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04

 カチ、カチ、カチ……

 真っ暗な部屋の中で、何かが小さく刻を刻んでいる。

 心地よく耳に触れる感覚、どこかから聞こえて来る、微かな鳥のさえずり。

 寝返りを打つと、柔らかな枕の感覚が肌に触れてきた。

 息を吹くと僅かに帰ってくる、柔らかい寝音。

 そして肌に冷たく濡れる……涎?

「ハチジダー! ハチジダー!!」

「うおぉぉぉぉっ!!??」

 突然、何かがハヤミの直近で大きな音を鳴らしはじめる。

 慌ててハヤミが飛び起きる。

 と。

「……がッ!!!!」

 頭上に張り出していた何かに、寝起きのハヤミは頭を大きくぶつけてしまった。

 白い蛍光灯の光がパッとベッドに灯る。

寝ぼけた目に映るのは、見慣れたベッドと、白いシーツ、ベッドに一体化している快眠目ざまし装置。

それとは別にベッドの上に転がっている、ハヤミのぴよぴよ時計。

「モウハチチジダゾー!!」

 ぴよぴよ時計が転がりながら、ぴよぴよと羽を揺らしながら世界の時刻を告げた。

 寝ぼけた頭をフル回転させ、周りを見て、状況を把握してみる。

 窓の外には、いつか見ていた世界とは違う……いつもの、地下世界の風景。

 汚い高層ビル群が真っ白な世界に乱立していて。

 その中で、まるで置いて行かれたように隅っこのエリアにひっそりたたずんでいる軍用官舎。

 ここはいつもの、ハヤミの住んでいる地下世界だった。

「あれ……どうしてオレ……ここに、いるんだ?」

 頭の上にはまだハヤミが頭をぶつけた特殊蛍光灯スタンドが揺れており、自室は前に見た通り……得体のしれないゴミどもが大量に部屋を占めている。

 草はない。

 木々もない。

 地獄の三角山もないし、もしくは冷たい闇や、白い靄、荒れ地を撫でる気持ち悪い風もない。

 少女もいない。

 どこを見ても、ここはいつかの地上世界ではなかった。

「……夢?」

 ドンドンドン! と、部屋のドアを誰かが叩く音がした。

「ゴラァ! ハヤミぃ! 起きろテメー!」

「……?」

 カズマの声だった。

「テメー帰って早々居留守かぁ!? いい度胸してんじゃねーか! このドアさっさと開けろ! ぶちやぶんぞコノヤロー!!」

「お、おーう、鍵開いてっから勝手に入ってこいよー」

「人が開けろっつってんだからさっさと開けろ! 蹴り飛ばすぞ!」

「朝っからうるさい奴だなあ……」

 ブツブツ文句を言いながらハヤミはベッドから起きて、寝癖のついた髪の毛をなでながら自室のドアを開ける……開けると、大量のカラフルなプレゼントを持ったカズマの姿が目に入った。

「おお?」

「邪魔だ邪魔!」

 やっぱりカズマだった。

 カラフルなプレゼントの山がズンズンとハヤミの部屋に入っていき、そのままバサァッとゴミのように投げられる。

 声の調子から言うとカズマは不機嫌極まりない顔をしていそうなのだが、薄暗い部屋にベッドの蛍光灯が揺れると、やっぱりカズマの顔は不機嫌そうだった。

「何これ?」

「朝とか言ってんじゃねーよ寝坊助。テメーの生還祝いってな、隊長に何か持って行ってやれって言われたから、近くでテキトーなモンを買ってきてやったんだ。感謝しな」

 プレゼントは、どれも近くの高級デパートで売っている菓子包みだった。

 それらすべてがプレゼント包装紙でくるまれている。

 もし状況が状況なら、女の子なら顔を赤くしていたかもしれない。

「なんで?」

「何が? おおっと何も言わなくても良いゼ。俺も答えたくない」

 部屋に広がる菓子の匂いに、カズマは両手を前に突き出して嫌そうな顔をする。

「俺が選んだんじゃーないんだ」

「だから何なんだこれは?」

「お前の生還祝い」

「……ん?」

「お前もうこんな鬱臭い貧乏官舎なんか出てよ、一人前の一軒家とか誰かに買ってもらったらどうだ?」

 言いながらカズマはハヤミのベッドに座ると、胸ポケットからタバコを取り出して、マッチを擦って火をつけた。

 カズマは私服を着ていた。

 どこかで見たことのある様なアメリカンヘルメット。

 どこかで見たことのあるサングラス。

 どこかで見たことのあるライダージャケットに、どこかで見たことのあるジーパンと、どこかで見たことのあるライダーブーツ。

 カズマは、どこかで見た事のあるキャラクターそっくりの服装をしている。

 それは前からそうなのだが。

「……どゆこと?」

「んー。色々大変だったらしいな、って事。百年に一度の大惨事だ、基地を飛び越えて町中大騒ぎだったんだぜ?」

 言うとカズマはベッドの上であぐらをかき、不機嫌そうにハヤミの部屋をグルリと見回した。

「あの時もサ、A―7でお前の機影をいきなりロストしたから、また何かの悪戯かと思ってしばらくお前のこと捜したんだけどな。燃料が無くなったから先に帰投してたんだ。詳細を上に報告してからビックリしたよ、お前ホントにどっかに墜ちてたんだって?」

「……薄情者」

「いやいやいや。俺は、確かにお前を捜したんだぜ?」

「でもお前、エマージェンシー宣言とかしなかったろ?」

「しーまーしーたー」

 言うとカズマはプハァっと煙を吹く。

「結構捜しました。でも、お前は本当に見つからなかった。空で迷子とかありえん。でもお前ならありえる。さすがに俺も焦ったんだ。ほんの少し」

 カズマの煙を見上げるハヤミ。

 ハヤミはパジャマだった。

「カズマぁ、官舎は禁煙なんだぜ?」

「んー?」

 ハヤミの指摘にカズマの眉毛が一瞬広がり、「お前も吸う?」と言いながらこれ見よがしにプカァとタバコの煙を吐く。

 カズマが新しいタバコをハヤミに差し出したので、ハヤミはカズマからタバコを奪うと、同じようにカズマのマッチでタバコに火をつけて煙を吐いた。

 室内はすぐに煙だらけになった。

 灯らない室内灯と、テーブルがわりに重ねられている読み終わった大量の文庫本。

 部屋の隅にあるのは、乱雑風かつ絶妙なバランスで組まれている大量のプラモデルアート。

 余談だが、ハヤミの部屋にはなぜかカーネルサンダースの人形が立てかけてあった。

「……やっぱり俺、墜ちてたんだ」

「何、お前覚えてないの?」

「いや覚えてるんだけど、なんか色々ありすぎて……もしかして夢だったのかなーって」

 言いながらハヤミは床にしゃがみこむ。

カズマのプレゼント包みを開けてみると、どれもハヤミの大好きなジャンクだった。

「いいや夢じゃねーぞお前のバカは。隊長がメチャクチャ心配してた。むしろ町中が大騒ぎだった。ある意味、エンターテイメントだったかもしれないな」

「エンターテイメント?」

「そ。久しぶりに面白そうな事故が起こったって。百年前に消えた敵軍が実は生きてたーとか、所属不明の戦闘機と遭遇して撃墜されたんだーとか。テレビに天気ガイド以外が載ったとか超久しぶりだったぜ。で、無事生還したんだお前は。百年に一度の英雄って訳だ」

