03
※
肺の息を溜めて、指先で岩肌を舐めてみる。
冷たい水。
滑りそうな感触はなし。
苔も生えていない。
「ぃよしっ!」
指先に力を入れて、掌でしっかりと岩を掴み、次の岩棚に足をのせてみる。
滑らないかどうか。
「……くぅっ」
滑りそうかどうかよりも、岩の上に足をのせられるかどうかすら怪しい。
鼻から息を静かに吐き、神経を集中させて、足場を少し上に移動する。
「はぁっ、はぁっ……」
いくら上を見ても、靄に隠れた白い太陽の光しか見えない。
とは言え下を見ると……
「うぐぐ」
自分の身体は、かなり高い所まで登ってきてしまっている。
「くそっ、なんでこんな所で、こんな事に……っ」
ハヤミは目にかかった水しぶきを、口先を曲げて器用に息だけで吹き飛ばした。
「おのれー」
それでも水しぶきは、次から次へとかかってくる。
「い、いよいしょぉ……」
手さぐりで、次の岩を探す。
苔は無い。
下から吹きつける霧と上昇気流。
「もう、いい加減にしてくれってんだよチクショウうわたたたぁっ!?」
愚痴をこぼしながら岩を登っていると、狭い岩の上で足が滑った。
両足が一緒にがけ下へ落ちそうになったので、ハヤミは反射的に両手だけで岩にしがみつく。
「おわたたたた!! おしょっ! えーしょ! んっ……ーしょ!!」
もっとしっかりした足場はどこだ!?
……見たって、見えるのは銀色に光る清水に濡れた岩肌だけ。
「死ぬ! 墜ちる! あ、ああもうダメ……水が、身体がもう、動か、な、い……」
水に濡れて震える声を呟きながら、真っ白な空をハヤミが覗くと
「はーやみーっ、スォーヴィ ロバィテ?」
上から、聞き慣れた声と影がハヤミの顔を覗いてきた。
白色は滝の水しぶきだった。
その中に、小さな影がポツンと見える。
影がユラユラ揺れると、引っ込み、しばらくするとまた出てきてハヤミを覗く。
「はやみー?」
「うー、うるへーっ!」
風がハヤミの身体を撫でる。
自分が心配されていることに気がついた。
影はあいつだろう。
銀色の岩肌と、白い靄。
透明な風の囁きと、滝壺の轟音。
手を伸ばすと短い背丈の草が手の中に収まり、引っ張るとブチブチと草たち音を鳴らした。
登る体。
真っ白な太陽の影。
濡れた銀の岩山と、開ける景色。
ハヤミが崖を登りきると、そこは白い靄に漂う真っ青な湖だった。
試しにハヤミが水に腕を入れてみると、湖と思った世界はただの水たまりだったのだが。
水たまりと言うよりも、どちらかと言うと巨大な清水の流れなのだろうか。
それらが滝に向かって常にゆっくりと流れ続けて、水が滝から緑の大地に落ちると、勢いで滝から白いしぶきが小粒の雨となって、それが強い風と共にハヤミに吹きつけられてきた。
見渡す限りの幻想的な世界。
彼方には霧に霞む、狭くも蒼に広がる空。
太陽が霧に隠れて十重二十重の虹色の輪を創ってハヤミの目を楽しませてくれた。
「ふはぁッ……はぁッ」
崖登りに疲れたハヤミが清水の中に体を横たえると、背中がすぐに崖の岩肌に落ち着いた。
よく見ればすぐそこに、さっきのトカゲと翼の少女がすました顔で立っているのに気がつく。
いつの間にいたんだお前たちは。
「ドズェウダチーィ はやみー」
汗を清水に冷やすハヤミに、少女は彼方を見ながら何か問いかけてきた。
「ヤッツェヴロゥ?」
「ハァーッ、ハァーッ……どうもこうもねぇよユーマっ。あっ暑い! 疲れた! フゥッ、ハァーッ……」
「むうっ! ヤネヴゆま! ミヤ プロゥシ! ゲーハー、ヤッ!」
「そんな事、どーでも……ふうっ! ハァー……疲れた」
「むーうー!」
疲れてだらしなく身体を横たえているハヤミに対し、ユーマはよく分からない異国語で怒る。
その隣で、トカゲはずっと静かだった。
「……あちち」
空から注がれる光がハヤミの身体を焼く。
試しに濡れた手で火照った顔を拭うと、それはそれでとても気持ち良かった。
見れば皮膚が赤くなっていて。
これも地上世界の、何かの特徴なのだろうか。
「しっかしなぁ、なんでこう、地下世界と全っ然違うかなあ。なにかこう色々、あったかい。熱い。昔習った地上世界の景色とまるっきり違うぞ。なんだこの違いは? 詐欺か?」
仰向けになったまま、天を仰ぎ、逆さまになった世界と太陽をのんびりと味わう。
雲に挟まれた狭い空……空は、いつまでもどこまでも、やっぱり蒼いままだった。
「あー……いい気分。とても地獄の地上世界とは思えねぇよ。地下の方がよっぽど地獄だわ。う゛ー、なんだかなー、このまま戻りたくねえわー」
ハヤミが崖の上でゴロゴロしていると、空のどこかからかドラゴンがやってきて、ハヤミたちのすぐ近くに旋風を巻き起こしながら着地した。
『いつかのドラゴンか!?』
突然のドラゴンの襲来にハヤミは黙って驚いた。
が、これといってハヤミは何かをできるわけでもなく。
見れば少女も特に何かしているわけではない。
ハヤミが黙ってドラゴンの様子を見ていると、ドラゴンは少女とハヤミを見比べた後に、フンフンとハヤミのにおいをかぐと、そのままフン! と大きく鼻を鳴らして少女の方へ自分の顔をこすりつけた。
たぶん、ハヤミなんてどうでもいいのだろう。
もしくは、人間なんて。
ドラゴンは少女に甘えていた。
「クゥゥゥゥ……」
硬そうな鱗と大きく尖った角。
それらが少女の柔らかい胸にあたる。
少女もドラゴンの慰撫に答え、優しくドラゴンを撫でていた。
二匹……一人と一匹はまるで姉妹の様な雰囲気だ。
「……」
その隣でじっと寝ころがっているトカゲも、もしかしたらそうなのかもしれない。
ハヤミは一人で、それら三人のことを観察していた。
なんだか、ただ近くにあるだけの、まるで他人事のようだ。
『俺が、ただの外国人ってだけなのかね』
地上世界に初めて来た、地下世界の人間。
目の前では少女とドラゴン、トカゲが、それぞれ仲よさそうに岩棚の上に立っている。
ハヤミが一人蒼い空を見ていると、少女はヨシヨシとドラゴンの頭を撫でてハヤミのチョコをドラゴンの口に与えた。
「……」
なんだか本当に仲が良い。
いつもこんな感じなのだろうか?
