った感じだったんですが、上手く出来ましたかね?」
自信なさげに男はそう言ったが、彼をさっきまで囲っていた人数を考えれば十分に成功だといってもいいだろう、そう老人は思った。変わった芸だったのでこれだけ人が集まったのかもしれないが、老人から見ても男のそれは長い時間をかけて鍛えられた物だということは明白であり、それゆえのの精錬さがあったことに素直に感心している。――――――もちろん口には出さない。
「今はまだ上手く出来たかどうかなんてわからなくていいが、とりあえず次からはしっかり金を取ってくれよ?ただでやられたんじゃあ俺達みたいなこれで稼いでいる奴らの立場がなくなるからな。」
「それはすみませんでした、どうにも慣れてなくて。しかしということは、あなたもなにか見世物をやるんですか?」
「てめえはこのカンベンが見えねえのか?って言ってもここは初めてらしいし無理もないか。この街でここは俺らのような見世物をする奴らは大半はここでやるんだ、ここは人通りが多いからな。ほらよく見てみろ、あちこちに何かしらやっている奴が居るだろ?俺らはここで芸をやって、それに見合った金をもらってるんだ。」
老人はカンベンと呼んで見せたリュートのようなものを見せ、実際に弾くふりをした。男がそれを見て周りを見渡せば、確かに広場では人だかりに差があるとはいえ何かしらをやっているものがチラホラと居る。男はそれを見て納得した。
「なるほど、ではあれも見世物の一つなのですか?」
男がそういい老人がその指す方向を向いたとき、広場に輝く太陽を反射する集団が入ってきた。