 フゥ、とカズマがタバコの煙を大きく吐くと、カズマは吸殻と化したタバコを文庫本テーブルの空き缶に落とす。

「……で。俺が言いたいのは、そんな愚かなハヤミ君をねぎらう言葉じゃーないんだ」

「うん?」

 ハヤミはタバコをくわえたまま、パジャマ姿で床の上にしゃがみ込んでいる。

「町中がお前の生還を祝ってるんだ。さっき言ったろ?」

「そんなにか?」

「お前は外で、死ぬ様な思いをしてきた訳だが」

「そりゃーな」

「辛かっただろう色々」

「いやそうでもないけど?」

「地上に墜落してからずっと、昨日まで寝ずに頑張ってきた英雄だ」

「んー」

 ぷかぷかとタバコの煙を吹くヤミ。

「やりたいこともあるだろう。飲みたいものもあるだろう。食べたいものもあるだるだろう。話したいこともいっぱいあるだろう」

「強いて言うなら、俺はもうちょっと寝たいかもしれない」

「はやーみ君。君に選択肢は無いと思うんだよ」

 ベッドの上でカズマがあぐらを組み直す。

 ほんのちょっと首を前に差し出して、真剣な眼差し……サングラス越しに、ハヤミの顔を見下ろしているその姿は。

 その顔は、真剣な表情そのものだった。

「俺と一緒に、ちょっと街まで飲みに行かないか」

「人の話はちゃんと聞かないといけないって、オレは物凄く思うんだ」

「断るつもりか?」

「ん、いや……んー? なんか、イヤな予感がする」

「さすがハヤミ、いい感してるな。断られたら残念、俺は英雄ハヤミ様に、少し早めに借金を返してもらおうかと考えてたんだ」

「オニ。アクマ。それ今言う事かよおい。特別手当か次の給料日まで待てっての」

「待ってたって返さないだろお前。まあでも、別に今じゃなくてもいいんだがな。だけどよく考えてみろ、お前は今、百年に一度の英雄で街にいるんだぜ?」

「……」

 ハヤミは自分がくわえていたタバコの煙がいつの間にか消えているのに気がつく。

くわえていたタバコを手にとって床に立つと、そのままタバコを文庫本テーブルにある空き缶に突っ込んだ。

 さらに気がつく。カズマが床に放り投げた菓子包みの山に挟まっているレシートに、薄いインクで「トッカ ムリョウ」という文字が書かれていることに。

「なに、もしかしてタダで飲み食いできたりするわけ?」

「場合によっては」

「それホントか?」

「俺が嘘つくと思うのかよ?」

「行く。すぐ行く。ちょっとそこで待ってろ」

 言うとハヤミは壁際に放り投げていた服に飛び掛かり、皺を伸ばすと素早く袖を身体に通していった。

 後ろではカズマがベッドの上で「はやくしろー」と急かしているが。

「ああ、後で宅配便が来るはずだから、当直にも一応言っとけよ」

「おう、それは……あれ?」

 ふとハヤミは、何か大切な事を忘れているような感覚を覚えた。

「何か俺……何かどっかに、大切なものを置いてきた、みたいな?」

「財布? 今日はいらないから後にしろよ」

「なんか超気持ち悪い。財布じゃない、何か……もっと大切な……あれ?」

 言いながらシャツの裾を整え、ボタンをゆっくりはめていく。

 考えながらボタン留めていき、途中でボタンを留める手が止まと、後ろのカズマがふたたび「はやくしろー」とハヤミを急かした。

「まあ飲みながら思い出そうや。とりあえず寝癖だけは直してくれよハヤミ」

「むー、いや……むー……」

 カズマが急くのもあってハヤミはまた手を動かしたが、留めたり考えたりする内に、ハヤミの手はだいぶゆっくりと動く事になる。

 どうも納得できない。

「忘れるって事は、そんなに大した事じゃないんだろ」

「いや、なんか……んー? そうなのか?」

 ハヤミがシャツに腕を通すと、シャツの胸ポケットの中から見慣れた小さな物が転がり出てきた。

「む……」

 蒼とオレンジの、どこかで見たことのあるサイコロ。

まるでただの石ころのようだ。

どこからここに入って来たのだろう?

ハヤミはしばらく二つのサイコロを見つめていたが、それでもハヤミは心に引っかかる「気持ち悪いのか」の正体を突き止めることはできなかった。

 ハヤミの住んでいる官舎は、地下世界でも中階級層よりほんの少し下に位置する、エリアC―3という世界に建っていた。

 世界はAからEまであって、それぞれが上から階級ごとに、縦に並んで地下に存在している。

 その中でもエリアCは比較的普通な方で、例えばエリアBに住んでいる高級官僚がショッピングエリアを歩いている光景もよく見ることができた。

 エリアDから来た露天商が、道端で進入許可証を持って露天を開いていることもある。

 D出身の人間が起業に成功して、住居を構えるのもCエリアだった。

 もしくはエリアBの人間がB層特有の鼻持ちならない空気に嫌気が差して、C層にこっそり家を構えている変わり者もいる。

 ロボットが多いのもエリアCの特徴だろう。

 一番人が集まっているのも、一番活気があるのも、エリアCだけだった。

 区分や区画が他エリアに比べて圧倒的に多いのも、エリアCの特徴。

 人も、物流も、文化も、C層に無い物はどこにも無い。

「でもな。俺たちが今から向かう店は、エリアCには無いんだ」

 カズマはそう言いながら、揺れる地下鉄の中でハヤミに自分の地図を広げてみせた。

「どうせボトムエリアだろ? いつか言ってた」

「ご名答」

「なんでお前はそんなにボトムエリアが好きなんだ?」

 混雑する地下鉄の中で、ハヤミは壁しか映さない窓の外を見ながらカズマに問いかける。

 カズマは隣の席で、しわくちゃのお勧めマップにペンを走らせながらハヤミの顔を見ようともしなかった。

 周りに立っている人間……人間のような形をしたスーツ姿の物体たちは、みんなロボットだった。

「んー、なんでだろ。スリル……かな?」

「俺はあんまり行きたくないんだけどなー」

 ハヤミは腕を組みながら唸る。

 腰掛けたイスに浅く座り直し、反射的に……ハヤミは足を前に投げた。

 ロボット達は無言でハヤミの足からどいた。

「……」

 それら無言の動作をハヤミがじっと睨み上げても、ロボット達はまるでハヤミの視線に気がつこうとしない。

 “ハヤミ”が、そこにいる。

それをロボット達は、センサーで認識する。

そしてそれ以上、何に対しても意味を持つ事はない。

『顔はどう見ても人間なのに……』

 ロボットたちの胸ポケットには、安そうなプラスチックの許可証が留めピンで刺されていた。

 服の露出部分から覗くのは、人にしては多少乾きすぎた人工皮膚の使い古された茶褐。

「……やっぱ行きたくないぜカズマぁ。俺は行きたくない」

「んー? なんで?」

「だってさ……その……」

 宗教の、別れた彼女がそこにいるから。

 とか、あるいはハヤミを追う借金取りがわんさといるから。

 ボトムエリアとは、スラムの広がるエリアDよりさらに下、地下世界で唯一無法地帯化している廃棄物処理場跡地である。

 そこは、BからDのどの層の、どの店にも置いていないような、様々な違法物品が平気で露天に並んでいるような場所。

 あらゆる犯罪者が自由に住み着き、あらゆる非合法な組織が堂々と存在できる世界でもある。

 エリアCの歓楽街には無い物は無かったが、非人道的な物がそこら辺に自由に転がっているエリアEは逆に『秩序』と『法律』以外ならなんでもあった。

 エリアEでは、対価を払えば何でも買うことができる。

 例えばそれが、魂であっても、人間の命でも。

“ボトムエリアでは、人とは生きる知能を持った獣と同じ”

 獣は獣、命の値段は皆平等。

 これがボトムエリアに唯一存在する、絶対のルールである。

 ハヤミの元彼女は、このエリアEに存在する新興宗教の信者だった。

『世界に神はいない』

 一番人間が人間らしい姿をしている世界がエリアEと言っても過言ではないだろう。

 彼女はエリアEで希望を買った。

 手に入れたのは、最近ジオノーティラスに蔓延る宗教の教本と、約束された絶対の未来。

『そして払ったのが、絶望ってわけだ』

 ハヤミの元彼女は、カズマにも羨ましがられるほどの美人だった。

 その上純情で、汚れもなく、しかも優しい。

 彼女は様々な知識を以てハヤミの話相手……恋人になってくれたのだが。

「なんか……納得できなかったんだよなー」

「ん? どうしたまだ何か不安があるのか?」

「いやさー。なんとゆーか……なんだろ。なんか色々納得できない」

「前まで普通に行ってたじゃねーか」

 そうこう言っている内に、ハヤミたちの乗る地下鉄が地下鉄の終着駅に着いた。

 一斉に、無言で列車をおりてゆくロボットたち。

 よく見れば、ロボット達の降りた車内に数人の乗客の姿を見ることができた。

 少々派手な服を着ている若い男女のペア。

 くたびれたスーツを着た、中流階級らしい人間のサラリーマン。

 杖をついた老人。

 彼らはカズマと同じように、楽しそうな雰囲気を持っていた。

 そわそわと。

わくわくしているようだ。

それぞれが地下世界に、何らかの希望を持っているのだろう。

 再び地下鉄のドアが静かに閉まり、列車は終着駅を超えた「もう一つ先の駅」に向かって走り出す。

 車輪が今まで以上に大きくきしみ、車内の蛍光灯が細かく点いたり消えたりを繰り返して。

 トンネルの中を車体が大きく揺れながら蛇行を繰り返し、ふと窓の外の風景が開けたかと思うと、突然窓の外に広がったのは、ジオノーティラスの巨大なスラム都市……ジオノーティラスの第二の新開地、ボトムエリアの闇世界だった。