空を見れば、黒い雲にぽっかりと丸い穴があいていて、少し形が崩れているがそこから蒼い空が覗いて見える。
耳をすませば、雲の向こうから微かに雷の音が聞こえてきていて。
それはまるで、地上を見ずに空のどこかを彷徨っている味方のジェット音にも似ているような気がした。
「……」
灰色の、もしくは乳白色の、自分たちが空を飛ぶときに使う機械。
鋼鉄の、空を自在に飛び回る、超音速の人工の翼。
今は地上世界に落ちたときに壊れてしまい、ハヤミはそのまま森に置いてきたのだが。
『俺の翼はもう、動かないんだよな』
ふとハヤミが隣を見ると、そこではやっぱり少女がドラゴンと静かにじゃれ合っていて。
二つの羽……少女の白い翼と、ドラゴンの茶褐色の翼が折り重なるようにしてちょこんと崖の上に存在している。
骨と革と、羽でできた、頼りないのに生命力に溢れている、風に揺れる小さな翼。
不思議な組み合わせだと思う。
それも、あるわけがないと思っていた光景。
そして反対側を見てみると。
そこには滝と、広大な緑の森。
森の向こうには、もしかしたらアークエンジェルの残骸が見えるのかもしれない。
“You’re not fine(貴官は正常ではない)”
いつか、アークエンジェルは自分に答えを示していた。
ハヤミを航路に戻すために。
そしてハヤミは墜落した。
その結果が
「蒼い、空……か。どうしてカズマはこっちに来ないんだい」
映画の世界には、こんなシーンは無かった気がする。
じゃあ自分が勝手に創っているのだろうか?
黒雲に、僅かに被さる白い雲。
黒雲と白雲の分厚い層。そして大きな、渦状の筋。そして太陽。
ぽっかりと覗いて見える。
やっぱりハヤミは生きていた。
とても気持ちのいい、無風の、温かい世界。
「……そういえば」
もしかしたら昨日見た嵐の下は、こんな世界だったのかもしれない。
広大な地獄の世界。
たまにやってくる嵐と、蒼い空。
「……ユーマちゃんよ」
「むーう! ヤネヴゆま!」
怒られてしまった。
何も言っていないのに。
少女はただ怒りながら……何も答えなかった。
「ヴィドツュヴァヤーレ ハヤミ?」
「あんだよー」
そして勝手に何か言っては、勝手にどこかに行ってしまう。
もしくは予測不可能な何かをしでかしてくれて。
「む……」
そして少女は、ハヤミの頭をヨシヨシと撫でてくれた。
ハヤミもそれを、黙って受け入れる。
少女のいつもの笑顔と、曖昧な温もり。
意味なんて無いのかもしれない。
けれど、少女の慰撫は気持ちよかった。
「……ったく」
それでいいのかもしれない。
ハヤミは呟く。
滝の白い飛沫に照らされる少女の笑顔と、未知の生物たちを見ながら。
答えはよく、分からなかった。
「……なあ」
「んー?」
今度は話を聞いてくれるらしい。
「そのチョコ……なかなかうまいだろ」
「んっ」
「カズマに教えてもらったチョコなんだぜ、それ」
「かーずーま? ハヤミドゥズィ?」
「んー。そのチョコは、俺が人生で初めて食った人間食の味なんだ。いや、チョコってのはうまいもんなんだなー」
言いながらハヤミは空を見上げ、ふとその当時の事を思い出した。
色々な衝突が合って、色々ふたりで過ごしてきて、喧嘩をしてはまた仲直りをして。
色々なことに二人で怒って。
特に……
『あれ?』
ハヤミは自分の記憶が、妙に空白なのに気がついた。
『何に……俺たちって何に怒ってたんだっけ?』
記憶がない、わけではないはずだが、よくよく昔のことを思い出そうとすると、どれもカズマと出会った後の記憶しか出てこなかった。
記憶の中でハヤミはカズマと常に競い合っていたが。
それはたぶん、だいぶ新しい記憶のはずだ。
二人が出会う前、本当は何かあったはずなのに。
「あー、んと。たしか走ってた……んだっけ? 走る? なんだそりゃ?」
ポリポリと顎を掻きながら、腕に冷たい風を受けて、爽快で。
「俺……何やってたんだっけ」
気持ちよかった、過去。
過ぎ去った後の、風。
でもそれ以外は?
「……ああそうだ」
たしか、カズマとずっと一緒に走ってたんだ。
サーキットを。
そんな感じだった気がする。
記憶は定かではないが。
“なんで、サーキットなんか走ってんだ?”
それはまだカズマと出会ったばかりの頃の、本当に昔の話。
カズマはよくハヤミに突っかかって質問した。
ハヤミだって、その答えはよく分からなかった。
だからハヤミとカズマはよくぶつかり合ったのだが。
いくらカズマが様々な前提条件を示しても、それでもハヤミはいつも「よく分かんねぇ」としか答えられなかった。
だからカズマは、いつも怒っていた。
たしかこうだったと思う。
逆にハヤミがカズマに走る理由を聞くと、カズマはカズマで
「お前には教えたくないね」
と言って不敵に笑ってごまかすのだが。
ハヤミも、何かに怒っていた。
何に怒っていたのかは忘れてしまったが。
二人のラップタイムは少しずつ速くなっていった。
スタートとゴールを繰り返すだけのレースで。
それは空の上でもあまり変わらなかったが、でも二人の衝突は、友情の形でぶつかり続けた。
だから二人は、今も二人で笑いあっていた。
『あれ、でもそれって映画の方の話だったっけ?』
だんだん現実と映画の区別がつかなくなってくる。
ハヤミは試しに、自分の頬をつねってみた。
試しに掌ですくった水を顔の上にかけてみる。
そしてゆっくりと瞳を閉じて、開けてみると。
「夢……とか、妄想では、ないみたいだな」
自分は、やっぱり生きている。
それともこれが夢だったりするのだろうか?
『いつもの朝の寝ぼけってわけじゃ、ない……よな?』
ハヤミがゆっくり体を持ち上げてみると、そこはやっぱりいつもの世界だった。
ついさっきも、寝起きで変な物に頭をぶつけたりする事があったが。
それも、憂鬱ないつもの暗い世界で寝ぼけているのでもなく。
そこには見覚えのない、いつもの少女がこちらを見て笑っていた。
少女は目の前でチョコを頬張りながら、頭の上で「?」マークを浮かべていたのだが。
「チョコ ヴィ ドブゥレ?」
「あっはは。お前は楽しいヤツだよ」
「む?」
「ぶふーっ」
ハヤミは笑った。
いつものように。
爽快だった。
初めて、いつもの地下世界から飛び出せた事が。
そして少女の仕種が可愛かったのだ。
「あはははは! お前ってほんっと面白いやつ!」
ハヤミは一人でドンドンと岩肌を叩きながら笑う。
すると、少女もつられてハヤミと一緒に笑いはじめた。
「えへへー」
少女はいつもかわいく笑う。
その顔が、例えば挑発的だったり、優しかったり、もしくは色々複雑な笑顔になったり。
意味なんて無いのだろう。
ハヤミはそれが、楽しかった。
二人はしばらく笑いあった。
二人の脇を流れる清水に、何かが無数に転がっているのを見つけるまで。
※
「ん? なんだこりゃ?」
ハヤミは周囲を転がる何かたちを見て驚いた。
大量にある影。
いつからここを流れていたのだろう?