「お、来た来た」

 カズマが身を乗り出して窓に張りついた。

 ハヤミも一緒に窓をみる。

 闇の中で、渦を巻いたような形をしてそびえ立っている、真っ黒な超高層ビル群。

 いくつものブロックを無計画に積み上げたような建物。

 建物と建物の間を自在に走り回る私設ハイウェイに、ハエのように空間内を飛び回っている種々雑多な浮遊車両。

 七色に輝くビームライト。

 ピエロの顔を施した巨大広告塔に、何者をも捉えて離さない巨大な目を描いた宗教組織の本部ビルもある。

『THE GOD IS WATCHING YOU(神は貴方を見ている)』

 建物に描かれた目と蛍光文字が、まるで地下鉄に乗るハヤミたちに示されているようで。

 真っ暗な世界を見下ろすと、縦横無尽に走り尽くしている白い光の帯に蚤のような大きさの人間が大量にいるのが見える。

「久っさしぶりだなー。あ、おい! お前覚えてるかあそこ! 俺たちが初めてカチ合った場所だぜ! うわ懐かしいなー!」

 窓のすぐ外側を巨大な飛行船が掠めていった。

「お? どこどこ?」

「ほれ、あそこ! あのコーナーにでっかい窪みがあるだろ! あの時のお前、かなり無茶してたもんなー」

 カズマの指さす先は、エリアEの隅にある真っ暗なハイウェイコースの一角だった。

 エリアE……漆黒の無法世界に、白い十文字ラインがどこまでも続く。

 その一つ一つのラインの、一つのブロックには、ジオノーティラスに住む人間たちの全ての欲望が輝いていて。

 世界の果て、どこまでも続く白と黒の融合した地下世界。

そんな地上の最期の楽園の、最底辺層に、ハヤミたちの地下鉄はゆっくりとその白いボディを沈めていった。

「とりあえずお前のサングラス貸せ」

「はい? いやいや俺から奪うなって!」

 地下鉄から地下世界の駅に降りると、ハヤミはすぐにカズマの顔からサングラスを奪い取って自分の耳にかけた。

 だが。

「ぐあ、前が見えん……」

「当たり前だろー、こんな真っ暗な世界でサングラスをかけられる生身の人間なんていないぜ」

 サングラスの黒い偏光色が地下世界の闇と相乗効果をもたらし、ハヤミの人生はさらに真っ暗になった。

一生懸命首を振ってみるが、ハヤミの目は黒以外に何も捉えることができない。

周囲を見回すハヤミの顔にゆっくりとカズマの腕が延びてきたが、それを勘で悟ったのか、ハヤミはパシリとカズマの腕を振り払った。

「なんだよ邪魔すんなよな!」

「お前には無理だって。ほれ、諦めて俺に返す返す!」

「いーや、俺は天才なんだ」

「バカはしばらくしゃべるな」

 振り払ったはずの腕がふたたび伸びて来る。

 大人しくハヤミがサングラスを取り返されていると、外されたサングラスのおかげで、地下世界の薄暗い中に、目だけサイボーグのカズマの顔を見ることができた。

「……ひでぇ顔な」

 いつも通りの悪態。

「うるさいぞお前」

 カズマも、いつも通りの返事を返す。

そして素早くサングラスを顔にかけて目を隠した。

「っつかさ。お前は何にそんなビクついてるんだ? もしかしてまた女関係?」

「む」

「……図星か。自業自得だな」

「むぅ。じゃあお前の方はどうなんだよ。何かないのか?」

「俺は、一途な性格なんだ」

「お前のはただのヘタレじゃん」

「うるっせーなあ。あ、そこ足元気ィつけろよ」

 言いながらカズマはずんずんと地下世界を歩いていく。

 その後をハヤミが小走りに着いていくと、カズマはふと足を止めて後ろのハヤミを振り返ってきた。

「あんまりうるさいとここに置いてくぞ?」

「へっ。知らない地下世界に一人置いて行かれる恐怖! おお怖い怖い。バカヤロー俺を舐めるなよカズマ? これでも軍人のハヤミ様だ。こんな暗闇、地上に比べたら屁でもねーぜ」

 言いながらハヤミはシャドウボクシングを無意味に展開した。

「シュ! シュ! シュシュシュシュシュー!!」

「元気だねぇー」

「……疲れた」

「バカは少し休んだ方が良い」

「バカバカ言うなバカ。で、俺はどこまでついてけばいーんだ?」

「もう少し、だ。おこちゃまは抱っこでもねだるつもりか?」

 言うとカズマは、ふたたび薄暗い地下世界を歩いていく。

 そのすぐ後をハヤミは小走りで追いかけたが、ふと後ろを見ると、さっきまでそこにあった地下鉄の駅はすでにどこにもなかった。

 道端にあるのは、ゴミの山と、闇をポツーンポツーンと白く照らしている錆だらけの街灯。

 どこかから狂乱騒ぎの悲鳴と笑い声が聞こえてきたが、それ以外は所々から湧いている臭い蒸気の排気音と、どこからか湧いてくる地鳴りの音しか聞こえてこない。

 売春宿だろうか。

 赤や、黄色や、緑色に光るたくさんの窓が、道脇にそびえる建物に静かに浮かんで見える。

窓から聞こえてくるのは、男たちと女たちが昼夜問わず繰り返している種々雑多な喘ぎ声。

ここでは時間も買える。地下には昼も夜もないから。

バラック小屋とも雑居ビルとも言えないボロボロな建物が乱立するエリアの中を、カズマはずんずんと先に歩いていた。

その中でカズマがドブ川の小さな橋を渡ったので、ハヤミも走って後についていく。

 臭かった。

 生温い風と、むせるように醗酵した生ゴミの匂いがハヤミの鼻を壊す。

 坑道から、人間ではない何かの笑い声も聞こえてきて。

 白い猿の手のような何かがドブに落ちていたが、それもきっと気のせいなのだろう。

 見ると、前を歩いていたカズマがこちらを振り返っていた。

「何してんだ?」

 黒いジャケットと白いライダーヘルメットが闇の中にいる。

 カズマはどこまで奥に入るつもりなのだろう。

「なに、行くったっていつもの店なんだけどな。ほれ、ついた」

「ん……あれ? 新しい店とかじゃなかったんだ?」

「今回は、な。でもごめんなーハヤミ。俺ぁ親友を売るなんて事はしたくなかったんだが、女将がどうしてもって言うからさ。そう、今回は、仕方がなかったんだ……」

突然、カズマがハヤミの首根っこを引っ掴む。

「う!?」

「許せハヤミ。こんな卑怯なことは、きっと今回だけだ。こんにちはー、女将さんさんいますー?」

 言うとカズマは、低い雑居ビルの一階にある見慣れた引き戸をガラッと開いた。

「あら、いらっしゃいカズマくんー」

「約束通り、借金ヤロウをここに連れてきましたー」

「お、おい! マテお前ここはッ!?」

 闇の世界に一気に広がる温かい光。

懐かしい風景と、目の前に並ぶ懐かしい顔ぶれ。

“カウンター居酒屋 フタバ”

 薄暗い、腐敗と人の欲望とが複雑に絡み合ったボトムエリア=地下世界。

 不法投棄された処分不能のゴミが、土に還る前に流れ落ちる最底辺フィールド。

 死と絶望と腐敗のすぐ隣には、フタバのような憩いのたまり場も建っている。

「あら、英雄さんがいらっしゃったのネ! 久しぶりじゃないハヤミちゃんー」

 ボトムエリアとはそんな世界だった。

「それで?」

 ハヤミが席に着くなり、カズマは女将からおしぼりを渡してもらいながら唐突にハヤミに話を投げてきた。

「地上はどんな感じだったよ?」

「どんなって?」

「やっぱ俺たちがずーっと教わってきてたまんまの世界だったのかって事さ」

 カズマはおしぼりでゴシゴシと手を拭く。

 湯気が微妙にタオルから沸き上がる。

 カズマはヘルメットは脱いでいなかった。

 居酒屋フタバは、小さな店構えにスタンド席が全部で十席ほどしかない小さな店だった。

だからハヤミとカズマだけが店に入っても店自体は満席に近くなるのだが、元々今のフタバにはカズマとハヤミ以外の客はどこにもいない。

「あー。んー、そんな感じだった」

 カズマに言われて、ハヤミは改めて墜落事故の事を思い出してみた。

 だがなぜか、ハヤミの頭は墜落事故の悲惨さを詳細に思い出すことができなかった。

 記憶を……あったはずの昨日を思い出すことができない。

「いいよなー、百年に一度の大エンターテイメントの当事者になれて」

「んー……」

「おかげで今日の飲み代は、タダになるわけだし」

「あーら、それはちょっと違うわよカズマくんー」

 おしぼりを手に持ったままハヤミが腕を組んで黙っていると、今度はカウンターの向こうから女将が話に加わってきた。

 女将は冷蔵庫から取り出したビール瓶の蓋を開けながら、手早くハヤミとカズマの席にビヤグラスを置いていく。

「私が今日お店に招待したのは、ハヤミちゃんだけなのよ?」

「えっ、じゃあ俺が飲むお金は?」

「もちろんいつも通り」

 そういうと女将は、ふたを開けたビール瓶をハヤミのコップにだけ傾けた。

 麦色の液体と、程よくホイップした真っ白な泡がハヤミのコップに注ぎ込まれていく。

 二人のコップには、空とビールの差別が明確に生まれた。

「あっちゃー、だまされたのか俺……」

「騙されたなんて人聞きが悪いわねぇ。商売上手、って、言ってくれないかな?」

 女将がカズマに対してウィンクをし、悪戯っぽく笑った。

「飲まないの?」

「いただきます……」

「大丈夫よ、そんなにボッたりしないから」

「本当ですかぁ?」

 ふたたびビール瓶を傾けはじめた女将に、カズマは難しい顔をしながらもビヤグラスを差し出した。

 時間差はあったが、とりあえず二人のコップに同じ量のビールが注がれる。

「……おいカズマ。そういやお前って、確かサイボーグ用の酒以外は飲んじゃいけないんじゃなかったっけ?」

「今日くらいは難しい話抜きで飲もうぜ。お前の生還祝いだからナ。じゃ、カンパイ」

 ゴチン。

 言いながらカズマは、ビヤグラスに注がれた生ビールをハヤミのグラスに勝手にゴチンとぶつける。

 一気にコップを傾けると、カズマはグイッと茶色のビールを飲み干して、最後にプハァっと気持ち良さそうな声を出した。

「うんめぇー! やっぱ人造じゃないビールって最っ高!」

「おおっ、飲むなカズマ。じゃあ俺も!」

 ハヤミも勢いよく自分のコップを傾ける。

 一口だけごくりと口の中にビールを含むと……

「……んぐっ」

 ハヤミは頬を膨らませ、口に大きく溜めたビールを喉を鳴らして飲み込んだ。

 そしてコップをテーブルに置く。

 ビールは苦かった。

「なんだぁ、ハヤミはビールも飲めないお子ちゃまなのか?」

「いーや。天才様はビールは味わって飲む派なんだ。本物志向と言ってくれ」

「嘘つけ。じゃあ今日は、女将のご好意に甘えてハヤミが酔いつぶれるまでビールを飲んでみようじゃないか」

「ふん、言われなくても! あ、ねえ女将さん、オレンジジュースってありますー?」

「俺、生中おかわりー」

「はーい」

 二人でカウンターに立つ女将に注文すると、女将が二つのお通しの小鉢を持ってふたたびハヤミたちの前にやってきた。

「はいはいちょっと待ってね。はい、どうぞ」

 オレンジジュースの小瓶がでてきた。

 あと一緒にビールのお代わりも。

 二人の席に新しい料理と飲み物が並ぶ。

「そうそう、私も地上の話は聞いてみたいわぁ。ねね、地上世界ってどんな感じの所なの?」

「えー、んー……大したこと無いですよ。地上なんて、テレビに映ってるような赤い砂漠がずーーーーーっと……」

 カチン。

 突然、何かがどこかで小さく音を鳴らした。

「……あれっ?」

 言いながらハヤミは、宙に浮かせたオレンジジュースのコップをふとそのまま止めてしまう。

 隣を見ると、カズマが半分空になったコップを丁度テーブルに置いているだけで。

 コップが、テーブルに当たった音?

 今のは何の音だろう。

「ん? なんだよ?」

「いや……あれ? なんだっけ?」

「何が?」

「何かが」

「意味がわからん」

 そういうと、カズマはお通しに箸を進めていった。

「今日は、お前が墜落体験を俺たちに話してくれることで、俺たちの飲み代がタダになるんだ。しっかり話してくれよ?」

「かずまクぅン?」

 ふたたび女将がカウンターから顔を出してきた。

「……お前の飲み代が、タダになるんだってよ。フンっ」

「あ、でもカズマ君も何か面白い話をしてくれたら、カズマ君の飲み代の方もサービスしちゃおっかなぁ」

「え、あ、ええっ!?」

「お、良かったなカズマ。ついでだから、今日はお前の彼女の事でも話せばいいじゃん」

「ばっ、いやっ……うー……なんで、こんな話に……」

 言いながらカズマは腕を組んで考え込んだが、すぐに

「まぁ、いっか。今日はお祝いだ。その代わりお前が先に話せ」

「うん、あー……まあ俺も話したいんだけどさぁ」

 ふたたびビールを飲み始めるカズマに、ハヤミは自分のお通しを食べながら首を傾けた。

「あんだよ」

「いや、どうもなんて言うか……何も、覚えてないんだよな」

「ん???」

 突然のハヤミの謎の言葉に、カズマのビールの減りが止まった。

 カウンターで料理を作る女将の笑顔も固まる。

「何それ?」

「いや、なんちゅーか……あれだよ、任務中に空でカズマと別れたろ? んで、気がついたらベッドに寝てた、みたいな。そんな感じでな」

「は? どゆこと? お前若年性健忘症か何かなの?」

「いやーすまん。ホントに何も覚えて無いんだ」

「墜ちた時に頭でも打ったか」

「うるせーなぁ。覚えてねーのはホントに覚えてねーんだよ。あー……うん、ほれ、とりあえず先にカズマの話を聞こうぜ。な?」

「……」

 その場の空気をごまかすためにハヤミが次の話題をカズマにふる。

 だが、カズマはビールグラスを腕に抱えたまま席の上で眉間に皺を寄せて何かを考え始めた。

 しばらく店内に無言の空気が広がり、一瞬間の悪い感じがしたので、今度は女将が慌ててハヤミに新しい話題をハヤミに振ってきた。

「あ、でもほら、ハヤミちゃんもつい昨日帰ってきたばっかりなんだし、色々疲れもたまってるんだからきっとそんな感じなのよ。そうよね? ね? ね?」

「うーん……そんな感じなんスかねぇ」

「そうよ! ほら、空の上って色々大変なんでしょう? 私みたいにずっと地下世界にいるお仕事なんかじゃないんだし、ほらほら……」

 そう言って女将が指先をグルグル廻す。

「クルッて回ったりするんでしょう? 空の上で」

「ん、まぁ、そうですね」

「そんなすごい事、私には絶対できないわぁ」

「宙返りするとコクピットで嵐ができるんですよー」

「え、それってどういうことなの?」

 女将の顔に、大げさなほどの笑顔が浮かび上がって来る。

 いつか女将は『自分は一階結婚している』と言っていた気がした。

 が。

実のところ、ハヤミもカズマも、女将の実年齢を聞いたことが無かった。

「俺、機中にいろんなもの入れてるんスよ。本とか。ゲームとか。色々な小物持ち込ん……」

 カチンと、ふたたび何かがどこかで鳴る。

 あれ? ゲーム?

 なんだっけ?

「えー、でもそんな事してたら危なくない? 空の上って、墜ちると大変な事になっちゃうんでしょう?」

「え……ああ、うん、はい。まあ、そう簡単に墜ちませんしね。敵だってどこにもいませんし」

「嘘おっしゃい、昨日まで墜ちてた人が」

「たまたまって奴ですよー」

 言いながらハヤミはズズッとオレンジジュースをグビリと飲んだ。

 口の中にオレンジの甘味が広がる。

 その流れでハヤミはビールグラスの中身も一緒に喉に押し込んだ。

 ビールグラスはまだだいぶ中身が残っている。

「でも外の世界って、空も地上も地下世界とは全然ちがうんでしょ? それとも地下世界と同じ感じなの?」

「んー。空っつっても真っ黒な雲ばっかですよ。どこ飛んでも何も無いだけで。上に向かって飛んでも青空なんて見えませんしね」

「ええー? じゃあ、ずっとずっと上まで飛んでいけばいいんじゃない」

「そしたらすぐ成層圏ですよ。その上はすぐ宇宙ですし。空には何にもないですよホント」

「そんなに何にも無いの?」

「何にも、ありませんねー」

「ふぅん」

 そっか、と言いながら女将が新しい料理を出してくれた。

 サラダだった。

「あ、緑物……よく手に入りましたね」

「高かったのよぉ。ね、ね、それでも空を飛ぶって楽しい感じなの? 地下世界にいるよりよっぽど楽しいんじゃない?」

「んー……でも、ビルの上から飛び下りるのに似た感じですよ。特に違いはねっす」

 言いながらハヤミは割り箸を割いて、アハハと笑いながらサラダに箸をつけた。

 と。

「ん……飛び下りる?」

 また、何かがどこかで響いた。

 しかもよく感じてみれば、音の鳴っている場所は『どこか』ではないみたいだ。

 耳では、音が鳴ったという実感を感じることができない。

「ああー。ハヤミちゃん、ずーっと前にカズマ君と一緒にビルから池に飛び下りたことがあったわねぇー」

 キィン。

 また鳴った。

 頭の中だ。

 池に飛び込む?

 高い……ビルの上から?

 カズマと……誰かと一緒に?

 あれ? あれ?

 何か、思い出せ……思い出しそうな……。

「んー……」

 皿に箸を突っ込んだまま腕を組む。

 腕に付いている痣……何か、ギザギザした硬い何かで掴まれた……跡?

 機械?

「……ああーっ!!!!」

「うおっ!? なんだなんだっ!?」

 ハヤミが突然立ち上がって叫び声をあげると、すぐ隣でビールを飲んでいたカズマも驚いて一緒に大きな声を上げた。

 カズマのビールが白い泡を立てて大きく揺れる。

「思い出した! でも俺、やっぱり忘れてる!! ああっ、くそ思い出せない!!」

「おいおい落ち着けよハヤミ。お前がいったい何を忘れてるのか、そこを思い出さなきゃダメだぜ」

「だからそれが分かったんだって!」

「はあ?」

「ぷ、ぷるぷるなんとか!」

「ていくいーじー、だ。まあ落ち着けハヤミ」

「これが落ち着いてられっかよ! 俺の大事な天使! 俺は天使を無くしちまったんだ!」

「落ち着け。落ち着いて座れ。天使ってなんだ? 落ち着いて、それから話を聞くから。どう、どう……」

 言いながらカズマはハヤミの肩を押し下げ、空いたコップに自分の瓶ビールをついでハヤミの手に持たせる。

 荒くコップにビールを注いだので、ハヤミのコップはすぐに泡だらけになるが。

 だが、ハヤミはビールを飲まなかった。

 コップを振り回してカズマの静止を振り払おうとする。

「分かったんだって! カズマ! 俺が何を忘れていたか! 俺たちは騙されてるんだ! あれは俺たちの地上世界じゃない!」

「だから落ち着けってハヤミ。まずはこれを飲んでからしゃべるんだって」

「こんな時に酒なんて飲んでられっかよ!」

「ただの酒じゃない! いいから、このコップの中身を飲め! 心を落ち着かせろ!」

 カズマは無理やりハヤミの口元にビールを持っていったが、ビールで口をふさがれたハヤミはしばらくもがき続け、最終的にはカズマに渡されたコップを渋々口の中に全部流し込みはじめた。

「ゆっくり飲めよ」

「む、むごむご……」

「一息だ」

 ビールが苦いのか、ハヤミは本当にゆっくりとコップの中身を飲み干していく。

 最後のビールがコップから消えたとき、ハヤミは今まで我慢していた息を気持ち悪そうに「プハァッ!」と言って大きく吐いた。

「うげぇぇぇぇぇっ、きっ気持ち悪い……」

「どうだ、落ち着いたか?」

「落ち着いたかどうかより……は、吐きたい……でも我慢する……ゲェ」

 ハヤミはスタンドテーブルに突っ伏すと、お腹をさすりながら歯を食いしばってゲップを繰り返す。

 そして一段落すると

「俺は、ユーマを見たんだ」

ハヤミはゆっくり、地上で見てきた世界をカズマと女将に話しはじめた。

「は? ゆーま? ゆーまってあの、UMAか?」

「翼の生えたユーマだった」

「有翼人か」

「ユーマは天使だったんだ。でも何もかもが、それは、無かった事にされちまって……何もかもが消されちまってる、俺の、天使だ。俺の女神だ……」

「ね、ねえカズマ君、ハヤミちゃん大丈夫なのかしら。疲れてるんじゃない?あ、そうだ私の知り合いの軍人さんに迎えにきてもらおうよ。救急車も呼んだ方がいいんじゃない?」