清水に流される無数のそれらは、いつかハヤミが見た蒼いサイコロたちだった。
太陽の光をキラキラと弾く、多面体の、不思議な色をした蒼たちが、それぞれ清水を透かすようにしながら小さな光をキラキラと輝かせている。
「これは俺の……給料半月分の方のサイコロか!!??」
ハヤミは一つ拾い、二つ拾うと、ふと上流を見て驚いた。
どれも同じ蒼色の、多面体のサイコロ。
それらが今手前に見た数とは比べ物にならないほどの数が、上流から滝に向かって流れているのだ。
蒼い輝きたちがゆっくりと、同じ早さで、ハヤミたちの足元をすり抜け、しぶきの中をゆっくりと滝の方へと吸い込まれていく。
足元に流れるサイコロをいくつかひょいひょいとハヤミは拾ってみたが、それでもすぐにハヤミの腕は蒼いサイコロでいっぱいになった。
上を覗くと、まだまだその数は減るようには思えない。
「んー」
サイコロは清水の上流から湧きだしているのだろうか。
もしくは、どこかの川から流れこんできているわけでは無いのだろう。
でも、なぜこんな所にサイコロが?
気がつけばハヤミは、白い霞と清水の中に蒼い光がゆっくり流れている、そんな幻想的な風景の中にいた。
「あ、もしかして」
ハヤミはふと考え、ウンと一人で頷いた。
「この滝から下にある川にサイコロが流れて、それがさっきの……泥に埋もれたサイコロになってたのかもしれないな。いやたぶんそうだ」
ハヤミは言いながら一人で頷いた。
「この世界にはサイコロはたくさんあるものなんだな。でも……どっから流れてきてるんだろう?」
ハヤミが何度清水の上流を見ても、答えは大量のサイコロしか見当たらない。
きっとそれより上があるのだろうが、その答えはいくら目を凝らしても……白い靄に消されて何も見えそうにない。
「でもさ……この世界はサイコロとかは普通にあるような物なのか?」
もしかしたら、サイコロなんて普通に存在するようなものなのかもしれない。
本当は、もしかしたらサイコロそのものが特に珍しいような物でないのかもしれないが。
でもジオノーティラスでは、サイコロは路地裏の骨董品屋でホコリをかぶっているような物だった。
値段も、買ったその月の食事に困るくらいな代物で。
「でも多すぎ……いや少なす……いや多いのか?」
ハヤミはサイコロを清水からいくつか拾いあげてみた。
一つ、二つ、みっつ……
気がついたらハヤミの腕はサイコロでいっぱいになっていた。
ペースとしてはだいぶ早い。
蒼いサイコロはまだまだたくさん清水に流れていた。
本当に、これらはどこから流れてきているのだろう。
『でもちょっと待てよ。このサイコロ……ジオノーティラスにあるのとは違う物なんだよな?』
思いながらハヤミは、いつか自分が持っていたオレンジ色のサイコロを思い出した。
色違いとは言え、この蒼いサイコロもたぶんオレンジのサイコロと似たようなものだとは思うが。
もしそれらが全然違う物だったとしても、それなりの価値と言う意味では、きっとハヤミの持っていたオレンジのサイコロと大した差はないはずだ。
まあ安く見積もっても……やっぱり、給料半月分くらい?
「かもしれない、が。いや待てよ?」
ハヤミは腕の中に抱える蒼のサイコロの一つをつまんで、試しに太陽の白い光にかざしてみた。
白い光が蒼いクリスタルに反射してキラキラと輝く。
『もしこれがバカ高い価値がなかったとしたら、こいつを大量にジオノーティラスに持っていったら……もしかして値崩れとかするかな?』
キラキラと輝くサイコロ。
「これがジオノーティラスで安く売られてるのは……なんか、嫌だな」
ハヤミは露天商でサイコロを見つけたとき、そのオレンジが薄暗い世界にほんのりと光っている事が気に入って買った。
当時のそれはほとんど衝動買いのようなものだったが。
それが今、目の前に別の色となってふたたび輝きを帯びている。
この輝きが、自分の手によって誰かに軽薄な値札を張られるのは気に入らない。
好都合なことに、この世界はまだ仲間の誰にも発見されていない。
要は独り占めなのだが。
でもいつか自分たちが落としていた偵察ポッドが壊れていたのは好都合だ。
『……おし』
ハヤミは腕の中と空を見比べて、「うりゃっ!」と腕の中のサイコロを宙に飛ばした。
ボチャボチャと大量の蒼い滴が空を切り、清水に数えられないほどの波紋を広げる。
白い太陽に洗われたサイコロたちが透明な清水にその姿を落とすと、静かに大量の目が示されて、そしてゆっくりと滝に向かって消えていった。
その数は、きっと無限。
ハヤミは空になった腕をブンブンと振るうと、ふといつか空の上でカズマと戦ったボードゲームを思い出した。
『他の人間には秘密だが、とりあえずカズマにゲームで勝てる分だけは別にジオノーティラスにも持って行こう』
空から差し込むオレンジの太陽が滝から沸き上がる白い霧を透過し、ハヤミの周囲を取り囲む。
ハヤミは一人で滝の上に立っていた。
ハヤミはよくカズマとのゲームでズルをしたが。
でもなぜか、ゲームはだいたいハヤミの負けでよく終わった。
「でもなー、なんで俺はあいつにゲームでだけ負けるんだろうなー?」
ゲーム以外なら……レースとか、模擬空戦とかなら、いつも負け無しなのに。
ハヤミは腕をブンブン振るいながら、腰に添えて、ふたたび空を見上げた。
見えるのは、形の崩れた蒼い空と、ふたたび嵐の兆候を見せる白光りの黒い雷雲。
もうすぐ、いつもの嵐がやってくるのだろうか。
ハヤミはふと自分の手を空にかざしてみた。
指先に、冷たくてぬるい、いつもの風が触った。
「帰る……か。そろそろ帰るか?」
ハヤミはボソリと呟いた。
「……でもどうやって?」
白い靄がいつの間にか風で晴れていて、何も見えなかった視界がふたたび鮮明に映りだす。
目の前にはいつもの少女が、翼をはためかせながら笑顔でそこにいて。
「かえるー?」
少女はいつもの、おうむ返しの言葉をハヤミに投げかけてきた。
「帰ろう……かな」
どこへ帰るのかは分からないが。
ハヤミが滝の向こう……ジオノーティラスがあるだろう方に体を向けると、その視線と同じ方向を少女が見て、その隣にいたドラゴンも重そうな首をハヤミと同じ方向へ向けた。
「キドゥヴィデーテ?」
「おう。俺、基地に帰ろうと思う」
「ドェ?」
「んー、とりあえずあっちかな。なあユーマちゃん、この森ってどこまで続いてるんかな?」
「ん?」
「森の広さだよ。俺が墜落した場所はたぶんカズマが基地に知らせてるだろうからな。たぶん味方はその周辺を空から捜してると思うんだ」
「ん、ん」
「こんな森だらけじゃー、味方は俺のことを探せないだろう? でも、見た感じだとこの森は太陽が当たってる場所にしか無いみたいじゃないか」
「んむ」
「とりあえず徒歩で森から脱出しておけば、味方は俺のことを見つけてくれるだろうってナ。だからさ、エート……どんくらい森はこう……距離というか、そう……んーと」
ハヤミは首を傾けている少女を前にして、もう何度目かになるお互いの言葉の違いに戸惑った。
両手を広げて「こう」と言っても、少女の首は十五度くらい傾くだけで。
足元に流れるサイコロを見て何かの算数の授業ふうに説明することを思いつくが、いくつかのサイコロを両手に揃えたり縦に積んだりしてもハヤミと少女の首は三十度ほど傾くだけで終わるし。
全部うっちゃって頭を掻きむしり空の向こうを「アレ! アソコ! アッチ!」と叫ぶと、さすがのUMA少女でも首をそれ以上傾けることができなくなり、素直に反対側に首を傾け直した。
ハヤミ万事窮す。
少女に、自分の意思を何も説明できない。
ハヤミが「アー」とか「ウー」とか言いながらその場で腕を組んで固まってしまうと、それらハヤミの一連の動作を見ていた少女は何回か首を右左と傾け直しながら、ふと何か分かったように「チョム ポヴェノゥトスャ ヴネヴォ?」と、ハヤミに何かを聞いてきた?
「ん?」
もちろんハヤミは少女の言葉が分からない。
少女もハヤミの疑問符の意味がわかったらしく、ウーンと小さく唸って自分のこめかみをグリグリした後に「ネヴォ」と言って空の向こうを指さした。
「ドゥ」
「ん?」
「スカィ! ヤ ルチュェ トェス ハヤミ?」
「だーかーら。お前は何を言ってるんだ? もうちょっと俺にも分かるように……」
「ヤッ。あー、むー……んっ! ハヤミ! トェス!」
少女に何か考えがあるのか、少女は戸惑うハヤミの手を引いてどこかへと連れて行く。
ハヤミが連れて行かれた先は、清水の流れる岩から一段高い滝の真上だった。
下を覗くと滝の轟音と冷たい上昇気流が顔をかする。
「お? おいおいユーマちゃんよ。これから俺に何をさせる気だ?」
「ヤッ、ハヤミ イェクリィラトィ アーヘルォ! ナディ! テトゥェメニ! ハヤミ ヴィティ ドドム! ヤッ!」
「何だって? おお俺に滝から飛び込めってのか? なんでそんな話に!?」
「むうー!!」
少女も、ハヤミに自分の言葉が通じないことに苛立っているのだろうか。
少女は何回か滝の向こうへ指を差し、もしくは飛ぶような動作を真似、ウーンウーンと唸った後、今度は急に自分の翼を広げて「はね! ハヤミ! ヤッ」と片言で何か叫びながらピョンと空に跳ねた。
「はやみ リタティ! はねーっ! ヤッ」
「はね? はねって……もしかして羽のことか?」
少女がしきりに自分の翼を広げてパタパタするので、試しにハヤミは自分の背中を少女に向けて見せた。
「俺には羽なんて無いぜ?」
「ミ ブゥデノ カポゥヴァティ ヴリィス ザ ィオゥホメズァミ!」
「だから俺にゃー翼なんて無いんだっての」
「むーうーっ! ノ! テス!」
言うと急に少女は後ろにふり返り、遠くでハヤミたちを見ていたドラゴンたちに大きく口笛をふいた。
「ボゥラティ! ポゥルァウト!」
言いながら少女は空の向こうを指さす。
するとドラゴンが重そうな首を上に持ち上げ、翼を軽く広げると、体制を整えてそのまま滝から宙に向かって跳躍、滑空をはじめた。
滝スレスレに宙を飛び、勢いをつけ、そして一気に翼を広げるとそのまま上昇をはじめる。遠く、大きな咆哮が聞こえてくる。
光る赤いクリスタル。
それはドラゴンが空を飛ぶ瞬間だった。
ドラゴンの咆哮に併せてトカゲも首を持ち上げて、口から小さく炎を吐いている。
よく見れば、トカゲの首元にも赤いクリスタルがあるのを見つけた。
この世界に棲んでいる動物には、全員胸元に赤いクリスタルが埋め込まれているのだろうか。
「な、なんだ今の!?」
ハヤミがドラゴンの一連の姿を見ていると、その傍らで少女が胸を張ってフンと鼻を鳴らしていた。
小さな背中越しにも分かる、何か自慢げな少女の顔。
少女の翼が小さくピクピク動いているが。
それらをハヤミが唖然としながら見ていると、突然少女はクルリと向きを変え、ハヤミの顔をじっと下から覗いてきた。
「ヤッ、ベクス タキィー、はやみ?」
「えっ、い、いや……ああやって俺にも飛べと?」
「タム、はやみ ヴ アヘルォ!」
「い……えっ、な、なんだよその目は」
「チョムヤネ ノズュ?」
ハヤミを伺う少女の目が、何かハヤミに期待している様だった。
何を期待しているのか。
『もしかして、俺はまだコイツに天使かなにかと勘違いされているんだろうか?』
少女はなぜか目をウルウルさせている。
もしかしたら……いや、その期待の眼差しは、たぶん本当にハヤミが空を飛べるものだと確信しているのだろう。
この世界には、少女以外に人間の形をした動物はいないのだろうか?
『……なぜだー』
ハヤミは滝の向こうと少女とを見比べて、そういえばとまたあることを思い出した。
映画のことだった。
この状況はたしかに映画のワンシーンと比較的似ているが。
でも細かい所がちょこちょこと違う。
「むうー。なんか……困ったな」
後ろをふり返ればそこには翼の生えた少女がいて。
……映画だと彼女は天使だったか。
まあ、少女と天使は見た目がなんとなく同じだから許せるが。
何度も何度も滝と少女を見比べるハヤミ。
もう一度滝を見て。
『そういえば、こんなチャンスはここ以外ではもう二度と出来ないかもしれない』
ジオノーティラスには滝なんてない……とは言っても、ジオノーティラスでの飛び込みでは痛い目にあったのだが。
飛び込もうとして、迷って、ふたたび少女を振り返って、滝を見て、ハヤミは更に別のことも思い出した。
いつかのカズマの言葉だった。
『もう諦めたらどうだ?』
たしか空での言葉だったか。
カズマはよくハヤミに現実を諭した。
変にあきらめ顔で笑う、サングラスをかけたカズマの顔。
いつからカズマは、空を飛ぶのをやめていたのだろう?
「……俺は……いや。俺はまだ、諦めないぞ。いや、俺は諦めるのをやめた! カズマぁ!!」
ハヤミは真っ白なしぶきに向かって、指を差しながら大きく宣言した。
「俺はお前に……勝つ! 俺は飛ぶ! 飛ぶんだ! 飛んでやる! いいか見てろよカズマぁッ!!」
叫びながらハヤミは上に着ていたスーツをガバッと脱ぎ捨てると、ブーツの紐を縛り直し、滝に向かって飛び込むポーズをとった。
……そしてふたたび後ろを向く。
少女は何度も後ろと前を見比べているハヤミを見てなぜかブウたれていた。
「むー。クプヴァティー シュムェ ハヤミ?」
「いや、俺は飛ぶ! いいか見てろよユーマ!」
「むうっ! ヤネヴゆま!」
また怒られたハヤミだったが、ハヤミは少女の言うことを聞かずふたたび滝に向かって立った。
下を見ても、白い滝の吹き上げが視界を邪魔して水面が見えない。
どこにどう飛び下りれば無事水に着水できるのか、目で見てもまったく分からない。
もしかしたら飛び下りたそこは、岩かもしれない。
『こっ、これはかなり怖いぞ』
見えない空を飛ぶのは勇気が要るが。
決心がつかずハヤミがふたたび後ろを振り返ると、少女は腕を組みながらイライラしてハヤミをみていた。
「フォスピシャーイ テ!」
少女の野次。
怖いのでまた前を向く。
向きながらふと……そういえばと何か見えたとハヤミは首をひねった。
水の染みこんだ少女の白い布に透けた肌色と、何かの赤い物質が見えた気がしたからだ。
なんだかこれは……い、いや、そんな趣味はない!