「ちょっと待って下さい。俺もそう思うんですけど、どうも何か臭くって。とりあえず、今はコイツの話を先に聞いてみませんか」

 カウンターで戸惑う女将を腕で静止しつつ、カズマは気絶しかけているハヤミの肩を叩いた。

「で、その女神がどうしたんだ? おいハヤミ寝るな! ハヤミ!」

「うぐ……」

「おいハヤミ! 女神って何だ? おい!」

「キ、キモチワルイ」

「気持ち悪い女神なのか?」

「……馬鹿野郎俺のユーマちゃんはかわいいんだぞぉァ!! ……げふーっ」

 大きく肩を揺さぶられていたハヤミがいきなり大きく腕を振り回すが、大きくゲップを吐き、ハヤミはそのままスタンド席に突っ伏して倒れてしまった。

「俺のぉ……ひぐっ、ゆぅまぁ……」

 うっすらと目に涙を浮かべ、ハヤミはグズりながら小さく泣きはじめる。

 そしてすぐに小さくイビキをかいて動かなくなってしまった。

「あら」

「しまった、コイツもう酔っぱらっちまったぞ」

「弱いわねぇ、ビールを出したのが悪かったかしら」

「いやー……水がよかったかな。無理して飲ませた俺が悪かったのかもしれません」

 寝込んでしまうハヤミの隣でカズマがボリボリとヘルメットを被った頭を掻いていると、女将は前掛けで軽く手を拭きながら「ちょっと気付薬でも持ってきましょうか」と店の奥に入っていった。

 店内にはカウンターに突っ伏したハヤミと黙って頭を掻いているカズマだけが残る形になる。

『ユーマ、天使、女神……? なんだそりゃ?』

 周りを見回しても特に状況は変わるわけでも無かったが。

 カズマは、ハヤミの記憶喪失とハヤミの帰って来る直前の軍の動きに不審を抱いていた。

「どうしよっかねぇ」

 カズマは独り言を呟きながら店内をグルリと見回す。

 特に、おかしな事は何もない。

「……グー」

 酔って寝ているハヤミ以外は、店内には特に変わった様子は何もなかった。

 それに酔い潰れているハヤミの姿は、カズマにとってはよく見る光景ではあって。

「こいつの酒の弱さは前から知ってたけど……でもおかしいよなぁ?」

 ハヤミは立ったまま、腕を組んでもう一度店内を見回した。

 サングラス越しに周囲の状況を見る。

 カズマのアイセンサーは店内に並べられている種々の装飾品を逐一カズマの脳に報告していたが、カズマの脳はそれとは別に、まったく違うことを考えていた。

「何だろう。何で軍部は、ハヤミの墜落情報をこんなに隠したがるんだ?」

 グルグルと周囲を見回していたカズマのアイセンサーが、店の奥で薬を捜している女将の影を捉えた。

 ゴソゴソと色々な箱を開けたり閉めたりしている後ろ姿。

「何だろう?」

 目で見える状況と、頭で考えている事は違う。

 カズマはハヤミのペアとして、ハヤミが無事に生還した事を知っていた。

 だがハヤミの墜落を本物のエンターテイメントの様に騒いでいたテレビが、ある日を境にピタリとハヤミの墜落情報を隠してしまったのだ。

 噂によると、軍の上層部が各企業に圧力をかけていたらしい。

 そこまでする様な話か?

 百年に一度、ハヤミの武勇伝は、「地上に墜落した英雄がいる」という意味でエンターテイメントだった。

 そして続報は自然消滅。

 帰ってきたのか帰ってきていないのか。

 その事実は、ハヤミと、長年ハヤミとペアを組んでいるカズマしか知らなかった。

 デパートの売り子はカズマのもたらした裏続報に喜んでいたが。

『帰ってきたハヤミはなぜか記憶を失わせられている。それが意図的かそうでないかは分からないが』

 腕を組んで考え続けるカズマ。

 ヒントはハヤミにあるはずなのに。

「何でだろう? おい、ハヤミ!」

「グェ……ギモヂワルイ……」

 ハヤミは酔いつぶれていた。

「ああもう! ごめんなさいねカズマ君、丁度今お店にある気付け薬をきらしてるみたいなの」

「いいですよ。どうせしばらく暇なはずですから。少し時間をかけてハヤミの話を解いていきますよ。あ、それよりも俺たちの今日の酒代は……」

「だーいじょうぶよ。二人の飲み代は、今日はサービスしてあげる。今日は祝日ですものね」

「恩に着ます女将さん。じゃあ、俺たちはこれで……」

「う……さけ……ギモジワルイ……」

「うーいーっ、ヒック! 酒だ、どっかからうまそうな酒の匂いがするぞぉー」

 吐き気味のハヤミの肩にカズマが腕を通したその時。

 どこかから聞き慣れた声が聞こえてきた。

「おうっ! がーずまくーんじゃねっがぁー!!」

 ガラリと店の引き戸が開かれ、顔油がテカテカと光る見覚えのある巨大なデブが、突如店内のカズマたちの輪に侵入してくる。

 予想もしていなかった乱入者の登場だった。

「お、おやっさん!? なんであんたがココにいるんだ!?」

「俺がどこでどんな酒飲んでたって俺の勝手だろォがひよっ子。おーいオカミさん!!」

「はーい、あらシゲさん久しぶりじゃない。元気だった?」

「元気もどうもねぇってんだ! 酒! いつもの!」

「はいはい。いつものをいつもの感じ、でいいのかしら?」

 酔っぱらいは、いつもカズマ達が空で世話になっている管制官のオヤジだった。

 小さくくぼんだ目と、脂ぎった顔。

 赤みがかった鼻も目につく。

 それが腹の肉をユラユラと揺らしながら、店に備え付けの小さなイスにでーんと納まる。

「お前らまたどうせチビチビ飲んでたんだろ? よくそれで酔えるな。へっ、酔って現実忘れるなんざクソのする事だ! クソッくらえだ! オカミさんおしぼり無いかな!」

「はいはいそんな大声出さなくても聞こえてますよー」

 デブオヤジが怒鳴ると、小走りでカウンターに戻ってきた女将さんが大小様々な酒ビンと一緒に湯気のたつ手拭きをオヤジに差し出す。

 迷わず手拭きで顔を拭くデブオヤジ。

 パッツンパッツンのサスペンダー。

 女将の立つカウンターは客席より一段高くなっているはずなのに、それでも座ったままのデブオヤジと女将さんを見比べるとそれでも女将の方が数分の一に小さく見えてしまう。

「オヤッさんそんなに酒飲んで大丈夫なのか?」

「金か! 人の財布なんて勝手に心配するんじゃねぇ!」

「いや違うんですけど。金というより……アルコールの方とか」

「人の胃袋の心配する前に、自分のケツの穴でも心配してろカス!」

 言うとデブオヤジは、今度は手拭きで手を拭き始める。

「おおーっと! お前の名前はカズなんとかとか言うんだっけな、すまんすまん酔っぱらいの言葉だ気にすんなよガッハッハ!」

 その内に、デブオヤジがおしぼりをポーンと飛ばした。

 まだ湯気が立っているおしぼりが落ちた先は、カズマたちの座るテーブルから見えない場所、女将が用意していた使用済みおしぼりボックスだった。

「で、しみったれ小僧どもは今度は何をウジウジ話し込んでたんだ?」

「は?」

「美味い酒には涙がいるんだよ! それとも若気の至りか、過ちとか……恋とかな! それが青春って奴だ! これほど旨い酒の肴はないぜ、ガハハハハ!!」

「……」

 笑いながら、女将の出した酒瓶に手を出す。

 女将は瓶を丸ごと……というより、コップと一緒に数本の酒瓶をテーブルに置いていた。

「俺たち、今から帰るトコだったんですよ」

「ほお。でも今はまだ店から出ない方がいいと思うぜ」

 言うとオヤジはテーブルに並べたウィスキー瓶をグイとラッパ飲みする。

 グイと……というより、ほぼ一気飲みに近い形だった。

「ブハァ! いいねぇ! こんなに酒が美味いんじゃ、いくら飲んでも飲み足りねぇぜ! ああ困っちゅぁうなぁーっとくらぁガハハハハ!!」

 お通しに手を出さず、今度は妙な歌を歌いだした。

「オヤッさんそれどういう事?」

「んー? プハッ……そこの通りをよ、軍部の巡邏ロボがウヨウヨしてたんだ。追いかけてみたら、この店とお前らにぶちあたった。でよ、そこでおネンネしてるハヤミはこの前帰ってきたばっかじゃねーか。お前ら、何か面白い話でも持ってるんじゃねーのか? どうだ図星だろ」

「いや……別に俺はなんもないッスけど」

「じゃあそっちのひよっ子は」

「…………グ…」

 デブオヤジに瓶で指名されたハヤミは、突っ伏しながらいびきで返事をした。

「へっ、酒で酔い潰れられるなんて、平和なお子ちゃんじゃねぇか。じゃあノーか。くァー……どうもこれは、なんだか読みが外れちまったかなぁ」

 言いながらデブオヤジは口から微妙に垂れる涎をグイと袖で拭く。

 その姿は、どう見てもただのアル中野郎だ。

 オヤジは頭がだいぶ剥げていた。

 いつもは地上にある唯一の有人施設……滑走路脇にある管制施設にいるのだが、どういうシフトで仕事をしているのか、話によるとオヤジはよく地下世界で酒を飲みまくっているらしかった。