でもふっくりと膨らんだ小さな胸……じゃなくて、赤い何かの部分が気になったが。
あれは、どうみても普通の人間にはない何かだと思う。
でも気のせいか?
あれは、何だろう?
振り返ろうかどうしようか、やっぱり飛ぶ前によく見てみようかなとハヤミが思案を巡らしながらハヤミが後ろをと振り向こうとしたり前を見ようとしたりでモジモジしている、そのとき。
「シュィヴドクォ! トェ!」
予測できなかった何かの衝撃がハヤミの背中を走り、気がついたらハヤミは、なぜか空の上に激しく蹴り飛ばされていた。
※
地球は、ものすごく早く廻っていた。
いや……もしかしたらものすごく遅いのかもしれない。
真っ黒な世界に、ポツンと浮かんでいる一粒の地球と、無重力の中に静かに浮かんでいる自分。
どこかの宇宙を、記憶の中を、ハヤミの意識はどんどんと早く飛んでゆく。
その中でハヤミは、遠くに置き去りにしてきた過去の、大小様々な感情と、記憶を、かすりながらも再体験し、そして忘れ、次々とブレイクスルーしていた。
スルーしながら、ハヤミはある事に気がつく。
『…………』
思うことはただそれだけなのだが。
―チガウダロ―
どこかで自分を見ていたらしいどこかの自分が、ふと自分に対してつぶやいていた。
―チガウノカ?―
そんな自分の言葉に、また別の方向から自分が答える。
――俺タチハ、モット……ノハズダロ?――
流れる記憶はどれも曖昧で……でもはっきりしていて。
こんなにはっきりしている記憶なのに、どれも過ぎ去ったあとは一つも思い出すことができない。
そこにはいつもの……ハヤミが今まで出会ってきた幾人もの人たちがいた。
それらのいくつかが、例えば母親らしき女性の顔だったり、今までさんざん遊んできた友人だったり、恋人だったり、……だったり。
それぞれが輪になり、腕を広げて、笑顔でハヤミを迎えてくれる。
だが、それにハヤミが応えようとすると、体がどうしても前に進んでくれなかった。
ここはどこなのだろうか?
現実とは違う。
退屈な……あの世界?
どうやら違うらしい。
外から、いくつもの手や腕がハヤミの体に絡みついてきた。
影はそのままハヤミを世界の外に連れ出そうとするのだが、ハヤミはそれに抵抗することも、抗うこともできず、ただボォッとそれら影たちの笑顔と腕力に従うだけで。
―コッチニオイデ―
―コワクナイヨ―
―大丈夫ダヨ―
―安心ダヨ―
見覚えのある笑顔と、影たちが、白い光を従わせながら、ゆっくりと無のハヤミを覆っていく。
徐々に視界が真っ白になって、無抵抗に心を任せ、そのまま消えてなくなってしまいそうになったその時。
何か、懐かしい誰かがハヤミの顔を覗いてきて、ポコッと無遠慮にハヤミの頭を叩いていた。
振り返ることができない。
でもそれが誰なのかは、すぐ分かった。
そして次に赤い何かがパァン!と弾ける。
気がついたらハヤミは逆様で滝壺の中に落ちていて、同時に様々な衝撃を全身に受けながら大量の水を強制的に口の中に飲み込ませられる瞬間を迎えさせられていた。
「ムガォゴブゴブグガブガブガブグーッ……!!!???」
突然の頭の痛みと鼻の痛みが意識に走り、ハヤミはジタバタと軽いパニックを起す。
とりあえず目の前にある何か……を握ると、今度は息苦しくなって、無性に水面の上を目指したくなった。
『い、息が……苦しい!!』
どちらが上とか、もしくは下なのか、閉じた目ではその判別が難しい。
たまたま足元にあった硬い岩盤をハヤミが蹴ると、今度は体が水の中をスウーッと上に浮く感覚を覚える。
握り拳を作ったまま、ただ我武者羅に水をかき回すと。
「ブーッハ!! げほっ! ガハッ!! ゴホァー!! ゲホゲホッ……ブハァーッ」
ハヤミは思い切り水面から顔を飛び出させ、久しぶりに美味しい空気を吸う事ができた。
水のはいった耳にやけに鈍く響きわたる、うるさい滝の轟音。
水から浮かぶのがあとコンマ数秒遅かったら、もしかしたらハヤミは水死していたかもしれない。
「ハァッ、ハァッ……」
髪から滴る水がハヤミの視界を邪魔するので、反射的にハヤミは空いた左手で目の部分を拭い払った。
なんだか目が痛い。
飛び込みで目に水圧がかかったのだろうか。
「え、な、なんでぇ!?」
次に気がつくと、ハヤミは水辺に複数の動物たちの影を捉えていた。
しかもそれらの影は……よく見ると、全員があの翼の少女だった。
全員が全員見覚えのある少女の顔をしていて、しかもそれらは複数で、水に浮いているハヤミの顔をジッと見ながら静かに周囲を囲んでいる。
「げっ……」
少女たちは、冷たくハヤミを睨んでいた。
もしくは観察しているのかもしれない。
少女らは、びしょ濡れのハヤミを見ても一切笑おうとしないし。
それに胸元には、何か見覚えのある赤い輝きがあった。
少女たちの胸にある赤い光は、ボウッと、ゆっくりと、規則正しい明滅を繰り返す。
少女たちの胸元は、昼なのに朧げに光っていた。
やはり少女たちは、ハヤミの知っているあの少女ではない。
「……」
でもこの少女たちは、たしかにあの少女と同じ顔をしている。
背格好も同じで体格も……というか、目の前の少女たちも、あの少女も、全員同じ背格好をしている。
よく見ると、並んでいる少女たちの一人が見覚えのある小銃を持っているのに気がついた。
『あッ!?』
気がつくと同時に冷たい滴がポタリとハヤミの髪からしたたり落ちて、ハヤミの視界を一瞬ふさぐ。
急いで顔を拭ってハヤミがもう一度視界を確保すると、そこにはもう少女たちの影は消えていた。
やっぱり世界は、あの時と同じ。
少女たちは、最初からそこにいなかった。
『な、なんだ今の!?』
そして別の事にも気がついた。
無意識に、ハヤミが右手に握って離さなかったものが、いつかハヤミが街で買ったサイコロと同じものだと言うことに。
大量の蒼いサイコロだかオレンジのサイコロだか少女がたくさん増えたんだか最初からいないんだか、突然色々な事が同時に起こって、何がなんだか分からなくてあたまから煙を吹きそうだ。
「はーやみーっ!!」
ザバザバとハヤミが滝壺から岸に身をあげていると、今度は滝の上からいつもの少女の黄色い声が聞こえてきた。
「ヤリィタv@♪∇‰∝∂η♂ッ!?」
滝の音と岩で声が様々に反響し、何を言っているのかはっきり聞こえない。
それでもハヤミが上を見上げてみると、そこには白く輝く巨大な丸……靄に隠れて白くぼやけている太陽が見える。
「なんだっちゅーの」
ハヤミは岸上でジャンプしながら、音がくぐもっている耳の反対側の頭をたたいた。
耳から出てくるのは、大量の生温い水。
ツンとしている鼻からは自然に鼻水がでてくる。
自分たち以外にも、この地上世界には知的生命体がたくさんいるのか?