会えばいつも、酒が入っている。

前に無線先で声を聞いたときも、声にはすでにアルコール臭が漂っていた。

「で、小僧」

 酒を飲んでいる半アル中デブオヤジは、どう見てもただの軍部のお預かり者にしか見えない。

 噂によると管制官の仕事も無理やり上層部に作らせたものだとか。

 よく飲みよく暴れ、よく叫んではよく寝る。

哨戒任務で空を飛ぶパイロットたちにとって、オヤジの酒癖はいい迷惑だった。

「そのしけた面はなんだ? 面白い話じゃないのか?」

「ちっ違ぇよ!」

 空で被る迷惑さを思い出し、つい砕けた口調が飛び出してしまう。

「黙るのか? おい、にーちゃんよ。俺に内緒事はしないほうがいいぜぇ」

「……アンタは何で管制官の仕事をしてるんだ」

「趣味だ! ガハ!」

 オヤジは豪快に笑った。

「知りたかったら、せいぜい軍の中枢に侵入してみるといいぜ。まあ……お前にそれができるんならな!」

「……やっぱ何かあったんスか?」

「なんにもねぇよ。だから酒を飲むんだ。オカミさん、酒! 今度は樽ごと!」

 デブオヤジの空瓶が店のカウンターに振り回される。

女将は笑顔で黙ったままだった。

「色々あったもんねぇ。でもそうやってお酒に逃げ続けてると、あとでまた倒れることになるわよォ?」

「ケッ、上等じゃねーか。こちとら早くおっ死にたいんだぜ。酒飲みながら倒れられるんなら本望だ!」

「またそんな事言っちゃって……」

 女将は苦笑しながら、新しいお酒の瓶をデブオヤジの前に置く。

 本当に何も無いのだろうか。

 カズマは二人のやりとりを聞きながら、ふとある事を思い出した。

 ハヤミの墜落と、その事実を隠蔽する上層部。そしてハヤミが先程まで騒いでいた、詳細不明の「天使」とやら。

 何もかもが漠然とした、支離滅裂で、意味不明のとんだおとぎ話風な事しか思いつけないが。

 でももしかしたら今の自分たちは、何かの大きな“何か”に関連しているのではないのかと。

「ねえオヤッさん。一つ聞きたいことがあるんだけど……」

「それはうまい酒の肴か!」

「いやそれは分かんないですけど……」

「じゃあいらん!」

 言うとオヤジはカズマの正面で大きな掌を広げた。

「面白いか面白くないか、戦いは常に生と死の二択だけだ。心の迷いは死に直結! だぞ! 残念!」

「あ、そ、それは……」

「ワンモアチャンス?」

「……い、う……」

「まだ迷うならいらない!」

「わ、ワンモアチャンス」

「グッド! よし、話せ! 面白かったら奢ってやる! もしつまんねー話だったら、そのまま空に放り出してやるから覚悟しろ、ガハハハ!」

 言うとデブオヤジはまたグビリと酒を飲んだ。

「あ、んと。ハヤミの話なんスけど」

「やっぱりそいつの話か! 今度は何やらかしたんだ!」

 言いながらデブオヤジが瓶をテーブルに勢いよく叩きつけると、その衝撃でハヤミは小さく「ンゴ」とイビキをかいた。

「いやまあ、そういう系の話じゃなくって」

「じゃあどういう系の話だ? 人でも殺したか、いいね! 実に旨い肴だ! ガハハハハハ!」

「いやいやそういう話でもなくって……」

「勿体ぶるな! いや、もっと勿体ぶれ! 肴はゆっくりつまめた方がいい!」

「……墜落から生還してきたハヤミの話なんですがね」

「ん?」

 突然、デブオヤジの酒を飲む手が止まる。

 同時に、カズマのアイセンサーがオヤジの体温が急に冷えはじめるのを捉えた。

「なんかハヤミが、地上で変なものをって言うんですよ」

「なんだそりゃ」

「しかも『俺達は騙されてる』とかも。『地上世界が』ナントカカントカとも言ってた気がして」

「あー、……なんだー、そういう系の話か。ダメ。却下。つまんない。そういうのはそこのカルトセンターのネーチャン達にでも話した方がいい。オカミさんお勘定!」

「ちょ、ちょっと待ってくれよオヤっさん! 何でそこで逃げるんだよ?」

 デブオヤジが急に財布をズボンから取り出し始めたので、カズマは慌ててオヤジの肩を掴んでその動きを制止した。

 添えられたカズマの手を、オヤジは肩と脂肪を使って振り切る。

 その腕はいつも以上に乱暴で、緩慢だった。

「うるせぇ、俺は逃げてるんじゃねぇ! 帰るんだ! 俺ァ旨い酒だけを死ぬまでずっと飲みてェのに、こんな不味い話を聞かされたから酒が不味くなったんだ。ええ? そんなくだらない話はな、犬にでも飲ませてればいいんだクズ! オカミさん急ぐから会計はツケといて!」

「ちょちょちょっと待ってくれよオヤッさん! 待ってくれって!」

「イヤ!」

「じゃあ酒奢るから!」

 なんとしてでもカズマの腕を振るい落とそうとするデブオヤジの挙動に、突然口から思いもしない言葉が飛び出してきてカズマは慌てた。

 ハッとしながら口を手で覆う。

「ほほう?」

 だが、全て遅かったようだ。

開き戸を開いて外に出ようとしていたオヤジが、目の前でニタァっと笑いながら後ろを振り向いていた。

 ここはどうするべきだろう。

「お前、ここの酒が一本いくらなのか知ってるか?」

「お、おう。その高い酒を、奢っ……」

 言いながらカズマは視線を横に泳がせた。

 オヤジが目をキラキラさせながらカズマの目を覗いてきたからだ。

「奢、る……よ。その代わり俺の話を聞けよ」

 なんで俺が、自腹切ってハヤミの話を解決してやるんだ。

 しかもそれが何かの謎を持ってるかどうかははなはだ疑問だし。

 横を見ると、ハヤミは眉間に皺を寄せながら気持ち良さそうに寝ていた。

 そして前をみる。

 デブオヤジは、上機嫌で脂肪の腹をテーブル席に納めていた。

「いいね、実にいい酒だ」

 イヤな奴。

 デブオヤジはニタニタと笑いながら、女将とカズマの目を交互に見比べる。

 そして腹にたまった大きな脂肪をブリブリ振りながら席に着くと、瞳をさらに輝かせながら自分の前に空のコップを置いた。

「ささ、たんと話し給え坊主。今日ははとことん飲もう」

「イ、一本だけ。な? これで一応は……」

「まあまあそう硬いこと言うなよ坊主。まずはドンペリでも頼んでみようかな。オカミさんまだ奥に残ってる?」

「うちにないお酒なんて何もないのよ?」

「そりゃありがてェや。良かったなボーズ?」

「む……」

 なんで俺が、こんな酔っぱらいに自腹払わなきゃいけないんだ。

 カズマはギリギリと奥歯を噛みしめていると、それを察したのかカウンターの中から女将がカズマに声をかけてきた。

「大丈夫よカズマ君。今日のお代は、お金じゃなくていいから」

「へえ?」

「アナタのその話が、今日のお代でいいわ」

「それに貨幣価値も何もないこんなクソ世界じゃ、金なんて何の役にもならんしな! ガハハハ!」

 女将の言葉に、さらに被せるようにオヤジが言葉を付け足す。

 地下世界での代金は、全て等価交換でまかり通っていた。

 何もかもは、その代金として相手が要求するものを渡し合う。

 その商品や、代金には、もちろん人の命や、魂や、夢や希望も含まれる。

 この世界には、無い物は本当に何も無かった。

「だから楽しみにしてるわね」

「うーん、何だか納得しにくいですけど……」

「いいね、悩める青年よ! 実に旨い酒の肴だ! ガハハハハ!!」

「……ハヤミがですね、さっき、変なことを叫んでたんですよ」

「ほほう?」

「“地上世界に、何かいる”って」

「そりゃー大事件だ」

「奴は“翼の生えたユーマだった”って言ってましてね」

「その甘ちゃんは、地上世界に生命体はいないっちゅー軍部発表を嘘だと言うんだな?」

「いやそこまでは言いませんけど……」

「言っていいさ。全部吐いちまえ。ここは酒の席なんだ」

 言うとオヤジはカズマのコップに並々と酒を注いできた。

 そして、大きくフゥとため息をつく。

「何でも言っていいと思うぜ。ここは自由の席だ」

「あら、じゃあその“自由”を提供してるウチはお客様にお金を要求してもいいのかしら?」

「それくらいよ、酒代と込みで払ってもいいだろうオカミ……」

「サービスにしとくわ」

「ありがてぇありがてぇ」

 オヤジが拝みながらため息を付くと、女将はカウンターの向こうで小さく笑った。

「で、こっからが俺の話なんですけど。実は俺、ハヤミをレーダーからロストしたとき、ハヤミを探すために偵察ポッドを地面に落としてたんですよ」

「ほお?」

「見つからなかったんですけどね」

「だろうな」

「……何か知ってるんですか?」

「知らない! いいからほれ、その先は?」

 言うとオヤジは再びコップの中身を飲み込む。

 オヤジの頬が、赤色から肌色に戻っていた。

 それはセンサー越しに見ても分かる。

「最初は切れ切れにいろんな情報が送られてきたんですけどね」

「……ふん。それよ、お前のトコには、どんな情報が送られてた?」

「えっ」

 オヤジがコップの酒をグイッと飲み込んだ後、コップ越しに怒気を込めながらもカズマに指を差してきた。

「どんな事が分かったかって聞いてんだよ」

「いえ、特に何も」

「はぁー。お前の目は節穴なのか? 何のためにその二つの目ん玉を持ってるんだ」

「……」

 カズマの目は、サイボーグだった。

「ああそうか。お前、人間の目を捨ててたんだっけな。脳味噌もサイボーグ手術してるんだっけかお前は」

「……いえ。そこまでは」

「それがいいよ。フン」

 言うとオヤジは、今度は女将が黙って出してくれたツマミに箸をつけはじめる。

「お前たちには見えないものが、いつもすぐそこにはあるってのに。それをよ、お前らはいつも何にもしねーで、ただ上ばっか見てるからな」

 愚痴りながらオヤジは酒をあおる。

「お前、いつか俺に聞いてたよな。『なんでアンタはこの仕事をしてるのか』って。答えてやるよ。俺は、お前たちに怒ってんだ。漫然と空ばっか飛び続けてるだけの、甘ちゃんのお前たちにな」