正体不明のサイコロと言い、ドラゴンと言い、こんな世界は初めてだ。
ハヤミはブヒーッと鼻をかんで、そのまま鼻水を清水の下流に流した。
鼻水に、ほんの少し血が滲んでいた。
『これも、この世界の特徴なのか?』
ハヤミが流れる清水の小川を見ていると、ふたたび後ろから、言葉になっていない少女の声が聞こえてきた。
と言っても、言葉は最初からお互い言葉として認識できていないのだが。
ハヤミが上を見上げてみると、最初は白い靄と太陽の光しか見えなかったのに、今度はその中にポツンと黒い小さな影が浮かび上……いや崖の上から飛び出すのが見えて、影は最初はゆっくりと、そして徐々に速度を増しながら、水面に向かってダイブしているのを確認する事ができた。
あの少女だろうか。
よくよく靄に目を凝らしてみると、影は飛びながら、背中の翼を左右に開いて飛んでいるらしい。
でも少女は、どうやら羽ばたきをしていないようだった。
影の落下速度は見る見るうちに速くなっていき、滝の中腹くらいに影がくると、今度はふっと影が見えなくなって、次に滝壺の方からドボーン! という大きな音が聞こえてきた。
どうやら崖から飛び下りた少女は、最初は翼を広げて滑空をし、次に羽を畳んで勢いよく水の中に飛び込んだらしい。
「おいおい……あいつ、なんであんな羽を痛めそうなやり方で滝に飛び込むんだ?」
ハヤミは急いで少女が落ちた水の中へ走り込み、滝の中で「プハァッ!」と言いながら顔を出した少女を見つけるとそこへ急いで駆け込んで、深みの中でゆっくりと少女の腕をつかんだ。
ハヤミが掴んだ少女の腕は、思っていたよりも華奢だった。
手荒に扱うとすぐに折れそうで。
大切に、大切に抱きしめないとすぐにでも壊れてしまいそうで。
ハヤミは、ゆっくりと少女を手元に引き寄せる。
少女は息を切らせながらも、静かにハヤミの胸の中へと納まった。
少女の翼は、重そうに水滴を羽に滴らせていた。
「……」
痛々しそうな少女の肩を翼と一緒にハヤミが抱き寄せると、少女の脈と温もりがハヤミの掌にも感じられる。
翼をさそると、少女はほんの少しだけ痛そうな表情を見せるが。
少女は嫌がらなかった。
「はぁっ、はぁっ」
「おいユーマちゃんよ! お前大丈夫なのか? どこか体壊してたりしてないのか?」
「はぁっ……ヤ。ヤヴ ポルュヤードク」
息を整えながら少女が最後に「ハァーッ」と深く息を吐くと、次に何かに気がついたのか、今度は突然顔を赤くして、水の中でハヤミの顔を上目づかいに覗いてきた。
何かあったのだろうか。
だがそんな少女の異変に、様々な事を考えているハヤミには少女の異変に気がつく事ができない。
「大丈夫だったか?」
「……」
少女の体を……特に翼の関節部をさするように抱きしめる。
少女の羽は、ほんの少し脈打っていた。
「とりあえず体を冷やす前に、早めに岸に上がっとくか」
ハヤミは少女の腕を引っ張って、泳ぎながら近くの岸に向かって泳ぎだす。
すると今度は少女が、ハヤミの手を逆に引っ張る形になって抵抗した。
振り返ると少女は、なぜか水中に顔を半分沈めながらハヤミの顔を睨んでいた。
「……なにやってんだお前は?」
「……」
口元を水面下に隠す少女は、ハヤミからだとどんな顔をしているのか分からない。
もっとも、仮に少女が何かしゃべったとしても、ハヤミはその言葉そのものが理解できないのだが。
それでも少女が水中で「ごぼごぼごぼごぼごぼっ」と何かしゃべったので、さすがのハヤミも少女が『何らかの理由で水に留まっている』のに気がつく事はできた。
「どうした、どこか体を痛めたのか?」
少女の前で、ハヤミは腕をひねる真似をする。
それを見て、少女は首を横に振った。
「じゃあどこか打ったのか? 羽か? 痛いのか?」
ふたたびハヤミは、水面に平手を打って打ち身の真似をする。
ちょっとだけ時間はかかったが、少女はまた首を横に振った。
「んー?」
じゃあ何のために少女は水の中に留まってるんだ?
ハヤミは色々考えながら、ふと自分の肌が赤く焼けて熱くなっているのに気がついた。
清水に患部を浸けると気持ちいい。
放射能の影響だろうか。
もしかしたら、少女も体のどこかが熱くなっているのかもしれない。
ハヤミは試しに、自分の腕の赤い所を少女の前に見せた。
焼けて熱く火照っている腕を、少女のおでこに当てる。
「……」
それを水の中に浸けて、冷やす真似をしてみた。
少女は黙ってハヤミのそれを見ていたが、しばらくハヤミが黙っていると、少女はまるで堪忍したように、コクリと小さく首を縦に振った。
『やっぱりどっか打ったのか? 痛いのか? それとも……俺と同じ放射能汚染の方なのか』
ハヤミは少女が言う「熱い」部分を探すべくふたたび少女の体を……黙視で確認すべくゆっくりと少女の顔を覗いてみる。
ハヤミが少女の顔に自分の顔を近づけようとしたとき、今度は少女がハヤミの接近を腕を張って拒んだ。
「ん?」
少女に拒否されたのは、さすがに初めての経験だったのでハヤミは驚いた。
今まであれだけ人にベタベタしてきた奴だったのに。
さっきは人を蹴り飛ばした奴なのに。
それが今度は
「……」
少女は頑に、ハヤミの接近を拒否した。
それによく見れば……少女の目は、ハヤミを怒っているようにも見える。
見えなくもない。
何を考えているのだろう少女は?