「お前たちは、なんで空なんて飛んでるんだ? あー……まだ答えるな。まだ、答えなくていい。少し俺の話を聞け」

 言うとオヤジは空になった自分のコップに並々と酒をつぎ、息もつかずにコップの酒をあおった。

「俺たちの時代の飛行機は、今ほど性能は良くなかった。まあそんなに大した違いはないがな、でも常に高高度を飛び続けられるお前たちより低い空を飛ばなくちゃいけないようなボロだったんだ」

 そう言うとオヤジは、両手を使って二つの飛行機を掌で表現する。

「今お前たちが飛んでる高度で飛ぶと、俺たちの飛行機はすぐに息が上がっちまうんだ。かと言って雲の中を飛んでたって、戦闘機乗りは目が勝負だからな、何も見えないで空を飛ぶのは自殺行為だ。だから俺たちは、いつも雲の下を飛んでた」

 オヤジの二つの掌が、上と、下に別れて、テーブルの上を飛び始める。

 片方はきっとカズマたちの飛行機のことを言っているのだろう。

 となると。

 もう一つ下にあるのは、オヤジが乗っている飛行機になるのだろうか。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよオヤッさん。オヤッさんも昔パイロットだったんですか!?」

 無意識にオヤジの腹に目がいってしまう。

 だが、カズマの目はセンサーアイだったし、それにカズマはサングラスをしていた。

 だからオヤジにはカズマの視線が分からないはずだったが。

「俺が空を飛んでちゃダメか」

「い、いえ別に……」

「へっ、言われなくても分かるよ。だがな、俺が昔空を飛んでたのは、だいたい今のお前らと同じようなことを考えてたからだ」

 オヤジの予測が全て的中しているので、気まずい気分にカズマはつい下を俯いてしまう。

「そうさ、懐かしい話だ。あの時の俺はまだ青春に燃えていたんだ。オカミだってもっと若かった。そう、女将は美人だった」

 半分空になった瓶を自分のコップに接ごうとして、そのままオヤジはカウンター越しに遠い目をする。

 すると何かの料理を作っていた女将が、背中越しに非難の声を上げてきた。

「あら、随分なこと言ってくれるじゃない」

「今でも充分綺麗って事さ」

 それでも女将の背中は笑ったまま。

 女将はそんなに年上だったのか。

「いつかな。俺は一人で哨戒飛行任務に付いた。地球半周分だけどな。俺たちの飛行機はお前らと違って地球一周できるほど足が長くなかった。だから空を飛んでると、どうしても行けない部分が航路図にでてくる。そこから先は、敵の空域。ジオノーティラスの地図の限界だ」

「でも敵は随分前に自然消滅したって聞きますけど」

「証拠がないだろう。今は自然休戦という事になってる。だから敵はどこかにいるんだ。軍人は、そんな不確実な妄想で空を飛ぶわけにはいかないんだよ」

「はあ」

 意外とオヤジはしっかりした考えを持った人間だった。

 いつもの飲んだくれの雰囲気はどこにもない。

 空の上で聞くオヤジの声は、いつも支離滅裂のことしか言わないのに。

「だが俺だってよ、『どこかにいるかもしれない敵』を何十年も捜し続けて一回も遭遇できないのは退屈だったさ。空を飛んでてな。本当に敵は、まだいるんだろうかってな。俺だって思った」

 オヤジがフウとため息をつきながらコップを空にしたので、カズマはそのコップに新しい酒を接いで、ついでに自分のコップにも酒を注ぐ。

「で、いなかったんですよね」

「おう。いなかった。わざわざルートを外れて捜してみてもいなかったんだから、そりゃ確実だよな?」

「あれ? でもオヤッさんさっきの話だと……」

「そう! そうだよ、お前の思った通りだ! 俺もそこの甘ちゃんと同じように落ちてるんだよ! 地上にな! 不名誉の燃料不足で墜落だ ガハハハハハ!!」

 言いながらオヤジが、ハヤミの寝ているイスをガンと蹴りあげた。

 その衝撃でなのか、ハヤミはンゴ! と一瞬大きなイビキをかく。

 そして何か……ハヤミのシャツから、変なものが転がり出てきた。

「ん、これは……」

 カズマがそれらを拾い上げてみると……

 それは、二つのサイコロだった。

 見たことのない、不思議な形をした、オレンジ色に光るサイコロと、蒼く光るサイコロ。

 カズマが拾い上げたサイコロをオヤジがヒョイと取り上げる。

やっぱり最初はカズマと同じようにジイッと見つめていたが、その内フンと鼻を鳴らして小さく笑った。

「お前らこんなのを空に持ち込んでるのか?」

「いや、それはハヤミが……」

「お前らも暇人なんだな。そら敵がいない空を永遠哨戒飛行し続けるのは苦痛だもんな。飛行機も性能が上がって苦痛は倍増だ! ガハハハハ! わりィな、『敵がいない』なんて変な噂を街に流しちまって! でもなァ……」

 このオヤジが敵の自然消滅の噂を流した本人だったのか!

 カズマはあらぬ重要人物との出会いについすっ転んでしまう。

 飲兵衛で、デブで、ランニングもできなさそうな腹を持った人間。

 目にはすでに輝きなんて物は見えなかったが。

 代わりに、オヤジの掌の上で二つのサイコロがキラキラと輝いた。

「……なんだか不思議だな。懐かしい色じゃないか。お前、空がこんな色になるのを知ってるか?」

 オヤジは、二つのサイコロを手の上に載せて、それをカズマの前にかざしてくる。

 二つのサイコロは、カズマの知らない輝きをもってそれぞれ店内に独特の光を輝かせた。

光の存在は、サングラス越しでも、サイボーグの目でもカズマは理解することができた。

「綺麗な色ですね。空がこんな色になるんですか?」

「おうよ。空は綺麗だ。そして美しくもある」

「空なんて雲だらけじゃないですか。どこにも何もないし。ハヤミも嘆いてましたよ」

「いいや違うね。空はな、青いんだ。そして赤いんだ」

 そしてグッと顔を近づけてきた。

 酒臭い息がカズマの顔にかかる。

 カズマは本能的にウッと顔を引いたが、それも何かの理性が働いてすぐに止めた。

 何か……何かの意志が、オヤジの目に感じたからだ。

「お前達は、なんで空なんか飛んでるんだ?」

「……」

「日がな一日、おもちゃなんぞで遊びながら何もない空を飛び続けてる。お前たちの飛行機は俺たちのより良いものを使ってる。旧式を使ってた俺たちよりも、ずっと空に近い存在だ。なのに、お前たちは空の色を何も知らない」

「で、でも……」

「俺はな、見たんだよ。空に飛んでる天使たちをな」

 ふたたび顔を引くオヤジ。

 アルコール臭がカズマの鼻腔に残ったが、それはオヤジの言った不思議な言葉で綺麗に消された。

 そういえば。

 ハヤミもそんな事を言ってた気がする。

「伝説って言うのかな。青い空を飛ぶ、翼の生えた天使たちだった。それが編隊を組んで俺の周りを飛んでいた。そりゃあ綺麗だったぜ。破滅した世界の空を飛んでいるのは、いなくなった敵じゃなくて、天使だったんだ」

 ハヤミは翼の生えたユーマだと言っていた。

 それとも気のせい?

「澄んだ太陽が見えてな。だんだん空が赤くなっていったんだ。そしてあいつらは俺に笑いかけた。空の上でだ。それが俺の見た、最初で最後の空だった。その時の空が、ちょうどこの色だったのさ」

 そう言ってオヤジはサイコロをつまみ、しばらくじっと眺めたあと、そっとカズマの席に差し戻した。

 オレンジと、蒼色の不思議な輝き。

「大切にしときな」

「え、ああ、はい。……あれ、でもオヤッさんは、なんで空を飛ぶのを辞めたんですか?」

「んー?」

 カズマが質問すると、気がついたら席に女将が新しく出してくれた料理が並べられており、オヤジはそれを気だるそうに箸で突つきはじめた。

「辞めてなんかいねぇよ。その時に見た空が忘れられなくて、俺ぁそれから何度も空を飛び続けたさ。空を捜し続けた。だが、空はもう見つけられなかった。本当に、何度も何度も捜したんだぜ」