「おいおい、今度は何なんだよ?」
急に少女の対応が変化したのに、状況をまったく理解できないハヤミは慌てた。
と、ハヤミたちが浸かっている滝壺の靄が、森の向こうから吹いた生温い風によって一気に吹き飛ばされた。
「ん……今度はなんだ?」
白い靄が晴れて、一気に滝壺の視界が開ける。
空を見上げると、そこには蒼い空はもう見えなくなっていて。
黒雲。雷の光。
遠くに、雷の音が聞こえる。
「……嵐か」
いつか……ハヤミがいた世界。
それがゆっくりと、ふたたび世界を覆いつつある。
「あっ」
少女も嵐の到来を感じているらしかった。
不安そうにキョロキョロと周囲を見回し、上を見上げ、自分たちがいる周囲を確認している。
そして空の遠く一点を指さし、ふたたび何かの言葉を叫んだ。
「タィキ!」
その言葉をハヤミが確認しようと顔を上げてみる。
すると今度は生温いだけの緩やかな風が急に激しい旋風に変わって、ハヤミたちがいる滝や森を巻き込むような形で大きな渦を作り始めた。
大量の砂がハヤミを殴り倒す。
大小様々の暴風がハヤミを襲い思わずハヤミは顔を覆ったが、風は腕や手の隙間を抜けてパチパチと大量の枝のような物をハヤミの全身を苦しめた。
だんだんと旋風が落ち着いてきて、激しい風と風の合間を縫ってハヤミがそっと腕を下ろすと、つい先程まで自分たちを取り囲んでいたはずの緑の森はいつの間にか、いつかハヤミが見た事のある砂地の三角山に変わってしまっていた。
見ればハヤミが浸かっている滝壺も、綺麗な清水の沢ではなく汚い泥に成り果てていて。
隣を見れば、翼の少女は滝壺の泥にまみれて倒れている。
空から轟音が聞こえたのは同時だった。
それは、どこかで聞いた事のある、気持ちの悪い雷雲の轟き。
もしくは味方の救援機のジェット音なのかもしれない。
ハヤミが空を見上げていると、放射性の雲と雲の隙間に何かの飛翔体を複数発見した。
それらが徐々に高度を下げて、ハヤミの近くへ寄って来る。
日に焼けた乳白色の翼と、青色に燃えるイオンエンジンの噴射。
それはいつかのハヤミがよく見ていた、懐かしい風景。
それらの側面には大きく『CQ―334』と部隊識別記号が表記されていて、目の前にいる巨大な飛行艇が墜落したハヤミを助けるべくやってきた味方の救出部隊だと言うことはすぐに分かった。
その後ろを飛んでいる大量の戦闘機群は……味方のパイロットたちが乗りこんでいるアークエンジェルたち。
それらアークエンジェルは独特なジェット音を空に鳴り響かせながら、哨戒任務なのだろう、ハヤミの沈んでいる泥沼近くを旋回、飛翔し続けている。
戦闘機群に守られるようにして威風堂々と救出部隊の母艦がハヤミの近くに着陸してきて、コクピット部から外を覗くカメラセンサーがハヤミを捉えると、機械的な唸りを響かせながらハッチが開いて中からいくつもの重武装陸戦隊が顔を現わしてきた。
陸戦隊は全員いかついパワードスーツを着込んでいたが、中には自立式の無人二足歩行戦闘車両も混ざっている。
彼らは重火器を構え、妙に周囲を警戒していた。
「こいつぁ……味方か!! おい! ユーマちゃんよ! 俺たちは助かったようだぜ!! おいユーマち……あれ、おいユーマ?」
ハヤミは泥の中でもがきながらすぐ脇を見ると、そこにいるのは黙って泥の中に倒れている、動かない少女の姿だった。
ハヤミの問いかけに、動かない翼が風を羽毛に受けてひらめかせている。
少女はまるで死んだように、じっと泥の中に倒れて動かない。
「お、おいユーマ!?」
少女は目を開けていなかった。
少女の突然の異変に、ハヤミは腕を泥にもぐり込ませて暴れてみたが。
もがく体は泥の中から一ミリも動いてくれず。
動けないハヤミの事情を知ってか知らずか、輸送機から降りたパワードスーツの陸戦隊は、ゆっくりと防御円陣をハヤミの周囲に展開させていった。
※
「ハヤミ少尉、ですか?」
泥の中に埋まるハヤミの手を電動マニピュレーターで引き抜き、ハヤミを助け出した陸戦隊は顔の見えないパワードスーツのマスク越しにハヤミの顔を覗き込んできた。
重機械で武装した隊員がマニピュレーターを動かすと、関節部からギュオンと耳障りな音が静寂を走る。
それでも出力は調整しているのだろう。
隊員がハヤミを泥から地上にあげると、ハヤミは振り切るように隊員のマニピュレーターから自分の腕を引き離した。
マニピュレーターは、加減しているとはいえ力加減が難しいのだ。
「い、いでででで……こんなにも早く助かるとは思わなかったぜ」
見ればハヤミの腕には、マニピュレーターが腕をつかんだ痕がくっきりと残っていた。
「申し訳ありません少尉。それでも墜落地点から距離が離れていたので、発見するのに少々時間がかかってしまいました」
「いや……これくらい大丈夫だよ。俺の方はそれなりに楽しめた。あー……本部は大騒ぎだったのかな。よくここが分かったな」
ハヤミがぶら下げられた腕をグルグルと廻すと、鈍痛が肩の関節に走るだけで体に特に異常はなかった。
それ様に出力調整しているとはいえ、人間の手を掴んでほとんど傷つけないとは。
ジオノーティラスの機械は本当によくできている。
「D―813PB探査機から通報がありまして。地上に動く物体がいると。かなり断片的なデータでしたが」
「あん? D―813? それ俺たちが落としたヤツの事じゃねぇか」
「二体いる、と通報ではありましたが。少尉、地上で誰かと一緒にいたのですか?」
「ん? ……ああ! そうだよ! そう! 俺はユーマと一緒にいたんだ! 彼女はどうした? まだ生きてるのか?」
「はあ? ユーマ、ですか?」
泥だらけのハヤミがパワードスーツ隊の円陣に入ってくると、周りを護衛していたライン入りのパワードスーツ数体が後ろを振り返ってハヤミを見た。
その数は……全体に比べると意外と少ない。
中には後ろを振り向かずにじっと前だけを見ている機体もあったが。
それら前だけを見ている機体は、ライン無しの装甲服に『CQ―334―NA』の識別番号を大きくペイントされて立っている。
NAは無人機の識別番号だった。
「ユーマちゃんを見てないのか? 翼の生えた、真っ白な少女のことだよ。俺と一緒に泥の中に倒れてだだろう?」
「ユーマちゃん、というのは……もしかして、UMAの事ですか?」
「UMAでもなんでもいいよ。そこに翼の生えた少女がいただろうそこに。なんだ、またどこかにいなくなったのか?」
陸戦隊員がハヤミの言葉にまったく動こうとしないので、ハヤミは自分で後ろにある泥地を振り返って自分の指で少女の存在を証明しようと歩き始める。
すると泥地の前に立っていた無人機が、急にハヤミに機銃を突きたてて立ちふさがった。
「なっ!?」
「少尉、あまり動かれては体によろしくありません。ここは放射能汚染が特にひどい所です、はやく母艦で除染を受けてください」
「俺に銃を突きつけさせていう言葉か、それ?」
「失礼しました。何分初めての敵地侵入ミッションですので」
隊員のスーツが少しだけ腰を曲げ、申し訳なさそうな声がマイクから響く。
だが隊員は、ハヤミに対する無人機の機銃を下ろさせなかった。
「…………」
無人機はカメラの動体センサーをハヤミの動きに合わせているだけ。
陸戦隊員のパワードスーツと同じ妙な駆動音を響かせながら、闇に響く発動機の唸りを響かせながら、ハヤミと泥地の間を無言で塞いで動かない。
無人機はまるでハヤミから少女を隠そうとしているみたいだ。
「……変だな」
自分を助けに着た救出部隊が、なぜ自分に銃を突きつけるのだろうか?