「私も当時彼からその話を聞いてたわ。初めて聞いたときはいつもの冗談だと思ってたんだけどね」

 女将がスタンドの中で自分の酒を飲みながら二人の会話に混ざってくる。

「なんにも証拠がなかったもんね」

「オカミにゃ写真を見せたじゃないか」

「ただのモノクロ写真だったじゃない」

「へっ、女はいつだってそうだ。男のロマンを全部笑ってくれやがる」

「あら、でも私はそんな夢物語は好きよ?」

「……空は気まぐれだ。同じ顔は二度と見せてくれねぇんだから」

「そうしてアナタは、ずっと私を追いかけてくれた……」

「やめてくれよぉオカミ……」

「あはは」

 デブオヤジがテーブルの上でため息をついて、スタンドの中で女将は小さく笑った。

「で、でもですよオヤッさん。なんでオヤッさんが空を飛ばなくなったかって話はまだ……」

「うご、うごご……う、うるせえぇ、ぞぉ……バカカズマぁ……うじゅじゅ」

 今度は隣の席から、間抜けなハヤミの声が涎をすする音と一緒に聞こえてきた。

 振り返るとハヤミが、テーブルに垂れた自分の涎を口ですすっている。

「うわ汚ねぇ! おいハヤミ! やめろ! テーブルをすするな!」

 机に突っ伏しながら垂れた涎を必死にすすり込むハヤミを、カズマは急いで抱き上げた。

 すると。

「うー……うーるへぇ! 俺はぁ! 俺のマイエンジェルちゃんを奴らから救うんだぁ! そのためなら俺はァ……俺はぁ、死んでもぉ、離さないぞぉーうぃっ」

「おっ、俺にしがみつくなぁーっ!!!!」

 カズマのパンチ。

 狭い店内で、ハヤミは大きくひっくり返った。

 ハヤミは何とも言えない奇妙な声をあげながら店内に配置されたイスとイスの間に倒れこみ、小さくうめき声をあげると、ハヤミは頭を抱えながらゴロンと身体を上に向けた。

「ん、んー?」

 ハヤミの腕をカズマが持ち上げると、フラフラしながらもハヤミはふたたび席の上に座って唸り始める。

 頭を抱えて、そして虚ろな瞳をシパシパさせながら。

「あうー? あー……あんたぁ……なんで、ここにいるんだ? あえ?」

 自分の首を腕の上で組みながら、ハヤミはオヤジを見て揺れた。

 口も半分開いていて。

 どう見ても泥酔者だ。

 オヤジは腹の脂肪を揺らしながら、そんな情けないハヤミの顔を鋭く覗き込んだ。

「おい、だらしない甘ちゃんよ。オメェ、今なんて言った?」

「あ、ン?」

「誰がどこから誰を救うって?」

「……なんの、こと?」

「お前ェ、どれくらい飲んだんだ?」

 オヤジはグデングデンのハヤミの代わりに、カズマに向かって声を投げる。

 カズマは空いたコップの上に手を載せて「一杯だけです」と答えた。

「かぁーっ、テメェはホントーに弱ェ奴だな。いいかおい! 酒に飲まれる奴はな、クズだ! テメェは酒も飲めねぇ男女なのか!?」

「ルセェ! 俺ぁまだ飲み足りねぇんだよ!」

「じゃあ飲め!」

言うとオヤジはハヤミのコップに並々と酒を注いだ。

それを半分ひったくるようにして奪い取るハヤミ。

コップの中身を一気に飲む。

 そしてすぐに

「……ういっ」

 また、倒れてしまった。

「ガハハハハハ! 空のヤンチャも地下じゃ情けねぇんだなオイ!」

「す、すいませんオヤッさん。コイツ、オヤッさんが来る前からこんなだったんで。これ以上ひどい事にならない内に、今日は早めにコイツを寮に連れて帰っておきます」

「いーや! 待てカズマ坊! オメェ、まだ酒の飲み代を払い終えてねぇぜ? この店でタダ飲みしてく気かよおい?」

 カズマがハヤミの肩に自分の腕を通していると、その脇からオヤジの太い腕がニュウっと伸びてきた。

 襟首を掴まれる。

 ハッとしたがもう遅い。

カズマの顔は、オヤジの脂臭い顔の前に強引に引っ張られていた。

「どうなんだよ。オメェの酒の肴は、その程度だったのかよ」

「う、いやぁ……」

 その程度だったりする。

 話す前から知っていた。

カズマの持っている話が、何か面白いのかどうかを、カズマ自身がよく分かっていない事を。

カズマは、話す前から知っていた。

 それがいったい何なのか、自分でもよく分かっていなかった事に。

 だからカズマは、オヤジに答えを聞きたかったのだが。

「そんな安い肴じゃ、俺は満足できねぇナ。代わりに別の肴を払ってもらおうか」

「そ、それは……」

「無いなら、お前の命が代金だわなァ。世界なんてそんなもんだ」

「そ、それも……」

 オヤジとカズマの問答。

 ハヤミはウトウトと他人事のように寝入っているが。

 カウンターの女将は、なぜか二人のやりとりを苦笑しながら見ているだけだった。

「払うのか? 払わないのか?」

「は、払います……う、払いますよ!」

「どうやって?」

「その……なん、とか……して」

「ふむ。言ったな? お前今言ったよな?」

「は、はい……」

「よぅし、気に入った! 坊主! そんじゃあよ、俺はオメェたちの明日を買ってやる! 出世払いだ! もしオメェらが今よりもっといい何かを手に入れたら、その時に今の酒代を払ってもらう! 代金はお前らの未来だ! いいな?」

「うえ……そそそれはその、ええっ?」

「いいんだよな!?」

「いえす」

 言うとオヤジはカズマの肩をバン! と強く叩いた。

「取引成立だ! 良かったな甘ちゃん命拾いできて! ガハ!」

 言うとオヤジはハヤミの席を蹴りあげた。

「ンゴ!?」

「さあさ、青二才どもは早くお家に帰った帰った!!」

 言うとオヤジは二人を無理やり店の外に蹴りだす。

 カズマは背中をけられて狼狽していたが、ハヤミは流れに任せてそのまま店の外に放り出された。

「え? なんで? あのオヤッさん!?」

「いいがぁお前ら! 酒代の代わりに命を払いたくなかったら、明日から必死で金を作ってこい! それがオメェらの金だ!」

「ええっ! でもオヤッさん、俺たち何をどうすれば……」

「払うのか! 払わないのか!」

「……払います!」

「だったら自分の目ェよーくかっぽじって見てみろ!! 節穴!」

 言うとオヤジはカズマの目を睨み、そのままピシャリと店の戸を閉めてしまう。

 店の中から笑い声が聞こえて来る。

 気がついたら外は、いつもの暗い地下世界の風景だった。

「目……ねぇ。何を見ろってんだチクショウ、いてて……」

 しりもちを付いたときにどこか打ったのだろうか。

 立ち上がって、よく周りを見てみる。

 広がる闇の世界。

 遠くに浮かんで見えるのは、巨大な宗教ビルだった。

巨大な目と、それを白く照らすアップライト。

『THE GOD IS WATCHING YOU』

神は貴方を見ている。

 神の目はすべてを見つめている。

 例えばそれが、未来でも。

 そしてその目は、カズマも見ていた。

錯覚を使っているのだろうか。

「ちぇっ……気持ち悪ぃデザイン」

ポンポンと体のホコリを振り払うと、店の外は相変わらず暗かった。

 どこかから聞こえて来る喧騒と、排水ダクトに棲む人外の囁き。

 それらが一つになって暗い地下世界に渦巻いている。

 どこかから巡邏ロボがやってきて、地面に突っ伏しているハヤミの周りを電子警告音を発しながら飛び始めた。

「ケイコク! ケイコク! 飲酒禁止令違反! パーソナルコードヲ提示セヨ! パーソナルコードヲ提示セヨ!」

 小さな浮遊体に埋め込まれたカメラアイが、地面に転ぶハヤミを捉えて離さない。

 しつこくハヤミの周りを飛び回る姿は、まるでうるさいハエのようにも見える。

ハヤミの身体は、地下のあちこちにあるロボットの立ち入れない特殊な裏区画と、立ち入れる通常区画との境界線の真ん中に寝転んでいた。

店はその影の区画にすっぽり覆われる形で造られている。

カズマが巡邏ロボを振り払いながらハヤミの身体を抱き起こすと、地下世界の影から突然出てきたカズマの影を巡邏ロボットは飛びのくようにして、その後すぐにカズマに対して警告を発してきた。

「ケイコク! 密造酒飲酒ノ疑イ! パーソナルコードヲ提示セヨ!」

 提示せよと言われても、カズマはもとより、ハヤミも身分証などは何も持っていない。

 だからカズマはハヤミの肩を背負ったまま、何もせずロボットの前に棒立ちになってみた。

 巡邏ロボはカズマの正面にやってくると、そのままカメラアイから赤外線センサーを発して、カズマの目の部分をスキャンし始める。

 カズマたちのコードは、網膜細胞だった。

 人間の目。

何も見えない目。

 黒と白がくっきり映る、人間の網膜。

 カズマは、目の奥に埋め込まれたバーコード。

「うー……るしゃーぁいっ!」

 コーン!!

 突然カズマの肩にぶら下がっていたハヤミが拳を上げ、目の前でウロウロしていた巡邏ロボを思い切り殴り飛ばした。

 殴り飛ばしたハヤミはそれで静かになったが、殴り飛ばされた巡邏ロボも遠くに飛ばされてそのまま静かになった。

 どうせ誰も拾いにこないのだ。

 この世界では。

「ふん」

 閉じれば何も見えなくなる目。

 でもサイボーグの目は、人間の見えない物を何でも見ることができた。

 閉じることのできない、何でもみることのできる、サイボーグ。

 例えば、物体の表面温度とか、赤外線とか、紫外線とか、ジオノーティラスのコアに集積された様々なデータとか。

 おかげでカズマは、ハヤミに見えない物を見ることができた。

 だからカズマの目は、カズマのそれより便利なはずなのに。

 それとも自分は何も見えてないのかもしれない。

「いいなあ、人間の目ってのは」

 さっき、オヤジが見せた二つの色。

 もしかしたら自分は、やっぱり見えていなかったのかもしれない。

 いや……でも、見ていたのかも。

『でもそれって何なんだよ』

 ハヤミを担ぎながら考えてみる。

 それとはいったい、何なのか。

 何かのデータなのか?

 カズマの目は、やっぱりそれを、よく見ていなかった。

「う、うむ……んご?」

 ハヤミが目を覚ますと、風景として見覚えの無い屋根が見えてきた。

 体を起こす。

 目をこする。

 あくびをする。

「あふぁ……こ、ここは?」

 見覚えのない部屋。

 伸びをして、上に伸ばした腕がどこにも触れないのに違和感を感じる。

「ん?」

 真っ暗な部屋の中で、誰かがパソコンの前に陣取って青い画面に見入っていた。

 光に映る誰かの顔が、どこかで見たことのあるような人の顔で。

「んー……おはよう」

「おはよう。起きたか、早いな」

「今何時?」

 ハヤミが顔に聞くと、うっすら光が差し込んで見える窓の向こうから、ジオノーティラスのコアが告げる標準時刻のアナウンスが聞こえた。

「地上時間だと、十時」

 カズマはハヤミの顔を見ずに時刻を告げる。

「何してんの?」

「お前の尻拭い」

「へっ?」


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