変に重火器を周囲に展開しているのもある。
ハヤミはふと、この救出部隊が『本当は自分を助けに来た訳ではないのではないか?』という疑心を心にいだいていた。
なぜそんな疑いを持ったのかは、その理由がわからない。
ただハヤミの心が、何かの警告を強く発しているのだ。
「お前たち、所属と階級を言ってみろ」
「は?」
後ろを見たまま、ハヤミは背後に立つ陸戦隊員に声をかける。
「所属と階級だよ。あるんだろ?」
「失礼しました! 自分は第一軍所属の曹長であります!」
「……名前は?」
「任務により、お答えすることができません」
「は? なんで?」
ハヤミが後ろを振り返ると、そこには銃を縦に構えて硬直している陸戦隊員がいた。
「任務です」
「何の任務だよ?」
「少尉を救出する任務です」
「あの子はどうするんだ?」
「あの子とは……その、UMAの事ですか?」
「それ以外に誰がいる」
「いえ、UMAと思われる生命体の報告は、まだ部下から受けていませんので」
「なんだよ、さっき自分で二体いるって言ってたじゃないか。本当にいるんだよ、なんなら本物を見るか? おーい!」
ハヤミが無人機の脇から泥地に声をかけようとすると、無人機もハヤミの動きに合わせて微妙に位置と姿勢を動かした。
「なんだコイツ?」
「少尉。いる……というのは、UMAがいるのですか?」
「なんだ貴様は。見てないのか?」
重装備のパワードスーツを軽く揺らす陸戦隊隊員に、泥だらけのハヤミが人指し指を立てて質問する。
「報告は受けておりません」
「だからそこにいるって言ってんだろう。この木偶の坊をどかせ、直に彼女を見せてやるよ」
ハヤミが隊員の静止を振り切ろうとすると、ふたたび無人機が銃を構えてハヤミに照準を合わせる。
試しにハヤミは横に素早く動いてみると、無人機もハヤミの動きに合わせて銃のポイントを動かした。
そして同時に、無人機は自身の足場も大きく自動で補正する。
どうやら、泥地とハヤミの間に意地で立ち続けるようプログラミングされているらしい。
『コード マルマルニ 発動 止マリナサイ!』
銃を突きつける無人機が、ハヤミに無機質な警告を発してきた。
と同時に、カチリと安全装置の音もする。
後ろをふり返ると、隊員も銃を構えながら黙ってハヤミの様子を見ているだけだった。
よく見れば隊員の腕と全身に赤いラインがコーティングされているが……これは特殊警務隊所属のカラーリングだ。
「少尉、母艦に入ってください。命令します、母艦にお入りください」
「……曹長、このミッションは何なんだ? いつからお前は俺に命令できる階級になったんだ?」
「特例第二十二条です。任務内容につきましては、少尉にお答えすることはできません」
真っ暗で静かな荒れ地の世界に、ハヤミと隊員、安全装置を解除した無人機が立つ。
銃を突きつけられながらハヤミが隊員をにらんでいると、そのすぐ後に隊員のマスク内から微かなアラート音が聞こえてきた。
誰かが隊員に、何らかの報告を打ってきたのだろうか。
隊員が一人で無線通信を始めると、そのすぐ脇をハヤミたちの落としたD―813PBプローブポッドを担いで歩いている陸戦隊が見えた。
複数の戦闘形無人機に守られる形で、数機のパワードスーツ隊が周囲警戒を繰り返してポッドを母艦に運びさってゆく。
パワードスーツに運ばれているポッドは前に見たまま朽ち果てる直前のような体裁をしていたが、よく見ればセンサー類に小さく光点が明滅していた。
前にハヤミがポッドを蹴った衝撃で、ビットの機能が一部回復したのだろうか?
それとも……まぐれ?
ハヤミがそれらの回収部隊を見届けていると、新しい無人機が母艦の近くからハヤミ包囲の応援にやってきて、同時に誰かと会話をしていた隊員も顔を上げてハヤミの方を振り返った。
前と、後ろの無人機がそれぞれハヤミに、銃を突きつける。
「少尉」
隊員の声に、ハヤミはゆっくり振り返る。
この妙な状況にハヤミの目は怒っていた。
だがそれ以上に、隊員の放つマスクに隠れた視線も威圧的だった。
後ろでは母艦上部に設置されているカメラアイが、ハヤミの動きを静かに見守っていた。
「撤退の準備が整いました。速やかに母艦に入ってください」
「随分な命令だな。曹長率いる救出部隊が、墜落した少尉の俺を脅迫するのか?」
「任務です。お察しください」
「む……」
ハヤミはこの地……敵地と思われるエリアに墜落したただの軍人だった。
そこへ味方が救出部隊を、わざわざ送り込んできてくれた。
本当はただ敵地に墜落したハヤミは、そのままありがたく救出部隊に助けられればいいだけなのだが。
なぜか助けに来た部隊が、色々と臭い。
何か隠しているように思える。
要救助者に銃を突きつけて強制的に撤退を強いるのは色々と納得できないものがあるが……だからといって、ハヤミが自分から救出部隊から逃げる道理はない。
むしろ意味がない。
だが
「あの子はこれからどうなる?」
「あの子、とは?」
「翼の少女のことだよ」
「部下からは、少女の報告は受けておりません」
この救出部隊は、どうやらハヤミと一緒にいた少女を「任務」と称して隠している様だった。
何の意味があってそんなことをするのか分からないが、かと言って今のハヤミは丸腰。
対して相手は、パワードスーツで武装している。
黙って従おうが従わなかろうが、戦力差は明らかだ。
「分かったよ。乗るよ。乗ればいいんだろう?」
ハヤミは少女の事が気になったが、今は様子を見るに押しとどめ、投降の意思を現わすためにゆっくりと両手を上に上げた。
味方に投降する、というのも変だが。
「ご足労をかけます」
隊員はまったく悪そうな声をさせなかった。
両手をあげながらハヤミがゆっくり母艦に向かって歩いていると、ふとズボンと靴の間に何か大きな違和感を覚えた。
「ちょっと待て曹長」と言ってハヤミがその場に立ち止まると、それに合わせて無人機も銃口を微調整し、同時に歩調を止める。
大きな違和感……ハヤミがズボンをたくし上げる、そこにあったのはいつかハヤミが滝壺で拾ったオレンジのサイコロと、この世界によくある蒼のサイコロだった。
どうやらいつか無意識でポケットに入れていたらしいサイコロ達が、穴があいたか何かしてズボンの底に落ちてきていたらしい。
それらをハヤミが拾い上げると、すぐ前で立っていた曹長が興味深そうにマスク越しにハヤミの手の中を覗いてきた。
「何ですかこれは?」
空にはすでに雷雲が立ち込め、いつかの太陽の光は地上にまったく届いていない。
光の当たっていないサイコロ達は、ハヤミの掌で真っ黒な塊にしか見えないのだが。
『そんなセンサー類で見たって、こいつらの輝きは、絶対分からねぇだろうなぁ』
ハヤミは心の中でつぶやく。
黙っている所を見ると、曹長は本当にハヤミが持ているそれを認識できないらしい。
だからハヤミは、威圧的な振る舞いを見せる下士官に静な反撃を加える事にしてみた。
「ただの石っころだよ」
「はあ」
隊員の気の抜けた返事を聞きながらハヤミがふと空を見上げてみると、空ではたくさんのアークエンジェルたちが様々な形で白い飛行機雲を回転させている。
緑と赤の翼端灯を、無意味に旋回させながら。
黒雲の中で、まるで嵐のような轟音を空に切り刻み続けながら。
「嵐め」
ハヤミは空を見て、小さく舌打ちをした。